06・・・東京中心の科学・技術の遺跡

日本が開国政策に転じてから、先進国の文化を採り入れ近代化を図りました。明治政府は
首都を東京に移し、諸制度・諸事業・諸機能を整備して行きましたから、それに関する遺跡
記念碑の類は東京中心にかなり散在しています。

ところが東京は変化の激しい都会です、その上に関東大震災・東京大空襲という大災害を
受けました。それですから、遺跡・記念碑の類で消滅してしまったものも少なくないようで
す。また復興・再開発に伴い、比較的最近まで温存されていたものが、心無い工事業者の
ために散逸して行方不明になってしまったものもあるようです。

今回は、東京を中心に調査できた資料の披露を試みます。

平賀源内の電気実験の地

平賀源内(1728-1779)といえば幕末に現れたマルチ人間として、ご承知の方は多いと思い
ます。源内は讃岐高松藩の下級藩士の家に生まれましたが、幼少時より才能を現し、青年
期に長崎に遊学して海外の知識を学び取り、後には江戸を中心に多方面にわたり博識・多
芸ぶりを示しました。

源内は博物学者・蘭学者という学者の顔、ある時は鉱山開発を行ったり物産会を主催する
事業家、または戯作者画家・陶芸家・細工師などの芸術の世界、等で活躍しました。

多くの業績の中でも「エレキテレル」の実験は著名です。その実態は「摩擦起電機」の一種
であって、治療器として用いられました。源内は1770年に2度目の長崎遊学の時に、通詞・
西善三郎からオランダ製の壊れた「エレキテレル」を譲り受けました。
これを江戸に持ち帰り、それまでは電気の知識を持たなかったのですが、研鑽を積み苦心
の末、遂に復元に成功しました、1776年の事と伝えられています。珍しい見世物として、通
風やリュウマチの治療器として賞用され、自宅は千客万来の有様でした。遂には諸大名・
江戸城から呼ばれるようになり、時の権力者・田沼意次の知遇も得られるに至りました。

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左図は平賀源内の肖像。右図は電気実験の碑、東京都江東区清澄1-2

電気についての予備知識を持たなかったにも関らず、その有用性を看破し、試行錯誤を重
ねて遂に稼動するように纏め上げたの才能には感心させられます。源内が実験を行った地
は深川清住町(現在の表示は清澄町で、字が異なります)と伝えられ、記念碑が建っていま
す。しかしながら源内は折角の「エレキテレル」をそれ以上深く研究し発展させる事は無か
ったようです。源内は元来が多芸多能の人でしたが、在野の立場でしたから生活のため
に、その才能を切り売りせざるを得ず、エレキ一筋とは行かなかった事が惜しまれます。

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左図は平賀源内作の「エレキテレル」。右図はその構造図解。

源内作のエレキテレルは2台が現存していて、上に示したものは平賀源内先生顕彰会(香
川県志度町)が保存し、他の1台は逓信総合博物館(東京都)に保管されています。後者に
はオランダ唐草の花模様が描かれ、元来は無機質な理化機械に趣を添えています。
多くの書物などでは、花模様のある方が紹介されているようですが、ここでは敢えて装飾の
無い方を掲載しました。

源内は多方面に八面六臂の活躍をしましたが、1779年に殺傷事件を起こし、獄中で死亡す
るという悲劇的な最期を迎えました。事件の内容については諸説紛々の有様で詳細は不
明です。源内の墓は現在の台東区橋場の「総泉寺・跡」に史跡として現存します。
総泉寺そのものは1928年に板橋区小豆沢に移転しましたが、源内の墓は移転せず残され
ています。

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左図は「総泉寺・跡」。右図は平賀源内の墓。 東京都台東区橋場2-22-2

平賀源内は多方面にわたり活躍しましたから、当時の知識人・文化人との交際範囲も広
いものでした。その中の1人である蘭方医・杉田玄白はオランダの解剖学書「ターヘル・
アナトミア」の翻訳者として著名な人でしたが、源内の死を悼み、「ああ非常の人、非常の
ことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや」との墓碑銘を刻みました。

源内の出身地である香川県志度町には記念館があり、多くの資料が見られますし、付近に
は墓も有って観光ルートに組み込まれています。

平賀源内墓の案内標示(国指定史跡・台東区教育委員会)

銀座界隈の碑

銀座と云えば首都・東京の中でも最もハイソでお洒落な街であることは周知の事です。
この銀座という地名の起源は江戸幕府の創成期に遡ります。1604年に日本橋を基点とする
5街道に一里塚が設けられたとの記録があり、現座の銀座通りは東海道の一部として整備
されました。1612年には銀貨を鋳造・管理する組織である「銀座」が駿府(静岡)から移転し
ました。これが銀座という地名の由縁ですが、江戸時代は新両替町と呼ばれていました。

『銀座発祥の碑』・東京都中央区銀座2-7

銀座という地名が定まったのは1869年で1丁目目から4丁目まで
でした。それまでは新両替町の通称として使われていたに過ぎま
せん。明治政府は当時外人が多く居住した築地や鉄道の起点で
ある汐留(新橋)に近い銀座を西洋風の街並に整備しました。



『煉瓦銀座の碑』・東京都中央区銀座1-11-2

1872年の大火で銀座一帯は焼野原になりましたが、時の東京府知事・由利公正は不燃都
市として再構築することを主張・推進しました。英人ウオートルスの設計を委嘱して煉瓦造
り2階建ての瀟洒なアーケード街として復活させたのです。また照明としてはガス灯が整備
されて、煉瓦・ガス灯・柳並木の三点セットが銀座のシンボルになりました。

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左図は復元したガス灯と煉瓦銀座の碑。右図は説明板。



上図は煉瓦銀座の碑文。下図は井上安治画の煉瓦銀座通り。




『検査業務開始の地』・東京都中央区銀座8-20-26

工部省電信寮が1876年に電信用碍子の電気試
験を開始した地。公的機関が物品購入に際して
の試験業務の嚆矢とされています。


『電気灯柱記念碑』・東京都中央区銀座2-6-12

1882年に2000燭光の電灯が設置されて、
人々を驚かせました。当時の人々は石油
ランプかせいぜいガス灯の明るさしか知
りませんでしたから、真昼のような明るさ
と感じたことでしょう。



明治政府の方針により、近代文明の諸施設が銀座を中核として数多く設けられたのです
がその大部分は今日では華やかなファッションの街の片隅に記念碑として僅かに残るの
みです。例外的に今日になお存在し隆盛を極めているのは新聞通信社です。最新情報の
集まる街としての特徴は現在でも続いています。(正確に云うと銀座の周辺に散開する傾
向に有ります。)

詳しく探訪すれば銀座にはまだまだ多くの記念碑・旧蹟の類はある筈ですが、一応調査で
きたモノをアレンジしました。この種の記念碑・旧蹟の類はの維持・管理が一元化されてお
らず、また再開発事業の巻き添えなどで、次第に埋没・散逸して行く懸念が少なくないよう
です。

(2005年7月25日記)

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