前節に登場した、36式無線機の開発者・木村俊吉技師は、日露開戦前に欧米を視察し、日
本以上に進んでいる国は見出せず自信を深めた、と語ったそうです。研究から実用化に至
るまで世界のトップ・レベルに達していたと判断されたのでしょう。ただし、部品・素材のすべ
てを国産化出来たかと云う疑問は残ります。むしろ輸入品に頼った部品・素材は少なくなか
ったと推定されます。
日露戦争後、日本での無線通信技術の開発の中心は逓信省電気試験所でした。初期の
無線通信は符号による電信でしたが、次世代としては音声を伝える電話に移行する気運
に有りました。電気試験所長・浅野応輔は1906年、ベルリンで開催された第1回無線電信
会議に出席の機会にプールゼンの発明したアーク式無線電話機を知り、その有望性を察
知しました。
「TYK式無線電話機」
浅野は帰国後に新進気鋭の研究者・鳥潟右一に無線電話の研究を命じました。ところが
無線電話の実現には持続性電波の発生が必要であり、その問題解決のために研究は難
航しました。1908〜1910年の間、鳥潟は外国留学を命じられ、その間研究は中断されまし
たが、ドイツ人レペルの発明した瞬滅式無線電信機を見学してヒントを得ました。
鳥潟は帰国するや横山英太郎・北村政次郎と共に研究を進め、遂に独創的な手法により
持続性電波の発生に成功し、1912年遂に実用に耐える無線電話機を開発しました。実験
開始時の通達距離は陸上1.5km でしたが、次第に距離を伸ばして1913年には陸上海上間
87kmに達しました。
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この無線電話機は優秀で1914年には英国のマルコニー社で公開実験をするほどでした。
その後も実用試験を重ね、1916年には鳥羽・神島・答志島間で実用化されました。世界
で初の実用された公衆無線電話機でした。
この時期に独・ドレスデン大学に留学していた八木秀次(後に八木アンテナの発明で世界
的に有名になった)は、バルクハウゼン教授の研究室で、TYK式無線電話機について説明
したところ、大いに興味を持たれ、何故世界に発表しないのか、と質されたという秘話があ
りました。八木は、日本全体として後進国意識が強い上に、学会も産業界も日本人の発明
を認めたがらぬ雰囲気がある、という意味の苦しい説明をしたそうです。
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TYK式無線電話機の開発を進めている時期よりやや早く海外では真空管の発明がありまし
た。1904年に英国のフレミングはエジソン効果からヒントを得て、二極真空管を発明し、次
いで1907年に米国のド・フォレストは三極真空管を開発しました。これらの発明は電子技術
史上の画期的な出来事でした。すなわち、増幅・発振・変調・検波・整流という通信技術に
必要とされる基盤技術が一挙に確立したのです。
無線電信から無線電話に移行するためには、安定した持続電波の発生が不可欠でした。
無線電信の時代には火花放電により電波を発生していたのですが、これは非持続性なの
で、音声を乗せることが困難だったのです。そこで内外の研究者は、火花放電を用いなが
らも何とか持続性を得ようと工夫を重ねたのです。TYK式無線電話は、その流れの中では
最も成功し実用化に進み得たのです。
とは云うものの、真空管による安定な動作は本質的なものであり、世界の大勢はその方向
に向かいました。日本においては、電気試験所で1916年に受信管の試作が行われ、1917
年には送信管も成功しました。この試作品により平磯・磯浜間で無線電話の実験を行い、
極めて良好な音質が得られました。その結果に基づき、数年後には、TYK式無線電話機は
次第に真空管式無線電話機に置き換えられて行きました。
世界初の無線電話による公衆通信は、
伊勢湾口に設けられました。
これにより、神島付近を通過する船舶
の荷主・船主は入港予定時刻を知り、
答志島の魚民は、取引を適切に行える
ようになり、多大の便益が得られまし
た。
開局当初は船舶側に無線電話機が装備
されたか否かは不明です。恐らく離島か
ら陸地への通報が主であったと思われ
ます。
TYK式無線電話を開発・実用化した時代においては、社会全般として見れば未だ欧米追随
の気風が濃厚であったと思われます。その中で世界に先駆けて実用に耐える無線電話機
を開発した3氏の研鑽・努力は賞賛に値します。さらにその機材を活用して実用回線を開設
する英断を下し推進した人物も讃えられるべきでしょう。
鳥羽市日和山には、「無線電話発祥の地」を記念した石碑があります。これは遥か後年に
なった建設されたらしく、日本電信電話公社・総裁・大橋八郎の揮毫によるものです。
別に、由来・経過を示した掲示も有ります。電子立国のルーツの一つを顕彰する遺跡とし
て永く記憶に止めるべきであると思います。
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「多極真空管の発明は日本人・安藤博」
手近にある科学技術史・電気技術史・無線技術史の類を瞥見すると、多極真空管の発明
者として、ショットキ(独)、ハル(米)、ラウンド(英)、ヨブスト(独)、らの名が掲載されている事
が多く、熾烈な開発競争があった一面を物語っています。
ところが、日本人である「安藤 博」の名は殆ど記されていません。これは不思議な話で、日
本においては、1919年に安藤博が出願した特許が有効であって海外に多額の特許料を払
わずに済んだ、いわば国益に貢献したのですが。
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安藤博は1902年に滋賀県に生まれました、父は内務省技官で明治神宮の造営にあたった
と云われます。小学生の時に無線電信の発明者マルコニーの伝記を読んで感動し、さらに
1916年に上記した鳥潟右一博士の著書を読んでインパクトを受け、逓信省に博士を訪問し
て知遇を得ました。10代の少年として驚くべき行動力です。
やがて1919年、明治学院中学(旧制度)に在学中に多極真空管を発明し、「特許第80948
号」を得ました。当時の新聞は大ニュースとして採り上げ、天才少年発明家として、「日本の
エジソン」とも「東洋のマルコニー」とも呼ばれました。やがて早稲田大学理工学部に進学、
1922年には著書「無線電話」を早稲田大学出版部より刊行しました。この書物には先の鳥
潟博士が、「マルコニー氏の第二世たるの英気を培われん事を望む、敢えて一言以って序
となす」との序文を寄せています。如何に期待されたかを示す一文です。
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この書物に関しては、NHKの要職にあった箕原勉博士が、「放送」という語を創始したと指
摘しています。また、始めて一般向けに書かれた技術解説書としてベストセラーになり10版
を重ねました。この印税収入で、世界無線(無銭に非ず)旅行を敢行、エジソン・マルコニー
らと会見しています。まだ20代前半の青年でしたから、エジソンからは「このボーイが?」
と興味を持たれたと伝えられています。
彼の研究対象は真空管に止まらず、無線工学全般に及びました。著名な例としては1922年
のニュートロダイン回路の発明があります。これは三極真空管増幅器の不安定性を回路の
工夫によって解決しようとする発想から生まれたものです。先の多極真空管は三極真空管
そのものの改良から着想したものですが、こちらは真空管はそのままで外部回路を付加す
るやり方で、面白い対称を感じます。ニュートロダイン回路は、その後の多極管の普及に伴
い、必要性を減じましたが、それから20余年を経てトランジスタが登場するに及んで再び脚
光を浴びるに至りました。
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彼は1921年に日本初の私設無線局を開設し、1923年には東京放送(現NHK)の設立発起人
の1人になっています。まだ弱冠21歳の大学生でした。1925年には早稲田大学理工学部を
卒業しましたが官界・業界などの組織に属さず在野の研究者の道を歩み、無線技術に関る
多数の発明を行いました。
1930年頃、ラジオ製造業者は安藤博の特許を巡り、意外な騒動を巻き起こしました。彼の
持つ基本特許無しにはラジオの製造が出来ず、本来ならば特許使用契約をして然るべき
対価をを支払うのが正道なのですが、それは当然価格に跳ね返ります。
これを嫌った業者は連合して反対し、一部のジャーナリズムは、その騒ぎを扇動して彼を
「ラジオ魔」「特許魔」と云って攻撃しました。当時は知的財産権というような観念は浸透し
ていませんでしたから、「特許を盾に中小企業を虐める悪者」に仕立て上げられてしまいま
した。
この時に松下電器産業の創始者・松下幸之助氏が間に立ち、自ら安藤博を訪れて、関連
の特許を2万5000円で買取り、業界には無償で提供する案を提示しました。安藤博はその
申し出を快諾して、さしもの特許騒動も一件落着となりました。なお、この買収価格は現在
の価格に換算すれば、数千万円から1億数千万円に相当するのではないでしょうか。
結果として、安藤博は豊富な研究資金を手にし、業者は特許料の負担を免れ、松下幸之助
は男を上げたわけです。
1938年には、八木秀次博士(八木アンテナの発明者・東北大/大阪大教授)および丹羽保次
郎(NE式写真電送の発明者・日本電気技師)らの賛同を得て、日本初の発明研究財団を設
立しました。同時に「財団法人・安藤研究所」を設立して理事長に就任しました。
彼の研究はテレビジョン方式および回路に志向し、またロッシェル塩の応用として音響
機器にも取り組みました。
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1939年に安藤 博は、それまでの功績が認められ「10大発明家」の一人として宮中賜餐の
栄を受けました。この時に招かれた人々は、岡部金次郎(阪大教授・マグネトロンの研究
者)、古賀逸策(東工大教授、水晶振動子の研究者)、三島徳七(東大教授、磁石鋼の研究
者)、大河内正敏(理化学研究所長)、等であって殆どが大学もしくは大組織に属し、地位も
名声もある方でした。その中で彼は無位・無官の在野の研究者として異彩を放っていまし
た。この一事は彼の発明能力がに高く評価された証左と見てよいでしょう。
なお、後年の1954年には藍綬褒章を受けています。

1945年5月、米軍の東京大空襲により、当時の貨幣価値で数億円の研究施設のすべてを
焼失しましたが、戦後の困難を乗り越えて再建に努めました。
1952年、テレビ放送実施に先立ち、テレビ技術ののパイオニヤとして放送電波技術基準の
策定や法制化に参画しました。
1963年には海外11カ国を視察し、諸国の電子技術とくに宇宙通信施設を視察しました。
彼の研究成果は1000件を超える特許・実用新案に結実しましたが、その中には世界水準
を抜くものも少なくなく、業界に採り入れられたものは多数に及びます。発明による特許収
入を得て次の研究資金にするという、いわば「研究活動の企業化」を創始した着想と実現
力は賞賛に値します。
不幸にも研究中の火災事故で1975年に逝去されましたが、少年時より、古希を超えるまで
精力的に研究活動を続けたことは驚くべき事です。
安藤 博は死後もなお社会に貢献を続けています。それは「安藤博記念学術奨励賞」で、大
学の若手研究者に対して研究費を援助する事業です。その恩恵を受けた受賞者は1988年
から2002年の間に70人、東大・早大・慶大を始めとする全国の国公私立大学に及びます。
これも素晴らしい快挙です。世間的には無名の一研究者の遺志に基づく賞というのは他
に類例を見ないのではないでしょうか。
以上に記した安藤 博の業績は素晴らしいものですが、これほどの人物が何故か殆ど知ら
れていません。専門外の方が知らないのは当然としても、この分野の専門家でも知る人は
稀です。その理由を筆者なりに考えてみると、(1)在野の研究者であって、大学・大組織に
属さなかった事、(2)特許は多数得ても学術論文として発表しなかった事、が主因でしょう。
さらに当時の社会は「知的財産権」の認識に乏しく、特許などは金儲けを企む山師の仕事
という偏見があったようです。このような考えは現在に至るも払拭されず、工学系の研究者
でも公言する人を散見します。
筆者は、ふとした事から安藤 博の業績を知り、その精力的にして多岐に渡る活動に感動し
関係の資料を調査してこの記事に纏めました。
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