前章で東京の遺跡・記念碑の類が散逸し行方不明になるものがある、というような記載をし
ましたが、逆に新しく造られるものも有ります。また、東京都教育委員会が以前に指定した
史跡が再検討の結果、その中の幾つかが信憑性に乏しい伝説であると判明して、取り扱い
に苦慮しているとの新聞記事が有りました。
ここでは細かい詮議は暫く措き、その後の調査を披露することにします。
「伊能忠敬の像と墓」
伊能忠敬と云えば日本全国を測量して回り、初めて正確な日本地図を完成させた人として
知られています。その出来栄えは、幕末に長崎出島に滞在して西洋医学を伝えたシーボル
ト医師を感嘆させるほどでした。彼の作成による地図は「伊能図」と名付けられ、大部分は
日本に保管されていますが一部は海外に流出し、時々それが発見されて話題になる事が
あります。
忠敬は1745年に上総国山辺郡小関村(今の千葉県九十九里町)に生まれました。幼名は小
関三治郎でした。1762年、17歳の時に佐原村(現・佐原市)の伊能家の婿養子になり、伊能
忠敬と改名しました。伊能家は土地の名家でしたが、当時は家産が傾いていましたので、
養子として彼は家運の挽回に努める立場に有りました。さらに土地の有力者として、土地
内の揉め事を調停したり、農作物の不作の年には窮乏した農民の救助にも当たりました。
努力と才能により家政を建直し、土地の名望家になった彼は1794年、49歳で隠居しました。
翌年には江戸に移り住み、幕府天文方の高橋至時に師事し、天文・歴法・測量を学びまし
た。この時、師である至時は忠敬より20歳近くも若かったのですが、忠敬は師弟の礼を尽く
して謙虚に仕えたそうです。彼は若年の頃には土木・測量の実務経験が有り、より高度の
学問に意欲を持ちましたが、土地の名家としての立場では許されませんでした。隠居して自
由の身になって初めて永年の夢の実現に踏み出したのです。
忠敬の江戸の住まいは富岡八幡宮に近い深川黒江町でした、ここから浅草の暦局(天文
台)に勉学に通いました。この往復を利して歩測練習と方位測定を繰り返しましたが、江戸
幕府の体制下では、不穏な行動と誤解されないように注意したそうです。
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高橋至時に就いて研鑽を重ねて5年目の1800年に、彼は奥州街道・蝦夷地の測量に着手
しました。当時、欧米の艦船が日本周辺に出没し、幕府としても海防に意を注がざるを得な
くなり、沿海の正確な地図が必要とされる情勢にあったのです。幕府は何人かを派遣しま
したが素質・能力に欠けて実効が上がりませんでした。そこで至時は幕府に忠敬を推薦し
たのです、さらに忠敬は費用の負担をする旨を付言したのです。
いわゆる第1次測量は、この年の4月から10月にかけて実施され、12月には大図21葉・小
図1葉を纏めました。この時には助手として内弟子3人、荷運びとしての下僕2人が同行し
ました。この時、幕府は忠敬を「元百姓・浪人」の身分で「測量試み」との待遇でした。
しかし、その成功により苗字帯刀を許されましたから、相応の評価は受けたと見られます。
第2次測量は1801年4月に出立、伊豆から陸奥東海岸・奥州街道を調査、12月に戻りまし
た。同行者は内弟子4人、下僕1人で総人数は前回と同じでした。翌年の2月に図は上程
されました。
第3次測量は1802年6月から10月、奥州街道から日本海側を調査しました。同行者は内弟
子4人、下僕2人でした。
続く第4次測量は1803年2月から10月、東海から北陸を対象にしました。同行者は内弟子
5人、下僕2人、と次第に増えました。
ここまでは、ボランティア事業期とも云えます。国益に関る、しかも特殊な学識と技能を要す
る大プロジェクトを一民間人が自費を投じて着手したのでした。
これに続く第5次以降は、幕府の公式事業に格上げされた形で行われ、スタッフは増し経
費が支給されるようになりました。
1804年8月に日本東半部沿海実測図を幕府に上程、将軍家斉の上覧を受けました。その
功績により幕吏に登用され、高橋至時の後継者となった天文方・高橋景保の手附きとなり、
後見する立場になりました。恩師である至時は、僅か40歳で急逝したのです。
第5次測量は1805年2月から翌年11月に及ぶ大調査で、東海道を経て山陽・山陰地方が
対象地域でした。幕府・天文方4人とその従者4人が新たに加わり、忠敬にも従者2人が附
き、それに内弟子5人、供侍2人、棹取り1人が加わり合計20人の大部隊になりました。
この時の地図は、1807年12月に上程されました。
第6次測量は1808年1月から翌年1月の間に、伊勢街道・四国を巡りました。一行の人数は
16人とやや減少しました。この時の地図は1809年7月に上程しました。
第7次測量は1809年8月から1811年5月に及ぶ3年越しの長期間で、中山道・山陽道・九
州を巡りました。一行は18人でした。1811年11月には九州の大図を上程しました。
第8次測量は1811年11月から1814年5月に至る期間で、甲州街道・中国地方・九州全域・
壱岐・対馬・五島・種子島・屋久島に及びます。一行は19人でした。
第9次測量は1815年2月から翌年4月の期間で、江戸府内・伊豆七島・川越・熊谷・富士・
箱根などの近場でした。この測量には忠敬は病気のために参加しませんでしたが、11人の
手で実施されました。
第10次測量は1815年と1816年に2回に分けて行われ、江戸府内と主要街道の始発地域を
対象にしました。人数は1回目は11人、2回目は不明です。この測量に忠敬は病躯を押して
参加しています。
この測量作業に費やした日数は 3,627 日、歩いた距離は 42,000 q を超えています。忠敬
の歩幅は 69 p との調査がありますから、5,000 万歩を超えると計算されます。55歳を過ぎ
てから16年に及んだ大事業でした。彼の意欲・気力・体力には感心させられます。
伊能忠敬は測量の旅に出立する前に、
近くの富岡八幡宮に参拝し、道中の無
事と測量の成功を祈るのを常としまし
た。
左の図は、その所縁の富岡八幡宮の境
内に、測量開始200年を記念して2001年
に建てられた銅像です。
彫刻家・酒井道久氏の作品です。
なお、忠敬の銅像は、旧宅の現存する
千葉県佐原市および出生地である九十
九里浜町に在りますし、記念碑は全国
に散在しています。
測量が総て終了して、忠敬は最後の仕上げとして「大日本沿海與地全図」の作成に着手し
ましたが、1817年頃より体力が衰え、翌年4月13日に八丁堀・亀島町の屋敷で畢生の労作
の成果を見る事無く死去しました。(忠敬は1814年に居宅を深川・黒江町より八丁堀・亀島
町に移しました。)
その遺志は弟子により受け継がれ、1821年7月に「大日本與地全図」、として完成、幕府に
上程され、世紀の大事業は完結しました。また、幕府は功績に応えて子孫に永代帯刀の特
典を与えました。
彼の遺体は忠敬の遺言により、源空寺の高橋至時の墓の傍らに葬られました。
至時は1804年に40歳の若さで死去したために、忠敬のような知名人にはなりませんでした
が天才に価する人材でした。彼は大阪定番の同心でしたが麻田剛立について暦学を学ん
で頭角を現し、幕府が改暦を企てた時に師の剛立の推挙によって幕府天文方に就任しまし
た。観測器械を自ら製作し観測実務にも秀でていましたが、理論にも強く指導者として優れ
ていました。
忠敬が教えを乞うた時に快く入門を許し、19歳年長の老書生を懇切に指導しました。そうし
てその意欲と才能を見抜き、日本地図の作成という破天荒な事業を担当させるように計ら
ったのでした。忠敬が期待に充分に応えたことは、結果が証明しています。
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上に示した伊能忠敬・高橋至時の墓は、東京都台東区東上野6-18-2の源空寺に有りま
す。死後も恩師の傍に仕えたいという、忠敬の遺志を叶えたものですが、如何に至時に
敬愛の念を抱いていたか、また至時が卓越した教育者であったかが判ります。
なお、忠敬の墓は他に2カ所あります、伊能家の菩提寺である千葉県佐原市牧野の観福
寺と千葉県香取郡多古町の平山家墓所がそれです。
伊能図は大図・中図・小図と大別され、他に特別地域図・特別大図・江戸府内図がありま
す。また、幕府に提出の正本、伊能家の控え図である副本の他に、江戸期の手書き写本、
明治期の手書き模写本などが有り、膨大な数に達します。その上、焼失・散逸したものも
少なくはないようです。遠く欧米に流失したものが発見される事もあります。
時代が変わり明治維新を迎え,新政府は近代化を計る一環として全国の地図の整備に着
手しましたが、この時に底本にしたのは伊能図でした。特に陸軍・陸地測量部は活用しまし
た。現在でも登山者や地図愛好家が賞用する5万分の1地形図は、その流れを汲むと云っ
ても良いでしょう。
「三角点・富岡八幡宮」
上記の伊能忠敬像に並んで、半球体の石造モニュメントが有ります。これは国土地理院が
「世界測地系」の導入を記念して設置したものです。これまで日本では明治年間に定めた
測地系(緯度・経度を表すための基準)を用いて来ましたが、最新の科学技術の成果に基づ
く世界測地系の間にズレが認められるようになりました。そこでに「測量法」を2002年4月に
改正して世界測地系に移行したのです。
国土地理院は全国にGPS(全地球測位システム)を利用した電子基準点を整備し、新座標
系「測地成果2000」を計算したのです。この事業の成果を記念したモニュメントを、「測量
の父」とも称すべき忠敬の像に並べて配置したのは意義深い事です。
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「八幡橋」
富岡八幡宮の近くに、国産第1号の鉄橋で国指定重要文化財の「八幡橋」が有ります。こ
れは1878年に工部省赤羽製鉄所が製作したもので、長さは 15.2 m 、幅は3m と小さなもの
すが、鋳鉄橋から錬鉄橋への移行期に当たり、鋳鉄錬鉄混成の独特な構造に特徴が有り
ました。

この橋は京橋楓川に造られ「弾正橋」と云う名でしたが、1929年に現在地に移転・保存さ
れ、名も「八幡橋」に変りました。1989年には米国土木学会から優れた製作技術に対して
「米・土木学会栄誉賞」が贈られました。
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