09・・・続々・日本無線史の落穂拾い的考察

遠隔地に情報を伝えたいとの願望を叶えたのが通信の技法ですが、19世紀に電気を採り
入れる事により飛躍的に進歩しました。その特徴は瞬時に情報を伝える「即時性」と、遠距
離に及ぶ「広域性」でした。
最初に現れたのが電流の断続を利用して文字を符号化して送受信を行う「電信」でした。
次いで音声を電流に乗せる「電話」が発明されました。どちらも電線を介して情報を伝える
「有線方式」と、電波による「無線方式」があり、時期的には有線が先んじました。

伝達する情報の内容が「文字」から「音声」に至れば、次の段階として「画像」それも「動画」
を期待するのは当然です。世界中の野心的なの研究者の目は、その方向に向かいまし
た。日本に於いても幾つかの機関で研究が進められ、世界に伍して見劣りのしない成果を
上げた時代が有りました。今回はテレビジョン開発の初期段階について話を進めます。

「黎明期のテレビジョンは機械式」

モールスが「電信」を発明したのが1837年、ベルが「電話」を発明したのが1876年、でした。
この間に40年近い年月を要したのは、そのハードルが高かったことを示しています。
しからば、その次の世代の「テレビジョン」の発明まで、どのくらいの時間が必要だったでし
ょうか。この疑問には答えることは困難です。と云うのはテレビジョンは多くの基本技術と関
連技術の集積の上に成り立つ総合技術であって、多くの人々が関り永年月を経て完成した
システムですから、特定の人がある時期に発明したとは、云いきれないのです。

とは云うものの、画期的な要素技術や方式を開発した研究者や、それまでの成果を巧みに
集成してテレビジョン・システムを纏め上げて一紀元をを画した発明家の何人かは今日でも
技術史に足跡を残しています。

テレビ技術史の創世記には独人・ニポーが登場します。2次元の広がりを持つ画像から時
系列的に電気信号を得るために、渦巻き状に孔を明けた円板を回転させて走査する画期
的な手法を案出したのです。1884年のことでした。ベルの電話機の発明から僅か8年を経
ているに過ぎないのには驚きます。念の為に云いますと、ヘルツの「電波の発見」がその後
の1888年、マルコニーの「無線電信」の発明が1894年ですから、如何に先んじた着想であっ
たかが判ります。1925年に英人・ベアードはニポー円板によるテレビジョンを発表しました。

ベアード(英)のテレビジョン実験装置、ニポー円板を使用、 1925年頃。

ニポー円板に次いで、種々の技法が考案されましたが、どれも機械的な要素を使いまし
た。電子素子は未だ発達していなかったのです。ニポー円板またはその亜流は、その後
数十年にわたりテレビジョン研究に於ける基幹素子でした。

日本に於ける先駆者は、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の高柳健次郎教授、早
稲田大学の山本忠興教授・川原田政太郎教授たちでした。

高柳教授は英人ベアードの公開実験から1年後の1926年に早くも試作実験に成功しまし
た。高柳教授の研究には大きな特徴が有りました。それは送像側には、ニポー円板を用い
ましたが、受像側にはブラウン管を使った事です。つまり、送信は機械方式で、受信は電子
方式と云う折衷方式を採用したのです。
高柳教授は、機械方式は走査線数に限度があり解像度が制約されるから、将来は電子方
式が本命であるとの見通しを持っていましたが、電子技術が未成熟であるので中間解とし
て発表したのです。それでも受像にブラウン管を使ったのは世界で始めてと云われていて
特筆に価します。

高柳教授の初期のテレビジョン系統図、ニポー円板とブラウン 管の混用に特徴。

この実験機の走査線は僅かに40本で、文字を写し出す静止画像でしたが、とにかく道は拓
かれたのです。高柳教授はその後さらに研究を重ね、1928年には動画を映し出すことに成
功したのです。とは云うものの、走査線は40本、毎秒像数14枚、でしたから辛うじて形が判
別でき動きが認められる程度の画質でした。

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左図、最初の静止画像。中図、高柳健次郎教授。 右図、黒川兼三郎教授。

その成果を電気学会(電気工学の研究者・技術者の団体)で発表、東京・神田の電機学校
(今の東京電機大学)で公開実験を行いました。この時に前例の無い珍しい研究というこ
とで多くの出席者がいましたが、電気学会の関東支部長であった早稲田大学の黒川兼三
郎教授が声を掛けて、早大で学生に見せて貰いたいと要請したそうです。

高柳教授は快諾して、黒川教授宅に泊まり込んで機材を整備して、早大で披露しました。
当時、高柳氏は20歳代の無名の研究者だったのに対して、黒川教授は電気回路理論のパ
イオニヤとして著名な少壮教授でした。その権威者の目に止まったのですから、大いに元
気づけられたと思われます。

一方、早稲田大学でも山本忠興教授・川原田政太郎教授を中心にテレビジョンの研究を進
めていたのですが、高柳氏の実験を見て刺激を受けた事は容易に想像出来ます。
1930年には「ラジオ放送5周年記念展覧会」に於いて、早大式テレビジョンとして世界一の
大画面の映像を公開するに至りました。画像の大きさはヨコ1.5m、タテ1.0m ほどでしたから
70型に相当すると云えます。走査線60本、毎秒12.5枚と云いますから、今日の眼からは粗
い、チラツキの目立つ画像だった筈ですが、当時としては驚くべき成果でした。

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左図は、山本忠興教授。右図は、川原田政太郎教授。

早大式テレビジョンの構成図、実物は上野・科学博物館に保存。

その公開は朝日新聞社大講堂で行われましたが、観衆は1500人を超えました。その中に
は東久邇宮・小泉逓信大臣らの名士も多数出席しました。朝日新聞紙は、「声と姿の放送
に世界的大発明」、「動く姿の電送に観衆ただ驚嘆す」、と報じました。このシステムは送像
にはニポー円板、受像にはワイラー鏡車を用いた機械方式で、限界に近い完成度であっ
たと思われます。

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左図は早大式テレビ送像機、右図は早大式テレビ受像機。

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左図は文字テストパターン、右図は受像投影機。

この公開には、高柳教授は受像機側には12p のブラウン管を使い、送像機にはニポー円
板を用いた試作品を発表しました。氏は全電子式で構成する意図を持っていましたが、当
時は撮像管は未だ世界の何処でも実現していなかったので、止む無く機械・電子の混成方
式で纏めたのです。
早大式・浜松高工式の両方式を比較すると、画面サイズでは前者が圧倒的に大きかった
ので一般市民の評判は機械方式に有利だったようですし、電気工学の専門家でも、そのよ
うに判断する人も少なくなかったようです。

1930年にはテレビ開発史上、特筆すべき事が有りました。それは昭和天皇が静岡県に行
幸され、浜松高工のテレビジョン研究施設を視察された事です。これにより、テレビジョンに
対する社会の関心は一挙に高まりました。高柳氏は助教授から教授に昇格し、地方の無
名の研究者はテレビ研究の権威として知られるようになりましたし、スタッフも設備も充実し
ました。この時に天覧に供した設備は、ブラウン管は新開発の 30p に拡大しましたが、機
械・電子の混成式は踏襲しました。

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左図は天覧の時の映像、右図上は送像装置、右図下は受像装置。

「無線伝送への挑戦」

とにもかくにも、画像を映し出す事に成功すれば、次の段階として、それを遠隔地点に送
る、それも無線電波を介して実現しようとするのは自然の成り行きです。1932〜33年にかけ
て早稲田大学のグループは戸塚球場と大学との間の無線伝送の実験を行いました。
また浜松高工のチームも1934年には無線伝送試験を行いました、走査線は100本、搬送周
波数は7200キロヘルツとの記録が残されています。

この搬送周波数は今日の水準から見れば、ずいぶん低いと感じられます。テレビジョンの
映像信号は電話の音声信号に比べて桁違いの情報量ですから、本来はもっと周波数の高
い超短波帯が適切なのですが、当時としては超短波の発生そのものや特性の解明が大研
究テーマだったのです。それですから既に実績のある短波帯で実験したのでしょう。
また、走査線も100本程度では情報量が多いと云っても、短波で不都合は少なかったと思
われ思われます。この時の実験で初めてゴーストを経験して驚いたという挿話が有ります。

1930年代には、1940年に予定された東京オリンピックが話題になり始めていましので、テレ
ビジョンの研究が進むに従い、その実況放送を実現したいという気運が高まっていました。
早大の山本忠興教授は、アムステルダム・ロスアンゼルスの大会に選手団を率いて活躍
し、国際オリンピック委員会のエドストローム委員とも親交を持っていました。山本教授は
東京オリンピックの誘致を推進し、そのテレビ放送も期待していたのでした。

一方、NHK も東京オリンピックを視野に入れて1931年からテレビ研究を始めました。その組
織の事業として、始めから電波による放送を意図していました。

「全電子方式への飛躍」

1930年、米国RCA社のツヴォルキン博士はアイコノスコープの原理を提唱、1934年には実
製品を発表し世界に衝撃を与えました。それまで夢と考えられて来た撮像管が遂に実現し
たのです。これにより送像側も電子化できる見通しが得られました。

高柳教授はその年に渡米、ツヴォルキン博士を訪問、意見交換を行ったところ、博士は既
に"Takayanagi" の名を知っていたそうです。それはアイコノスコープの基本原理とも云うべ
き「積分法」について高柳教授が1930年に出願済みであって、博士の日本への特許請求
は却下されたイキサツがあったからです。高柳教授の場合は、アイディアの提案のみで実
物の製作には至りませんでした。これは当時の日本の工業力の水準と研究費の差による
もので、アイディアとしては日本が先行していたのです。

ツヴオルキン博士から見れば東洋の一小国にも好敵手がいるとの感を深くしたものと思わ
れます。高柳教授は、その後イメージデセクターの開発者であるファルンスワース氏とも会
って情報を交換し、欧州に向いました。当時、欧州では機械式が全盛でアイコノスコープに
は懐疑的な見方もありましたが、高柳教授の説明により、全電子化の方向への転換が加
速されたようです。

高柳教授は帰国後にアイコノスコープの完成に注力し、1935年に最初の試作品を開発しま
した。教授はそれを用いて走査線220本、毎秒20枚のシステムを完成しました。遂に全電子
方式テレビジョンの基礎が確立したのです。さらに翌1936年には、走査線245本、毎秒30枚
飛越走査という、現行のシステムにかなり近接したレベルに達しました。

浜松高工のテレビ受像機、1935年頃

高柳教授は1939年に2度目の海外視察に赴きましたが、既に欧米では全電子方式の実用
化が進み、実験放送を経て正式放送に至っている例も多いことを確認しました。
アイコノスコープの開発を契機に、テレビジョンの世界は一斉に全電子式に移行したので
す。1929年にY世界に先駆けて機械方式で実験放送を行った英国BBCも1935年には撮像
管による全電子方式に切換えていました。

「NHKの研究本格化」

1940年の東京オリンピックを視野に研究を進めていたNHKはテレビジョン放送の実現を図
り研究陣の充実のために高柳教授の指導を要請しました。1937年に教授は浜松高工在籍
のままNHKのテレビ研究部長の職に就くことになりました。この時、浜高の研究員20人も移
動し、在来のNHKの研究員と新規採用を併せて190名、それにメーカーの技術者が参加し
て空前の大研究チームとなりました。

この研究規模は当時としては非常に大きなものであったと思われます。ほぼ同時期に進行
していた海軍の零式戦闘機の機体設計スタッフが数十名と伝えられていますから、如何に
そのスケールが大きかったかが想像できます。
1939年にNHKとしての実験電波を発するまでの2年間の研究費は300万円を要しましたが、
今日に換算すれば100億円ぐらいになるでしょう。1924年に高柳氏が浜松高工で研究を開
始した時には1人の助手もなく、実験機材の購入に新婚早々の夫人の持参金300円(今なら
ば100万円ぐらい)を流用した挿話が伝えられているほどでした。

このように整備され環境の下で、研究は飛躍的に進みました。1938年にはテレビジョン調
査委員会が設置され、暫定テレビ標準方式を決定しました。走査線数441本、毎秒25枚、
飛越走査という規格で、さらに精細度が向上しました。一方では、アイコノスコープ・ブラ
ウン管の試作も進みました。
1939年にはテレビ実験局を完成、正式に電波を発射し、公開受像を行いました。翌1940年
には初めてのテレビ・ドラマを実験放送で実施しました。

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左図はNHK技術研究所の送信アンテナ、右図は中継用車両。

街頭で公開されたテレビに見入る人々

この進捗情況と技術開発は欧米先進国に比して肩を並べるレベルに達し、本放送は目前
に迫っていました。ところが1941年末、大東亜戦争の勃発に伴いテレビ研究は中止され、
研究者は電波兵器の開発に動員されるに至りました。
1924年に無名の青年研究者により開始された日本のテレビ研究の流れは、17年後に事業
化を目前に一応の終焉を迎えたのでした。
戦時の空白期間を経て、テレビ研究が再開されて後、多数の研究者の努力が実り本放送
が始まったのは実に1953年の2月1日のことでした。

1940年頃の映像、モノクロですが画質はかなり良くなりました。


(2005年10月25日記)

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