10・・・日本無線史の落穂拾い的考察(4)

前回に記した初期のテレビジョン開発について若干の捕捉を書きます。

「電気試験所における研究」

日本における初期のテレビ開発に関る記録は、殆どが早稲田大学と浜松高工の業績です
が、他にも数カ所で実験研究が進められていました。その中で目立つ実績を残したのは逓
信省・電気試験所(その後の通産省・電子技術総合研究所、現在の独立行政法人・産業技
術総合研究所)の曽田有研究員でした。

曽田技師の業績で特筆すべきは「飛越走査」の発明です。ニポー円板による機械方式の弱
点とされる解像度の限界を向上させる目的で開発したのですが、その考え方は全世界に採
用されて、後の全電子式でも踏襲され現在に至っています。発明したのは1931年でした。

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左図は曽根 有技師。右図は同氏の著書「テレビジョン」

電気試験所が試作品を公開したのは1931年の事でした。先行グループより数年の遅れが
有りましたが、先人の成果を選択・集約できる有利性は有りました。また、始めから家庭用
のモデルを目指したのは卓見でした。それまでの研究者は、「出来るか、出来ないかの可
能性の探求」や「原理・方式の確立」を志向していましたから、実用機器としての体裁や使
い勝手などを考慮する余裕は無かったのです。

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左図は送像機、右図はその機械部。

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左図は受像機、右図はその機械部。

曽根氏は1935年にはテレビ電話を開発し、大阪市立電気科学舘に常設展示して話題にな
りました。この時、氏は上半身が映れば実用性があると考え、それまでの技術で可能であ
ると判断したようです。これも氏の着眼の鋭いところで、映画のような広い複雑な画面を鮮
鋭に写し出すには、当時の技術は未熟でしたから、それに至る中間解として、テレビ電話を
を意図したのでしょう。これならば比較的狭く動きの少ない画像ですから、かなりの成功が
見込めるとして開発したと思われます。

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左図は初期のテレビ電話。右図は大阪市立電気科学舘に常設展示 したテレビ電話。

また、曽根技師はテレビジョンなるものを世間に周知させる活動を精力的に行いました。岩
波書店から1934年に出版した「テレビジョン」は、当時のテレビ技術を集大成した総合解説
書でした。それより前の1931年には専門雑誌「ラジオの日本」に「テレビジョンの作り方」とい
う記事を1年近く連載しています。さらに、電気試験所の上司と諮り、試作品を以って日本
全国各地で公開実験を行いました。1935年頃の事でした。


「初期のテレビについてのメモ」

初期のテレビ研究者の目標の一つに「画素数1万ドット」が有ったと記録が残されていま
す。これは走査線数100本に対応すると云って良いでしょう。現行のテレビ放送は走査線数
525本、ハイピションは1125本ですから、如何に粗かったか想像出来ます。また市販のディ
ジタル・カメラの画素数が最低でも200万ドットである事からも想定できます。

ニポー円板による機械方式が走査線数40本程度から出発し、60本ぐらいで壁に当ったよう
です。それで100本というのが研究者の悲願となりました。その後に工夫を重ね、128本に達
しましたが、遂に限界に至り、その後の研究は全電子方式に移行したのです。

余談ですが、編集子は現役時代に全電子式で走査線数150本ほどの実験を行った事が有
ります。その時の経験では、駐車場の自動車の車種は判定できたが番号は読み取り難か
ったと記憶しています。その程度の段階に辿り着くのにも、先人は四苦八苦したと思い、そ
の情熱と執念には敬意を表します。

無線で映像を送るというのがテレビ開発者の夢でしたから、1930年頃より国内外で盛んに
試みられました。この時に試用した周波数や電波形式について明記された資料は少ない
ようです。当時の研究者は映像を如何にして電気信号に変換するか、またその電気信号
から映像を再現するかが、第一のテーマであって、電波にどうして乗せるかは、次の問題
として扱ったものと思われます。当時既にラジオ放送は実用になっていましたから、それ
をアレンジすれば良いと考えたのでしょう。

少ない資料を調べてみると驚くべし、1933年の早大の実験では当初は1775キロヘルツ、後
に7200キロヘルツという、中波から短波帯を用いていました。また1934年の浜松高工の実
験では始めに7200キロヘルツ、後に30000キロヘルツと記録されていました。
今日から見れば非常に低い周波数ですが、当時は走査線数が100本に達するかどうか、と
いう段階でしたから帯域幅は20キロヘルツ程度と推定されますから、これでも間に合ったの
でしょう。因みに現行のテレビは走査線525本、帯域幅6000キロヘルツですから、電波とし
ては超短波帯かそれ以上を使っています。

無線伝送を行うには、映像信号・音声信号の他に同期信号を必要とします。現行のシステ
ムでは映像信号と同期信号を複合した信号と音声信号の2系統ですが、初期の実験では
同期信号は音声信号を複合した信号と映像信号の2系統にした例がありました。今では奇
異に感じますが当時としては、それなりの考察に基づいたと思われます。

「テレビ開発期の科学技術レベル」

如何なる科学技術も関連する分野のレベルに無関係には進歩しません。換言すれば広い
裾野があってこそ富士山のような高峰が成立するのです。テレビジョン技術も例外では有
りません。特にテレビの場合は、それまでの電気通信の技法である電信・電話・ラジオ放
放送に比して飛躍したものでした。

当時(1930〜1940年頃)の日本の科学技術レベルがどの程度にあったかを概観して見ま
す。先ず、ラジオ放送については1925年に始まりました。この時の放送機は輸入品でした
たが、受信機は国産化されたようです。もっとも主要部品には輸入品がかなり使われてい
ましたが次第に国産化されて行きました。初期には鉱石式と云われる形式のもの<で、イ
ヤホーン(当時はレシーバーと称しました)を使い1人しか聞けませんでした。

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左図は1925年頃の鉱石ラジオ、右図は1934年頃の真空管ラジオ (3球式)。

1919年には国産の真空管が登場しましたが非常に高価でしたから、ラジオ受信機への導
入は1930年頃になりました。当時の広告を見ると真空管3本を使ったラジオの価格は20円
ほどでしたから大卒初任給の3分の1に相当します、今なら6万円という感覚でしょう。しか
もその性能は今日の製品に比べれば遥かに低いものでした。次いで放送局型として真空
管4本を使ったモデルが現れて広く普及しました。1935年頃になると真空管7本で構成した
スーパーヘテロダイン方式が国産化されましたが、価格は200円、現在に換算すれば60万
円にもなる高価なものでした。また、その頃には放送機も次第に国産化されて行きました。

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左図は放送局型ラジオ(4球式)、右図3号型電話機。

1935年頃になると、ラジオはかなり普及したようです。当時私は小学生でしたが、級友の家
には殆ど有ったと記憶しています。それに反して電話を持つ家は数えるほどしか有りません
でした。日本の電話システムは1890年に加入者200名弱で開通したのですが、その後の増
加はスローテンポで1944年にやっと加入者が100万を超えるに至りました。この間に自動交
換方式が導入されて、3号電話機が登場し、交換機設備も国産化されました。

いわゆる家電機器としては、アイロンはかなり普及していましたが、扇風機となると贅沢品
であって都市サラリーマン層は持っていませんでした。電気洗濯機・電気冷蔵庫・電気掃除
機などは国産化されましたが、非常に高価で一般市民には無縁のモノでした。

カメラは国産化が進行中でしたが、質的にはドイツ製品が世界を席捲していて、日本製は
後塵を拝していました。腕時計も同様な事態でスイス製が圧倒的な強さを持っていました。
自動車は国産化が進みましたが、質・量ともに世界水準には遥かに及びませんでしたし、
乗用車を持つのは一部の上流階層に限られていました。

当時、世界水準に達していた日本の科学技術としては鉄道と造船が挙げられるでしょう。
鉄道車両、特に蒸気機関車については狭軌としては世界最高のレベルに達し、運営・管理
も世界に誇る域にありました。造船では特に軍艦に優れ、独創性に富んだ優秀艦を自力で
多数開発し世界3大海軍国に数えられました。
一方、航空機に関しては欧米に比して遅れが大きかったのですが、1940年頃には世界一
流の性能を示すようになりました。

数え上げると他にも多数の分野がありますが、ざっと集約してみました。粗く割り切ると国
策として重要視され、特に軍部の要請が強く、しかも技術的には成熟した分野は相当の水
準に有りましたが、技術的に発展途上の分野は難航していました。また、いわゆる民生の
分野は国の支援が無く、市民の経済力も弱かったので欧米に比してかなりの遅れがあった
と見られます。

このような技術環境の中でテレビ開発を夢見て、殆ど独力で推進した先覚者の努力と執念
には賛嘆の他は有りません。

「テレビ開発史に関する資料・記録」

テレビ研究が立ち上がり、どうにか見通しを得たのは1930〜1940年頃でしたから、約70年
も前のことです。そのために多くの資料は散逸・埋没してしまったようです。

パイオニアの方々は実験・研究に忙しく個人レベルのメモ書きの資料は作っても、公的な論
文の形の資料を多くは残さなかったようです。
学者・研究者の論文発表の場としては「電気学会」「電信電話学会」が有りましたが、当時
はテレビ研究などは異端のテーマと見られ、学会では片隅の存在でしたから論文審査に通
り難かった事情が有ったようです。

当時もラジオ・アマチュアは存在し、そのための専門雑誌が発行されていましたし、科学技
術の啓蒙をねらった通俗誌も有りました。テレビ研究の速報記事・解説記事はむしろ、この
種の雑誌に多く掲載されました。ところが、これらは学会誌に比して低く見られる故か、今日
では図書館・古書店でも見つけるのは困難です。

テレビ放送が本格的に事業化され軌道に乗った時期になって、先覚者の軌跡を辿る資料
が公刊されるようになりました。1970〜1990年代の頃です。それからさらに数十年を経て、
これらも目に触れ難くなっています。編集子はNHK放送博物館の図書室で数冊を見つける
ことが出来ました。

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上図は左から「凛として」川原田教授の伝記(1990年新装版)、「テレビジョン技術史」テレビ
ジョン学会編集の公的資料(1971年)、「静岡大学テレビジョン技術史」静岡大学の業績に詳
しい(1987年)、「テレビ事始」高柳教授の自伝(1986年)。


(2005年11月25日記・たまのげんたい)

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