現代文明社会の特徴の一つに「情報と交通」が数えられ、それは「時間と空間の克服」を指
向します。云うまでもなく情報通信技術の発達は全世界に瞬時の情報伝達を可能にしまし
たし、交通技術の進化は全世界に及ぶ物流を実現しました。
交通技術の中でも、もっとも進歩が速いのは「航空機」の分野です。現在の航空機の原型
は米国のライト兄弟により開発された「フライヤー号」とされています。それが初飛行に成功
したのは1903年ですから僅か100年前のことです。
空を飛びたいという願望はギリシャ神話時代から有り、ルネサンス時期にはレオナルド・ダ・
ビンチが幾つかのアイディアをスケッチしています。その願望を実現するために種々の試み
が世界各地で行われるようになったのは、1800年頃からでした。
「表具師・幸吉の事跡」
日本の記録では岡山の表具師・浮田幸吉の事跡が有名です。菅茶山の著書「筆のすさび」
の記述によれば、彼は腕の良い表具師として知られていましたが、鳥の飛行を調べて今日
の滑空機の如き「機巧」を造り上げ実際に飛翔しました。飛翔は成功しましたが、花見の宴
を楽しんでいる所に着地したので大騒動になり、奉行所から追放の刑に処せられました。
1785年の出来事と伝えられています。
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幸吉は1757年に今の岡山県玉野市八浜の生まれです。幼少時に生家が没落し、傘職人を
経て表具師となり評価を得ました。ある時期に鳥の飛翔に興味を持ち、自分も飛翔したいと
志し鳩を捉えて翼の面積や重さを調べ、それから人の飛翔を意図した羽ばたき機を作り、
飛翔を試みました。この企ては、ヒトの筋力が羽ばたくためには弱過ぎることを知らなかっ
たために失敗に終りました。
次いで幸吉は鳶の飛翔から、羽ばたきをしなくても滑空ならば可能であることを発見し、今
度は固定翼を備えた滑空機を創り、飛行に成功しました。その飛行は岡山城と後楽園の間
にある京橋から発進しました。その地には記念碑が建っています。
この開発において、翼に上反角を持たせると安定性を得られることや、方向転換の手法を
発見したと云われます。
生まれ故郷の岡山を追放された幸吉は、現在の静岡県江川町に移住して商業に従事しま
したが、後に「備幸斎」と名乗り、時計の修理・義歯の製作などを行い名声を得ました。
1807年に至り、ロープで曳航し地上から飛び立つ滑空機を創り、安倍川で飛行に成功した
と伝えられます。今日のプライマリー・グライダーの原型とも云えるでしょう。
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しかし、この件でまたもや奉行所により所払いの刑に処せられ、見附宿(磐田市)に移住しま
した。ここでの生活は周囲の人々の支援を得て平穏な時を過ごし、1847年に90歳の高齢で
永眠しました。
幸吉の墓は浄土宗・大見寺に現存し、戒名は「演誉清岳信士」と記されています。
沖縄にも飛翔にチャレンジした人物が伝えられています。「飛び安里」と称された安里周祥
が滑空機を創り飛行したと伝えられています。1787年のことです。彼は琉球国越来村の花
火師でしたが泡瀬の海に面した崖から飛び、時の琉球王・尚王から恩賞を受けたとされま
す。この他にも数人の人々の飛行伝説が各地に残っています。
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その頃の海外の事情はどうだったでしょうか。航空史にはドイツのオット−・リリエンタール
がグライダーの研究者として必ず登場します。彼は1881年にグライダーの飛行実験を開始
し、墜落死するまでに2000回を飛び、詳細な記録を残しました。幸吉よりも100年遅れました
が、その科学的データは、ライト兄弟の飛行機の発明に際し大いに役立ちました。
幸吉らの飛行は確かに早かったのですが、当時の社会環境は科学・技術の裾野に乏しく、
散発的な個人の活動に終わってしまったことは惜しまれます。しかしながら、固定翼と上反
角に着目した独創性は高く評価すべきでしょう。
戦前の小学5年の国語教科書には岡山の表具師・幸吉の偉業を記述していました。
「二宮忠八の事跡」
今日の航空機の原型、固定翼と推進機構を備える空気より重い機体、を世界に先駆けて
開発した二宮忠八の名は永久に記憶されるべきでしょう。
忠八は1866年に愛媛県西宇和島郡八幡浜浦で生まれました。生家は地方の有力者でした
が幼少時に没落し、小学生時代には秀才と讃えられましたが進学することなく、実社会に
出て働くことになりました。
写真館の助手、伯父の薬種商の手伝い、測量技師の助手、行商などを転々としましたが、
その間に独創性に富んだ凧を考案し、化学実験を行い、漢学・南画を学ぶなど、多くの経
験を積みながら、将来の進路を模索しました。
1987年、22歳にして丸亀の歩兵第12連隊に入隊しましたが、歩兵にならず看護兵(今の看
護師)の道に進みました。1889年、野外演習の休憩時に烏の飛行に着目、飛行器の発明を
志しました。同時期に調剤手(今の薬剤師に相当)試験に合格し、丸亀衛戍病院に勤務する
ようになり、昼間の勤務の終わった後、自宅で飛行器の開発研究、薬学の勉強に没頭する
生活を続けました
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研究の結果、忠八は固定した翼を進行方向に対してある角度(仰角)を持たせ、然るべき推
進力を持たせることにより、重力に反して上昇・飛行することが可能であるとの結論を得ま
した。これこそ飛行機の基本原理であって、この原理に至った人は同時代には殆どいませ
んでした。
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忠八はその原理を実証するために、烏型模型飛行器の製作に掛かりました。とは云っても
今から100年以上も前のことです、今日のようなDIYストアも模型店も有りませんから、必要
な機材は総て自前で調達しなければなりませんでした。
もっとも苦労したのは、動力として使うゴム紐でした。ゴム紐を市販している店などはなく、
医師の使う聴診器を手に入れ、それに使われているゴム管を細分してゴム紐を作ったそう
です。その頃は聴診器も高価な輸入品でしたから、それを分解してゴム管を得ようとするの
は、ずいぶん思い切ったことだったと推測されます。
1891年に遂に烏型模型飛行器の飛行に成功しました。空気より重い機体が自力で上昇・飛
行したのです。この年に忠八は先輩の娘・寿世と結婚しましたが、新婚の妻を伴い薄暮の
丸亀練兵場で試験飛行を重ねた挿話が伝えられています。
この模型は近年に某模型メーカーから組み立てキットとして市販されました。部品・素材は
勿論現在のものですし、ある程度のデフォルメは有りますが立派に飛行するようです。

忠八はさらに研究を重ね1893年には、玉虫型飛行器の大型模型を完成させました。これは
人が登場して飛ぶことを意図したもので、操舵機構を備えていました。然るべき動力源が得
られれば実物に移行できるほど完成度の高いものでした。
1894年に日清戦争が勃発し、忠八は野戦病院勤務として京城に出征しましたが、戦地でも
飛行器に対する意欲を持ち続け、飛行器の開発を上申しました。戦場に於ける敵情偵察に
有効な武器になると予想したからですが、軍の支持を得て動力源の開発の支援を期待した
い願望も有ったようです。
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忠八は上司・病院長を経て大島旅団長に上申書を提出しましたが、長岡外史参謀により却
下されてしまいました。長岡参謀の立場では日々の作戦指導に苦心している最中でしたか
ら、そんな夢物語に付き合っていられるか、という心境であったと思われます。忠八としては
痛恨の極みであったと想像されますが、客観的に見れば階級制度の厳しい軍隊で末端の
看護兵の意見が、上層部にまで伝えられたこと自体がかなり特殊なケースであったと考え
られます。
とにもかくにも、上申書が上層部まで届いたのは、直属の上司や病院長の理解があったわ
けで、忠八の日頃の勤務態度や研究熱心が認められていたからでしょう。
日清戦争後も2度にわたり、軍の上層部に飛行器の開発を上申しましたが却下され、忠八
は遂に軍籍を離れて、独力で研究を続ける決意をします。1898年に大阪製薬に紆余曲折
の末に下級の書記として入社しますが、忽ちに頭角を表し昇進を重ねます。新しい環境で
彼は薬剤の学識・経験をベースに、営業・経営に才幹を示しました。
1899年に忠八は日本薬学会の会員になりました。薬学会は薬学に関る学者・研究者・技術
者により構成する学術団体ですから、学歴の無い看護兵出身者が会員として認められるの
は異例中の異例でした。これには日本の薬学の創始者であり薬学会会長である長井長義
博士の推薦がありました。忠八は1895年に広島で開かれた薬学者の会議に出席の機会が
あり、その時に博士の知遇を得たと伝えられます。
製薬業界に身を投じた忠八は、幾つかの薬剤を創案してヒット商品に仕上げると同時に経
営者としても手腕を発揮し、多忙の日々を送りました。1904年の日露戦争時には攻城火炎
砲を考案し大本営参謀本部に提案しましたが採用には至りませんでした、この時の次長は
またもや長岡外史だったそうです。
忠八は業務多忙の中でも、飛行器の開発への夢を失いませんでした。動力源として石油発
動機(今のガソリン・エンジン)や電動機の存在を知り、その適応性を検討した結果、成案を
得るに至りました。12馬力の石油発動機を用い、総重量450kg、翼幅5.4mの機体を設計し
たのです。要求を満たす発動機が入手できれば試験飛行を実施するのはあと一歩まで達
したのです。1908年のことでした。

ところが米国では既にライト兄弟が1903年に人類初の有人動力飛行に成功していたので
す。これを忠八が知ったのは1909年10月3日の新聞記事で、実に6年もの遅れがあったの
には奇異な感じがしますが、このニュースの重要性について当時のジャーナリスト反応が
鈍かったと推量されます。本家の米国でも試験飛行に立ち会ったのは近所の住人数人だ
けで、新聞記者は一人も居らず、伝聞に基づく新聞記事が地方版に小さく掲載されたに過
ぎなかったと云われています。
この報道を知った忠八は、遂に飛行器の開発を断念するに至りました。卓越した発想を模
型では実証しても、実際に人が搭乗するための動力源については、当時の日本では入手
困難であり、自作するにしても関連技術の裾野が不備でした。
24歳で飛行器の発明を志して以来20年間、片時も忘れずに研究を続け、烏型模型、玉虫
型模型を経て玉虫型の実機を設計しあと一歩まで迫りながら、動力源のネックで完成に至
らなかった忠八の無念は察するに余りが有ります。しかも、彼は大学や研究機関などの組
織に属さず全くの独力で遂行したのですから、その熱意と努力には驚嘆します。
忠八が飛行器の開発を断念してから数年間、製薬業界に於ける活躍は続き、幾つかの企
業の幹部を歴任し、多くの薬剤を開発しました。この間、軍部も漸く諸外国の進歩に刺激を
受けて航空の有用性に気付き、1910年には徳川・日野大尉により輸入機材による本邦初
飛行が行われました。1911年になると、軍・民で機体の設計を試みるようになり、エンジン
は外国製でしたが飛行に成功しました。1912年には木村・徳田中尉の操縦する機が墜落
し、初の航空事故死が報じられました。
1918年に白川義則中将の知遇を得て、飛行器研究の経緯を説明しましたが、その内容を
陸軍航空本部が検討し、公式に認められるに至りました。次いで1920年には帝国飛行協会
の機関誌「帝国飛行」に「二宮式飛行機について」という記事が掲載されました。
1921年には陸軍航空本部長・井上幾太郎中将より表彰状を受け、また「薬石新報」誌の依
頼により開発の経過を発表しました。
ここに於いて忠八は、嘗て上申書を却下した長岡外史将軍に経過の資料を送付したとこ
ろ、意外にも鄭重な謝罪の返書が届きました。主旨は折角の優れた着想を、軍務多忙の故
に葬り去った不明を詫びる、という内容でした。これにより、忠八の抱いていたある種の感
情は氷解し、以後は親交を結んだと伝えられます。
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長岡外史中将は航空には縁が深く、1909年には軍用気球研究会の創設に伴い会長に就
任し、退役後は帝国飛行協会の要職を務め、民間航空事業の推進、航空知識の普及に努
めました。彼の髭は長さ67p に及びプロペラ髭と称されました。
忠八の飛行器研究の実績は漸く広く認められるに至り、1925年には逓信大臣より表彰状
を、1926年には帝国飛行協会総裁から感謝状を受けました。また、政府からは勲6等瑞宝
章を授けられました。1926年には飛行神社を創設し、自ら神主の資格を得て内外の航空
殉難者の霊を祀りました。航空界への思い入れは、開発は断念しても、製薬業界に身を投
じても、一生にわたって続いていたのです。
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忠八の功績は、今日の飛行機の原理でを発見し、基本構造を創造した事ですが、全く独学
で推進したのには驚きます。その設計が卓越していた事は、遥か後年になって各地の模型
飛行機愛好家が復元して、実際に安定した飛行が出来た実績からも証明されます。
もし、適当な動力源が調達できるほどの技術の裾野が日本にあったならば、米国のライト
兄弟に先んじて有人動力飛行に成功したであろうと思われます。
忠八の一生を見ると、飛行器の発明に賭けた不撓不屈の情念もさることながら、バランス
感覚に長けた万能の人というイメージを抱きます。製薬業界において薬剤の開発だけでな
く、営業に生産に経営に卓越した手腕を示しました。また、各界の要人に多くの知己を得た
のも真摯な人柄が認められたからでしょう。家庭的にも恵まれ堅実な生活を送りました。
晩年には多くの栄誉に包まれ、世俗的な意味では名誉・地位・財産の総てを得ました。しか
しながら本来の志を100% 完遂し得なかった事は心残りであったかも知れません。彼は糟糠
の妻・寿世に先立たれた後、1935年に70歳で世を去りました。
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