米国のライト兄弟が史上初の有人動力飛行に成功したのが1903年12月17日の事です。場
所は米国・北カロライナ州・キティホーク海岸で、立会人は僅かに5人でした。最初の飛行
は12秒間で距離35m 、4回目の飛行は59秒で距離260m でした。たいていの書物では、こ
の4回目のデーターを人類初飛行の記録としています。

ライト兄弟の開発で注目すべきは、水冷4気筒12馬力エンジンを自製したことです。彼等は
自転車工場を経営していましたから、工作機械や素材の手配は出来たものと思われます。
日本では先覚者・二宮忠八が玉虫型飛行器の設計を完成しながらも、動力源が得られず
に挫折したのと比較すると、当時の米・日の技術の裾野の広さの差をを痛感させられます。
もう一つ、感心させられるのは、機体の開発について手製の風洞を使って検討を重ねた事
です。ライト兄弟は工学についての高等教育は受けませんでしたが、その研究態度は正統
的なものであり、実務の腕は確かでした。
一方、日本では二宮忠八の研鑽努力は有りましたが、周囲の人々の理解・協力が無く、関
連の技術が殆ど生長していなかったので大成するに至らず、ライト兄弟に名を成さしめ、そ
れ以後も欧米の後塵を拝せざるを得ない環境に有りました。
ライト兄弟の初飛行に遅れること6年、1909年に日本陸軍は「臨時軍用気球研究会」を創設
し、会長には、奇しくも日露戦争時に二宮忠八の上申を斥けた長岡外史中将が就任しまし
た。この研究会は気球と銘打ってはいましたが、実質的には飛行機を対象にしました、気球
に関しては既に1877年頃より研究・試作・実用化を進めていて、それなりの実績はあったの
です。
「日本における初飛行・徳川大尉・日野大尉の壮挙」
徳川好敏大尉および日野熊蔵大尉は命を受けて欧州に留学し飛行術を学びました。日野
大尉は1910年4月に渡独し、往復の旅程を含めて3カ月の間に操縦術を学び、グラーデ単
葉機を購入して帰国しました。当時の交通手段は船でしたから往復だけで2カ月近くを要し
た筈で、それから逆算すると操縦を学んだのは1カ月ぐらいの短期間であるのに驚きます。
徳川大尉は渡仏して操縦術を学び、1910年11月に万国飛行免状289号を得ました。彼はア
ンリ・ファルマン複葉機を購入し帰国しました。そうして年末には両大尉による日本最初の
飛行が実現したのです。
.........

1910年12月19日、東京・代々木練兵場に於いて徳川好敏大尉はアンリ・ファルマン機に搭
乗して高度70m 、距離3000m 、時間3分、の飛行に成功しました。ついで日野熊蔵大尉は
グラーデ機を操縦して高度20m 、距離1000m 、時間1分20秒、を飛びました。これが日本で
の公式な初飛行と認められています。
.........

この飛行に於いて、エンジンの不調には悩まされたようです。ファルマン機は電気系統に応
急処置を施して飛行し、グラーデ機は4気筒のうち1気筒が作動しないままに離陸した、と
の記録が有ります。両機ともに輸入品であり、エンジンは外国製でしたから、その取り扱い
に関係者は苦心したと思われます。何しろガソリン・エンジンなる物は聞いた事は有っても
見た事はなく、況して実地に触った事は無いという人が殆どでした。
それに本家の欧米諸国と云えども、航空機用ガソリン・エンジンは試行錯誤の開発を続け
ているのが現状でした。それまでに実用化された蒸気機関や電動機に比して、遥かに複雑
な構成でしたから材料・工作ともに飛躍した技法が必要だったのです。
上記の公式記録に先立つ12月14日に日野大尉は、同じ場所で同じ機により高度1m 、距
離30m を飛び次いで高度10m 、距離60m を飛びましたが、公式飛行とは認められません
でした。理由は不明ですが地上滑走試験中のハプニング的なジャンプと判断されたとの説
が有るようです。
徳川・日野両大尉により初飛行の行われた代々木練兵場は、現在は代々木公園として都
民の憩いの場になっていて、その一角に「日本航空発始之地」なる記念碑と両大尉の胸像
が設置されています。
.....

過日、私は往時の壮挙を偲ぶために、その地を訪れました。ところが残念な事にその付近
にはホームレス氏のテントが林立していて、近寄り難い雰囲気を感じたことは否定出来ま
せんでした。なお幸いと云うべきか、記念碑も胸像も破損や汚染は無かったようです。
アンリ・ファルマン機はグノーム空冷7気筒50馬力のエンジンを備えた複葉機で、乗員は2
名、翼面積50u 、重量600kg の機体でした。対するグラーデ機はグラーデ空冷4気筒24馬
力のエンジンを備えた単葉機で乗員は1名、翼面積25u 、重量225kg の機体でした。価格
は前者が約1万8800円、後者が約8000円と伝えられています。
幸いに今日でも両機の雄姿はレプリカで見ることが出来ます。ファルマン機は東京・交通博
物館に展示され、グラーデ機は愛知県・各務ヶ原宇宙航空博物館に有ります。100年近くも
前の機体を再現して展示している関係者の努力と熱意には感心させられます。
「徳田・木村両中尉の遭難・初の犠牲者」
代々木練兵場での初飛行を皮切りにして、漸く日本の航空界も立ち上がりました。その中
心は軍部であって、将来の戦争には大きな役割を担うと予想されたからです。既に先進諸
国は着々と態勢を整えていましたから、日本も後追いながらも追随することになったので
す。陸軍は1911年に所沢飛行場を開設、翌年には飛行将校の募集を開始しました。海軍
は1912年に航空技術研究委員会を創設し、次いで操縦将校を任命しました。
そのような情勢の下で軍は青山練兵場に衆参両議員を招き、数台の飛行機・飛行船を供
覧しました。閉会後に、徳田金一中尉・木村鈴四郎中尉はブレリオ単葉機を操縦して所沢
飛行場に向かいました。ところがに所沢に至り着陸寸前に左翼が折れて墜落し、両中尉は
殉職しました。時は1913年3月28日、日本航空界の初の犠牲者でした。

この悲劇は大きく報じられ、全国民に衝撃を与えました。両中尉は叙位叙勲され、天皇から
祭祀料が下賜されました。全国から弔意金が寄せられ、やまと新聞社は殉難記念碑を建立
しました。
......
...........
また多くの文士が両中尉の死を追悼する詩文を発表しました。例えば与謝野晶子は哀悼
歌15首を東京朝日新聞に発表、その内容は日露戦争時に示した反軍・反戦的な言辞は有
りませんでした。また、児玉花外は新体詩を雑誌に発表、国家に殉ずる栄光と死を讃えまし
た。
「手作り飛行機の時代」
代々木に於ける初飛行から、暫くの間は手作り飛行機の時代が続いたことは今日では殆
知られていないようです。先のファルマン機もグラーデ機も輸入品でしたし、その他にも数
多くの飛行機が輸入されたのは事実です。ところが一方には、自分たちの手で飛行機を作
ろうとする人々がいました。軍部の関係者と民間のヒコーキ野郎です。
トップ・ランナーは奈良原三次氏です、氏は男爵の爵位を持つ名門貴族であり、海軍中技
士でとして臨時軍用気球研究会委員でも有りましたが、独力で奈良原式飛行機を製作しま
した。その1号機は残念ながら地上滑走のみに終わりましたが、次いで2号機を製作し今度
は、高度4m, 距離60m, の飛行に成功しました。1911年5月5日に所沢飛行場で行われまし
た。これが国産機として初めての飛行でした。エンジンはフランス製のノーム50馬力を装
備しましたが、代々木に於ける日本初飛行から半年にして自力で機体を設計・製作し飛行
に成功したのは、驚くべき手の早さと云えるでしょう。

次いで登場したのが、徳川好敏大尉らがファルマン機を基に設計した「会式1号」でした。
1911年10月25日に試験飛行に成功しました、この時の記録は高度 85m, 距離 1600m, 時速
70km,でした。これが国産陸軍機第1号機となったわけですが、エンジンはノーム空冷星型
50馬力の外国製を使いました。なお、会式とは「臨時軍用気球研究会」に由来します。

会式1号のレプリカは所沢の航空発祥記念館に展示されていて、往時を偲べます。会式機
はその後、2号・3号・・・・と試作されましたが1917年の7号で終止符を打ちました。実用機
材は輸入機を採用する方針が定まったからだと伝えられます。なお、1999年には記念切手も
発行されました。
1912年3月に奈良原氏は奈良原式4号「鳳」を発表しました、この機は当時としては最も成
功した機体と云われ、日本の各地で有料の飛行会を開催しました。人が乗って空を飛ぶ、
という事が観衆にとっては素晴らしいショーであった時代でした。その頃は整備された飛行
場は殆ど無く、平坦な広場や草原で離陸・着陸したわけで、頑丈な脚まわりと、短距離離着
性能が必要とされました。この機体のレプリカは千葉県稲毛にある稲毛民間航空記念館に
展示されています。

奈良原氏は稲毛海岸に東洋飛行機商会の専用飛行場を創設しました、これは日本最初の
民間飛行場でした。氏はここで伊藤音次郎・白戸栄之助などの人材を育てましたが、1913
年には引退し、後進に引継ぎました。氏の業績は素晴らしいものでしたが、不思議なことに
殆ど知られていないようです。
故佐貫亦男教授は、当時は舶来品(輸入品)万能の風潮が強く、国産技術の軽視があった
と指摘しています。また、氏は早い時期に軍籍を離れて民間の有志と共に航空事業を立ち
上げようとした事も、官尊民卑の世相から評価され難かったと思われます。さらに、貴族の
家系から来る制約も多かったのかも知れません。
1914年6月に帝国飛行協会は第1回民間飛行競技大会を開催、5機が参加して27万人の
観客に妙技を披露しました。この時に1等賞を得たのが坂本寿一氏の機体で、米国のグレ
ン・マーチン式を模して製作しました。この時の記録は滞空31分22秒、高度840m, でした。
この時期になると「飛べるか否か」というレベルはクリヤして実用に近付いたと云える段
階に達しました。

1915年には国産機が中国に輸出されたという意外な話があります。都筑鉄三郎氏が当時
の中国革命政府の依頼を受けて設計製作したもので、ノーム90馬力のエンジンを着けた単
葉機でした。最大速度90km, 航続4時間、の性能でしたからかなりのものでした。同機は中
国公使舘に引取られて大陸に渡り、北京・南苑の航空学堂で試験飛行を実施、性能は良
好でした。とにかく、漸く立ち上がった日本の航空界から早くも輸出が行われたのは快挙と
云うべきでしょう。なお、価格は1万3000円と伝えられています。

1916年には岸式つるぎ号が発表されました。岸一太氏は医学博士の学位を持ち病院を経
営していましたが、航空に関心を抱き赤羽飛行機製作所を創設して、岸式飛行機を製作し
ました。

岸式は、その後6号機まで作られ、1919年には陸軍に納入もしましたが、軍の方針変更で
事業は拡大せずに工場は閉鎖されました。しかしながら殆ど独力で国産機を製作し、納入
実績を挙げたのは敬服に価します。
伊藤音次郎氏は奈良原氏の引退の後に、1915年に伊藤飛行機研究所を設立し、操縦練
習と機体製作に没頭しました。氏は伊藤式恵美1号機を製作し、稲毛・東京間の往復飛行
に成功し、翌1916年には伊等式恵美2号を製作し、その機体で1917年には大阪訪問飛行
を敢行しました。これは当時としては快挙と云うよりも冒険と云うべき企てでした。

伊藤氏はその後も活動を続け、1919年に伊藤式鶴羽2号を製作しました。これは名機とし
て知られ、山縣豊太郎操縦士が民間パイロットとして初の宙返りを行いました。伊藤氏は引
退するまでに54機の飛行機、15機のグライダーを製作し、142人の操縦士育てました。数多
のヒコーキ野郎のなかでも傑出した息の長さでした。

玉井清太郎氏は相羽有氏と共同で羽田に日本飛行学校を1916年に開設し、練習機として
玉井式3号機を1917年に設計製作しました。グレアム・ホワイト機を模した設計と云われ、
かなり洗練された機体でした、当時はライセンス生産などの制約も少なかったようです。こ
の機は3回目の飛行で空中分解を起こし、玉井氏は死亡しました。
なお、この機に着いていたノーム50馬力エンジンは、墜落後に回収・修理されて、上記の伊
藤式鶴羽2号機に装着・再使用されたたという、今日では信じられないような秘話が伝えら
れています。
その頃の手作り国産機は大なり小なり外国機を下敷きにしたようです。欧米に比して10年
近い遅れがある上に、関連の機械工業・電機工業が殆ど育っていませんでしたから、実績
の有る機体を参考にせざるを得ませんでした。また、当時は知的所有権などは喧しくは云
われなかったので設計者も「良く似ているでしょう、そっくりの出来です。」と明言するほど
の牧歌的な時代でした。
当時の機体構造は木製の骨組みの上に羽布を張ったものでしたから、器用な職人ならば
見よう見まねで造れました。難関はエンジンで、こればかりは全くお手上げで、輸入品に頼
りました。当然、高価で貴重なものでしたから、墜落・破壊した機からエンジンを回収し、何
とか修理して再利用するような事もしました。それで、その分野の名人も生まれたそうです。

1917年には尾崎行輝氏の設計・製作した異色の複葉機が出現しました。氏は帝国飛行協
会の陸軍委託飛行練習生として活動していましたが、自作を志して完成させたものです。
特筆すべきはエンジンとして島津楢蔵氏の手になる国産品を装着した事です。帝国飛行協
会が発動機製作懸賞募集をした際の1等賞を獲得したローン型回転式80馬力エンジンで
した。
この機は所沢で試験飛行に成功した後、あまり話題になるような活躍をしないままに、ロシ
アのセミヨノフ軍に1万円で買い取られ、かの地に渡りました。この時に尾崎氏はシベリア
に行き飛行術を教えました。この話も草創期の埋もれた秘話の一つに数えられるでしょう。

以上に概説したような手作り飛行機の時代は1920年頃まで続きましたが、次第に大組織の
企業が進出して来ました。企業は外人技師を招き、その下に機械や造船を専攻した学卒技
術者を配置して設計・生産を学ばせました。そのような体制になって来ると、いわゆる「ヒコ
ーキ野郎」の出番は次第に減って行きました。
この世界のパイオニアたちは、「大空への憧れ」を梃子として外国製の機体を参考として見
よう見まねで手作りしていたわけで、その努力と情熱には敬服します。しかしながら時勢は
大きく変り、彼等は「消えゆく老兵」の運命を辿らざるを得ませんでした。
手作り飛行機に傾倒した方は上述した他にも数多くいます。調査出来た人々を列記して見
ますと、次のようになりました。
*日野熊蔵氏。代々木での初飛行成功で有名ですが、手作り機にも何度か挑戦しました。
*伊賀氏広氏。男爵、伊賀式1号、伊賀式舞鶴号を試作、飛行に至らず。
*滋野清武氏。男爵、万国飛行免状取得、滋野「わか鳥」号を試作。
*高左右隆之氏。高左右式4号複葉機を自作、国内・満州・沖縄を飛行。
*白戸栄之助氏。白戸式旭号などを製作、各地で公開飛行。
*田村敬一氏。*星野米三氏。*稲垣知足氏。*小川三郎氏。*一森義憲氏。
*藤原延氏。*粟津実氏。*福長朝雄氏。*福長四郎氏。*安井荘次郎氏。
以上の他にも表面に出なかったスポンサー・操縦者・設計者・助手などが多数いた筈です。
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