13・・・日本無線史の落穂拾い的考察(5)

今回は八木アンテナを巡る秘話などを紹介します。

「八木アンテナとニューマン文書」

広く超短波地上波テレビの受信用として用いられるアンテナは、殆どが「八木アンテナ」と称
する型であることは全世界に知れ渡っています。そうして、それが八木秀次博士の発明で
あることは、電子技術に関る人々には周知のことです。ところが比較的簡単な構造で鋭い
指向性を持つ八木アンテナは日本では初めは省みられず、特許切れの頃になって海外で
の実績を知り、やっと評価されたというイキサツが有ります。

八木アンテナは1925年に東北大学の八木秀次博士により特許申請がなされ、国内・国外
の学会に発表されました。その後も宇田新太郎博士を中心に実用化研究が進められまし
たが、国内の反応は鈍く、特許も15年経過後の期限延長は拒否されるという有様でした。

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左図、若き日の八木秀次教授。右図、ブリュッセル万国博に出品 した八木アンテナ。

八木アンテナの名が広く知れ渡るようになったのは、1953年に日本でテレビ放送が始まり、
家庭で受信用として使われるようになってからです。発明から30年近くも後のことでした。
ところが、専門家の間ではこれより以前の1942年に急激にその名が広まるという出来事が
有りました。

それは大東亜戦争の初期1942年2月25日に日本軍がシンガポール要塞を攻略・占領した
時のことでした。英軍の高射砲陣地の塵芥焼却場で、偶然にも手書きの焼け残りノートが
発見されたのです。発見者は陸軍の秋本中佐でしたが、何やら電気機器に関る重大なもの
らしいと判断し、電気担当の塩見文作技術少佐に託しました。

塩見少佐は専門家として解読に当たり、当時の英軍が最も秘匿する電波兵器の一部に関
る内容であることを看破しました。軍部は直ちに参考資料としての価値大なりと認め、その
ノートを英文タイプおよび写真撮影して「ニユーマン文書」と名付け、電波兵器の開発者に
配布しました。

このノートは英軍のレーダー技士であるニューマン伍長が英本国で研修を受けた時のメモ
書きでしたから、記述は断片的であって完備したマニュアルでは有りませんでした。加えて
ニューマンは下士官であって系統的に電波技術を習得した技術者では無かったので、その
記述は判読し難かっようです。それにも関らず、そのノートの重要性を逸早く見抜いた、
塩見少佐の慧眼は素晴らしいものでした。

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左図、シンガポールで捕獲した英軍レーダー。右図、塩見文作 元陸軍技術少佐。

さて、このニューマン文書の中に「YAGI array」なるコトバが頻繁に記されていましたが、当
初は読み方すら解らず、品川の捕虜収容所にいたニューマン伍長に岡本正彦少佐が面接
して、それが「八木アンテナ」であることを聞き出しました。それが明らかにされた時に、軍・
官・学の電波技術の権威は愕然としたと伝えられます。1925年に日本で発明されながらも
少数の研究者が細々と研究を続けただけで殆ど黙殺されていた技術が、何時の間にか海
外で賞用・実用化されていたのです。

八木アンテナは比較的簡単な構造で適切な指向性を持つ優れたアンテナで、大戦中はレ
ーダーに用いられ戦後はテレビ受信用として全世界に浸透しました。卓越した発明にも関ら
ず、日本では評価されずに、外国で賞用されてから逆輸入するというパターンは、現在でも
時折は起こりますから未だ開発途上にあった環境からは止むを得なかったのかも知れま
せん。

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ニューマン文書の一部、YAGI ARRAY の図解と スイッチング・シーケンス説明。

ニユーマン文書は英文タイプにして57頁ほどの小冊子で、内容は英軍のS.L.C.型レーダー
に関るものでした。その和訳は小池勇二郎氏らにより行われ「SLC 理論」との標題を付けた
小冊子もあったと伝えられます。

ニューマン文書の発見とその後の解読・研究により、それまで手探り状態で開発を進めて
来た日本のレーダー技術が飛躍したであろう事は推察できます。戦後の防衛庁・技術資料
によれば、陸軍の「た号2型電波標定機」は S.L.C.型レーダーを参照し、それに高射砲射撃
に必要な測距回路を追加して完成したと記されています。

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ニューマン文書の表紙と序文。

ところが、日本の電波兵器開発に多大の影響を与えたこの文書は、戦後「幻のニューマン
文書」として往時の関係者の間に語り継がれました。戦時中は高度の機密文書として扱わ
れ、終戦時には軍命令により焼却処分されたので、たまたま個人的に所蔵された人もGHQ
(連合軍総司令部)の摘発を恐れて深く隠匿したり、戦後の混乱に巻き込まれて散逸してし
まって現存するものはあるまい、と思われていました。

編集子が学業を終えて某電機メーカーに就職したのは1952年でしたが、その時の上司は
元技術将校であり陸軍・多摩研究所でレーダーの開発に関った方で、その人からニューマ
ン文書の話を何度も聞かされ、記憶の片隅に残りました。

同様なことは、各地で断片的に語られたと思われます。そうして、その話に触発されて幻の
文書を発掘しようと活動を始めた人が現れました。アンテナの研究者として著名な佐藤源
貞博士(現・上智大学名誉教授)その人です。

佐藤博士はあらゆる人脈を探り、寸暇を割いて戦時の電波技術者を訊ね回りました。戦後
数十年の間には嘗ての少壮・中堅の技術者・研究者の身の上も大きく変りましたから、容
易なことではなかった筈です。大学や企業に職を得て、電波技術の仕事を続けた方は探し
易かったと思われますが、別の業界に転職したり、帰郷した方も少なくなかった筈で、こうい
う人々を見つけ出すのはたいへんでした。

佐藤氏は模索しているうちに、キーマンであった塩見元少佐が早稲田大学の出身であるこ
とを突き止め卒業生名簿から住所を知りました。そうして遂に両氏は会見の機会を持ちまし
た、1988年1月26日のことでした。この会見で塩見氏が永年秘蔵していた「ニーマン文書」
が始めて陽の目を見ることになったのです。アンテナ技術に関る秘史を物語る一次資料は
佐藤氏の執念とも云うべき探索の努力で発見されたのです。

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左図は佐藤源貞博士。右図は塩見文作元陸軍技術少佐。

幻のニューマン文書発見の経緯は電気学会・技術史研究会などで発表され、またNHKテレ
ビの「日本の電波開発の軌跡」なる番組で一挿話とし紹介されました。そうして日本発の技
術が海外で認められてから逆輸入された例として、電気以外の分野でも度々引用されるほ
ど、知れ渡りました。

八木博士は東北大・大阪大・東京工大などで要職を歴任し、戦時には技術院総裁の重責を
担いました。戦後も電気関係の学会・業界の大御所として多方面に精力的な活動を続けま
した。早くら独創技術を推進し、今日の日本の電子技術を育て上げた功績は素晴らしく内
外からの幾多の栄誉に輝きました。

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左図はテレビ受信八木アンテナと博士。 右図は米国電気電子学会の記念レリーフ。



「特許でRCA社に挑んだ男・望月冨ム」

八木博士と対照的に、世間的には全く無名ですが日本の電子産業界に大きく貢献した在
野の研究者がいました。その人は"望月冨ム"氏と云います。望月氏は1911年に山梨県に
生まれ、2000年に没するまでに電波技術の分野で1200件以上の特許および実用新案を得
ています。この数値は驚異的なもので、編集子が駆け出しの技術者であった頃には、「特
許公報」の毎号に氏の出願が掲載されていました。

氏の多くの発明の中でも著名であり、国益に貢献したものに、テレビジョン受信機の「インタ
ーキャリヤ方式」、レーダー装置の「PPI 表示方式」などが有ります。

「インターキャリヤ方式」とは、テレビ受信機において映像信号搬送波と音声信号搬送波の
増幅をそれぞれの増幅器で行なわず、同一の中間周波増幅器で行なう方式名です。これ
によって回路構成を簡略にした上で安定度も得られるという、一挙両得の画期的な発明で
した。望月氏は1940年に、この優れた発明を申請・登録されました。

ところが、このインターキャリヤ方式には、後日談があります。米国では同様な方式が1944
年に米国内で出願されました、大東亜戦争の最中の事です。戦後、日本には1953年に出
願され、これに対して望月氏は異議を申し立てましたが、敗戦国の弱い立場の故か、その
主張は認められませんでした。

その後この米国発の特許はオランダのフィリップス社の手に渡り、同社は日本のメーカーに
対して膨大な特許実施料を要求して来ました。日本では業界・NHK が望月氏の発明を武器
として交渉を重ね、遂に大幅な実施料の引き下げに成功しました。


当時、テレビジョン技術の特許は米国の RCA 社、EMI 社、
およびオランダのフィリツプス社の3社によって押さえられ
ていて、手も足も出ないのが実状でした。

日本のテレビジョン研究は1940年頃までは世界のトップ・レ
ベルに近いところに行っていたのですが、戦中・戦後の停
滞によって欧米に比して大幅に遅れてしまったのです。

その上、敗戦国という事情もあって、諸事米国の云いなり
にならざるを得なかった時期でした。

望月冨ム氏

このような時に望月氏の発明の存在によって、フィリップス社の譲歩を引き出せた事は一大
快挙であって、国会でも話題になり、新聞は欧米による技術支配に一矢報いるものと大きく
報道しました。

「PPI 表示方式」とは、レーダー画面の表示方式であって、全世界で実用されています。円
形ブラウン管の画面に輝線が時計の針のように回転し、周囲の航空機・船舶・地形などを
映し出す方式で、中心からの長さが目標までの距離を示し、角度が方角を示します。換言
すれば山頂に立って身体を360度回して周囲の景色を眺める感覚に類似する表示方法で
す。望月氏は1941年に早くも特許を得ています。

日本のレーダー技術は欧米に比して大幅な遅れがあり、大東亜戦争の敗因の一つに数え
られる程でしたが、それでも部分的には独創的な研究があった事は特筆すべきでしょう。実
は米国でも同様の考案があり、特許も出されましたが、望月氏に比して数十日の遅れがあ
ったそうです。

戦後、レーダー技術が民間分野にも実用化されるに至り、日本の有力メーカーは望月特許
を使用しました。それどころか、RCA 社を含む米国のメーカーも望月特許の優先権を認め
て実施料を支払ったのです。1940年から50年代にかけて、日本の全産業界は欧米に膨大
な特許料を支払う立場にありましたから、この一事もまた日本の産業人の意識を高揚させ
ました。

望月氏は電機学校(東京電機大学の前身)を中退した後、山中電機(戦前の大手ラジオメー
カー)や理化学研究所に勤務し、海軍技術研究所の嘱託にもなりましたが、終始在野の研
究者の姿勢であったようです。戦後は神戸工業(旧川西機械、今は富士通の一部門)の後
援を得て望月電波研究所を主宰して活発な研究活動を続けました。

望月氏の業績で有名なものに、「同時送受話インターホン」「ビデオテープ・レコーダー」「デ
ィスクリミネーター・トランス」などが有り、多くのメーカーが特許契約を結び実用化されまし
た。また、10冊を超える著書や多数の雑誌記事があります。

1958年に「理化学研究所法案」が国会で審議された時に、望月氏は「科学技術振興特別対
策委員会」で参考人として意見を求められました。この時の参考人として呼ばれたのは他
に、東芝専務・瀬藤象二、学術会議会長・茅誠司、科学研究所会長・村山威士、がいまし
た。この3人は学会・業界で令名高い大物でした。これに対して望月氏は業界の一部で評
価されてはいましたが、一般には無名の人でした、それにも関らずに歴史と伝統を誇り国
立研究機関に準ずる理研の再建に関る重要な法案に参考意見を求められたのは、氏の実
力と実績が認められたからでしょう。

望月氏は、1956年には紫綬褒章を授けられ、1961年には発明協会・発明賞を得ました。
学歴が無く、組織に属さぬ在野の研究者として卓越した業績を挙げ、国益に貢献した氏の
偉業は広く伝えられるべきと感じます。


(2006年2月25日記)

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