「移動無線が普及し始めた頃の業界事情」
前回に警察無線の創世記について記し、ほぼ同時期に新聞通信社が導入し次いで公共事
業が採用した経過に触れました。実用に供して便利で有効であることは、直ぐに認められ
ましたが、他の分野での普及の速度は遅々たるものでした。何といっても高価である事が
ネックでした。
1950年頃の価格で数十万円もしました。当時の大卒の初任給は1万円前後でしたから如
何に高価であったかが判ります。既に普及していたラジオ受信機が1万数千円、漸く立ち上
がり始めたテレビ受信機が十数万円でしたから、それと比較しても割高なものでした。
その高価な機器を導入するからには、それに見合ったメリットを期待するのが当然です。
先駆となった警察業務は治安維持・犯罪捜査という至上命令がありましたから、金に糸目
はつけませんでした。電力・ガス・水道などの公共事業は設備が広域にわたり、いわゆるラ
イフ・ラインとして生活に欠くことのできない設備ですから、24時間の保守整備体制が望ま
れるわけで、逸早く導入されました。
やや変った業種では、ある証券会社が導入した例が有ります。この場合は本店・支店間の
通信連絡の迅速化を期待したようです。周知のように証券市場では、情報を瞬時に伝える
事が商略上必要ですが1950年代には今日のようなインターネットは存在せず、殆ど唯一
の通信手段であった電話(有線)では、本店から多数の支店に同時に同一情報を伝えるの
には適していませんでした。

その頃に開発・実用化された超短波周波数変調無線電話システムは、いわゆる一斉指令・
同報通信に適したシステムでした。この特徴を活かして本店から支店に株価情報を伝達す
るのに有力な手段を提供したわけです。この場合には子局は支店ですから移動する事は
有りませんので表看板の「移動無線」からはかなり乖離していたのですが、電波の割当は
得られました。
金融関係では銀行も導入し時期が有ります、こちらの方は現金輸送車に搭載したようで保
安・警備のための装備でした。なお、現在では現金輸送の業務は警備保障会社に移管して
いますから銀行が直接に運営はしていないようです。
警察と並んで市民生活の安全を護る消防・救急業務にも導入され始めました。ただし、こち
らの方は当初は短波振幅変調を採用しました。その理由は定かではありませんが、価格の
問題と保守体制の制約があったようです。短波振幅変調は以前から確立され慣用されて来
たシステムですから、価格は安く機能は安定していると期待したのでしょう。実用してみると
移動通信系としては不適であると判り、数年後には警察と同じく超短波周波数変調に切換
えられて今日に至っています。
移動無線システムの大口ユーザーとして登場したのがタクシー業界でした。この業界では、
街中をアトランダムに走り回る多数の車両を如何に統制・管理するかという懸案が有りまし
た。極論するならば、一旦車庫を出た車両は管理者から見れば全くアウトオブコントロール
の状況にあって、運転手の裁量に任せざるを得ないのが実状でした。移動無線の導入によ
って管理者と車両は随時連絡が可能になり、結果として乗客にはサービスの向上、流し運
転の減少による労働密度の軽減や燃料費の節約が期待されたのです。

交通業界でもバスの世界は移動無線の導入には積極的では無かっようです。路線バスは
ルートと運行時刻が定まっていますし、観光バスも予定に従って運行するので、それほどの
必要性は感じなかったのかも知れません。あれば便利ではあっても高価であり、通信連絡
の必要があれば最寄の公衆電話で間に合いました。
その後の経済成長に伴い、バスの営業形態も多様化し、次第に導入されて行くようになり
ました。

鉄道の分野では古くから線路に沿って敷設された電話(有線)があって、駅と駅の交信はで
きました。また、信号機が設置されていて列車運行に対する指令を行なっていました。それ
ですから車両に無線機を搭載し、走行中の列車と随時交信しようとする必要性は少なかっ
たようです。また一方では電波によらない誘導通信方式が試行されました。当時は無線通
信に対しての信頼度は高くなく、またトンネルなどの不感地域も予想されたので、誘導通信
の方が適当であるとの思惑もあったようです。
「軍用携帯無線機の国産化」
移動無線機と云えば自動車に搭載する車載型が殆どでした。個人が持ち歩けるという願望
は潜在的には在ったとは思われますが、開発初期の技術では不可能視されていました。し
かしながら、米国の技術力は太平洋戦争という非常事態に際して個人持ちの携帯用無線
機の開発・実用化に成功しました。米軍は南方諸島のジャングル戦闘に於いて携帯無線機
を駆使して自在に連絡を行い、有効な通信手段を持たぬ日本軍は苦戦を強いられたと伝え
られています。
戦後、自衛隊が創設され、米国流の装備が整えられる事になり、旧軍隊が軽視しがちだっ
た通信兵器も格段に充実する方向に向かいました。その中の一つが、短波帯の携帯無線
機SCR-536型でした。この機材の国産化にも先に記した警察用無線機の開発と同様に官
民合同の研究会が開かれ、動作原理の解明から、部品・素材の追求を行いました。
..................

当時、私は学校を出たばかりの技術者の卵でしたが、そのプロジェクトの末端の末端の仕
事を手伝った経験を持ちます。当初は米軍が実用化してから10年近くも経たモノを国産化
しようとするのですから何とも口惜しく思った事でした。しかし、着手して見ると意外に手強く
四苦八苦したものでした。私の上司は旧陸軍の技術将校であったベテランの方でしたが、
しばしば嘆声を洩らしていました。
無線機の中心である電子回路そのものは定石通りであって、特に目新しいものは無かった
と記憶しますが、驚嘆したのはその構造の堅固な事でした。文字通り打っても叩いても投げ
つけてもビクともしないアルミ・ダイキャスト製の筐体に納められ、ゴム・パッキンをふんだん
に使用した防水構造でした。その内部の回路部分にはMFPと称する防湿・防黴塗料が塗布
されていて高温・高湿のジャングルの環境に耐える配慮が有りました。
要するに兵器としての実用性に徹した設計であって、米軍の兵器は大は艦船・航空機か
ら、小はサバイバル・キットに至るまで、この思想は一貫していたようです。これに反して日
本の軍事科学技術はカタログ・データ的にはかなりの域に達していた分野でも実用性は遥
かに劣る、と云う反省は戦後になって数多発表されました。私が目にした SCR-536 型は正
にその好例でした。

1950年代後半には超短波帯の携帯無線機
PRC-6 が国産化されました。上記の SRC-536 に
比して格段に進歩したものでした。
米国での開発時期に10年ぐらいの差があったと思
われます。小型軽量となり、扱い易い形態でした。
雑音は減少して明瞭な交信が確保出来たのです。
この機種の国産化に当たっても、前記の SCR-
536 の時のように官民の研究会は持たれました
が、既に日本の技術レベルは向上していましたの
で、それほどの波乱もなく推進出来たようでした。
研究会のメンバーは、初めて SCR-536 に触れた
時のような衝撃は最早受けなかったとの感慨を洩
らしていました。
SCR-536 は自衛隊では JSCR-536 の名称で制式採用されましたが、当時のフランス軍に
着目されて、相当数を輸出しました。恐らく無線機の輸出の最初のケースだったと思われま
すが、フランス軍は当時は植民地であった仏領印度支那の紛争で使用しました。ところが
一部が原住民の手に入り、問題を醸したという裏話が伝えられた事もありました。
「航空無線機のはしり」
移動無線がその真価を発揮する分野に航空機が挙げられます。3次元の空間を高速で飛
行するのですから、地上との通信連絡は必須であり、この設備を欠く時は非常な危険に晒
される事態も起こり得ます。それですから、飛行機には1910年代頃から無線機を搭載し始
めていました。とは云っても、当時の飛行機は搭載量も少なく電源も貧弱なものでしたか
ら、無線機を装備したのは比較的大型機に限られました。
また、大洋横断の記録を狙う長距離飛行の場合には意図的に無線機を積まない飛行士も
いたそうです。これは幾らかでも燃料を多く積みたいという要求の為でした。当時の飛行士
は自分の腕とカンに自信を持ち、当時の信頼度の低い無線機を邪魔者扱いしたと伝えられ
ています。それですから、一度地上を離れれば連絡の手段は無く、記録達成の雄図空しく
消息を絶ち行方不明になったパイロットは数多くいました。
日本の事例では、1937年の朝日新聞社の「神風」号による亜欧連絡飛行では、スペースの
制約の故に交信能力の低い小型の無線機を機関士が膝の上で操作したとの秘話がありま
す。1938年には東大・航空研究所の長距離機が三角コースを周回飛行して世界記録を作
りましたが、この機は無線機を装備しませんでした。地上では一定時間間隔で近付く爆音を
聞いて順調な飛行を察知していたとの記録があります。
飛行機が無線機を必ず装備するようになったのは、1940年前後ではないかと見られます。
それが第二次世界大戦で一挙に浸透しました。この時期に米軍は一歩先んじて、戦闘行動
に完全に活用しましたが日本は充分に使いこなすに至らなかったようです。例えば著名な
「坂井三郎空戦記」などを見ても、無線電話を駆使して空中戦を有利に戦ったというような
記述は有りません。また、B-29 の迎撃に向かう戦闘機が無線機を外して機体を軽くした、
という記録もあります。
1945年の敗戦以来、米占領軍により航空に関る事業は一切禁止されましたが、1950年頃
より漸く航空再開の兆しが見えて来ました。特に新聞社は軽飛行機やヘリコプターを整備し
激しい報道合戦に備えました。必然的に搭載する無線機の要求が生じ、数社が開発・生産
に着手しました。
.............

航空無線機は振幅変調方式であり、チャンネル数が多いのが特徴でした。また、騒音の激
しい環境で使用するのでそれなりの対策が必要とされました。広範な温度・湿度・気圧の
化にも、激しい振動・衝撃にも耐えなければなりません。これらの条件は車載・携帯の移動
無線機とは別の厳しさが有りました。
上に示したのは初期の頃に開発された製品
と、続いて開発された製品の例です。この時期
になると日本の技術は急速に欧米のレベルに
近付いたので、警察無線機を国産化した時の
ように関係者が額を集めて四苦八苦するという
場面は少なくなったようです。
各メーカーもそれぞれの情報ルートを模索し、
資料を入手出来るようになって独自に設計・試
作を行なえるようになり始めていました。
ネックになったのは、航空機に関する知識・経
験の不足でした。日本の航空産業は一度は壊
滅して資料・データの類は焼却処分されてしま
いましたし、航空技術者は四散し転職していた
のです。
そのような不利な条件は有りましたが、関係者の努力は着実に問題をクリヤして行きまし
た。その甲斐あって航空無線機の技術は確立し、新聞社を皮切りに国産の航空無線機は
警察・自衛隊・海上保安庁などにも相次いで導入されて行きました。1957年には南極観測
船「宗谷」搭載のヘリコプターに装備されて南極大陸での活躍が伝えられました。
「移動無線市場の規模と伸張」
移動無線の市場は1950年代から立ち上がったと見る事が出来るでしょう。それ以前の戦時
中にも相当の生産量はあった筈ですが、明確な統計資料は残っていません。確かな資料
が整備されたのはいわゆる「電波3法」が制定施行された1949年からです。
.......

上左図によれば1950年の陸上移動局は2000台にもなりませんが、1970年には20万台に迫
っています。すなわち伸び率は100倍以上です。一方はでは国民所得の伸びは5兆円弱か
ら50兆円で率としては10倍強です。両者を比較すれば、移動無線の成長が急激であること
が感知されます。序でに云うと自動車の伸び率は移動無線の伸び率と同傾向を示し、固定
電話の伸び率は国民所得の伸び率に近似します。また、米国の移動無線は数においては
日本の10倍以上、伸び率は日本と同様です。
上右図は、左図に続くデータです。1970年には20万台であった移動無線は1995年には
1000万台にもなりました。これは1985年に自動車電話が実用化され、次いで携帯電話の市
場が立ち上がったからです。その後も携帯電話の数は急増し現今では7000万に至っていま
す。国民所得も同時期に50兆円から500兆円に伸びましたが、こちらは横這い状態が数年
間続いているようです。
警察無線の立ち上がりの頃、有線系の通信技術者から「ラジオ・アマチュア的なお遊びに
過ぎない」と揶揄された時期もありましたが、55年の歳月を経て今や大産業に発展しました。
当時はは何人も予想し得無かった事と思われます。
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