科学技術史コレクション 17・・・東京中心の科学・技術の遺跡(4)

「電信発祥の地」

日本人が始めて電信機の実物とその動作を眼にしたのは、1854年に米国のペリー艦隊が
2度目の来航をした時の事だとされています。上陸地の横浜で日米外交交渉の折に、米国
の国力を誇示する狙いで 「蒸気機関車模型」 「モールス電信機」 を徳川幕府に献上し、公
開実験のデモンストレーションを行なったのです。

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左:ペリー献上のモールス電信機、逓信総合博物館蔵。 右:横浜での実験風景。

この時の献上品目録(リスト)には「雷電伝信機」と訳されていたそうです。英語では Electric
Telegraphですが適訳だと思います。その後は雷電が省かれて 「伝信機」 となって、かなり
の期間にわたって使われました。福沢諭吉の著 「西洋事情」 でも、その文字で表記してい
ます。

ペリーが電信機のデモンストレーションをしてから15年後の1869年に、初めて本格的な電
信事業が開始されました。この15年の間には時代は大きく変り、政権は徳川幕府から明治
政府に移っていました。政府は近代化を進めるにあたり、鉄道と通信の建設を重要視した
のです。

政府は英人技師ギルバートを招聘し、その指導の下に東京・横浜間の架線工事に着手し
ました。東京側は築地の運上所(税関)内に伝信機役所を設け、横浜側には裁判所内に伝
信機役所を配置しました。両役所間の電信線の距離は32km, 電柱は593本でした。この工
事に着手したのが10月23日であって、後に「電信電話記念日」に制定されました。

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左:東京築地の「電信創業之地」記念碑。右:その由来記。

電信が開通したのは1869年12月25日と記録されています。着手したのが10月23日ですか
ら突貫作業であったのでしょう。それにしても早いもので、事前に周到な準備がされていた
のでしょう。序でながら、新橋・横浜間に鉄道が開通したのが1872年でした。

前掲の「電信創業之地」記念碑と由来記は、東京都中央区明石町13番地に有ります。記念
碑は1937年に、由来記は1940年に建立されました。この付近は幕末から明治にわたって
外人居留地でしたから、近辺には文明開化に関る多くの記念碑の類が有ります。

一方、横浜市中区日本大通にも同様な碑が有ります。東京と同時に造られたようです。

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左:横浜日本大通の「電信創業之地」記念碑。右:その由来記。

日本初の公衆電信回線に使われた電信機は意外なことに米国製のモールス式では無く、
フランス・ブレゲ社製の指字電信機でした。これは大政奉還以前に幕府フランスに発注し
ていた機材だったと云われています。

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左:プレゲ社の指字電信機。右:横浜伝信局で使用中、 左端に指字式電信機。

ペリーのデモンストレーションに関心を抱いた人士は少なく無かったようです。中でも伊豆
韮山の代官・江川太郎左衛門英龍とその配下である矢田部居郷雲は熱心に見学し、後に
電信機の国産化を意図しました。また、洋学者・兵学者として一世を風靡した佐久間象山
は写真や蒸気機関車を観察し、妻あての手紙の中でその紹介をしています。

しかしながら、日本人が電信機の存在を知ったのは、これが初めてでは無いようです。オラ
ンダの教育者ファン・デル・ビュルグの著した 「理学原始」 なる書物には電信機に関する記
述があり、これが1844年、1847年、1854年と版を重ねましたが、ある時期には日本人が眼
にする機会があったのです。

上記の佐久間象山は、第2版を1853年に薩摩藩の蔵書で一瞥し、電信機の機巧に感嘆し
たとの書簡が残されています。ペリーの実験の1年前に当たります。この書物を最初に読
み理解したのは誰か定かでありませんが、医師・蘭学者の川本幸民であると推定されま
す。幸民は薩摩藩主・島津斉彬の知遇を得て 「理学原始」 の翻訳に当たり、それをベース
として 「遠西奇器述」 を著します、1854年の事です。時系列的に考察すれば、薩摩藩が原
本を入手し、幸民が調査・翻訳している時に象山が瞥見の機会を得た、その後のペリーの
実験で象山は実物を眼にした、という経過です。

一方、遥か長崎の地でオランダ渡りの電信機を眼にし、実際の操作まで関わった人たちが
居ました。1854年2月にに幕臣・川路聖謨はオランダ商館を訪れ、医師ファン・デン・ブルッ
クより電信機を見せられ、「脈1つ動くうちに100里の内にても通達・合図できる品」と記しま
した。ペリーの横浜での実験は同年3月でしたから、1ヶ月早かったわけです。

この時に蘭学者・箕作阮甫も同行見学し、「西征紀行」 なる記録の中で 「その奇巧驚くべ
し・・・」 と記しています。その記録では明らかに指字式電信機である事を示しています。さら
に特筆すべきは、長崎の外科医・吉雄圭斉が既に電信機の操作法を学んでいたという事
跡です。吉雄圭斉と云えば天然痘の予防として牛痘法をオランダ商館医・モーニケから学
び、日本に普及させた人物として医学史に記載されていますが、電信機をも学んだとは、知
られていないようです。

オランダ商館医ファン・デン・ブルックの名は、前任のシーボルトや後任のポンペほど著名
ではありませんが医学だけでなく物理系にも堪能で、電信機を伝えた一事だけでも重用な
役割を演じました。
オランダ商館長ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルチュウスはペリーの実験に対抗して本国政
府から幕府に電信機を献上するように働きかけ、1954年10月に長崎に到着しました。

その機材は暫く長崎に留まり、ファン・デン・ブルックは取扱法や図面などの資料を整備し、
オランダ通辞が邦訳した後に江戸に回送されました。
江戸に於いて 「テレガラーフ組立仕掛方伝習」 を命じられたのが、何と若き日の勝海舟で
した。海舟は長崎で操作を習得した者から、さらに伝習を受けた後に浜離宮で幕府高官の
前で実演を見せます、1855年8月の事でした。

海舟はオランダの電信機を伝習中に、先年ペリーによって実験された電信機の調査を思い
立ち、竹橋御蔵の鉄砲方小屋場に放置されていた機材を組み立てましたが稼動するに至
らなかったようです。この機材は先に江川英龍・矢田部郷雲らが研究し国産化を意図した
のですが、英龍の急逝により頓挫して以来、死蔵されていたのでした。海舟らの手により復
元されたペリー献上の電信機は明治政府が引き継ぎ、現在は逓信総合博物館に所蔵され
ています。

勝海舟らのデモンストレーションは、とにかく電信機という驚異の文明の利器を操作し得た
という事に意義が有りました。実演に先立ち、機材の整備・調整だけでなく、電信線の架
設、電源の準備なども有った筈です。ペリー来航時には 「夷人の魔法」 「バテレンの妖術」
と騒がれた通信技術を1年そこそこで日本人がモノにしたのですから、当時の先覚者の努
力と潜在力には敬服させられます。

なお、電源については、当時は電力会社も発電機も有りませんでしたから、原始的な電池
を使った筈ですが、これまた一筋縄では行かぬ難題であったのを何とかクリヤーしました。
このような事跡は技術史などでも見落とされがちですが、関連分野・裾野分野の潜在力を
物語っています。

電信の黎明期には、榎本武揚のような大物も深く関りました。武揚は幕臣として上記の勝
海舟の主催した海軍伝習所の2期生でしたが、1862年に命によりオランダに留学し、軍事
や外交を学ぶ傍らフランスのディニェ―社の電信機を購入し、操作を習得しました。当時、
「江戸・横浜間電信計画」 なるものが練られていたそうです。武揚は1867年に幕府の軍艦・
開陽丸で帰国の際に、電信機・電信線・碍子などを持ち帰りました。

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左:榎本武揚。 右:フランス・ディニェー社電信機、 逓信総合博物館蔵。

しかし、その計画が実行されないままに、時勢は変り徳川幕府は政権を返上しました。武揚
は新政府に反旗を翻し、五稜郭に立て篭もりましたが、遂に降伏するに至りました。この間
に当の電信機は幕府の倉庫に保管されていたものが仏人ファブルの手に渡り、諸方を転
々とした挙句、横浜の古物商の店頭に在りました。それを沖電気の創始者・沖牙太郎が入
手して第1回電気学会で披露しました、1888年の事です。

電気学会とは、電気の研究者・技術者で構成する学術団体ですが、その初代会長は奇しく
も榎本武揚でした。武揚は沖電気の提出した電信機が、正しくオランダで購入したもので有
ることを確認し、その奇遇に驚いたそうです、この間に20年余の歳月が流れていたわけで
す。なお、この電信機は逓信総合博物館に現存しています。

ペリーのデモの前から電信機について何等かの情報を得て興味や関心を持つ人々は、か
なり居たと思われますか、この実験により一気に加速したことは事実です。
先に記した佐久間象山についてはペリー来航以前の1849年に信州・松代で実験を行なっ
たという伝記がありますが、時期については前記の 「理学原始」 1954年版を閲読した後の
事ではないか、との反論が有ります。

電信機の自主開発に乗り出したのは佐賀藩と薩摩藩でした。佐賀藩の鍋島直方は精錬方
を設けて反射炉・蒸気機関車・電信機などの開発を命じました。電信機の開発には佐野常
民(後に赤十字社を創立)・中村奇輔・黒田寛次・田中久重(からくり儀衛門、後に東芝を創
設)らが当たり、1857年には早くもモールス式電信機の試作に成功しました。
明治期のの通信・電気・逓信のテクノクラートは佐賀県出身者から輩出しましたが、このよう
な伝統を引き継いだのでしょう。序でに云えば私学に初の理工学部を設けた大隈重信も佐
賀藩士でした。

薩摩藩では島津斉彬の意向を受けて松本弘安・川本幸民が開発に当たり、1857年には
540mの電信線を介しての実験に成功します。この電信機は勝海舟も視察し、オランダ人の
海軍教官カッテンディーケは手記に記録しています。
後に松本弘安は1861年に幕府の使節団の一員として欧州を視察し、1865年には密航して
英国に留学しました。維新後は名を寺島宗則と改め新政府の要職を歴任しましたが、1869
年に外務卿大輔(今の外務次官)に就任し電信の事業化に努めました。彼は郵便を含めた
通信事業の創設を推進し、「電信の父」 と称されました。

幕末から明治にかけて、多数の英才が電信に関心を持ち関与しました。これまでに記した
人士の他にも小栗上野介・橋本佐内のように非命に斃れた著名人もいますし、また歴史上
では一介無名の人でも、それなりの貢献をした方は無数に居た筈です。電信という文明の
利器が距離と時間を一挙に短縮して情報を伝えるという画期的なシステムであることを看
破したからでしょう。当時の知識階層の鋭い感性には敬服します。

1860年には第1回の遣米使節が、米国各地を歴訪しました、この時に鉄道と電信の普及を
痛感したと報告されています。この一行の中には勝海舟・福沢諭吉がいました。
1861年には第1回の遣欧使節が派遣されました。近代国家の実態を把握するのが目的で
したが、近代工業とそれを支える鉄道・電信は重要なテーマでした。

日本の電信事業は1869年に始まりましたが、この時の所管は外務省でした。その後は大蔵
省・民部省と代り、1870年に工部省が創設されて移管し、1885年には新設の逓信省の所管
となりました。電信回線は次第に地方にも広がり、全国をカバーしたのは1892年でした。

電信技術者の体系的な教育は、1873年に創設された工学寮(工部省の所管)に始まりま
す。この機関は後に工部大学校と名を変え、さらに東大工学部(文部省の所管)になりまし
た。工部大学校には幾つかの学科が有りましたが電気に関る学科として電信科が設けられ
ました。当時は動力を中心とした電気工学よりも、情報を中心の通信工学を重視したのでし
ょうか。

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左:工部大学校・校舎 (現存せず)。 右:記念碑、霞ヶ関3-2 会計検査院構内。

電信科の第1回の卒業生は、志田林三郎でした。氏は日本初の工学士であり、英国留学を
経て1883年には母校で初の日本人教授となり、同時に逓信省の要職に就きました。日本
で初の工学博士を授与され、1888年には榎本武揚を補佐して電気学会を立上げ幹事役を
勤めました。氏は不幸にも早世しましたが、電子立国日本の基盤を作った功績は大なるも
のが有ります。


「シーボルトの胸像」

電信発祥の地の近くに、あかつき公園という公園が有り、その一隅に 「シーボルトの胸像」
が見られます。シーボルトと云えば幕末の頃に長崎・出島のオランダ商館に赴任した医師
であり、日本に西欧の医学を伝えると共に、日本の国情を詳しく西洋に紹介した人物として
広く知られています。

しかし、シーボルトの活躍の場は長崎が中心でした。また、オランダ商館長が江戸に上り将
軍に拝謁する行事に同行した際に、彼の名声を聞き伝えた全国の蘭学者・蘭方医が、彼の
下に集まりサロンの様相を呈しましたが、その場所は日本橋・室町の旅館 「長崎屋」 でし
た。それですから、やや離れた築地に記念の像があるのは、奇異な感じもしますが、築地
には彼の娘で産科医である楠本イネが参院を開業していた時期があること、築地には外国
人の居留地があった事、杉田玄白らが 「解体新書」 を翻訳したのが近所であった、などの
理由で中央区教育委員会が、この地を選定したそうです。

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左:シーボルトの胸像、中央区欧区築地7-19。  右:胸像傍の説明パネル。


(2006年6月25日記)

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