科学技術史コレクション 18・・・東京中心の科学・技術の遺跡(5)

「勝鬨橋」

東京都中央区の築地と月島を結ぶ勝鬨橋は、「跳ね上げ式」 の 「可動橋」 として現存する
最古のモノです。1940年に完成し、最盛期には年間800回も開閉しましたが、開閉の度に交
通を遮断するので、その後の急激なモータリゼーションの時勢に適合せずに、遂に1970年
には閉止するに至りました。

上:二葉の跳開橋と称される勝鬨橋。 下:1970年11月、最後の跳開を見る人々。

隅田川の第一橋梁として計画された勝鬨橋は、「幻のオリンピック」 「幻の万国博」といわれ
た大プロジェクトの一環でした。昭和15年 (1940年) は紀元2600年といわれ、その記念行事
として日本の国力と文化を内外に示す意気込みでオリンピックと万国博を推進したのです。

万国博は月島に予定され、勝鬨橋は会場へのメイン・ゲートに位置付けられました、また船
で来る人々に対しては歓迎門の役割も期待されました。そのような意図のもとに当時のハ
イテクを駆使した可動橋として計画・施行されたのです。

勝鬨橋の可動部については、米国シカゴの例を参考にはしましたが、日本人だけの設計で
した。幾つかの特許を得て、当時のトップ・レベルの力作でした、特筆つすべきは「ハの字」
型の可動部分が左右同時に開閉するキメ細かい工夫がされた事です。
また、路面電車が通るためのレールの敷設にも苦心が有りました。それは開閉に関わる部
分にレールの切れ目があると、電車の乗り心地を悪くし、橋そのものにも衝撃荷重がかか
るので、それを避けるためにレールを伸縮させる仕組みです。

1970年以来、勝鬨橋は跳ね開くことは有りませんが、隅田川の第一橋梁としての威容を示
しています。近年になって周辺に林立する高層ビルと良く調和し、夜間はライトアップして華
やかなウォーター・フロントの風物詩を演出しています。

:現在の勝鬨橋と周辺の高層ビルのマッチした光景。

現在、隅田川右岸 (銀座寄り) には、「かちどきのわたし」 と記した記念碑と説明パネルが
建ち、また 「かちどき橋の資料館」 もあって、詳細な展示・説明がされています。 因みに、
勝鬨の 「鬨」 の字が当用漢字には無いので 「かちどき橋」 と標記したと云われます。

............
左:「かちどきのわたし」記念碑。右:その説明、由来記。

.........

左:かちどき橋の資料館。右:勝鬨橋変電所プレート。

なお、日本全国で現存する可動橋は7カ所で、しかも大半は動作停止状態に在ります。最
近になって有志の人々が勝鬨橋の再稼動を図る運動をしています。技術的には可能の見
通しを得ているそうですが、費用の問題と交通遮断の難問が未解決で難航しているのが
実状のようです。


「軍艦操練所跡」

1855年に江戸幕府はは長崎に 「海軍伝習所」 を設け、オランダ海軍士官ペルス・ライケン
指導を得て、39名の伝習生に近代的な海軍の教育を受けさせました。その中で勝麟太郎・
榎本武揚を始め、後の日本海軍を担う俊才が育ちました。しかしながら江戸からは遠隔の
地であった故か1958年には閉鎖されました。

江戸幕府は同種の施設を江戸に設けることを計画し、築地講武所内に西洋式海軍訓練施
設である 「軍艦操練所」 を創設しました、1857年の事です。
この施設には幕府の旗本・御家人・その他の藩士を集めて、航海術・砲術など海軍の基本
を教授しました。軍艦はオランダから購入し、、オランダの軍人カッテンディーケが指導に当
たりましたが、順次に長崎で修行した日本人の手に移管されて行きました。

.........

左:軍艦操練所跡、中央区築地6-20。  右:訓練船・咸臨丸。

軍艦操練所の成果として、1860年の太平洋横断・航海が挙げられます。開所後3年にし
て、遣米使節の随行艦・ 「咸臨丸」 を日本人の手で操艦して大航海を成功させたのです。
この艦の運航には勝麟太郎 (後の勝海舟) が当たりました、また福沢諭吉も乗組んでいま
した。

その後、軍艦操練所は、1864年および1866年と2度も焼失の悲運に見舞われ、浜離宮に
移転しましたが、1867年に至って閉鎖されました。後に明治政府に引継れ 「海軍兵学校」
に進展し幾多の帝国海軍・士官を育成しました。

なお、神戸にも海軍操練所がありました、これは勝海舟の私塾であった海軍塾を幕府が引
継ぎ発展した施設で、坂本龍馬が塾頭を務めた時期も有りましたが、1864年に布告されま
したが、幕末の激動に巻き込まれ、1年たらずで廃止されています。

上記のように、1855年から1867年にかけて運営された幕府の海軍士官の養成機関は、長
崎・江戸・神戸と3カ所に及び開設期間も区々ですが、結果としては江戸の施設が最も長く
中心的存在であったようです。



「海軍兵学寮跡」・「海軍軍医学校跡」

1869年に明治政府は 「兵部省」 を新設し、「海軍操練所」 を設けました。これは先に幕府
が創設・運営した施設と同名で実質的な内容は引継いだものと思われます。翌1970年に
は、 「海軍兵学寮」 と改名して本格的な海軍士官の養成に乗り出しました。政権は交代し、
諸制度や法律は変っても中核的な人材は変らず、彼等の知識・技能は活かされ、且つ伝承
されました。

1871年に兵部省は 「陸軍省」 と 「海軍省」 に分かれ、海軍兵学寮は海軍省の所管になり
ました。1973年には英国より、アーチボルト・ダグラス少佐を長とする34名の教官団が着任
して本格的な士官養成の教育を行いました。学科は英語と数学を中心とし、講義は総て英
語で行ない、また、座学よりも実地訓練を主眼としました。

この教育機関に於いて、ダグラス少佐は 「士官である前に、先ず紳士であれ」 という事を
強調したそうですし、また日本初の運動会が開催されたとの挿話も残っています。
海軍兵学寮は1876年に 「海軍兵学校」 と改称され、1886年には広島県江田島に移転し、
1945年まで、多くの有為の海軍士官を育てました。

........................

左:海軍兵学寮跡。右:海軍軍医学校跡。 どちらも中央区築地5-1-1。 

「海軍兵学寮跡の碑」 に並んで 「海軍軍医学校跡の碑」 が有ります。海軍軍医の養成は
1873年の海軍病院付属学舎を築地に設立したのに始まります。その後、海軍軍医寮学
舎、海軍軍医学舎と改称しましたが1880年に一度廃校になりました。さらに紆余曲折を経
て、1886年に 「海軍医学校」 として設立、1889年には 「海軍軍医学校」 と改称し1945年ま
で続きました。

その所在地は、築地・芝付近を転々としたようですが、1929年に築地5丁目に新築移転した
のが最終の地になりました。上記の2つの碑は現在の築地市場の周辺に建てられていま
す。

「旗山」 (海軍発祥の地) (経緯度原点跡)

「旗山」と称するのは明治政府の海軍が 「海軍卿旗」 を立てた事に由来します。旧幕府の
重臣・松平定信の別邸・浴恩園を明治政府は海軍用地としましたが、その中の賜山と呼ば
れる地点に海軍卿旗を掲げたのです。その故に 「海軍発祥の地」 とも云われています。

この地点は、「経緯度原点跡」 としての意義も有します。1871年に兵部省海軍部水路局
が創設されましたが、測量に際しての基点が定まっていませんでした。そこで 「海軍卿旗」
の建っていた地点を選んで基点としたのです。

「旗山」の碑、中央区築地5-2-1。

なお、経緯度原点と称する碑は港区麻布にも在ります。築地にある原点は海軍が海図の
作成の原点としたものですが現在は使われていないようです、一方、麻布のものは地図作
成の原点でこれは現用されているそうです。


「指紋研究発祥の地」・「活字発祥の碑」

築地には聖路加病院という著名な病院がありますが、その近くに 「ヘンリー・フォールズ住
居の跡」 と彫った石碑があります。別名を 「指紋研究発祥の地」 とも云われ、史跡案内書
などでは、そう示されていることが多いようです。実際の碑文には文中にフォールズの指紋
研究には触れていますが、碑文の題としては上記のように記されているために、その近くま
で探査に行きながら見落とした人も少なくないようです。

ヘンリー・フォールズは長老教会の宣教師として1874年に来日し布教活動をしましたが、医
師でもあり築地病院を開設して診療にも当たりました。彼は、日本の拇印の習慣に興味を
持ち、また発掘された土器に古代人の指紋を見出し、科学的に指紋の研究を行いました。
1880年に英国の科学雑誌 「ネーチュア」 に日本での研究の成果を発表しました。この論
文は世界初と云われ、犯罪者の個人識別や遺伝関係などにも言及していました。

.........

左:ヘンリー・フォールズ住居跡 (指紋研究発祥の地)、 中央区明石町8。
右:活字発祥の碑、中央区築地1-12-1。

現在の東京人にとっては、やや意外な感じもしますが、幕末から明治初期においては築地
とその周辺は当時の知識階級の集う街であったようです。海外の知識・文明を齎す西欧人
の居留地があり、それを巡って知的向上心の強い人士が自然に集まって来たからでしょ
う。
その一つの表れが平野富治による 「築地活版製造所」 の設立です。平野は日本に於ける
活版印刷の創始者とも云うべき本木昌造の弟子に当たりますが、師の意向を受けて、東京
築地に上記の事業を起こしたのです。平野はこの地に於いて活版印刷を業とし、活字の販
売も 行いました。

平野の師である本木昌造は長崎の人でオランダ通辞(通訳)が家業でしたが、多芸多能の
才人で、長崎製鉄所の御用係を勤め、付属の活版伝習所を創立しました。また、英国から
購入した蒸気船の船長となって江戸に回航した業績も有ります、この時の機関士が先の平
野でした。本木は長崎新街に活版製造所をを設立しましたが、これは王政復古によって失
職した旧武士階級への授産設備と云う意味もあったそうです。

平野は本木の意向により1873年に、当時築地2丁目で事業を起こしました。事業が進めば
インキを始めとして多くの機材が必要となり、それを調達する業者も現れます。また、印刷
の手段を得易い環境が整えば、新聞・出版の業者も集まることになります。このようにして
築地界隈は日本の印刷・出版のメッカになったのです。

その起源は平野の創めた 「築地活版製造所」 であり、それを記念した碑が建立されまし
た。今日では街の性格もすっかり変って仕舞いましたが、一部の新聞社・出版社はなお存
在し、印刷業者などの関連業者かなり残っています。


(2006年7月25日記)

トップに戻る・・・・01に戻る・・・・ 02に戻る・・・・03に戻る・・・・ 04に戻る・・・・05に戻る
06に戻る・・・・07に戻る・・・・ 08に戻る・・・・09に戻る・・・・ 10に戻る・・・・11に戻る
12に戻る・・・・13に戻る・・・・ 14に戻る・・・・15に戻る・・・・ 16に戻る・・・・17に戻る
発行人のプロフィルに進む