科学技術史コレクション 19・・・東京中心の科学・技術の遺跡(6)

「高島秋帆の遺跡」

東京都心から西北に10`余に、「高島平」 という大住宅団地が有ります、また都営地下鉄
三田線にも同名の駅が有ります。この地名は江戸時代末期の砲術家・高島秋帆の名に由
来するものですが、そのような地名になったのは1969年のことです。それ以前は 「徳丸ケ
原」 または 「徳丸田圃」 と呼んでいたのです。1956年に大規模住宅団地の開発計画が発
足し、その団地の完成を機に 「高島平」 と改称されたのです。

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左:「高島平」大住宅団地。 右:駅前の公園に建つ「都旧蹟・徳丸ケ原」説明版。

1841年5月7〜9日に、高島秋帆は日本初の洋式砲術の公開演習を武州徳丸ケ原で行
い、見学の幕臣らに威力を示し驚倒させました。これより先、英国は武力で清国を制圧した
史上名高いアヘン戦争があり、危機感を抱いた人士は少なからず居ました。秋帆もその一
人で、江戸幕府に 「天保上書」 を提出し、西洋砲術の導入を進言したのです。時の老中・
水野忠邦は、その意見を採り上げ、前記の大演習を命じたのでした。

高島四郎太夫砲術稽古業見分之図・板橋区立郷土資料館蔵。

この演習は砲隊24名、銃隊99名が参加して、洋式大砲の実射、銃の斉射、さらに銃隊の突
撃を披露し、成功裡に終わりました。幕府は大砲を買い上げ、幕臣に砲術を伝授するように
命じました。この時に選ばれたのが江川坦庵(太郎左衛門) でした、彼は後に韮山塾を開
き、多くの砲術家を育て、その流れは後年の日本陸軍へ引き継がれました。

徳丸ケ原は後年になって高島平と改称されたのは、高島秋帆の洋式砲術の大デモンストレ
ーションに由来しますが、現在その地の一部は 「徳丸ケ原公園」 となり、その一隅に記念
碑が建てられています。

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左:「徳丸原遺跡」の碑。右:徳丸ケ原・説明板。

秋帆は1798年に長崎・町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれ、17歳にして家督
を継ぎましたが、長崎という土地柄で海外の情報を早く入手できる立場に在りました。彼は
オランダ人についてオランダ語や西洋砲術を学び、私費で銃器・兵書などを揃え、1834年
に 「高島流砲術」 を完成させました。彼の父は荻野流砲術師範方兼鉄砲方でもありました
から、秋帆は日本伝統の砲術と西欧伝来の砲術を比較出来る立場にあり、西欧の術がよ
り優れている事を悟りその導入に努めたのです。

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左:高島秋帆。右:高島流砲術伝書。

秋帆は吉田松陰や坂本龍馬らにも影響を与えた先覚者であり、かつ実力者でしたが、そ
突出を妬んだ幕臣の鳥居甲斐守の讒言によって、徳丸ケ原の大演習の翌年に投獄・幽
閉の悲運に見舞われました。
現在の埼玉県深谷市岡部町に残る岡部藩陣屋跡の一隅に、記念碑が建てられています。

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左:高島秋帆幽囚地入口。 右:高島秋帆幽囚地、碑と説明板。

秋帆の幽囚生活は10年余に及びましたが、この間に時代は大きく変りました。
1840年のアヘン戦争を対岸の火災視した幕府も、ペリー艦隊が来航して開国を迫るに及
び、方針の変更を余儀なくされました。ここに於いて秋帆は赦免され、一転して幕府の鉄砲
方・講武所の支配・砲術師範に就任しました、1853年の事でした。以来、幕府および諸藩に
洋式軍事技術を教授し、幾多の俊英を育てました。

秋帆は1866年に江戸・小石川で69歳の生涯を閉じ、大円寺に葬られました。その生涯に於
いて悲運の時期が有りましたが、幕末から明治維新にかけて活躍した多くの英才が、直
接・間接に彼の教えを受け、彼の創始した軍事技術の流れは引き継がれ日本陸軍に至っ
ています。

秋帆の功績を顕彰するための碑が、1922年に東京・板橋の松月院に建設されました、この
寺は、徳丸ケ原の大演習の際に高島秋帆の一行が宿泊した所縁の地でした。

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左:松月院の正門、東京都板橋区赤塚8-3。 右:その説明、由来記。

正門から入ると直ぐに直立した大砲の砲身と砲弾が目に付きます、これが 「高島秋帆先生
紀功碑」 です。この砲身は1857年に鋳造された24斤カノン砲とされていますが、詳細な来
歴は不明です。記念碑が建てられた時に陸軍省兵器本部から交付されたとの事ですので
幕府から明治政府が引き継ぎ陸軍省が保管していたと思われます。

この砲身には 「火技中興洋兵開祖」 の文字が大きく刻まれています。火技中興とは、それ
以前からの日本式砲術に洋式砲術を導入して一挙にレベルアップさせた業績を讃え、洋兵
開祖とは軍の編成や装備・戦闘様式や訓練の手法などの全大系を初めて洋式に切り替え
て実演し、先例を拓いたからでしょう。

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左:高島秋帆先生紀功碑の全景。 右:その中の砲身と砲弾。

秋帆は講武所師範の時に、砲術調練の号令をオランダ語から日本語に改め、「歩操新式」
などの教練書を編纂しました。今日でも学校や自衛隊などで使われる号令は、この時に制
定されたものが有ります。例えば、「気を付け」 「休め」 「前へ進め」 「立て銃」 「担え 銃」 な
どです。

「高島秋帆先生紀功碑」の説明文、日本陸軍創設者の一人 と讃えています。

高島秋帆は鎖国時代の唯一の開港であった長崎に生まれ、生家は土地の有力者でしたか
ら、海外の知識・情報は得やすい立場にあり、財力にも恵まれていたと思われます。しかし
ながら幕臣ではなく、また有力な大名の家臣でも有りませんでした。それですから、自らの
見聞と見識に基づいて自力・自費で洋式砲術を学び、兵士を組織して公開実演をなし得る
ほどの訓練を積んだ事は高く評価すべきでしょう。

その時期に洋式兵術、特に砲術に関して関心を抱いた先覚者は少なく有りませんでした
が、資料を通じての知識を集めるか、あるいは製法を模索している段階でした、砲兵隊を組
織して戦闘訓練まで至ったのは秋帆だけでした。

秋帆の集大成した西洋砲術の流れを継いだのは上記した江川太郎左衛門でした。伊豆・
韮山の代官であった江川は秋帆に入門し、免許を得た後にし自分の屋敷を塾として開放し
ました。その塾は塾生らによって韮山塾と呼ばれ、幕臣や藩士が数多く集いました。その中
には佐久間象山を始め、幕末から維新にかけて活躍した人士が含まれます。

江川の塾は1855年に彼の死去とともに閉じられましたが、この間に280人余が砲術を学ん
だと云われます。師の秋帆が幽閉されていたのが1842年から1853年ですから、正にその期
間は江川が引き継いで技術の空白を生じなかったと見ることが出来ます。

秋帆は1866年に江戸・小石川で没しました。その墓は文京区向丘1丁目の大円寺に有りま
す。右側には秋帆の妻、左側には息子・浅五郎と孫が葬られています。なお、大東亜戦争
末期の空襲で、焼夷弾の被害を受けた跡が残っていて、何かの因縁を感じさせられます。

文京区・大円寺に在る高島秋帆と家族の墓。

なお、秋帆の出生地である長崎には、国指定史跡・高島秋帆旧宅、砲術練習場跡、砲痕石
などの遺跡が残っています。

付記。秋帆が徳丸ケ原で砲術を披露した1841年に、幕末・維新に活躍した人材が何歳であ
ったかを調べて見ました。高島流砲術を継承した江川太郎左衛門が40歳、長州藩の大砲
鋳造を指導した佐久間象山が30歳、勝海舟が18歳、活版印刷の開拓者の本木昌造が17
歳、日本陸軍の創設者と讃えられる大村益次郎が16歳、西郷隆盛が14歳、大久保利通と
吉田松陰が11歳、木戸孝允が8歳、福沢諭吉と坂本竜馬が6歳、榎本武揚が5歳、写真術
の開拓者である上野彦馬が3歳、伊藤博文が0歳、などでした。これを見ても秋帆が如何に
時代に先んじていたかが判ります。


(2006年8月25日記)

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