江戸時代に唯一の海外への窓口は長崎でした。外国の文化は総て長崎を経由して日本全
国に伝えられましたから、西欧文明の中継・発信地であったわけです。そのために各地か
ら向学の志を持つ人材が集まり、研鑽を経た後に出身地もしくは江戸・京都などの中心地
で活躍しました。一方、長崎には通辞(今日の通訳)を業とする知識階層が生まれ、多くは土
地の有力者でしたから、貿易船により舶来する西欧の文物に馴染み、技芸を習得する機会
が有りました。
近代医学・製鉄・造船・砲術・写真・活版印刷・鉄道などの科学・技術は長崎に起源を持つ
ものが少なく有りません。幕末期には近隣の佐賀・薩摩などは藩主が軍の装備強化に努め
ましたから長崎経由の科学・技術は急速に取り入れました。明治の代になって、九州北
部は石炭を産出することが判り、エネルギー供給地として大発展をすることになりました。
当然、関連の産業も交通も整備されたわけです。
「上野彦馬・写真術のパイオニア」
上野彦馬と云えば、日本における写真術の開祖であり、維新の英傑・坂本竜馬を撮影した
事で広く知られていますが、それだけでなく日本の化学の先達として幾多の業績を残しまし
た。彦馬は1838年に長崎の蘭学者・上野俊之丞の次男として生まれました、俊之丞は多才
な人物で長崎奉行所の御用時計師を勤め、硝石の製造を行なうなど化学に関心を示し、ま
たオランダ商館の医師・シーボルトについて蘭学を学びました。
彦馬は父の血を受けて、好奇心が強く研究熱心な少年でした。1848年、彦馬10歳の時に
父・俊之丞は日本で始めてダゲレオタイプの写真機を輸入しました、ダゲールが銀版写真
法を発明した9年後の事です。しかし、この写真機は間もなく薩摩藩に献上されたので、彦
馬は直接にはタッチする機会は無かったようです。
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彦馬は青年期にオランダ人医師ポンペの主催する医学伝習所に通い、化学を学びました。
ポンペは長崎・出島のオランダ商館医師として1857〜1862年にわたり日本に在住しました
が、幕府の要請により医学伝習所を開設し、西欧の近代医学を初めて系統的に教授しまし
た。彦馬は医学は学ばなかったようですが、化学の勉学を進めるうちに、当時のハイテクで
ある写真術なるものを知り、惹き付けられました。
ただし、その知識は蘭書で得たものであって、ポンペ自身も実物は見たことも触れた事もな
い有様でした。ポンペは相談に応じ助言もしたようですが、基本的には文献を頼りの独学で
した。この時期に伊勢藤堂藩の堀江鍬次郎と知り合い、共に研究に没頭しました。
書物を頼りにカメラと必要な薬品を自製するのには、試行錯誤の連続でした。カメラの暗箱
は木製の箱ですから手製も可能であり、また指物職人に依頼することも有りました。カメラ
のレンズは手製は出来ませんでしたが、既に輸入されていて珍品扱いされていた望遠鏡の
レンズを流用したり、かなり以前から国内でも入手出来た眼鏡のレンズを使いました。
問題は薬品です、当時の日本には写真に必要な化学薬品の類は一切有りませんでした。
蘭書に製法が記載されているとは云うものの、全く未知の薬品を造り出そうとするのですか
ら、難事である事は容易に想像出来ます。
例えば、エチルアルコールを得るのに焼酎の蒸留を試みましたが、純度が低くて役に立た
ず、ポンペ医師よりジン酒を提供されて再度の蒸留で高純度のアルコールを得ました。硫
酸については鉛製の容器に硫黄と硝石を入れて長時間加熱して、やっと造り出しました。
青酸カリウムは牛の生血を、アンモニアは牛骨を主原料として精製・抽出しました。そうし
て、これらから写真に必要な薬品を造り出したわけで、気の遠くなるような作業でした。
その苦心は報いられて、遂に日本人の手による機材と薬品による撮影に成功しました、
1859年の事です。その時の彦馬は弱冠21歳の青年でした。この時の機材はダゲールの銀
板式よりも進歩した湿板式であったと伝えられています。
最初の撮影は長崎・興福寺の山門などでしたが、次には人物の撮影を試みようとしました。
ところが当時の人々は写真を理解せず、妖術・魔法の類と恐れてモデルになって呉れませ
んでしたので、止む無く医学伝習所の頭取である医師・松本良順に依頼しました。西洋医
学を学ぶ良順は快諾してモデルの役を勤めました。当時はレンズは暗く、感光材の感度も
低かったので、顔には白粉を塗り、数分間も動かずにいる必要がありました、今日では想
像もつかぬ大袈裟なイベントでした。
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彦馬は1862年に日本初の写真舘「上野撮影局」を長崎・中島川畔に開きました、プロ・カメ
ラマンの誕生です。このスタジオでは多くの幕末の英傑を撮影しました。最も多く引用される
のは坂本竜馬ですが、高杉晋作・桂小五郎・伊藤俊輔・勝海舟・榎本武揚らの貴重な映像
を残しました。また、長崎の風景や武士・市民・外人などの写真を残し、当時の風俗・生活を
知る得がたい資料となっています。
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上の坂本竜馬の写真は有名ですが、右側の箱状のモノが何であるか、しばしば話題になる
ようです。一説には、当時の撮影には長時間を要したので、不動の姿勢を保つための支
え、だと説明されているようですが、同時期の他の人物写真では見当たりません。
彦馬は日本に於ける写真術のパイオニアであり、初のプロカメラマンとして著名ですが、化
学者としても先駆者でした。1860年に彦馬は伊勢・津藩に招かれ藩校・有造舘で蘭学と理
化学の講師を勤めました。長崎の医学伝習所で写真研究をした際に先輩格にあたる津藩
士・堀江鍬二郎との交流が縁となったのです。
この時にオランダ語の読めない学生のために日本語の教科書を編纂・発行し、その書名は
「舎密局必携」、と名付けました。舎密とはオランダ語の chemie(セミー)の音訳です。特筆す
べきは、彦馬が苦心の結果ようやくにして得た写真術を惜しげもなく公開した事です。さら
に写真に止まらず当時の実験化学の精髄を説きました。元素記号・化学方程式などをも記
述され、明治の中頃まで使われました。

化学者としての彦馬には、日本薬学の開祖とされる長井長義博士との交流がありました。
1845年に阿波蜂須賀藩の医官の長男として生まれ、1866年に医学修行の名目で長崎に留
学しました。長義は化学にも興味を持ち、撮影局を開いたばかりの彦馬の家に寄寓し、ここ
で写真技術を介して化学研究に専念したのです。この時、長義が3歳年長でしたが、既に
彦馬は写真術を完成し、「舎密局必携」を著していましたから、化学の世界では彦馬が兄貴
分であったと想像されます。
その後、長義は東京医学校(後の東大)に学び、ベルリン大学に留学の後に東京大学医学
部薬学科の教授に就任しました。かくして日本薬学の大先達になったわけですが、若い頃
に彦馬の下で研鑽を重ね、化学に開眼した経過は特筆に価します。
写真家としての彦馬の名声は次第に高まりました、彼は写真の台紙の裏に「アーティスト」
という文字を印刷したと伝えられています。1874年には金星が太陽面を通過する現象の観
測が長崎で行なわれ、米・仏・メキシコ・日本が参画しました。この時に彦馬は写真撮影を
担当し、日本で初の天体写真の撮影に成功しました。1877年の西南戦争では初の従軍カ
メラマンの役を担い、貴重な記録を残しました。
彦馬は写真技術の開祖であると共に、幕末から明治にかけての人物・風景などの歴史的
にも貴重な映像を残し、プロ・カメラマンという職業を創始しました。また、化学という学問分
野の確立・発展に大きな影響を与えました。彼は1904年に67歳で世を去りました。その墓は
長崎港を見下ろす風頭山の一角に有ります。
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「海外通信の軌跡・小ケ倉陸揚所跡」
1870年に明治政府は、長崎ー上海、長崎ーウラジオストック、に海底電信線を敷設する事
をデンマークのグレート・ノーザン・テレグラフ会社に許可しました。同社は海底ケーブル線
の陸揚地を長崎・小ケ倉の千本松原と定めて工事に着手、1871年6月に完成、業務を開始
しました。長崎・上海線はインド経由の通信路と繋がり、長崎・ウラジオ線はシベリア経由の
線路と接続し、世界のからの情報窓口になりました。
日本国内の電信事業は1969年に東京・横浜間で開業したのが最初ですから、その2年後
には早くも国際電信が実現したのです。ところが、東京・長崎間の電信(陸上)が開通したの
は1873年の事でしたから、折角の海外情報も、東京に伝わるまでには時間がかかったとい
う珍談が有りました。
例えば、1871年11月に「欧米視察団」の大久保利通がニューヨークより発信した電信は、5
時間後には長崎に達しましたが、長崎・東京間は3日を要したと伝えられています。

上記の建屋は、小ケ倉千本海岸の丘に建設されたのですが、後に外港埋立工事のために
現在位置に解体移築されました。中には往時の機材の一部が展示されています。

なお、グレート・ノーザン・テレグラフ社は、長崎・東京間の海底電線の敷設も意図していま
したが、明治政府は国内の電信路を外国の企業に任せるのは国策から見て好ましくない、
との意向で陸路の電信線を自前で建設する政策を採りました。これは真に賢明な判断で、
グレート・ノーザンはロシアの影響下に有りましたから、もし長崎・東京間のルートを許可し
ていたならば、後年の日露戦争に於いて支障を来たしたかも知れません。
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