「ニイタカヤマノボレを発信した電鍵・海上自衛隊史料館」
長崎県佐世保市に海上自衛隊史料舘があります。幕末から現在に至る日本海軍(現在は
海上自衛隊)の史料が豊富に展示されていて、興味を惹きつけます。貴重な史料が数多く
有りますが、中に日本の運命を決したモノが2ツも見られます。それは危急存亡に関わる
情報を打電した無線通信機の電鍵です。
日露戦争での日本海海戦は史上稀なパーフェクト・ゲームとして世界史に記述されていま
すが、その一要因は哨戒艦・信濃丸がバルチック艦隊を逸早く発見し、その情報を開発直
後の36式無線機を介して連合艦隊・旗艦に知らせ、有利な迎撃体制に移れたからです。
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日露開戦に備えて日本海軍は開発されたばかりの36式無線機を主要艦艇に装備し、広範
な哨戒網を整備していました。1935年5月27日未明に対馬海峡を哨戒中の信濃丸はロシア
艦隊を発見し直ちに、「敵艦隊見ゆ、北緯33度20分、東経128度20分、対馬東水道に向か
う」、との電文を暗号で連合艦隊・旗艦あてに打電したのです。
この貴重な情報を得て連合艦隊は出動、迎撃態勢をとり圧倒的な勝利を得ました。この第
一報を打電した電鍵(複製品)が、この史料館に展示されているわけです。
なお、殊勲の36式無線機の複製品は横須賀の「三笠記念艦」 に展示されていて、電鍵も含
まれています。
当時の無線機は到達距離に限度が有りましたから、信濃丸からの電文は 「笠置」「厳島」
の2艦が中継して旗艦「三笠」に伝えました。このために1時間余を要しました、電気信号の
ままでの自動中継では無く、電信手が介在して打電をする中継でした。さらに東京への連
絡は有線電信でしたが、これも何段階かの有人中継により行なわれました。
展示されている電鍵は複製ですが、信濃丸に搭載のものを模したのか、三笠に搭載のもの
を模したのか、説明には明記されていません。どちらであっても同じ36式無線機ですから形
式・構造は同一であったと推定されます。
もう一つの電鍵は、大東亜戦争の火蓋を切った真珠湾攻撃命令の電文、「ニイタカヤマノボ
レ」を打電したとされるものです。こちらは複製と明記して有りませんが、恐らくは同一形式
の品を展示しているのでしょう。手書きの電文の写しも展示されています。
ところで、この電鍵が何処で使われ、何処から電波として発射されたかについては諸説が
有るようです。佐世保史料館の近くに有名な「針尾無線塔」があって、ここから発射された
という説が一般には流布されています。佐世保は旧帝国海軍の主要な軍港であり、近くに
巨大な無線塔が有りますから、蓋然性は高いと思い込むのは自然です。
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ただし佐世保史料館の展示には、展示の電鍵についての故事来歴についての明記はされ
ていません。1941年当時、海軍は幾つかの巨大無線設備を備えていました。千葉県船橋
市の行田無線塔、愛知県刈谷市の依佐美無線塔、それに長崎県佐世保市の針尾無線塔
の3カ所です。
ある資料によれば、「ニイタカヤマノボレ」の電文は広島県・柱島に停泊していた連合艦隊
旗艦・長門の艦上で打鍵され、受診した呉通信隊が有線で東京海軍通信隊に転送し、それ
から行田無線塔から電波を発射したとされています。長門での打電が18時49分、行田無線
塔の電波発射は20時00分でした。
この件に関しては、一種の本家争いのような論争があるように仄聞しますが、編者は詮索
する心算は有りません。開戦に際して使われた電鍵と同じモノが現存し、電文の写しが展
示されていれぱ充分と感じます。
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佐世保史料館には、この他にも多くの貴重な資料が展示されています。
「針尾無線塔」
佐世保史料館から西海橋の方に車を走らせると右手に巨大な3本の柱が見えてきます。
これが有名な旧帝国海軍が建設・運用した針尾無線塔で、現在は海上自衛隊と海上保安
庁が管理しています。
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針尾無線塔は1918年に建設にかかり4年を経て完成しました。3本の鉄筋コンクリート製の
柱の高さは1号塔・2号塔が135m、3号塔が137mの巨大なものでした。塔基部の直径は
12m、頭頂部の直径は3mに及びます。内部は中空でコンクリートの厚さは76p でした。こ
の3本が一辺300mの正三角形の各頂点に位置するように配置されています。
塔と塔の間に長波の空中線が張られ、中国大陸や南太平洋方面の通信に活躍しました。
大東亜戦争の開戦に先立ち、「ニイタカヤマノボレ」、の電文が発射されたと云う話が伝えら
れていますが、これは誤りで千葉県の行田無線塔が正しいとの説が有力のようですす。と
は云っても重要な施設として当時の技術の粋を集めて建設し、戦前・戦中に活躍したことは
技術史に止めるべきでしょう。

戦後、この施設は海上保安庁に引き継がれ、さらに海上自衛隊と共同で運営されました
が、1997年には新無線塔(高さ35m)と新送信所局舎が建設されて、長年の役目を終りまし
た。重要文化財として残すか、解体撤去するかの岐路に立たされているそうです。
「アイアン・デューク号走る・初の蒸気機関車 !!」
日本に於ける鉄道の創始は、1872年の新橋・横浜間というのが定説です。確かに恒久的な
営業運転の開始としては、これが初めです。しかしながら、それよりも7年も前に実物の蒸
気機関車を走らせた事跡が有ります。それが標題のアイアン・デューク号のデモ運転で、貿
易商トーマス・グラバーにより長崎で実施されました。
1865年にグラバーは上海博覧会に出品された英国製の蒸気機関車 「アイアン・デューク
号」 を買い取り、長崎・大浦海岸に600mの線路を敷設して走らせました。レールの間隔
は762mm といいますから、今日の遊園地の汽車ぐらいの大きさと思われます。客車3両を
牽引し、黒煙を吐いて疾走する様子は見物に集まった群衆を驚倒させたと伝えられます。
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トーマス・グラバーはスコットランド生まれの英国人で1859年に来日、長崎に居を構え、貿
易商として活躍しました。反幕府勢力に武器弾薬を供給し、維新の志士の海外渡航を援助
したりして、明治維新の実現に一役買いました。
このために、彼を "死の商人" などと云う人方もあるようですが、日本初のドックを建設し、
高島炭鉱を開発し、ビールの醸造を手掛けるなど、日本の近代化に貢献したのを忘れるこ
とは出来ません。
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