三条商人(さんじょうしょうにん)を調べる

中小企業診断士中村公哉事務所TOPページに戻る
 三条商人に関して、様々な情報を頂き誠にありがとうございます。頂いた内容と集めた情報を整理すると下記のようになります。
2002.6.2更新
三条商人とはどのような商人か
 新潟商人、長岡商人などと、「○○商人」という言葉が、県内でも使われていますが、新潟を代表する商人としては「三条商人」と「小千谷商人」であります。(様々な意見があるかもしれませんが)
 三条商人の特性は、「実利を重んじ、自らの目と耳を信じる、堅実な商売を行なう商人」であります。
燕商人と三条商人
 燕と三条を一緒に捉えたり、対比させたりしますが、燕商人にとって三条商人をどのように捉えているかということですが、ある燕商人の言を借りると
「付き合いにくい商人(三条商人)ですね。我々(燕商人)は恩とか付き合いとか、そのようなものに流されがちですが、(三条商人に)それが通じないですね。」
ということになります。一部の方の意見かもしれませんが、燕の方の三条の見方として、重要な意見であると推測します。
 さて、他所から来た者(私)としての見方は
三条商人「真面目、勤勉、義理堅く、堅実、高い判断力」
燕商人 「真面目、勤勉、義理堅く、努力、成長志向」
という見方をしています。真面目から義理堅くまでは似ていると思っています。但し、商人に対する見方であって、市民全てを指しているわけではございません。
三条商人の歴史
 三条の発祥は、平安時代の中ごろ「橘左衛門定明」が京都から来往して、今の三条に基を築いた。その時に、恩のある人を忘れないために京都の三条という地名を移した。他にも、説があるそうですが、この説が有力視されています。となると、その時に、加茂という地名も発祥したのかもしれません。
 永徳2年(1382年)の「権大僧都覚有一跡配分目録」という史料に「越後国三条七日市場政所左阿ミた仏引旦那」という記事がある。今から600年以上の前に三条に定期市があった記録である。それ以前は分かりませんが、この頃が三条商人の起源であると考えます。
 三条が城下町であったことは、以外と知られていません。但し、江戸時代には、存在がなかったので仕方がないことかもしれませんが。その間、様々に支配が代わり、長尾氏−上杉氏−山吉氏−甘粕氏−堀氏−松平氏−幕府直轄などです。江戸時代に入るまでは、戦乱の中にあったのかもしれませんが、その背景として交通の要所であったためと推測します。信濃川の中域にあり、物資運搬の拠点であったこと、下田村に向かう五十嵐川との分岐点であることです。
 これらのことから、資産を築き、無くしの連続が伺え、三条商人の人格形成に影響したのではないかと推測します。また、交通の要所であったことは、戦乱後、新潟の商業の中心地になっていくことに繋がると考えます。
三条商人と行政
 文化・文政期に暮らしのゆとり、交通発達などの影響から、寺社参詣が益々盛んになった。とりわけ三条東本願寺、三条役所は喧嘩口論については、諸事物静かにするようにいましめ、高利を貪る商売を禁じ、火の用心第一につとめさせた。
 行政側が、三条商人を育てていたことになる。同じように、次のような事例もある。
 米価の下落から、殖産興業政策を拡大した村上藩は、寛政10年(1789年)三条役所管轄下の五ヶ組に、サトウキビの植栽を奨励し、強力な砂糖の専売を行なった。この砂糖問屋に任命されたのが、青柳理左衛門である。さらに、四日町村に砂糖の専売工場を設けた。
 三条に富をもたらした商人の一人である青柳理左衛門であるが、この青柳理左衛門を当時の行政側が作り出したことになる。
 そこから、20年経過した時点で、村上藩の財政状態が更に逼迫する。当時年貢として納められる米価が下落し続けたことが原因である。少しのお金で、多量の米が買えるわけであるから、2001年のデフレ経済に似ているとも考えられる。
 文化6年9月(1809年)三条商人から村上藩に冥加金が納められる。その内容は、下記の通りである。
  鶴屋源助     450両 、 加藤屋重助    380両 、 石橋屋市之助  380両 、 
  帰り山屋長之助 380両 、 石田屋由右衛門 380両 、 大橋屋間右衛門 380両 、
  長谷川屋吉右衛門 380両 、成田屋伝吉   380両
 三条五ヶ組からの冥加金、御用金、才覚金が重要な位置を占めるようになり、村上藩は三条町人の集金能力を大いに利用した。
 文化7年にも、同様な冥加金が納められる。
  塩野谷源助(鶴屋) 500両 、 加藤重助  312両2分 、 石橋九郎左衛門 262両2分
  長谷川吉右衛門  212両2分 、 成田伝吉 212両2分 、 大橋屋右衛門 130両
 このような状況が続き、文政12年1月には、村上藩の借財は、三条五ヶ組だけで38790両、塩野谷、加藤、石橋の三家はいずれも4000両以上となっている。
 現代に置き換えると、返すことが出来ない債権をそれだけ村上藩が発行していたことになる。
江戸期の三条商人が考えた広告
 上記経済状態が続いている文政3年(1820年)に米価が最低を記録した。米価の下落は幕府、村上藩財政に打撃を与え、倹約令を発し、財政緊縮政策を取り続けた。その時代に「三条往来」が書かれた。「三条往来」では、「諸色商い方・通船の都合が良い」ことを挙げ、「呉服、金物、野菜など220種類の取扱い商品」が記されている。また、本寺小路の賑わいの様子も記されている。これは、不景気状態の打破のための宣伝的意図があったとされ。これらの書見を写し、全国へ書見を回すことにより、三条が発展的で商売に都合が良い土地柄で、大きな商いが望めるイメージ与えことにより、物資の往来の増加と商人の誘致を図ろうとした。
石田利八
 得意先の信用を得ることで、一歩ずつ販路を開拓
 現在の商人と石田利八は、相当異なった人物であると推測する。まず、行商を行なった足であり、三条から八十里街道の山越えをし会津へ、上州(群馬)から江戸へいき常陸国(茨城)へ、そして下総(千葉)へ、何度となく往復している。何れも、荷物を背負い、山を越えての行商であり、その荷物は二十貫(70〜80kg)近くの重さになる。石田利八の姿は、想像でしか得られないが、肩幅が広く筋肉質で、足が太く短く、よく日焼けした汗臭い男が想像できる。そのような石田利八が、取引先から信頼を得られた理由は、人と人との繋がりを大切にし、約束を守ることからである。彼の記録の中で、
「常陸の国相馬郡中村の周蔵方で灯心を買出し、3年間もお世話になった。(略)その頃、周蔵殿から何か珍しい物はできないかと尋ねられたので、特別なものはできないが金物ならいろいろ出きると申し上げた。周蔵殿は鎌を出して、この通りの形で重さも適切で、切れ味も良いなら、常陸・下総に売り広めてやろうと親切に言っていただけた。(略)享和2年(1802年)3月4日に、鎌150、小刀、ハサミ、鋲少しを荷造りし、三条から常陸城中村まで背負って運んだ。周蔵殿は近くの村々に売ってくださり、本当にありがたかった。」
とある。このようにして、取引先に感謝し、約束を守り、少しずつ取引先を開拓していったと推測される。
 石田利八は、農家の次男であり、寺男、酒蔵の若衆からはじまり、行商人になった。その後、店を持つまでに至った過程を考えると、現代の起業家に通じるものがある。
石田利八が生きた時代
 三条の中心は、本寺小路であり、10m程度の道路の両脇に遊郭・商家が並び、柳の木がある。本来なら、柳の木が情緒をだすのかもしれないが、店の入口から布かゴザで道路にせり出し、その下で物を売っていたようである。狭くなった道幅の中央を男が歩き、端を女が歩く。多くの人が荷物を背負い、その荷物、肩が触れ合う賑やかさが、本寺小路である。
金物商人の年表
1673〜1681年 上方商人と金物の取引
1688〜1704年 栗田重兵衛商店の創業
1704〜1769年 神田半右衛門が県外行商開始
1831年 鉄物仲間(神田半右衛門、石田利八、加藤文次郎、鈴木乙蔵、小師仁四郎、吉井吉右衛門、山田藤兵衛)が為取替申仲間議定証文之事を作成。それにより、同業者間の競争を統制し、金物の品質維持を図った。
1855年 三条の越後釘積仲間と江戸鉄銅問屋との間に売買特約の取り決めができる
蛇足:さんじょっぱらい
 「さんじょっぱらい」の正しい使いかたが分からない。三条周辺の商人が「三条の商習慣」に侮蔑をこめて使っている例が多いが、歴史的に三条商人の下に置かれてきたことがその背景にあるのではないかと思われる。最も正しい使い方と思われるのが「代金の支払いをツケにし、支払いを渋る」ということである。語源は、「京都の問屋の荷開きを最初に三条で行い、売れ残ったものを新潟、長岡で卸し、更に売れ残ったものを三条で引き取ってもらう。」ところにあるそうです。

参考資料
三条市史
金物と草鞋と−三條金物卸商のあゆみ− 三條金物卸商組合発行
江戸時代 人づくり風土記 新潟 社団法人農村漁村文化協会
目で見る 三条・南蒲原の100年 株式会社郷土出版社

お世話になりました方々
三条市経済部商工課
三条金物卸商組合
さんじょう商人塾
外栄金物 株式会社
株式会社東邦社
中小企業総合事業団 中小企業大学校三条校
(財)新潟県県央地場産業振興センター
中小企業診断士 川村明正

2002.1.29 中小企業診断士中村公哉事務所
fwiy6062@mb.infoweb.ne.jp