|
「バッハ・ビート」--マリンバ奏者:点描画家として--
演奏家なら誰でも、バッハの作品は、必ず登らなければならない山だ。マリンバ奏者の私にとっても、たとえバッハがマリンバのために何の作品も遺していないとは言え、その作品に触れずに終る一日は無かった。 マリンバでバッハの作品を演奏するということは、つまり、他の楽器のために書かれた曲を、マリンバ用に編曲して演奏することだ。ヴァイオリン、チェロ、フルート、リュート、鍵盤楽器などのための作品を、これまで編曲してきた。 先日、地下鉄の中で、ある著名な弦楽四重奏団の一員である、D氏と乗り合わせた。「マコト、最近はどんな曲を他の楽器から『盗んで』いるんだい?」クラシック音楽の中で歴史の浅いマリンバは、そのレパートリーが限られていることが最大の悩みだ。これまでの大作曲家たちが、多くの名曲を遺している、弦楽四重奏をやっている人たちには、マリンバ奏者のそんな気持ちはわからない、と言いたいのを抑えて、「バッハの無伴奏フルート組曲かな。」と答える。「そうか、バッハの作品は純粋だから、楽器を置き換えても、その価値は変わらないだろうね。」 バッハの作品では、演奏している楽器をも忘れさせて、まず、音楽そのものが私たちに伝わってくる。それぞれの楽器と、その特性を生かそうとした作曲を、具体的な作曲法と呼ぶなら、バッハの作曲は、もっと抽象的な世界から音を紡ぎ出したように思える。ここで、D氏の使った「純粋」という言葉が共鳴してくる。私が、マリンバでバッハの作品を演奏したいと思うのも、この点に集約するのだ。「何の楽器を演奏しているかより、どんな音楽を演奏しているかを聴いてほしいから。」 思えば、バッハの作品は、いかに多くのことを私に教えてくれてきたことだろう。 「きれいな旋律を、伴奏してもらいながら奏でる」ことに慣れた私の幼い耳に、いくつもの旋律が対等に同時進行する、多声書法は驚きだった。そして、そのいくつもの旋律線が有機的に三次元の綾を織り成す、と体得できたのは、ずっと後のことである。三次元の造形が、眼前に現れ、もつれ合い、次第に姿を変える。音楽が私たちに与えてくれる、素晴らしい芸術的瞬間だ。 アメリカ大陸で演奏活動を始めた頃に訪れた、極寒のアイオワ州のある舞台。演奏家として何を伝えるべきなのかが、ふと見えてきたのも、そこでト短調のフーガを演奏している時だった。演奏家は、再現者ではなく創造者であるべきで、まるで舞台で作曲家とコラボレーションをしているように演奏したい。そのためには、一つ一つの音が「自分にとって」どんな意味を持つか、深く感じること。そして、音たちが、自分の中で何か他の意味、色でも香りでも、詩の一節でも良い、を持ち始めた時、私の演奏は、最も遠くまで届き、人々の心の最も深い部分に触れることができるのではないか。 また、これまで聴衆からもらった温かい言葉の数々がなかったら、やはり、バッハを弾き続けようという気持ちにはならなかっただろう。「あなたのサラバンドを聴いて涙が止まらなかった。」という一言が、私にどれほどの勇気を与えてくれたことか。そして、その言葉をくれた人にとって、音楽がどれだけの深い意味を持つかを考えた時、私の心は、音楽の持つ偉大な力の前に、謙虚にならざるを得ない。 しかし、同時に、批評の標的となるのも、バッハを演奏した時だ。その作品の演奏には、鮮明な演奏技術はもちろん、知情意のすべてにおいて深さが求められ、演奏家としての力量、音楽性、人間性までもをはっきりと示す、絶好の機会となるからだ。また、それぞれの人が、自分なりの理想のバッハ像を、強く持っていることが多いので、その範囲をはみ出したものを受け入れるかどうか、聴く者にとっても挑戦となる。しかし、これまで受けてきた批評を考えてみると、その多くは、マリンバのトレモロ奏法に向けられたものだった。 マリンバは、一つ一つの音が長く伸びないため、長い音を演奏する時には、必ず「トレモロ」という連打奏法を使う。ほとんどの人は、このトレモロを聴いた時、まず当惑する。そこで心を閉ざしてしまい、その後私がどんな音楽を演奏しているか、まったく聴いてくれないような人たちがいる。一方で、始めは当惑しながらも、トレモロの連打、つまり点の連なりが、次第に線となるように、本人も感じ出し、驚きを隠さない人たちもいる。それぞれの線に込めた叙情性まで言及してくれるような人たちとは、是非友達になりたいと思う。 「点の連なりを線に感じさせる」ことは、ピアノの演奏においても、常に訓練を重ねる事柄だ。ピアノはマリンバより響きは長いが、声や弦楽器・管楽器の作る持続音には及ばない。英国王立音楽院に留学していた時、ピアノの教授から、「その線を良く聴き、その線にとことん集中することによって」点は線となる、と学んだ。 マリンバでも、ピアノと同じように集中すれば、点は線のように聴こえてくるのだろうか? しかし、弦楽器・管楽器奏者と室内楽を演奏する時には、いかに集中しようとも、必ずトレモロの部分が問題になってくる。「いっそ、そのトレモロをやめてしまえば?」と共演者から言われたこともしばしばだ。自分たちが持続音を演奏している時に、マリンバがトレモロをしていると、打楽器的過ぎる、音が多過ぎる、と感じ、美しい旋律線を作るのに、邪魔になると思うようだ。 また、作曲家達にマリンバのための新作を委嘱する時には、どのようにうまくトレモロを使うかを、必ず話し合う。トレモロの可能性を信じず、全くトレモロを使わないような作品にしてしまう作曲家もいるが、そんな中で、何人かの作曲家が、トレモロを生かし、見事な音楽を書いてくれたことは希望だ。 ある時、マリンバ協奏曲をオーケストラと演奏していた。弦楽器セクションが演奏するなめらかな旋律線に、私がトレモロで演奏する、同じ旋律がかぶさっていく。そこで感じた劣等感は、しかし一体なんだろう?何人ものヴァイオリニストたちが作っている、張り詰めた線の世界の中で、トレモロは、まるでいびつな石つぶてのように、空虚に響く。やはり、トレモロで線を作ろうなんてことは、笑い種なのか? 私の、そんなトレモロのとらえ方を変えたのは、点描画家スーラの作品との出会いだ。それまで「長い音が出ないので、仕方なく」トレモロを使っていた私だったが、点描画家たちは、あえて点を使うことを選んで、線を描こうとする。その画面に現れるのは、どこか寂しげで、現実と夢をさまようようなイメージだ。実際の線を使ったのではおそらく表現できない世界が、目の前に広がっているのを見て、啓示に打たれたように立ちすくんだ。 トレモロを使って、音楽でもそんなことができるかもしれない。持続音を現実の世界とすると、トレモロの点の数々は、非現実の世界を描き出す、分子の一つ一つのようになれるかもしれないノ。 私は、このCDをこう名づけよう。「マリンバ奏者:点描画家として」 森の奥でひとり歌い続ける鳥のさえずりは、誰の耳にも届かない。点と線の間には、どうしても飛び越えられない間隙がある。到達することと、到達しないことの、その間隙に潜む寂しさは、鳥の歌にも似て、私の画面に満ちる。 2007年12月 ニューヨーク・シティにて
名倉誠人 |