◎ 2時間目 「こころ」 夏目漱石さて2時間目です。以下の論文は、私が大学院時代に書いたものですが、「こゝろ」の中で使われている言葉「自由と独立と己れとに充ちた現代」の解釈に関して、ずいぶん叩かれたものです。皆さんはどんなことを感じますか?
「こゝろ」は、夏目漱石が大正三年四月二十日から八月十一日までの全百十回に渡って、東京・大阪の両『朝日新聞』に連載した小説です。もっとも、新聞連載時の標題は「心」と表記され、「先生の遺書」と副題が添えられていたのを、同年九月に岩波書店から漱石自身の装幀で初版本が刊行された時に「こゝろ」と表記されたものです。漱石は当初、「今度は短篇をいくつか書いてみたいと思ひます。その一つ一つには違った名をつけて行く積ですが予告の必要上全体の題が御入用かとも存じます故それを、『心』と致して置きます。」と、当時の東京朝日の社会部長、山本松之助に宛てて書簡(三月三十日付)を送っています。ところが、「先生の遺書」という第一の短篇が予想以上に長くなってしまったために、それをそのまま「こゝろ」と題して、新たに「上 先生と私」「中 両親と私」「下 先生と遺書」の三部構成として単行本発刊の運びとなったのでした。
さて、小説「こゝろ」の内容ですが、おそらく今日の読者の多くは、そこに暗く重苦しい印象を受けることでありましょう。その理由としては、漱石が作品中に何人もの人の死に様を、形を変えながらも描くからであり、また、「淋しい人間」「人間の罪」「殉死」「明治の精神」などといった重々しい言葉が、ただ単に作品世界のあちこちにちりばめられているだけではなくして、漱石自身がそれらの言葉の持つ意味を現実世界の問題として深く認識していたことが窺い知れるからなのです。
私たちが作品を読み進めていくと出会う言葉の一つに、先生の発する「自由と獨立と己れとに充ちた現代」という言葉があります。ところではたして、明治という時代がどれほど「自由と獨立と己れ」とに充ちていたと言えるでしょうか。もちろん江戸時代と比べるならば、文化や生活様式は大きな変化を遂げました。明治期になると西洋の思想や文化が大量に流入し、また二つの大きな対外戦争も経験する中で産業の改革も進み、国内には資本主義の社会体制が概ね成立したと言えるでしょう。しかし庶民の生活のここそこに、封建時代からの影響が依然色濃く残されていたと言ってよく、そもそも明治維新の性格とは、徳川の幕府から薩長の官軍による支配体制へと擦り替わっただけのものでしたから、覚醒し確立へと向かわんとした明治に生きる人々の自我は、相対峙する国家という巨大な壁に圧迫され続けることになるのでした。
夏目漱石は「こゝろ」という小説の中でそれらの問題点を明確に示し得たのではなく、と言うよりむしろ、漱石はそうした明治の社会を背景として成長した「人間の心の作用」を描くことに主眼を置きました。その姿勢はまるで、明治という時代が抱えていた問題にはこれだけのものがあるのだということを匂わせながらも、作者自身はそれを抛り出して何処かへ消えてしまっているかのようです。「心」という総題の下で、書き継がれることのなかった続篇のことも思い起こされます。しかし私たちは、漱石がただ単に問題を置き去りにしたのではないことに気が付かなくてはなりません。漱石が、青年の「私」に向かって「あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと云つたから」自分の過去を物語りたいのだと先生に言わせた時、そうしてその青年の「私」が、様々な意味で前近代的封建的世界の生き残りであった父親を捨てて、「自由と獨立と己れとに充ちた現代に生きる」と語っていた先生の許へと走る姿を描いた時、漱石は問題を置き去りにしたのではないのです。そうではなくて、その解決を、真に「自由と獨立と己れとに充ちた現代」に生きるであろう青年に託して、筆を擱いたと言えるのではないでしょうか。そこに漱石が、様々な明治の人間の「こゝろ」を描いた意味があり、また、その続篇を描き続けるには及ばなかった理由もあるのだと私は考えたのでした。
そしてここで、漱石が自身の「人生そのものから生きた教訓を」与えんとして新時代を託した人物、大正という新しい時代に生きて夏目漱石に大きな影響を受けた青年のいることに私たちは気付かされるのです。それが、芥川龍之介です。芥川は大正五年の八月、千葉県一の宮へ久米正雄と出かけて九月上旬までそこに滞在していますが、その間、久米との二人宛のものも含めて四通もの書簡を漱石から受け取っています。当時既に芥川は、同年二月十九日付の漱石からの書簡で「鼻」(大正五年二月『新思潮』)を激賞されており、後に久米が回想して「或は一宮で僕と二人で暮らしてゐた間が、文学的に恵まれた点からいつたら、一番幸福だつたらうと思はれます。」(「『鼻』と芥川龍之介」昭和二十八年三月『微苦笑随筆』文芸春秋新社刊所収)と述べてもいます。正に芥川としては、新時代の新進作家として産声を挙げたという時期なのでした。
一の宮の芥川たちに宛てた漱石の書簡には、漱石の「人生そのものから」の「生きた教訓」が示されていたと言ってもよいでしょう。それらにはすなわち、次のようなことが書かれてもいたのですから。勉強をしますか。何か書きますか。君方は新時代の作家になる積でせう。僕も其積であなた方の将来を見てゐます。どうぞ偉くなつて下さい。然し無暗にあせつては不可ません。たゞ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です。(八月二十一日付)
牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。(中略)あせつては不可せん。頭を悪くしては不可せん。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか与へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。決して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。さうして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。(八月二十四日付)このようにして漱石は、「新時代の作家」である芥川たちに「生きた教訓」を与えました。従って芥川が、「先生は少くとも我々ライズィングジェネレエションの為めに、何時も御丈夫でなければいけません」(八月二十八日付書簡)として、漱石に対する敬愛の念と、加えて自ら抱きつつあった矜持の念とを返書に記した時には、「此間君方から貰つた手紙は面白かつた。又愉快であつた。」(九月一日付書簡)と、三度書き送らずにはいられない漱石でした。
しかしはたして、この少し有頂天でもあった芥川が、漱石の示した「生きた教訓」を、どれだけ自らの人生に生かし得たと言えるでしょうか。
芥川晩年の作品である「蜃気楼」(昭和二年三月『婦人公論』)には、鵠沼の海岸を歩いていく「僕」が、「牛車の轍が二すぢ、黒ぐろと斜めに通つてゐ」るのを見て、「この深い轍に何か圧迫に近いものを感じた。逞しい天才の仕事の痕、━━そんな気も迫つて来ないのではなかつた。」と述懐する姿を描きます。また、「或阿呆の一生」(昭和二年十月『改造』)にも、「彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、━━凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。」ということが記されます。そうしてみると、漱石が「たゞ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です。」と助言したことも、「火花の前には 一瞬の記憶しか与へて呉れません。」と忠告したことも、晩年の芥川にとっては、一つは重苦しい圧迫となり、一つは危ない誘惑として回想されるものなのでした。ですから、芥川龍之介にとって夏目漱石とは、敬愛の情を向ける対象でありながらも、畏敬し、時には畏怖すべき人物であったのかもしれません。それは、芥川自身の「僕は勿論夏目先生の弟子だ。お前は文墨に親しんだ漱石先生を知ってゐるかも知れない。しかしあの気違ひじみた天才の夏目先生を知らないだろう。」(「闇中問答」昭和二年九月『文藝春秋』)という言葉が、芥川の本心の一端を語っていると考えられるからなのです。
芥川は漱石と同じように教職を辞して新聞社と契約し、同じように若い門下生を家に集めました。しかし漱石と同じようには長編作品を書くことはできず、何かのテーマや類型の作品に依らずには小説を書けないことにやがて気付くことになります。そしてそれに気付いた時には、既に漱石は越えられない存在として遠い所におり、同時に、自分の生きてきた大正という時代に変わる、新しい昭和の時代の幕が切って落とされていたのでした。それでは、芥川たち若い世代の作家に新時代を託そうとした漱石の意図を、芥川が充分には汲み取り得なかったということを示してみましょう。
芥川が「地獄変」(大正七年五月『大阪毎日新開』『東京日日新開』)の結末で、唐突に主人公の良秀を自殺させてしまったことに、私たちは漱石が「こゝろ」の先生を自殺させたことを重ねずにはいられません。しかしもちろん、この二人の自殺の共通性は、わかりにくい動機故の唐突さにあるのであって、それによってそれぞれの作者が言わんとしたことは、おそらく異なっていると言ってよいでしょう。
「こゝろ」の先生は「人間の罪といふものを深く感じた」ものの「仕方がないから、死んだ気で生きて行かうと決心しま」す。それが、明治天皇が崩御した時に、「最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つているのは必竟時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ち」、続いて乃木大将殉死の知らせを聞いた後で「私はとうとう自殺する決心をしたので」した。「人間の罪」という概念の要因の端緒には、原罪と呼べる、恋愛そのものが罪だとされる考え方があるとするならば、そういう自由な恋愛を否定しなければならなかった前近代的で封建的で儒教倫理の支配的な明治という、「時代の罪」もまた先生に、すなわち作者漱石にも、意識されていたのではないでしょうか。
一方、良秀の自殺の場合はどうでしょう。良秀もまた己れの「人間の罪」を意識して自殺したことは言えるかもしれません。すなわちその背景には、自分の由由にならなかった恋愛のこと、つまりは自分の娘に対する異性としての愛情のあったことが考えられるわけなのです。良秀は、自分の最愛のものと引き替えに地獄変の屏風という芸術作品を手に入れた後で自殺することになります。しかし良秀という芸術家の存在は、彼の墓標が「その後何十年かの雨風に曝されて、とうの昔誰の墓とも知れないやうに、苔蒸してゐるにちがひございません。」として芥川が作品を結ぶことで、生かされることはなくなるのです。そこから、芥川の「人生は一行のボオドレエルにも若かない」(「或阿呆の一生」)という芸術至上主義が連想されるわけなのですが、しかし本来、自由な恋愛の場であるべき人生の方が、それと引き替えられた芸術に勝ることを知ったが故の良秀の自殺だったのではなかったのでしょうか。芥川の心中にはそのような意識が働いていたはずなのですが、彼がそれを表に出せることなく、自殺して忘れ去られていく良秀を描いたのでは、漱石が「こゝろ」で先生を自殺させた(と言うより遺書を青年の「私」に宛てた)意図を正しく汲んでいないとすることは、極論に過ぎるでしょうか。少なくとも漱石には、新時代を生きるはずの青年の「私」の人生を展開させるのは、新時代を生きるあなた方若い読者であるという意識が働いていなかったでしょうか。しかし芥川はどうでしょう。芥川には、漱石を真似て主人公を自殺させることはできましたが、その後に展開されるべき新しい世代の生の可能性を示すことはできなかったのです。
「河童」(昭和二年三月『改造』)の中にも、トックという詩人の河童の自殺が描かれています。トックは「元来胃病でしたから、それだけでも憂鬱になり易」く、加えて「いつも孤獨だつたのです。」と仲間の河童たちに評されました。トックは死んで幼い子供たちや妻を後に残すことになるのですが、後に残される者のこれからの生活については何も示されることなく、「かう云ふ我儘な河童と一しよになつた家族は気の毒ですね。」という言葉によって問題は片付けられてしまうのです。しかし芥川が、心の中では、残される者にもそれぞれの生活のあることを意識していたということは、「玄鶴山房」(昭和二年一、二月『中央公論』)でお芳親子の行く末を思い描いて「急に険しい顔を」する大学生に象徴されていますし、例えば「闇中問答」の次の言葉からもまた明らかであると思われます。芥川龍之介! 芥川龍之介、お前の根をしつかりとおろせ。お前は風に吹かれている葦だ。空模様はいつ何時変るかも知れない。唯しつかり踏んばつてゐろ。それはお前自身の為だ。同時に又お前の子供たちの為だ。うぬ惚れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。
このようなことを書き残した芥川であったにもかかわらず、彼は自殺しました。それは自分が生きてきた時代の終焉を知った時に、「こゝろ」の先生が「其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだといふ感じ」を抱いたのと同じように、「新時代にあきらめ切つた笑声を与へることは出来ません。しかし又新時代と抱き合ふほどの情熱も持つてゐません。」(昭和二年三月六日付 青野秀吉宛書簡)という感慨を抱いての自殺でした。また「こゝろ」の先生が「妻の知らない間に、こつそり此世から居なくなるやうに」すると言っていたのと同じように、芥川は「家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺すること」(「或旧友へ送る手記」昭和二年七月二十五日『東京日日新開』『東京朝日新開』)を工夫さえしたのでした。
以上のことからも「こゝろ」の先生の影響を、つまりはその死を描いた夏目漱石の影響を、最も強く受けた者の一人が芥川龍之介であることは明らかであると思います。そして、漱石が望むように、あるいはそれ以上に、新しい時代の作家としての自負と矜持とを抱いて出発したはずの芥川であったのですが、ついにその死に至るまでの間、夏目漱石という大きな存在の影響下から抜け出すことはできなかったのでした。それは、「こゝろ」の登場人物で言えば、青年の「私」として新しい「自由と獨立と己れとに充ちた現代」を生きることを託された芥川が、しかしその晩年には、「先生」と同じように時代の終焉と共に自らの命を絶つに至ったという皮肉に象徴されることであるわけなのです。「こゝろ」という小説を読む時に私は、もう一人の青年の「私」(と同時に、もう一人の「先生」)の姿を、すなわち芥川龍之介の姿を、思い浮かべずにはいられなくなりました。そして、夏目漱石や芥川龍之介が「自分で自分の心臓を破つて、其血を」私たち「の顔に浴せかけやうとしてゐる」のを感じずにはいられなくなりました。今日、正に「自由と獨立と己れとに充ちた」新時代に生きる私たちは、彼らの「温かく流れる血潮」をどれだけ真面目に、どれだけ真摯に、啜ることができるのかを問われているのではないでしょうか。
「こゝろ」に関する一小見──芥川への影響を中心に──
夏目漱石が活躍したのは明治から大正という時代の過渡期で、特に45年間も続いた明治時代を生き抜いた漱石にとって、新時代の大正とは、自由と独立と己れとに充ちているにもかかわらず、あるいはそれ故に息苦しい時代でもあったのでしょう。
同様に、芥川龍之介は大正時代の人間でした。それ故に新しい昭和という時代を、生き抜くことができなかったのかもしれません。
新しい時代には常に、自由と独立と己れの精神が充ちていて、それがしばしば人を生きにくくしてしまいます。それでも私たちは、真面目に生きた教訓を、先人たちから学ぼうではありませんか。漱石の「こゝろ」という小説は、それにはもってこいの教材であると私は思うのです。