◆岡本太郎
[経歴]
◆1911(明治44年)
岡本一平、かの子の長男として、橘樹郡高津村(現在の川崎市高津区二子)の母の実家で生まれる
◆1917(大正6年) 6歳
東京・青山の青南小学校に入学する
転校を2回重ねた後、翌年慶應義塾幼稚舎に落ち着く
◆1929(昭和4年)18歳
東京美術学校洋画科に入学するが、半年後に中退
12月父一平のロンドン軍縮会議取材に伴い、かの子、太郎とともに渡欧、翌年1月よりパリで生活を始める
◆1931(昭和6年)20歳
ショアジール・ル・ロワのリセの寄宿舎に入り、フランス人と共に暮らし言葉や生活習慣を身につける
◆1932(昭和7年)21歳
ピカソの作品を見て衝撃を受け、抽象芸術を志す
翌年、非具象芸術グループ「アプストラクシオン・クレアシオン」(抽象・創造協会)に参加し、アルプ、ブランクーシ、カンディンスキー、ミロなど多くの前衛芸術家たちと活動
◆1937(昭和12年)26歳
前年よりクルト・セリグマン等と「ネオ・コンクレティスム」(新具体主義)を提唱し、この年「アプストラクシオン・クレアシオン」を脱会する
はじめての画集『OKAMOTO』がG.L.M.社(パリ)から刊行される
◆1938(昭和13年)27歳
パリ大学でマルセル・モースに師事し民族学を学び始める
国際シュールレアリスムパリ展に《傷ましき腕》を出品
◆1939(昭和14年)28歳
この頃ジョルジュ・バタイユら思想家と親交を深める
パリ大学民族学科卒業。母・かの子死去(享年49歳)
◆1940(昭和15年)29歳
ドイツ軍のフランス侵攻により、最後の引き揚げ船・白山丸で帰国
◆1941(昭和16年)30歳
第28回二科展に滞欧作品《傷ましき腕》を出品
銀座・三越で滞欧作品展開催
◆1942(昭和17年)31歳
召集を受け、二等兵として中国の前線へ出征
◆1946(昭和21年)35歳
終戦をむかえ、6月佐世保港に復員、東京青山に戻るが、空襲により作品と蔵書の全てを失う
◆1947(昭和22年)36歳
東京・上野毛にアトリエを構え、制作を始める
二科会会員に推挙される
この頃より自らの芸術理念の核として「対極主義」を提唱
◆1948(昭和23年)37歳
花田清輝、埴谷雄高らと「夜の会」を結成し前衛芸術運動を開始
父・一平死去(享年62歳)
8月には「アヴァンギャルド芸術研究会」を発足
◆1949(昭和24年)38歳
第34回二科展に《重工業》を、翌年第35回二科展に《森の掟》を出品
◆1950(昭和25年)39歳
現代美術自選代表作15人展に出品
◆1952(昭和26年)41歳
東京国立博物館で見た縄文土器に感じた衝撃を「四次元との対話━縄文土器論」として『みづゑ』に発表
地下鉄日本橋駅にモザイクタイル壁画《創生》を制作
◆1953(昭和28年)42歳
パリとニューヨークにて個展を開催
7月に国際アートクラブ日本本部を結成、代表となる
◆1954(昭和29年)43歳
青山にアトリエを移し、「現代芸術研究所」を設立
『今日の芸術』が刊行されベストセラーとなる
第27回ヴェネチア・ビエンナーレに岡本太郎、坂本繁二郎の二人が出品。
◆1956(昭和31年)45歳
旧東京都庁に『日の壁』『月の壁』など11面の陶板レリーフ制作
日本橋高島屋「世界・今日の美術展」企画
映画「宇宙人東京に現わる」の宇宙人の美術デザインを担当
◆1957(昭和32年)46歳
「芸術風土記」を『芸術新潮』に発表
この頃から日本各地への取材旅行をさかんに行う
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