●Fellows & Superiors/My personal affairs


詩魂を歴史叙述に持ちこんだ粋人
日本近代思想史家・黒羽清隆さんのこと
2001.4.30


1
 「事実をねじ曲げようとする人たちがいるんだなあと思っていた。国会議員にも戦後処理の問題で信じられない発言をして辞職を余儀なくされる人たちがいる」。
 4月26日成立した小泉純一郎内閣の外務大臣に就任した田中真紀子氏の発言である。
 文部科学省が先刻、検定合格させた「新しい歴史教科書をつくる会」主導の教科書に中国や韓国が強く反発していることに対し記者団に意見を求められ応えたものだ。ほとんど国民の理解の外にある「永田町」という異様な世界で派閥に属すことなく、実力者とされる所属政党人を父親譲りの得意のダミ声ではげしく口撃し、国民的人気を集める彼女の歴史認識は、絶対多数の国民の認識と違わない。
 もとより、日本の政府見解として、「かつてのわが国の起こした戦争はあきらかに侵略行為であり、近隣諸国に多大の被害と人々への苦痛を与えた」と村山政権以降ひきつづく政府が繰り返し表明しているものを、「そうではない」、と強弁する表現の自由度がわが国にはある、ということか。
 それは、それでよし、としよう。しかし、政府・文部科学省が執行する教科書検定制度のなかで、政府見解と、はなはだしく異なる歴史認識を当の政府・文部科学省が、「問題なし、はい、合格…」とすることを同一視できるか。矛盾なしなのか。
 検定制度なんか存在しなければ、これら矛盾は生じない。表現の自由も保障できる。現代国家としての弱点を今日までひきずり外交摩擦をいたずらに惹起させるなにがしかの力が、わが国の政治世界にひそかに忍び込んでいるように思う。

2
 こんな状況のなかで、かつて、親しく交遊していただいた黒羽清隆(元・静岡大学教授)さんのアジア・太平洋戦争史に関わる著作を読み直している。ここでは、その著作については語らない。彼の著作に触れるうちに、黒羽さんとの14年におよんだ交流がしみじみと想いだされ、何事かを記憶に留めおきたくなったのである。
 で、黒羽さんとの交流というのか、交遊ていうのか、その一端を記しておきたい。

 黒羽清隆さんは、実はすでに天上人である。1987年6月に静岡県島田市の市民病院で逝去されている。大腸癌て゜あった。
 なによりも口惜しいのは、53歳という若い生命を天国へ運び込んだことだった。だから、ぼくと黒羽さんの14年の付き合いはじめは1987年から14年遡る1973年、彼が39歳のときになる。当時、彼は都立大学付属高校にあり、ほどなくして東京学芸大学付属高校に転ずる。そして、79年から静岡大学に腰を据えて、研究・教育に傑出した業績を築いた。
 1979年であったと思うが、数多い日中十五年戦争史に関わる論文や著作を系統的・体系的に再構成して『十五年戦争史序説』(三省堂)として世に問うた。多彩多様な史資料の操作と、その批判的分析、生活史・文化史を色濃く採りこんだ近代日本の歴史像の構築は、大胆さと新鮮さをふんだんに披瀝し好評で迎えられた。専攻研究を同じくする当時、法政大学教授であつたS.M氏は、全国紙の文化欄ほぼ半面を使って論評し、「黒羽史学の誕生」と讃えた。

 ぼくは、黒羽さんの書き下ろしの原稿を数多く手にした。
 はじめての読者として手にする彼の原稿を読むのは愉しかった。すでに安定した評価や解釈がなされて定説とされている歴史事項のちいさな解説であっても、彼の原稿は、初見の史料を披瀝し特異なリズム感のある文体で綴られていた。
 その文体を、文学的風合いのある歴史叙述”黒羽節”とぼくは呼んでいた。

3
 ぼくらは、新宿や渋谷で、あるいは横浜の居酒屋で日本酒に魚を肴に杯を交わしながら、それぞれの自身を露わにして、よく語り合った。
 「早稲田にいきたかったんだよ。素朴にね。小説家になりたくてね。あそこは、作家の生産工場みたいな大学に思えてね。だけど、あとに弟も控えていたし、授業料の安い国立を選択せざるを得なかった。…」。
 学童疎開した体験ばなし。中学から高校にかけて猛烈に文学作品を読み漁ったこと。教職を得たころ、映画三昧の数年を送ったことなど、はなしは尽きなかった。
 黒羽さんのはなしぶりは、誇張するでなく、力みなく、すがしい語り口調だった。
 実際、黒羽さんは青年期よりペン・ネームを用いながら詩作をつづけていた。だから、思想史研究者・日本現代史研究者として論稿叙述をなりわいとするなかに彼の”黒羽節”は隠し味として忍びこんでいたのである。

 たとえば、こんな風に…。『太平洋戦争の歴史・下』(講談社現代新書)のあとがきにつぎのように書く。

 「敗戦の日から四十年、あの八月十五日に国民学校六年生の子どもだったチビッコの私が、ひとりの歴史家としてこの本・上下二巻を書く。そのことに深い感懐がある。
 私は、この本において、なによりも「戦争」そのものを歴史的に描写しようとこころみた。「戦争は、他の手段を以ってする政治の継続である」というクラウゼヴィッツ・レーニン系列の視座を知らないわけではないが、なにより、戦争を戦争として描いて、いまや圧倒的な多数派である「戦争を知らない」世代に、あの四年間をつたえようと私は力をつくした。………<中略>。
 私は、この本のなかで、事実を事実として、できるだけ多くさしだそうとつとめた。
 読者諸氏がご自身の考え方や思想や人生観・世界観にもとづいて、どういう「太平洋戦争の歴史」像をくみたてられようと、それは、むろん、ご自由だが、ここで私がさしたした事実の大部分を無視するというわけには、たぶん、ゆくまい。
 特定の歴史観にもとづいて、その見方に都合のいい事実だけを強烈にしぼりあげてゆくというやり方を、少なくとも私はできるかぎりしりぞけたつもりである。
 亡き小林秀雄さんの口真似をしていわせてもらうならば、”歴史とは、無私を得んとする道である”………」

 キザで、調子のよい、こんな”黒羽節”をぼくは好んだ。

4
 黒羽さんとは何度か旅をしている。広島、呉、江田島、松本、上田、名古屋に犬山。これらはすべて現代史の歴史の現場だ。彼は、歴史の現場を実見するのが好きだった。箱根にも幾たびか足を伸ばし、京都の寺社めぐりもした。
 彼は、食道楽でもあった。ぼくもそうだが、ただ、美味に舌を打てば満足するぼくの胃袋と異なり、彼は、食の薀蓄を相当に貯めこんでいた。それらを彼のすがしい口調が滑らかに奏でた。
 こんな酒盃を重ねるのは実に愉快で、私塾に似た学び舎ともなった。
 和歌山・白浜海岸で食したクロダイの活き造り、呉のテッチリ、別所温泉の山菜の天麩羅。京都の萎びた料亭で、なるほど、これが京懐石かと感服する馳走にも出会った。
 それぞれに想いが残る。無論、歴史認識・意識のありようも肴にして食し、学ぶことになった。

 すがしい、気分のいい口調が持ち前であったが、こんなことがあった。
 新宿のシャンソン・クラブへ何度かいっしょに足をはこんだころのこと。その日は、黒羽さんに茨城大学教授であったS.A氏ら数人で繰り出した。そして、スコッチを水割りで味わいながら、プロの唄うシャンソンに身を委ねていた。
 そんなところに官僚風の若者三人が入ってきた。席を確保して座談をはじめたかれらは若者特有の精気を漲らせ、シャンソンを愉しむより、わが国の経済政策かなにかを論じているようであった。
 そのうち、なかのひとりが、座談にうつろになり、チラリ、チラリとぼくらの席に視線を向けはじめた。挙動がどうにもおかしいのである。そして、…やおら、立ち上がる。めざすは、ぼくらの席だった。
 「黒羽先生ではありませんか」
 若者は黒羽さんに目をとめていたのだった。
 「はい。そうですが…、どなたでしょうか?」
 「興銀の○○と申します。初めてお目にかかります。が…、初めてという感じでもなくて、不躾けと思いながらご挨拶したくなりまして……、いや、お礼を申し上げたくなりまして…」
 「ハァー、さて、どんなことでしょう」
 黒羽さん、まったく知らぬ若者に声をかけられ、面食らっている。
 「いやぁ、そのお声、まちがいなく黒羽先生ですね。そして、お顔も。私、高校時代、先生のTV講座だけで日本史を学び、受験もすんなりゆかせていただきました。まさに、名授業でたのしく学ばせていただきました。御礼を申し上げます」
 黒羽さんは1969年から79年まで、NHK通信高校テレビ講座で日本史を担当していた。たしか、和歌森太郎博士が前任者で、和歌森さんから推挙されて後任を引き受けた講座であった。
 この講座は、現在でも大学や高校で教育現場に立つ教師たちの語り草になっているほどの名講義だった。高校生だけでなく、大学生、高校・大学教師たち、そして、社会人にまで視聴者は広がっていた。10年におよぶ異例の長期間、NHKが講師委嘱した理由はこんなところにあったのだと思う。

 まだ、若かったぼくは、当時、鼻っ柱が勝り、編集者の領分を超えて、多数の執筆者の原稿に難癖をつけたり、勝手に書き直したり、粗暴な編集者であった。いまさらではあるが、恥ずかしいかぎりだ。
 あるとき、全集企画の原稿執筆上の問題で6人ほどの先生諸氏にお集まりいただき編集会議を開催した。その席上ある一件で、ぼくは、とある先生に手を上げんばかりに激怒してしまった。その先生は憤然と席を立ち、去っていった。当然のように座はしらける。みな、呆然とした風であった。ふたりの先生だけ、サモアリナンと泰然としていた。
 ひとりは、さっそく善後策を執ろうとぼくを促してくれた。そして、ひとりは、「図師さんが怒るのもわかるような気がするナ…」と飄然としていた。黒羽さんである。
 以来、黒羽さんが、ぼくを人に紹介するとき、「このひと、怒る編集者なんですよ」と添付言辞が付くことになった。

5
 山も海も、動物も花樹も愛した黒羽さんは、元気そのものにいつも見えた。
 しかし、新しい歴史学を担う俊秀とされたのが災いしたのか、どこからみても、忙しすぎる学究生活であった。しずかに病魔が忍び寄っていた。病魔は52歳の黒羽さんを襲う。
 「命拾いをしましたよ」と退院した黒羽さんはすっかり元気を取り戻したかに見えた。しかし、ふたたび、体調を崩す。
 黒羽さんは、飛鳥の中谷さんの招きで別所温泉にゆくことになった。ぼくは、所用あって参加できなかった。温泉に浸りくつろぐ、湯上りの酒宴が想像され、ぼくは羨ましがった。ところが、その日、あの食通の黒羽さんが食欲まったく失い、すぐに酒席を離れて床に臥した、と聞かされおどろいた。
 別所温泉は、彼が学童疎開を体験した歴史的舞台であった。
 しばらくのち、訃報が届けられたのである。凶年53歳。14年前の6月19日のことだった。

 彼は東京教育大学学生時代、和歌森太郎、家永三郎の歴史学の碩学ふたりの博士から学んでいる。そして、最初の職場であった東京都・東戸山中学に足を運んでまで就職を世話したのが和歌森博士であり、ただの一度しか結婚の媒酌を引き受けたことがないという家永博士の、ただの一度のカップルは黒羽清隆夫婦、だったのである。
 ふたりの碩学はあまりにも早く逝った俊秀・教え子に言葉を失うほどの心痛を覚えられたのではないだろうか。
 ぼくにとっても、師と友を失い、言葉など用意できるはずもなかった。

6
 黒羽さんの詩をひとつ、紹介しておく。


       ◎傘の唄
         あるいは国民的歴史学運動の情念について

        降りしぶく街にでるとき
        君たちむすめら
        あかるい傘をさしてゆけ

        男たちは
        つめたい黒い傘をさしてあるき
        それが雨の日の街を憂鬱に思わせる

        君たち
        あふれ咲く花花の傘をさして
        きりりと
        鋭角的に

        君たちのからだは
        いつも
        いっぱいの憂いと気遣いにみちていようが
        しかも瞳は高きをみあげ あかるい傘をくるくるとまわしてゆけ

        そのとき われら若者は
        鋭い眼ざしではるかな時間をみつめはじめ
        やがて
        いっぱいにさすであろう日射しのためによろこびの歌歌を準備する

        降りしぶく街にでるとき
        君たちむすめら
        あかるい傘をさしてゆけ
        あじさいの花
        くちなしの花
        タンポポの花
        つゆくさの花
        暗いおもい傘ばかりの群のなかを花の匂いがする傘をさしてゆけ
        君たち
        そしてそののびやかにはやい足どりで
        黒い傘をさしてあるかねばならぬ男たちの渇いた胸に

        熱いランプをともしてやれ

          <『黒羽清隆詩集:いまはけものたちのねむりのとき』(日日授業実演会:刊行)所収>



トップに戻る


●My personal affairs & miscellaneous


■かがやく生命■




  ぼくの敬愛するH.S氏の若い次女夫妻に第一子が誕生した。2000年初頭のことである。3、4歳児のころよりその次女を知るぼくは、湯上がりの赤味を帯びた純真無垢な裸身のまま部屋中を跳ね回っていた彼女が母親になる、という自然のすばらしさをありがたくも享受することか゜できた。そののち数ヶ月を経て、うれしいことに、ぼくの愛する娘にも天童が授けられた。H.S氏の次女Mちゃんに求められて拙い一篇の詩を綴った。(2000.2)


                 かがやく生命(いのち)
                ∞真帆讃歌∞ 



                一枚の写真、不思議なものだ。
               男はすっかり父になっていた。
               父になった男は宇宙が遣わした天使を抱き
               善良の心魂(しんこん=真心)のなかに戯れている


               天使が生まれた日、
               母になった女は幼い壊れそうな天使の体に
               なにをしたのか。
               母になるためにおびただしい汗をかき、
               持てる体の力のかぎりをつくして女は天使を生んだ。
               母は天使のちいさな心臓をたしかめ、
               この世でもっともうつくしい笑みを見せた。
               そして、どこまでもやわらかい、甘い接吻をしたのだ。

               写真のなかの天使ははじけるような生命のかがやきを漲らせ
               父の胸に安(いずく)んでいる。

               天使は真帆に名を変えた。
               父と母がせいいっぱいの力を合わせて真帆が生まれたことを
               真帆は、知っている。
               それが、愛、だ。…ということも。

               「デモ、ゼンリョウデ、ジュンスイナ、ウツクシイ
                チチ ト ハハ ノ ココロヲ プレゼント シタノハ
                マホチャン ダカラ ネ。ワスレチャ メーダョ」

               貴司に美絵よ。ぼくのだいすきなふたりよ。
               真帆は、おまえたちのもっとも大切なものだ。
               こころの底から
               もっとも大切にしなければならないと思うとき、
               真帆も、
               おまえたちふたりをもっとも大切にしたい、と思うだろう。



                       

トップに戻る