300万円で人は幸せに死ねるのか?
 

仕事でお世話になっている外山(とやま)さんの奥さんの親が先日亡くなった。
大島の方に葬式に行ってきたらしいが、こんな事を言っていた。
「ホントに向こうの人は形式ばっかりこだわってて馬鹿みたいだよ! なんだかんだで300万円かかったんだよ!」

まったく同感である。 死体を墓に運ぶだけで、ワケのわかんない文を死体に向かって読み上げるだけでウン十万単位で金がかかるのだ!
だいいち坊さんというシステムの意味がわからない。
神や仏なんぞいないのは乞食でも知ってる事で、それを堂々とスクーターでやってきては’気持ち’と称して大金をまきあげて帰っていくのである。 
坊さんでなければ裁判沙汰になるような話だ。

その大島の遺族、というのもけっこーキテて、 葬式中の形式や歩く時の並び順(詳しくは知らないが)なんて事で本気で喧嘩を始めてしまうらしいのだ。
終いには葬式後の料理がしょぼい、なんて事で文句をいうバカもいたらしい。

いったい何のために皆そこに集まっているのかわかってるのか?  故人を偲ぶために親戚が集まる場、という意味では葬式という行為は否定しないがあまりにも周りの目を気にしすぎているのではないか?

大事なのはその人との思い出を一生忘れない、という事なのではないのか? 

葬式後の料理が豪華だったらその人が成仏できるとでも思ってるのだろうか。 まあ、成仏なんて発送自体ナンセンスですが。

同じような事に結婚披露宴がある。
なんの工夫もなく会場の言うまま進行。 上司の挨拶、親戚のかくし芸、新婦の友達が歌いながら泣く、 結局残ったのはなんたら焼きの皿だけだったりする。

横川はそんな会でご祝儀出すよりも直接おめでとうと言いたい。 別に法律で開かなきゃいけないわけじゃないんだから。
でも結婚式の場合は本人達が開きたくて開いてる訳だからこちらが是非を問うスジではないだろう。
なので呼ばれればお祝いしに行くし、本来個人個人の気持ちであるご祝儀を皆で話して相場を決めたりもするだろう。 
ただ葬式にしても結婚式にしてもイベントだけが先行して本来の部分が弱くなってしまってはいないか? と思うのです。

仮に皆さんは死んだら300万円かけられるのと心から悲しんでもらうのとどちらがいいでしょうか?

 

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