|
人生には必ず起こることがあります。
すなわち、親の死。
2006年11月、横川もそれを体験することになりました。
そういう事態があってもおかしくない年齢ではあるし、 周囲にももっと早くにそうなった方も大勢いる。
しかしながら常々こういう場などで書いているとおり気の毒に、とはもちろん嘘偽りなく思うがやはり自分にとっては何も変化がないことなのである。
今回うちにこういうことが起こっても周囲には何も変わることはない、と思いますし。
わざわざこういう文を書くというのは自分が自分の感じたことを自分のスペースに遺しておこう、というだけで、読んだ誰かになにか影響を与えようとか横川の気持ちに共感してほしいわけではない。
だが自分がこんな気持ちになった、というのを知ってほしいという思いはあります。
ただ、読み、そこになんの感想も無く、だが記憶には留めておいてほしい。
まず、
親とは遺伝子的に親であると同時に、間違いなく自分にとって親でした。
ということ。
横川と父親のそれまでの関係はというと、 他人と言っても言い過ぎでないほどのものでした。
同じ家に住んでいながら会うのは1ヶ月に1度あるかないか、、
よく言われる不仲とは喧嘩したりお互い嫌悪感を抱いてるものだと思うが、自分と父の場合は簡単にいうとフラットな状態でした。
つまりなにもないんです。
お互いを干渉するわけでもなく協力するわけでもなく、関係のない状態で長いこと暮らしてきました。
そしてお互いそれに不具合を感じなかったのです。
詳しく書くと非常に長くなってしまうので割愛しますが。
そんな父親が2006年春、胃癌だということが判明しました。
正直、それほど大事に思いませんでした。
感覚が他人だからです。
しかしながらやはりやるべきことはやらないといけませんので父親と接する機会は多くなった。
父には胃潰瘍と伝えられていたのですが薄々気づいてたらしく、一時退院するので迎えにいった車の中で 「多分先は短い。 薬や手術で多少延命してもしょうがないから入院はせずこのまま成り行きに任そうと思うよ。」 と言った。
この考えは全く賛成である。
自分が歳とってからそうなったら間違いなくそれを望むだろうから。
20年以上ぶりに父を少し、 見直した。
それ以降、医者からは1ヶ月か2ヶ月か、と言われていたにも関わらず月日は過ぎ10月になった。
「つーか、知らないうちに治ってんじゃん??」なんて母と冗談を言ってた矢先、急速に悪化していった。
痛みがひどく痛み止めをもらいにいった病院で即入院。
知らず知らずやはり進行はしていたようだ。
そこからまた入院に伴う用件でバタバタしていった。
いつのまにか何年もまともな会話をしてなかった父親と普通に喋るようになっていた。
だが入院してからもどんどん弱っていく父はカスレ声でしか話せなくなり、必要なことしか話さなくなった。
ある日母が世話してる時に、「もう最後だろうから、長男一家も含めて家族皆で回転寿司に行きたい。 今度の土曜はどうだろう。」と言ったそうだ。
そのとき父は歩くのもままならず、食事もとれず点滴で栄養をとってる状態だったので回転寿司どころか病院を出るのも無理な状態だったので「いや、それはさすがに無理でしょう、、、」と家族間で話をしていた。
食べることはできなくても、自分を囲んで家族皆がワイワイしてる姿を見ることで自分が遺したものを確認したかったのだと思う。
そして「今度の土曜」という日。
病院から緊急の電話があり、吐血したので急いで来てほしいとのことで母と車で向かった。
雨が降っていた。
病院に着いた。
母をとりあえず先に降ろしてから駐車場に停め、病室に向かった。
母と年配の看護婦が見えた。
その横のベッドには口元に拭き残した血をつけて横たわっている父親がいた。
到着する10分前に息をひきとったそうだ。
最後に寿司屋に行きたいというのは叶わなかった。
あんなに距離のあった父親と多少なりとも近づくことになった数ヶ月でした。
そして自分の気持ちや考えなど無関係なところに親子という存在があることがわかりました。
なぜなら、
横たわった父親を前に僕は涙が止まりませんでした。
|