雨
SCENE 3 歌
| "雨の日に別れよう。涙が見えなくていいから。" そういう歌があるのだと、窓外の雨を見つめたまま、おまえは呟いた。窓際にひっそりと立つおまえが急に遠くに思えて、俺は思わず力いっぱい抱き締めた。 |
| 「…なんて言った?」 カーシュが呆然として聞き返した。イシトが、少し思い詰めた顔でうつむく。 「テルミナから撤退するって…そう、言ったのか…?」 表情を無くしたまま、カーシュが抑揚のない声で言う。 「ああ…。」 イシトがうつむいたまま横を向いた。 「君の故郷が開放される…。君には、良いニュースだろう。」 カーシュの、カッと見開かれた目が、わずかに充血している。 「本気で言ってんのか…イシト!」 横を向いたままのイシトの腕を、カーシュは乱暴に引いてこちらを向かせた。イシトは目を伏せたまま、カーシュの顔を見ようとはしない。イシトは呟くように言った。 「私は、正直なところ、ホッとしている。我々が撤退し、テルミナをテルミナの人々に返す。それが正しい国と国との在りようだろう?そして…君と私は、もう敵国の軍人同士ではなくなる…。」 イシトはようやく、ゆっくりと顔を上げた。かすかに寄せられた眉が、彼の真意をわずかに伝える。カーシュはまるで睨みつけるかのように、イシトの顔を凝視していた。だが、瞬間、見る間にカーシュの彫刻のように端正な顔が、くしゃくしゃに歪められた。 「…行くんだな…。」 怒り出すか、喚き出すかしそうに思えたカーシュは、静かに一言、呟くように言っただけだった。 「そうだ…。」 イシトも、感情を押し殺したように言う。 「撤退は、明日、開始される。テルミナ部隊が総員軍艦に乗り込み、出航するのは、5日後の予定だ。」 「五日…。」 カーシュが茫洋と呟いた。イシトが初めて悲痛に顔を歪めた。 「カーシュ!…君がもし、そう言うなら…出航するまで、毎日ここへ来る…。」 カーシュが、掴んだままだったイシトの腕を放し、弱々しく笑った。 「馬鹿言え。指揮官のおまえは、いろいろと忙しいんだろうがっ。あとのことを取り決めたり、そういう事もしなきゃなんねぇんだろ?…無理したら、身体、壊しちまうぞ…。」 イシトは唇を噛んでうつむいた。それは事実だった。蛇骨大佐達と本国との間に立ち、今後の取り決めをするのも彼の任務だった。また、下士官から歩兵に至るまで、テルミナの人々に迷惑を掛けさせないように取り仕切らねばならない。持ち込んだ備品の管理とチェック。しなければならないことは山ほどあった。だがそれでも、イシトは、カーシュに"来い"と言って欲しかったのだ。 「…当分、君と話す機会が無くなるな…。」 イシトは寂しげに言った。カーシュとて、本当は一秒たりとも無駄にしたくはなかった。だが、我を通すには、彼には分別がありすぎた。イシトを大事に思えば思うほど、彼は、イシトを引き留めるべきではないと、自分に言い聞かせた。イシトはカーシュに背を向け、ゆっくりと戸口へ向かった。ドアに手を掛け、イシトは振り向いて小さく笑った。 「出航の日、雨が降ればいいな…。」 ドアはゆっくりと閉じられた。イシトの歩み去る足音が小さくなっていく。カーシュは思わずドアに駆け寄った。だが、ドアに手を掛け、カーシュの動きは止まった。ドアに額を押しつけ、そのままもたれ掛かる。 「イシト…。」 カーシュは、今更ながら、自分の中のイシトの存在の大きさに愕然とした。彼がここから居なくなる。その姿を目にすることが出来なくなる。そう思っただけで、この喪失感はどうだ。一人一人、それぞれに、自分の足で立っていよう。常々そう口にし、互いにもたれ合うことを避けようと、気にしていたのはイシトの方だった。思えば、イシトはこの日の来ることを、ずっと前から覚悟していたに違いない。カーシュは、寄りかかられる方だと思っていた自分が、いつの間にか心のどこかで、イシトに依存していたことに気付いた。頭では分かっていた。いつかは離れていく日が来ると。だが、同時に考えないようにしてきた。こんな日の来ることを。 「…雨、か…。」 カーシュは、ドアに寄りかかり呟いた。雨が降ればいい。雨の中で、雨に隠れて、思い切り泣きたい。カーシュは、こみ上げてくるものを、大きな溜息に変えて吐き出した。 |
| コンコン。3日後の夜半、カーシュの居室を誰かがノックする。 「ああ、入っていいぞ。」 あれ以来、文机で報告書を書きながらも、ついついぼんやりと考え込んでしまう。カーシュは、ノックの音に答えたものの、書類に目を落としたまま、まだ、ぼんやりしていた。ドアの開く音がして、誰かが部屋に入ってきた気配がする。だが、無言である。カーシュは、初めて入ってきた人物へ目を向けた。 「イシト…!」 黙ったまま立っていたのは、イシトだった。ここ数日、イシトはやはり忙しく過ごしていたらしく、何度かカーシュの居る蛇骨館にも足を運んでいたらしいのだが、顔を合わさずじまいだった。 「今、蛇骨殿との打ち合わせが終わったんだが、少し休ませて貰っていいか?」 イシトは疲れた顔に、それでも少し照れくさそうな笑みを浮かべて立っていた。顔色が悪い。生真面目なイシトのことだ、ろくに眠っていないに違いない。驚いて立ち上がったままだったカーシュは、胸が苦しくなるのを覚えた。 「…ああ、休め。まだ、仕事があるのか?」 イシトは弱々しく笑った。 「いや。ちょっと無理はしたが、だいたい終わらせた。あとは出航を待つだけだ。」 どうやら、イシトは無理を重ねて、ここへ来る時間を作ったらしい。カーシュは下を向いて不機嫌そうに言った。 「馬鹿野郎っ。無理して倒れたらどうするんだ…。」 だが、本当は喜んでくれていることを、イシトは知っていた。イシトはカーシュに近付き、その肩に手を掛けた。そっと唇を寄せる。だが、カーシュはイシトの腕を掴み、彼の向きを変えさせた。 「カーシュ?」 イシトが不審の声を上げる。カーシュはイシトの腕を掴んでベッドの方に連れて行った。 「とにかく休め。少し眠れ。…どんだけ寝てねぇんだ?」 「…2日か…その位だ…でも、この程度は軍ではよくあることだ。」 イシトがすがるようにカーシュを見つめる。カーシュは悲痛そうに顔を歪め、ついにイシトを抱き締めた。唇を合わせたまま、イシトをベッドに倒す。イシトはカーシュの首に手を回した。だが、カーシュはイシトをきつく抱き締めるだけだった。 「…こうしてる。そばにいるから、少し眠れ。おまえが目を覚ますまで、ずっとこうしてる。な?」 カーシュはいつもするように、右手でイシトの前髪を掻き上げ、頭を撫でるようにして、また肩の辺りを抱いた。イシトは小さく頷き、カーシュの胸に頬を寄せた。カーシュの鼓動が聞こえる。背中を撫でる、暖かいカーシュの手。思い出す。初めてカーシュとこうして一緒に眠った日を。 イシトは、やはり疲れていたのだろう。やがて規則正しい小さな寝息が聞こえ、カーシュはイシトの寝顔をまじまじと見つめた。テルミナ分隊の指揮官とは思えない、無防備な寝顔。自分だけに見せるのだろう、この寝顔を、今のうちに目に焼き付けておこう。カーシュはそっとイシトの頬を撫でた。イシトがかすかに眉を寄せて寝返りを打つ。カーシュはじっとそんなイシトを見つめていた。 |
| 「ん…。」 寝返りを打ったイシトが目を覚ますと、約束通り、カーシュは傍らでイシトを軽く抱いて眠っていた。イシトの顔に、自然と笑みが浮かぶ。イシトはカーシュの頬にそっとキスをした。 「…目ぇ覚めたのか…?」 カーシュがうっすらと目を開ける。すぐ目の前でイシトが微笑む。カーシュは手を伸ばし、思いっきりイシトを抱き締めた。激しい口づけを交わす。 「イシト…イシト!」 カーシュがイシトの体中に唇を這わす。イシトもカーシュを抱き締める。今、この時限り、おそらく今宵限りの逢瀬。何も言わずとも、お互いにそれを知っている。もしもまた会うことがあっても、もう、こんな風にお互いを求め合うことは出来ないだろう。今だから、今この時だから、二人の間には通い合うものがある。敵同士のはずの二人を結びつける、不可思議な共有意識が。 「…忘れないよ…。君の暖かさ…。」 カーシュの胸の上に頭を載せて、イシトがポツリと呟いた。 「あったりまえだっ。忘れてみろ。ただじゃおかねぇ。」 カーシュが無理に強がりを言う。イシトはカーシュの胸を撫でながら小さく笑った。その頭を抱くように、カーシュが腕を回す。 「…初めて会った時には、こんな風に分かり合える日が来るなんて、考えもしなかった…。」 イシトの言葉に、カーシュが苦笑する。 「それは時効だって言っただろ。」 こうして通じ合うきっかけになったのも事実なのだが、カーシュはイシトに"パレポリの犬"と言ってしまったことをずっと気にしていたらしい。だが、もう両国は敵対関係ではなくなるのだ。 「いつか、おまえの国と俺の国が、俺とおまえのようになれる日が来るさ。」 イシトがはっと顔を上げてカーシュを見つめた。 「な、そうだろ?」 カーシュが畳みかけるように言う。 「…そうなるといいな…。」 少し身体を起こし、カーシュの顔を覗き込むようにして、イシトは微笑した。カーシュも笑った。 「いつか、俺の子とおまえの子が、仲良く一緒に遊べるといいな。」 イシトが、思い出したように吹き出した。 「一度や二度はとっくみあいのケンカをするかも知れないがな。」 カーシュも笑い出した。だが、笑い声は次第に小さくなる。二人は顔を見合わせた。 「忘れねぇよ、俺だって。絶対…絶対にな…。」 カーシュがイシトを抱き締める。イシトもカーシュを抱き締める。二人の背が、かすかに震える。静まりかえった室内に、二人の押し殺したような呼吸の音だけが響いていた。 |
| 「雨だ…。」 出航の日、朝から雨が降り出した。しめやかに、別れを惜しむように。 イシトは空を見上げ、微笑した。望み通りになった。そして、うつむいた。きっとカーシュも同じ事を思っている。この雨を喜んでいる。イシトはカーシュを想い、唇を噛んだ。だが、振り切るように顔を上げたイシトは号令を発した。 「総員、乗船せよ。」 イシトは乗船口近くで、乗り込む兵達をぼんやりと見つめていた。目の端に、見送りに来た仲間達の姿。イシトは彼らに挨拶のために歩み寄る。だが、そこにカーシュの姿はない。二人の別れはすでに済んでいた。 「君の尽力に感謝する。帰国しても、是非また、エルニドに来てくれたまえ。活躍を祈念する。」 蛇骨大佐が力強くイシトの手を握った。イシトの部下が報告に近付く。 「隊長!乗船が完了致しました。」 「よし。すぐ行く。出航の準備を開始しろ。」 イシトは蛇骨たちの方を振り向いた。 「お世話になりました。ではっ。」 イシトは敬礼すると、いかにも軍人らしく回れ右をし、船に向かって歩き出した。部下が傘を差し掛ける。イシトはついに、乗船した。やがて、汽笛が響き、イシトを乗せた軍艦は岸壁を離れた。甲板で慌ただしく動き回る兵士たち。彼らも、それぞれに親しくなったエルニドの人々に手を振っている。部下の差し掛ける傘の中で、イシトも手すりに寄って蛇骨たちに敬礼する。だが、ふと部下が呟いた。 「あれ?あそこに誰か立ってますよ。見送りでしょうか。」 雨に煙ってよく見えないが、岸壁の最先端に人影があった。イシトが息を呑んで目を凝らす。やはり、それは騎龍したカーシュだった。彼は雨に打たれて、じっと動かない。イシトは船の先端に走った。少しでもカーシュがよく見えるように。 「カーシュ…。」 イシトは敬礼する。カーシュも胸に拳を当てる、龍騎士団の敬礼で応える。二人は雨の中、遠く離れて見つめ合った。 「隊長!濡れます。傘を…。」 追いかけてきた部下が、傘を差し出す。だが、イシトはカーシュから目を動かさずに呟くように言った。 「…いいんだ。今は、こうしてエルニドとの別れを惜しみたい。私は、長くエルニドに居すぎたからね。君も、別れを惜しみたい人が居るだろう。私のことはいいから、行きたまえ。」 部下は、何度か振り返りながらも立ち去った。イシトは、カーシュの姿が見えなくなっても、そして、テルミナが雨に煙って姿を消したあとも、じっとそこに立ちつくしていた。それは岸壁に立ちつくすカーシュも同じだったろう。 イシトは雨に濡れて張り付いた髪を左手で掻き上げながら、本当に小さな声で歌った。 「"雨の日に別れよう。涙が見えなくて、いいから…。そう言ったのは、俺だったか、おまえだったか…。"」 |
| 想い出はいつも雨の中。雨が降るたび、思い出す。そう言ったら、おまえは怒るだろうか。雨の向こうに、おまえの怒った顔が浮かぶ。泣き顔も、笑った顔も、いつも雨の中に。 |
FINE
| 言い訳 あああ、もう、思いっきり泣きます、私。書きながら。 |