深夜の天下無敵号は、日中の騒々しさとはうって変わって静まりかえっていた。ただ船体に当たる波が、かすかに水音を響かせる。
カーシュは眠れなかった。
作戦会議と称して、何かにつけて、多くの仲間が暮らすこの天下無敵号に集まることになる。彼にすれば、蛇骨大佐やリデルのいる天下無敵号に来るのは、うれしくはあっても厭なことではない。
だが、イシトは違う。イシトにとって、自分たちが占領したテルミナの当主たちに接するのは、気の咎める事に違いない。
現に、彼は天下無敵号に来ると、部屋の隅で黙って立ちつくす。リデル救出に力を貸した彼を恨む者はもちろん居ないし、意見を求められれば積極的に情報を提供してくれもするのだが、彼にとって、この天下無敵号が居心地の悪い場所であるのは確かだった。
イシトは、今、一人でどうしているだろう。
最初の頃こそ自分とは正反対とも言えるイシトに反発もしたが、カーシュはいつの間にか、イシトをかけがえのない存在と思うようになっていた。
カーシュはそっと寝台に起きあがり、同室のゾアを起こさぬよう部屋を出た。イシトは、船の最下層の船室で休んでいるはずだ。カーシュは下層に向かうはしごを降りていった。
通路に出ると、かすかに耳慣れぬ響きが聞こえ、カーシュは足を止めた。見ると、暗い通路に一筋灯りが漏れている。音はそこから聞こえていた。
確か、ピアノとかいった。以前、リデルが弾いていたのを聴いたことがある。
カーシュは、ゆっくりとその部屋に近付いた。聞こえてきたのは、少したどたどしいノクターン(夜想曲)だった。
カーシュはそっと中を覗いた。部屋の隅のアップライトピアノに向かっているのは、彼が訪ねようとしていたイシトだった。カーシュは静かに、ドアの隙間から、室内に滑り込んだ。
イシトのほっそりとした白い指が、鍵盤の上で踊っている。いつもは銃を駆使するその手が、今は美しいメロディーを奏でていた。カーシュは、うっとりとその様を眺めた。
「……おまえ、ピアノなんか弾けたのか……」
曲を弾き終えたイシトに、カーシュがため息混じりに声を掛けた。イシトが気恥ずかしそうに苦笑する。
「まだ弾けるとは思わなかった……子供の頃に弾いたきりなんだ……」
イシトは、自分の両手をまじまじと見つめた。カーシュもそばに寄る。
「指が、覚えてたんだな……。子供の頃、発表会のためにずいぶん弾いた曲だ。……もっとも、ガルディアが滅びてパレポリが軍事国家になった時、ピアノなんか止めたんだがな……」
自嘲気味に言って、イシトはまたピアノを弾き始めた。今度のは、いかにも子供の弾きそうなエチュード(練習曲)だった。
「器用なもんだな。だから、おまえ、銃さばきも得意なんだな?」
カーシュが、少しおどけた調子で声を掛けると、イシトもようやく小さく笑った。
「ちょっと、君も弾いてみるか?」
イシトが椅子から立ち上がり、カーシュに座るよう促す。カーシュは慌てた。
「お、俺? ダメだぜ。俺はピアノなんて、さわったこともねぇんだ」
「子供の弾く、簡単なヤツだ。私が伴奏を弾いてやるから」
半ば強制的にピアノの前に座らされ、カーシュは自分の無骨な手を眺めた。
「最初はどうだったかな? 弾いてみれば思い出すんだが……」
独り言を言いながら、イシトがピアノを弾いて見せる。
「身体で覚えた事ってのは、忘れないもんだもんな……」
ピアノの上を滑るイシトの手を見つめながら、カーシュも応じる。
「そうだな。頭では忘れたと思っていても、こうして指が曲を覚えてる……。いつかずっと後になってピアノにさわった時、君も、今夜のことを思い出すかもな……」
いつか、ずっと後に――。
カーシュは突然、はじかれたように立ち上がり、そばに立つイシトを抱き締めた。
「カーシュ?」
驚いて声を上げたイシトを封じるように、カーシュは激しく口づけた。イシトが苦しそうに身をよじる。
「……止せよ。こんなところで……」
「誰も来やしねぇよ」
カーシュはなおもきつく、イシトを抱き締める。
「カーシュ? どうしたんだ……」
いつもとは様子の違うカーシュに、イシトが怪訝そうに問う。カーシュが絞り出すように言った。
「覚えてろよ……俺のことも……」
「何を――」
何を馬鹿なことを、と言おうとして、イシトはカーシュの真剣すぎるほどの眼差しに口をつぐんだ。
覚えてろよ。
いつか、会うことさえかなわぬ日が来ても――。
出会うはずのない二人だった。文字通り、異なる世界に属する二人だった。イシトの世界には、もう居ないはずのカーシュ――。
束の間、二つの世界の交差点で、二人は触れ合っている。してみれば、今、これほど確かに思える互いの温もりも、夢や幻のように、いつ消えるとも知れぬ儚いものに過ぎないのだ。
カーシュは、イシトの背に回した腕に力を込めた。その存在を確かめるように。また、決して失うまいとするかのように――。
イシトはかすかに眉を寄せ、遠くを見るような眼をした。
「いつか……遠い君のことを思い出した時、私は何を思うんだろう……」
おそらくその時、二人はそれぞれの世界で別々の生を生きているだろう。記憶の底から、儚い思い出が夢のように蘇っても、はっきりとは互いのことを思い出せないのかも知れない。
それでも、きっと胸が痛くなる。すり抜けてしまう蜃気楼のようにつかみきれない淡い記憶に、ただ胸が締め付けられることだろう。
「……苦しいだけかも知れないな……」
ぽつりと漏らされたイシトの言葉に、カーシュがはっと身体を離して、哀しげに見つめた。イシトはわずかに苦笑して、カーシュに向かって手を伸ばした。
「それでも……君と出会わなければ知り得なかったことが、確かに在る……」
イシトは、カーシュの髪に指を絡めた。
「覚えておくよ……この髪の感触。私が忘れてしまっても、この指が覚えていてくれる……」
「……イシト!」
カーシュが、再びイシトを強く抱き締めた。イシトも、カーシュの背に腕を回した。
――音楽が聞こえる。かすかに聞こえる波音は、通奏低音。その上で、強烈な個性を放つ響きは、エルニドの太陽のような君。わずかずつ形を変えて展開する主題(テーマ)。
忘れない。この調べ――。
繰り返し繰り返し、抱き締める。
互いの温もりを身体に刻み、決して忘れることのないように。
私は思い出すだろう。
記憶の深き淵の底から――。
背に当たる日差しの暖かさに、
きっとこの、君の手の温もりを蘇らせる。
その時、取り戻せない日々を思って、
私は涙するのかも知れない。
けれど、きっと大切に抱き締める。
君と居た、このエルニドの日々を――。
End.
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