一度だけの
〜淡い予感シリーズ〜

 



 これまでの人生でも、知らなければ良かったと思うことは数々あった。それでも、たとえ辛くても、いつかは、やはり知って良かったのだと思えることの方が多いものだ。だが、とカーシュは足下に視線を落とした。
 先頭を進むセルジュ。その後に、蛇骨館から戻ったイシトが続く。柄にもなく最後尾を歩きながら、カーシュは目のやり場に困っていた。
 視線を正面に戻すと、否応もなくイシトの姿が目に入る。歩くたびにかすかに揺れる金髪の先が陽に光り、少しほっそりとした腰や、軍服でいからせた肩、リズミカルに小さく振られる腕に眼を奪われる。


 あの夜、自分は確かにあの腕を掴み、あの体を引き寄せた。


 ふとあたりを見回すイシトの、白い横顔から眼を離せない。カーシュの眼は、自然、その引き締まった唇に引き寄せられる。

 一度だけ触れた唇。ひんやりとして、思った通り少し薄かった。アルコールに火照ったイシトの頬がかすかにカーシュのそれと触れ、一層、カーシュの理性を麻痺させる。それでもカーシュは必死に自制し、そっとイシトの唇をついばんだ。

 イシトがそれを許したのが、酔いのためとは解っていた。本当に、自分の思いに応えてくれたわけではない。それでも、自分は嫌われてはいないのだと、カーシュは有頂天だった。
 一度だけだと、解ってはいる。あの一時だけ、イシトは自分に心を許した。一時だけだと、頭では解っている。だが、心は解ってはいない。
 忘れる、とイシトは言った。無かったことにすると、あの夜部屋を出て行くイシトの背は言っていた。
 けれど、カーシュは忘れていない。忘れられはしない。
 あの夜、触れたイシト。
 鍛えられた腕だった。女のように白く整った顔立ちだが、引き締まった頬もその唇も、女の柔らかく滑らかなそれとは違っていた。
 おそるおそる触れた唇が、冷たく堅く結ばれていたのを、カーシュは忘れていない。カーシュの唇の温もりで、それは徐々に暖かく緩んでいった。わずかに触れたイシトの舌先の熱さが、柔らかさが、今もカーシュの脳裏に蘇る。
 イシトは酔っていた。自分も酔っていた。酔った頭で、酔った心で、酔った身体で、それでも、二人は束の間深く触れ合った。
 イシトの意外な熱さを、そして柔らかさをカーシュは知ってしまった。

 知らなければ良かった。
 カーシュはまた、足下を見つめた。
 イシトを、あの夜のイシトを知らなければ、今自分は、目の前を歩くイシトを眼にするだけで幸福でいられただろう。時折ちらりと振り返るイシトの視線に心躍らせ、その一挙手一投足に、一喜一憂したことだろう。
 イシトをどうにかしようなどと、端から望んでいたわけではなかったし、そう断言もした。そばにいるだけで、同じ時空を共有するだけで、それだけで良かったはずだった。それなのに、今の自分は、それ以上を望んでしまっている。
 いや、今だとて、イシトを抱きたいなどと思っているのではない。ただ、より近付きたい、より深く触れ合いたいと、そう望んでいるだけだ。
 カーシュは顔を上げ、物言わぬイシトの背を見つめた。



 そばにいたいと思うのは罪だろうか?
 触れたいと思うのは罪だろうか?
 その蒼い瞳の中に映る自分を見たいと、望んではいけないだろうか?

 「一度だけ」
 それは、蜜のように甘い誘惑。
 一度だけ触れたおまえに、もう一度だけ触れたいと望むのは罪だろうか?
 ……知らなければ、望むこともなかっただろうか――。




End.

 

 


2002.5.3

知ってしまった蜜の味。切ないカーシュ。
イシト隊長、罪な人ですね〜(^_^;)
というわけで、このくっつきそうでくっつかない二人。「淡い予感」シリーズとして、ちょっと書いて参ります。