つくづくと、馬鹿なマネをしたと思う。
自分の後ろを歩きながら、一人で顔を赤らめてはにやついてみたり頭を掻いたりと落ち着かないカーシュを目の端に捉えながら、イシトは口中で小さく舌打ちをした。
あの夜、なぜ、触れても良いなどと口にし、実際それを許してしまったのか。
確かに自分は酔っていた。だが、酔うほど酒を飲んだこと自体、自分はどうかしていたのだ。
軍に入って以来、祝うことなど忘れていた誕生日を、思いがけず祝ってもらったこともうれしい驚きではあった。だが、あの時、本当にうれしかったのは――。
イシトは周囲を見回す風を装い、チラリとカーシュを見た。
がさつで分別に欠け、猪突猛進な男。会いしなに、いきなり「パレポリの犬」と罵詈雑言を投げつけてきた。少し前の自分なら、腹を立て、睨み付け、前言撤回を求めて食って掛かっただろう。だが、あの時自分は、返す言葉無く俯くしかなかった。
イシトは、もう一度チラリとカーシュを見た。
カーシュには判っていたのだ。イシトがその言葉にどれほど傷付き、反論できない己を悲しんでいるか、カーシュは気付いていた。
がさつでデリカシーに欠けるくせに、妙に優しい男。
「パレポリの犬」という言葉でイシトを怒らせたのではなく、傷つけたことを詫びてくれたカーシュが、イシトにはうれしかった。
軍の意向に反してはみても、母国パレポリを裏切ることはできない。自分がパレポリの人間であることは否定できない。
イシトは時折、仲間達の中で立場を異にする居心地の悪さを覚える。カーシュはおそらく、そんなことにも気付いているに違いない。
「パレポリの犬」という言葉で、立腹するのではなく深く傷付く自分。カーシュが、自分のそのつらさを理解し気遣ってくれたことが、あの夜イシトは何よりもうれしかったのだ。
ずるいヤツだ。
イシトは小さく苦笑した。
そんな風に気遣われたら、心を許さないわけにいかないじゃないか。
好きだなどと言われ、一度は怒って見せたものの、その想いを完全にはねつけることなど出来はしなかった。酔いも手伝い、むしろ示された好意にわずかなりと報いてやりたいなどと、あの時自分は思ってしまった。
だが、やはりあんな事を許すべきではなかったに違いない。
イシトがチラチラと振り向くのに気を取られ、つまずいて転びそうになったカーシュを見て、イシトはため息をついた。イシトを見ていたことを悟られたくなくて、カーシュは真っ赤になって言い訳を並べ、石に八つ当たりしている。
馬鹿なヤツだ。忘れてやると言ったのに。
だがイシトは、その愚かしさを好ましく思っている自分に気付いていた。
真っ直ぐで誠意のある男。不器用で一生懸命で。
そうしたカーシュの振る舞いは、周囲を力づけ、和ませる。
セルジュが、カーシュの言い訳に肩をふるわせ、笑いながら振り向いた。
「ねぇ、あそこの水辺で少し休もうか? カーシュ、すごい汗だよ?」
カーシュは返事をする代わりに、怒ったように口をとがらせ、先に立って足早に水辺に向かった。照れ隠しだ。
セルジュは、促すようにイシトに笑いかけると、自分も水辺へと向かった。セルジュは歩き出したイシトの顔をのぞき込むようにして小声で言った。
「カーシュ、ちゃんとイシトに言えたみたいだね……」
「え……」
好きだと言ったことかと、イシトは絶句してセルジュを見返した。セルジュはイシトの驚きを、自分が、カーシュがイシトの元に行ったのを知っている事に対してだと思ったらしく、くすくすと笑った。
「知ってるよ。だって、カーシュがイシトに謝りたいって言うから、だから、僕がわざわざイシトの居るホームワールドにカーシュを連れてったんだもの」
「あ、ああ、そうか……」
イシトはホッとして曖昧な微笑を浮かべた。
「ちゃんと謝ったんだよね? だからカーシュったらあんなに照れくさそうにしてるんでしょ?」
セルジュの幸運な誤解に、イシトは苦笑しつつ頷いた。
「どうやら、そのようだね」
「僕、カーシュ好きだなぁ」
水辺で頭から水をかぶっているカーシュを見ながら、セルジュがニコニコと言った。
「ね。カーシュって、なんかあったかいよね。ぶっきらぼうだけど、優しいし」
イシトは黙って笑い返した。
「リデル様ったら、見る目無いよ。そりゃ、ダリオさんもいい人だったんだろうけど、カーシュはあんなに一生懸命、リデル様のこと大事にしてるのに……」
セルジュが、ちょっと口をとがらせる。
「カーシュだって、ずっとリデル様のこと好きだったんでしょ? それに気付かなかったなんて、リデル様って、意外と鈍いよねぇ」
イシトは、リデルの涼しげな目元を想起した。美しくたおやかであるばかりでなく、凛とした芯の強さと聡明さを合わせ持った人だと思った。あのリデルが、かつてのカーシュの一途な想いに気付いていなかったはずがない。
「気付いてたと思うよ……」
思わずイシトは口にしていた。セルジュが驚いたように目を上げる。
リデルはカーシュの想いに気付いていた。だが、その想いに応えることはできない。ダリオへの想いを、ダリオの自分への愛を、彼女は捨てることはできなかった。けれどもリデルは、幼なじみのカーシュを失うこともしたくは無かったのだろう。
彼女はカーシュが好きなのだ。それは恋ではないにしても、大切な存在と思ってはいる。だから――気付かぬ振りをするしかなかった。自分とダリオの結婚の意思を明確にすることで、リデルはカーシュの想いに引導を渡したのだ。リデルを諦め、早く別の幸せを見つけてくれることを、リデルとダリオは願っていたはずだ。
そして、カーシュはそれに応えた。彼はリデルを望むことを止めた。今はただ、亡き親友の代わりに彼の婚約者を、大事な幼なじみを、主家の令嬢を、一心に守ろうと努めている。
「でもね、大人には、いろいろ事情があるんだよ」
暗に子供扱いされて、不満げに口をとがらすセルジュに、イシトは苦笑した。
他人事ではないだろう。セルジュとて近い将来、キッドと、幼なじみであるレナとの間で、リデルと同じ苦悩を味わう事になるかも知れないのだ。
「君にも、すぐに判るよ……」
イシトは微笑んで言ったが、セルジュはまだ不服そうに首を傾げている。
「おーい! 何やってんだ? 小僧! おまえも来いよ! 気持ちいいぜ」
水辺でカーシュが手を振る。セルジュはニコッと笑って、そちらに駆けだした。早速、カーシュに水をかけられている。イシトは眩しげに額に手をかざして、水辺の二人を見た。カーシュの長い髪から滴り落ちる水滴が、陽光に煌めく。
「イシトー! イシトもおいでよ!」
セルジュが呼ぶ。だが、自分は行けない。あの眩しい場所は、自分の居るべき世界ではない。そんな思いが拭い去れず、イシトは小さく手を挙げてセルジュの声に応え、近くの木陰に向かった。
背後で、またカーシュに水をかけられているのだろう、セルジュの笑い声が聞こえる。
「ここで休んでるよ」
イシトは言って、木陰に腰を下ろした。
これで良いのだ。
イシトは樹に寄りかかり、目を閉じた。大陸の北寄りに位置するパレポリ育ちのイシトには、エルニドの強い日差しは結構応える。イシトは、背にした木肌のひんやりとした感触を貪っていた。
「……汗、拭けよ」
突然声をかけられて目を開けると、カーシュが濡らした布を持って立っていた。カーシュの白い服が、日光を反射して眩しい。日陰にいたイシトは、その反射に目を射られて、ぼんやりとカーシュを見上げた。
「……俺の使ったヤツじゃ、いやか?」
カーシュの不服そうな声がする。ようやく目の慣れてきたイシトに、頬を赤くし、怒ったような表情のカーシュの顔が見えてきた。
「いや。ありがとう……」
イシトは手を伸ばし、濡れた布を受け取った。気化熱が、イシトの火照った手から熱を奪い、イシトは心地よさにフーッと息を吐いた。セルジュはと見ると、彼は水中で小魚を追うのに夢中になっている。
「そんな服で、よく暑くないな」
カーシュが照れくさそうにしながらも、フンと鼻を鳴らす。
「これが規則だからな」
そう言って、イシトはすぐに小さく笑った。
「と、言いたいところだが、やはりこの軍服はエルニド向きではないな……」
イシトは襟元を大きく開けて、バタバタと衣服の中に風を入れた。
「まだるっこしいな。いっそ、脱いで汗拭けよ」
カーシュに促されるように、イシトは上着を脱いだ。カーシュやセルジュと異なり、あまり陽に当たっていないイシトの腕は驚くほど白く、カーシュの目を奪った。
「蛇骨館の地下室にいる分には、この軍服でも問題無いんだがな……」
イシトはカーシュの視線に気付かず、汗をぬぐいながら独り言のように言って目を上げた。イシトの目は、カーシュの熱を帯びた視線とぶつかった。その視線から自分の肢体を隠すように、イシトは急いで上着を羽織った。
「おかげでさっぱりしたよ。ありがとう」
イシトはカーシュの熱い視線をかわすように、カーシュの目の前に、先ほど借りた布を差し出す。その手を、カーシュはぐいと引き寄せた。急にカーシュの顔が間近に近付き、イシトは喚いた。
「なんのつもりだ。一度だけと言っただろう!」
慌てて体勢を立て直そうとするイシトの腕を掴んだまま、カーシュは薄く笑った。
「やっぱり、忘れてなんかいねぇんじゃねぇか」
イシトがセルジュを気にして小声で抗議する。
「当たり前だ! 人間の記憶が、そう都合よくできてるわけないだろっ。忘れた事にしてやると、そう……」
「そうだろ? 忘れられるわけねぇんだ」
イシトはぐっと唇をかんだ。それから、気を取り直したように軽くカーシュを睨み付ける。
「だが、君が私をどうこうするつもりはないと言ったことも、忘れてはいないぞ」
「――そのつもりだった」
カーシュはニッと笑った。
「でもよ、その気にさせたのはおまえの方だ。違うか?」
今度は、イシトも返す言葉が無かった。酔っていたとはいえ、自分の方から触れて良いと言ってしまったのだ。
カーシュはイシトの頬にそっと触れた。
「考えたら、いつまたおまえに会えなくなるかわからねぇんだよな。こんな毎日だしよ……」
カーシュはゆっくりと、イシトの反応を窺いながら顔を近づけていく。
「俺は……今度は後悔したくねぇんだ。おまえといる時間、おまえといる空間、おまえを好きだって気持ち……ただ消えていくものに、したくねぇんだよ……」
カーシュの顔は、すぐ目の前に迫っていた。イシトはぼんやりと、それが更に近付いてくるのを見ていた。
なぜ、はね除けないのだろう?
カーシュの意外に繊細そうなまつげが伏せられて、イシトの頬をくすぐった。イシトは目を閉じた。
そっと触れた熱い唇を、イシトは身じろぎもせずに受け止めた。カーシュの唇は今度は少し荒々しく押し当てられた。カーシュの湿った長い髪が、イシトの手に触れて、ひんやりと心地よい。
こんなはずでは無かったのに……。
イシトは、どこか冷めたままの頭で、そんなことを思っていた。
傾斜していく自分。
傾斜していく認識。
傾斜していく現実。
傾斜していく想い。
どこへ?
どこまで?
〜Ende.〜
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