停止線

 


 旅路の合間に、ふと眼と眼が合う。そうすると、カーシュは堪らなくなる。
「おぉ、小僧。ちょっとよぉ、エレメント、補充して来いよ」
 宿に着くと、セルジュにそんなことを言って場を外させようとし、たいていの場合、セルジュは素直にそれにしたがって出掛けていく。
 するとカーシュは、さりげなくイシトの隣に腰掛ける。イシトの方は、そんなカーシュの思惑を知ってか知らずか、いつもの冷静さを崩さないまま、銃の手入れに余念がない。
「なぁ……」
 カーシュが自分の肩をイシトのそれに軽くぶつけ、ゆっくりとのぞき込むようにしてイシトに顔を近づけていくと、イシトは鬱陶しげに手元の銃から顔を上げる。
 やがて唇と唇が触れる。イシトは表情も変えずにカーシュの口づけを受け入れる。カーシュの唇が角度を変えながら幾度も幾度も押し当てられても、カーシュの手がイシトの肩を抱き寄せ、口づけがいよいよ深くなっても、イシトはじっとしている。
 カーシュは、それで満足すべきなのかも知れない。だが、伏せられたイシトの細い睫毛がかすかに震えるのを眼にするとき、わずかに解放された唇からかすかな吐息が漏れるとき、イシトを抱くカーシュの腕に更に力が込められ、カーシュの唇は、より多くイシトに触れることを望むのだ。
 「イシト……」
 カーシュはイシトの耳元で囁きながら、その耳たぶを優しく噛む。そのまま首筋に唇を這わせようとするのだが、それは一度も成功したことがない。カーシュの唇が自分の唇以外に触れた途端に、イシトは手ひどくはね除ける。
 いつもいつもだ。
 カーシュはそれが判っていながら、それでも今度こそはと試み、その都度、鼻先を擦り剥く羽目になったり、唇を腫らす事になったりする。そうして、セルジュへの言い訳に頭を悩ませるのだが、そんな自分を止められないこともしばしばなのだ。
 何が違うというのだろう。
 口づけをし、熱い舌先が触れ合うと、イシトの深奥に触れている気がする。イシトが自分にそれを許したということは、自分を受け入れてくれているだと感じるのに、それに比べたら、耳元や首筋へのキスがなんだというのだろう。
 それなのに、だ。イシトは決してそれを許さない。
 いかにカーシュが不満げに口をとがらせても、たぎる思いを切々と訴え、説得を試みても、イシトの答えは変わらない。まるで、そこに見えない線が引かれでもしているかのように、イシトはあくまで頑なだった。
「俺は、何もおまえを女みたいに抱きたいとか、そう思ってる訳じゃ……。ただ、おまえにもっと触れたいだけなんだ……。なぁ、なんでだよ?」
 イシトは眉をひそめ、カーシュを見返す。そんなイシトに、カーシュはもう一度軽く口づける。今度はイシトはじっとしている。カーシュは、また訊ねる。
「……なぁ、唇の方が、よっぽど……だろ?」
 イシトは静かに答える。
「気に入らないなら、完全に拒否してやっても良いんだぞ?」
 そこで、カーシュは口をつぐまざるをえない。こうして唇を触れ合わせることさえもできなくなるくらいなら、我慢するしかない。毎度のように繰り返される口論は、いつもそこで終止符を打たれる。
 一度、カーシュがどうにも収まりがつかず、ぶつぶつとぼやいていたことがある。
「まったく……減るもんじゃねぇだろうによぉ……」
 頭を掻きながら独り言を漏らしたカーシュの背中に、やはり独り言のようなイシトの声が聞こえた。
「……減る」
 誰よりも論理的に思えたイシトの、意外にも非論理的な返答に、カーシュは面食らった。キスで、いったい何が減るというのだろう。
「減るって……何がだよ?」
 思わず振り返って問い直したカーシュの眼に、わずかに侮蔑を秘めたような、イシトの冷ややかな蒼い眼が映った。イシトはすぐにふいと視線を逸らし、何もなかったような顔に戻ってしまったが、カーシュは『減る』と言ったイシトの、妙に真剣な声が忘れられなかった。

たかが唇が触れるだけで、おまえは何が減るって言うんだ?
何を失うというんだ?
何を畏れているんだ?
俺が何かを奪うとでも言うのか?

「『減る』……」
 一人になったイシトは、もう一度口にしてみた。あの時、確かに何かが減るような気がしたのだ。イシトにもそれがなんなのか、はっきりとは判っていなかった。
 カーシュに触れられるのが厭なわけではない。厭なら、とうてい口づけなど許せようはずもない。それでも、それ以外を許してしまってはならない。そう、自分に言い聞かせてきた。
 イシトは、さっきまでカーシュが触れていた自分の唇に、指先でそっと触れた。もう数え切れないほどカーシュに触れられたそこは、すでにイシト自身の意思とは関わりなくカーシュの口づけに応える。深く、浅く、熱く、緩く、カーシュの求めに応じて、イシトの唇は反応する。
 そうだ。自分は怖いのかも知れない。なし崩しに、カーシュに凭れてしまう自分を嫌悪する。そうならないために、自分には越えてはならない一線が必要なのだ。

ここを越えたら、自分でなくなる。
一度許したら、それまでだ。
繰り返される口づけが、少しずつ私を変えてしまったように、私は私でなくなっていく。
初めて触れた時の怯えも胸の震えも、やがて霧散してしまったように、そうして君へのこの不可思議な想いをすり減らしたくはない。

「『減る』……」
 イシトはもう一度つぶやいて、セルジュとカーシュの待つ部屋へ向かった。



〜Ende.〜


 

 


2002.5.18
 単純に言うと「簡単に許したら、ありがたみが減るべよ〜」って感じですかね(笑)。と言うか、新鮮みが薄れていくこと、それが当たり前になっていくことを畏れているのでしょう。
もちろん、その先にあるだろう、え〜っと、まあ「行為」(;^_^A アセアセ…)を畏れているということもあるでしょうけど。
心の「傾斜」が急勾配になっていくと、イシトにはそんな危惧が生じていくでしょうし、カーシュの方はエスカレートしたくなっていく……。そんな軋轢。
 「淡い予感」シリーズは、これでひとまず終わりです。
 でも、こういう原点に戻ったような頑なな隊長が、私はやはり好きですので、またこのシリーズに戻ってくるかも知れません。