カーシュの前を、セルジュとイシトが進む。
旅のメンバーは、このところずっと固定されていた。
カーシュは歩きながら、眩しそうに目を細めた。目の前にイシトの金髪が踊る。日の光を反射して、淡い色の髪が、尚更淡く光る。
いけないと思いながらも、カーシュの眼は、その光る髪に奪われた。
細い髪だ。触れてみたら、どんな感触なのだろう。熱い俺の指の上を、ひんやりと滑っていくのだろうか。
その刹那、カーシュは自分が一瞬宙に浮くのを感じた。
「カーシュ!」
セルジュとイシトの叫び声が同時に聞こえ、次にはカーシュは、大きな岩を踏み外して転落していた。
「痛ってぇ……」
岩の尖端で切ったらしく、カーシュの足には大きな裂傷が出来ていた。
「カーシュ! 大丈夫!?」
セルジュとイシトが駆け寄る。
「……怪我をしたのか」
イシトが、心なしか冷ややかな声で言う。カーシュは顔を赤くして横を向いた。
「こんなモン、怪我のうちに入んねぇよ!」
カーシュは照れ隠しに強がりを言ったが、傷は深く、出血は続いている。イシトは自身が常備している救急セットを取り出し、手を伸ばした。
「どれ、見せてみろ」
「大丈夫だって!」
カーシュは、気恥ずかしさに、頑なに傷を隠そうとする。
「見せなさい!」
イシトが業を煮やして強い口調で言うと、カーシュも渋々傷口を見せた。パレポリ軍仕込みの手際の良さで、イシトはカーシュの手当をした。イシトに触れられるたびに、カーシュは心臓が飛び出そうな思いをするのだが、それどころではなく、傷は意外に深かった。
「セルジュ」
イシトが半ばため息混じりに言った。
「今夜は宿を取らないか? カーシュの傷は大事はないとは思うが、野外での感染症の危険は避けたいし……君も、このところ十分には休んでいないだろう……」
セルジュはキュッと口元を結んだ。確かに彼は気が急いていた。ヤマネコの姿になった自分を敵呼ばわりし、別れたままになっているキッドが気掛かりで、言われてみれば確かに、休息もそこそこに突っ走っていた。
「……気持ちは判らないではないが、そんなことでは、大事なときに力を出せずに後悔することになる……」
「うん……そうだね……」
諭すようなイシトの言葉に、セルジュは少しうなだれて、だが素直に応じた。イシトの言うとおりだと思った。
その夜は、それぞれがゆっくりと休めるように、久しぶりに宿に個室をとった。
イシトは、セルジュのことはもちろんだが、近頃、万事に上の空のように見えるカーシュを気に掛け、じっくりと話す機会を窺っていた。
理由は、察しがついている。
カーシュはイシトを好きなのだと言った。ともすれば、抱きすくめてしまいそうになるのだとも言った。彼は、そんな自分を誤魔化す事に腐心し、その結果、足元がおろそかになって、つまらぬ怪我などしたのに違いない。
そんな彼を、どうにかしなければならないと、イシトは思っていた。どうすればカーシュを立ち直らせる事が出来るのかは判らない。だが、今、自分以外の誰が、カーシュに意見できるというのだろう?
夕食を終え、それぞれが自室に引き取った後、イシトはカーシュの部屋に向かった。
二度、三度とノックするが、返事はない。
そっとドアノブに触れてみると、鍵は掛かっていなかった。
鍵も掛けずにどこかへ出掛けたのかと、イシトがあきれてドアノブを握る手に力を込めると、ガチャリとかすかに音を立てて、ドアは静かに開いてしまった。
「……誰だ?」
奥から、面倒そうなカーシュの声が聞こえた。イシトは小さくため息を吐いた。
「……居たのか。入るぞ――」
返事も待たずに、イシトは室内に入った。入るなり、強い酒の臭いが鼻を突いた。
「カーシュ……」
イシトは眉を寄せて、テーブルに突っ伏すようにしているカーシュの背を見つめた。入ってきたのがイシトだと、声で判ったはずなのに、カーシュは微動だにしなかった。
「飲んでいるのか……」
イシトがテーブルに近づくが、カーシュは相変わらず振り向こうとはしない。かなりのハイペースで飲んだのだろう。それぞれが部屋に戻ってまだそれ程経っていないというのに、テーブルの上の酒瓶は、すでに半分以上空いていた。
「カーシュ!」
イシトの咎めるような強い口調に、カーシュはようやく顔を上げた。かなり酔っている顔だ。
「何の用だ……」
カーシュがプイと顔を背ける。イシトは少し戸惑った。何の用だと問われて、明確に答えることが、彼には出来なかった。
「……怪我の具合はどうかと……」
そんな言葉を口にしてみるが、重傷ではないことはお互いに判っているのだから、それが言い訳に過ぎないことは明白だった。
「フンッ。あんなもん、もう痛くもかゆくもねぇよっ」
言い捨てて、カーシュは酒を満たしたグラスを口に運ぼうとした。だが、カーシュのその手は、イシトに押さえられた。
「止めておけ。もう、十分飲んだだろう」
イシトに手首を握られたカーシュは、顔を赤らめながらも、その手を振り払った。
「放っとけよ! 俺の勝手だろ!」
「カーシュ……!」
イシトは顔を曇らせた。
「酒を飲んで、何が悪いってぇんだっ。おまえは堅物で、酒も遊びもやらねぇって聞いたが、だからって俺が飲むのを止める権利はねぇ! ……誰にだって、飲んで忘れたいことの一つや二つある!」
「仲間と楽しく飲む酒を止める気はない……だが、こんな酒は良くない……こんな酒は、心を蝕むだけだ……」
「分かった風なことを言うな! おまえに何が分かるってぇんだ! 説教たれるんじゃねぇ!」
カーシュは再びグラスに手を掛けた。
「カーシュ!!」
イシトはグラスを奪い取ると、一気にその中の酒を飲み干した。
「……うっ! ゴホッ……!」
だが、酒を飲み干したイシトは、激しく咽せた。
「バッカ野郎! ”龍の誉れ”ストレートだぜ!?」
カーシュはさすがに慌てて、イシトの背をさすった。
「う……ッ……ゴホッ……ずいぶん……きつい……酒……っ」
幾分落ち着いてきたイシトが肩で息をする。カーシュは少しホッとして、フンとため息を吐いた。
「ったく、無茶しやがって……呑みつけないヤツにゃ、コイツはきつすぎるぜ……」
イシトはアルコールのせいと、咽せてしまった気恥ずかしさで頬を赤くしながらも、改めてカーシュを見据えた。
「こんな……酒は、良くない……君を……ダメにする」
今度はカーシュも、怒鳴り返すことは出来なかった。カーシュは、決まり悪そうに目を伏せた。
「私にだって、忘れたいことはある……だが、酒で一時忘れたって、何にもなりはしない……」
まだ時折咳き込みそうになりながら話すイシトの声に、カーシュはチラリと目を上げた。
ほんのりと赤く染まった頬。潤んだ蒼い眼。赤くぬれた唇のイシトの姿は、カーシュの眼になまめかしくさえ映った。
「ふーっ、暑い……」
酒のせいでにわかに暑くなったイシトは、カーシュの眼前で上着を脱ぎ、いつもは硬く閉ざされている襟元を緩めた。イシトもまた、幾分酔ってしまったのに違いない。白いうなじを晒して、彼はふらりとテーブルに寄りかかった。
イシトへの不本意な想いを忘れたくて飲んでいたカーシュではあったが、今、そんな無防備なイシトの姿を目の前にすると、いやでも想いはかき立てられた。カーシュの目はイシトに吸い寄せられ、カーシュは思わずゴクリと喉を鳴らした。
イシトは、そんなカーシュに気付いて慌てて襟元を合わせ、カーシュは自分の邪な想いに気付かれた事を恥じて、急いでイシトに背を向けた。
その瞬間、イシトを不可解な感情が襲った。
彼は、カーシュが背を向けたことが気に入らなかった。つい今まで自分を凝視していた熱い視線が逸らされたことが、なぜだかおもしろくなかった。
「カーシュ」
イシトは、カーシュを振り向かせたいと思った。
「聞いているのか? カーシュ」
カーシュは背を向けたままドギマギしていた。
「ああ、聞いてる……」
「聞いているなら、こっちを向けよ。人の話は、顔を見て聞くものだろう!」
イシトは、わざと強い口調で言った。案の定、カーシュがわずかに視線をこちらに向けた。
「絡み上戸かよ、おい……」
カーシュが困ったような顔をする。イシトは、何だかうれしくなった。
「一人でがぶ飲みするのは、身体にも悪いぞ。判ってるのか?」
酔っているのは本当なのだが、半ばわざとよろけて見せながら、イシトはもう一度、暑苦しくて堪らないというように襟元を開いた。
カーシュの顔が見る間に赤らむ。
イシトは、そんなカーシュを、チラリと横目で窺った。いわゆる”流し目”という風に映るだろう事を承知の上だ。
「判ったよ。今夜はもう、呑まねぇよ……」
カーシュは、汗だくになっている。
イシトはカーシュの顔に、ズイッと顔を近づけた。例えそうして挑発しても、カーシュが手出しできないだろうと踏んでのことだ。
「酒だけじゃないぞ……このところ、いつも上の空だろう?」
カーシュが慌てて、後ずさりする。
「この大事な時に、いったい、何に気をとられてるんだ?」
自分のことだと判っているくせに、イシトは更に顔を近づけつつ訊いた。カーシュは真っ赤になって、顔を伏せた。だが、イシトは容赦しなかった。
イシトは、カーシュの眼前で微笑んで見せた。
「カーシュ……君は、私が欲しいのか……?」
カーシュはパッと顔を上げて、イシトを見返した。そして、次の瞬間にはクルリと背を向け、足音も荒くドアに向かって歩き出した。その怒気をはらんだカーシュの態度に、イシトの酔いは、瞬時に醒めた。
いったい、自分は何をしていたのだろう。カーシュの自分への好意を良いことに、その気持ちを煽って弄んだ。
イシトは慌ててカーシュの後を追った。
「カーシュ!」
カーシュは振り向かなかった。
「どこへ行くんだ!」
カーシュがドアノブに手を掛けるのと、イシトがカーシュの肩を掴んで止めるのが、ほとんど同時だった。
カーシュは黙って背を向けたまま立っている。イシトはうなだれた。
「済まない……どうかしていた……君を……君の気持ちを弄ぶような事を……」
「言うな!」
カーシュの怒声が、イシトの言葉を遮った。
「……何も言うな……おまえが悪いんじゃねぇ……俺が……俺は、自分が情けねぇんだ」
カーシュは肩を落とした。
「俺は、違うと思ってた……おまえを、女を欲しいと思うみたいに……そんな風に好きなんじゃねぇと……それなのに!」
カーシュは両手で顔を覆った。
「……ただ、おまえを見ていたいと思った……パレポリの命令に逆らって、一人張りつめているおまえの力になりたかった……そんなおまえを、包み込めるようになりたかった……」
イシトは頬を染めた。自分を理解しようとしてくれている、カーシュの気持ちがうれしかった。
イシトは首を振った。
「自分を責めることはない。私が悪いんだ。酔って……君を……君の関心を引くのが、何だか楽しかったんだ……だから――」
イシトは、自分でも思いもよらないことを口にしていた。
「だから、君が望むなら……試してみても良い……」
「試す? 何を?」
カーシュは怪訝そうに振り向いた。
イシトは、じっとカーシュを見つめ、息を飲んでから言葉を継いだ。
「君が、さっき私にしたいと思ったことを、だ」
「……本気で言ってんのか?」
カーシュが引きつった顔をした。
「俺が、何を考えたと思ってんだ? 判ってんのか? この前みたいに、抱きすくめるくらいじゃ済まねぇんだぜ!?」
「察しはつく……」
イシトは、多少の後悔を覚えながらも、小さく答えた。
「君は、私に触れられないから……手に入らないものだから、だから執着してしまうんじゃないのか……。だったら、触れてしまえば、そうしたらこんなものだと判る。判ってしまえば……もう、手に入れようとは思わなくなる――」
「そのために、俺に何をされても良いって言うのか? なんで……」
カーシュは信じられない、という顔をした。イシトは目を伏せた。
「君が……嫌いじゃない……」
イシトは言葉を探すようにして言った。
「惚けたような君を、見ているのは忍びない……今日のような無用な怪我は、して欲しくないんだ」
カーシュは複雑な気持ちだった。イシトが自分を案じてくれているのはうれしかったが、これでは、早く自分のことはあきらめろと言われているに等しかった。
「判ったら――」
カーシュの気持ちをよそに、目の前で、イシトが口づけを促すように、顎を上げて目を閉じる。彼は本気なのだ。まだ酔いが残っているせいもあるのだろう、頬が赤く染まっている。薄赤い唇は、誘うように緩められ、カーシュの眼前に迫っている。
カーシュは吸い寄せられるようにゆっくりとそこに顔を近づけたが、後少しで唇に触れると言うところで、サッと身体を離して肩をすくめ、わざとらしく大きなため息を吐いた。
「おまえって、トコトン頭でっかちなヤツ、な」
「む……」
イシトが目を開け、心外だというようにカーシュを見返す。カーシュは苦笑した。
「試したら、もう要らない……? そうじゃねぇよ。人間の気持ちなんて、そんな簡単なモンじゃねぇだろ……」
カーシュはイシトをじっと見つめた。
「そうじゃねぇ……一度知ったら、きっとまた欲しくなる……もっと強く、もっと深く、きっとまた触れたくなる……」
イシトもまた、カーシュを見つめた。自分を見つめるカーシュの目は、おまえにその覚悟はあるのかと、問いかけているようだった。
やがて、カーシュはフッと表情を緩め、小さく笑った。
「自分の部屋へ帰れよ……もう、飲んだくれたりしねぇからよ――」
「カーシュ……」
イシトは気が咎めたような眼をした。
「行けよ。もう、おまえに心配掛けねぇように、なるべくシャンとするから」
そうまで言われては、イシトには掛けるべき言葉が見つからなかった。
「……おやすみ」
イシトはようやくそれだけを言って、ドアを開けて廊下に出た。カーシュも半身だけドアの外に出て、イシトを見送った。
「じゃあな、おやすみ」
声を掛けると、カーシュはすぐにドアを閉じた。いつまでもそうしていると、未練がましいように思えたのだ。
廊下に残されたイシトは、しばらく、その閉じられたドアを見つめていた。
自分は何をしているのだろう?
いつまでここにいるつもりなのだ。
ドアが開けられるのを期待しているのか?
カーシュが、やはり自分を求めるのを、待っているとでも言うのか?
もう、ドアは開かれないだろう。
今夜の自分はどうかしている。
イシトは、苦笑し、自分の部屋に戻っていった。
Ende.
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