これは夢。
判っているのに、この、身も凍るような恐怖感。
苦しい。息が出来ない。
水中から、青い空が見える。
揺らめいている。
太陽が笑っている。
僕がこんなに苦しいのに。
助けて!誰か!
「…誰か!」
空に向かって伸ばしたセルジュの手は虚空を掴み、力を失って落ちかけ、大きな手に受け止められた。
「小僧!!」
カーシュだった。セルジュはベッドの上で、ハッと眼を覚ました。
「…大丈夫か?随分、うなされてたようだが…。」
「…うん…。」
セルジュはぐっしょりと前髪を濡らした額の汗を、右手の甲で拭い、大きな溜息をついた。
「夢でも見てたのか?」
セルジュは黙って頷く。カーシュが苦笑した。
「…良い夢じゃなさそうだな…。」
セルジュはまた黙って頷き、ベッドの上で膝を抱え、顔を覆った。カーシュは、そんなセルジュの頭をくしゃくしゃと撫でた。大きくて温かい手。凍えるように萎縮していた心が溶け出す。いつもそうなのだ。ぶっきらぼうなカーシュ。でも、いつもそっと支えてくれる。たいていのことは、彼が豪快に笑い飛ばすと、なんでもないことのように思われてしまう。
セルジュは、カーシュを見上げて笑顔を見せた。
「…ありがと…カーシュ…。」
「へっ…。」
カーシュは照れくさそうにクルリと背を向けると、窓辺へ歩み寄った。
「…もう、朝になるな…。」
カーシュはカーテンの隙間から外を見ている。わずかに橙色に染まった陽光が差し込み、その光に照らされて浮かび上がったカーシュの横顔が、悲しいほどきれいだとセルジュは思った。セルジュはそっとカーシュに近寄り、その腕にコツンと頭をぶつけた。
「…どうした?」
カーシュは、セルジュを振り向いて小さく笑った。セルジュはカーシュの腕に頬を押しつけたまま、呟くように訊ねた。
「…カーシュは…どんな夢を見る…?」
カーシュは窓外を見つめたまま黙っている。
「…僕は…忘れたいのに、夢に見る。これまでの恐ろしかったこと。苦しかった戦い…。でも、忘れちゃいけないって、その痛みを忘れちゃいけないって、誰かに言われてるような気がするんだ…。」
「小僧…。」
カーシュはちょっと眉を寄せて痛ましげにセルジュを見つめ、その肩に腕を回し抱き寄せた。暖かくて厚いカーシュの胸で、セルジュは思い切って口にした。
「カーシュにも…忘れたいこと、あるよね。…苦しいこと、抱えてるよね…。」
カーシュが、ちょっと驚いたようにセルジュの顔を覗き込む。
「あ…!ごめんなさい!生意気言って…。」
気を悪くしたのかと慌てるセルジュの頭を、カーシュはまたくしゃくしゃと撫でた。
「ガキが、変に気を遣うんじゃねぇ。」
カーシュは優しげに笑った。
「バカ野郎…俺がいつも見るのは、ものすごく良い夢なんだぜ…。」
カーシュは、チラリと明るみ始めた窓の方に眼を向け、微笑んで語り始めた。
「俺がいる。ダリオがいる。リデル様と、まだ小さいグレン。…楽しかった…毎日。ダリオが俺に笑い掛ける。小さいグレンと、そばにいるリデル様を指差す。俺とダリオは大笑いしてる。二人で何を楽しそうに話しているのか、目が覚めると何も覚えていない。でも、これだけは判る。ダリオが俺に伝えたいこと。リデル様と、グレンのことを頼むって、俺にそう言ってるんだ。ダリオは俺を信じてくれてる。だから…これは、俺にとっちゃ最高の夢さ。どうか覚めないでくれって、いつも思う…。そうさ、俺はリデル様を大切に想ってる。…だが、ダリオも好きだ。二人が結婚すると聞いたとき…うまく言えねぇけど、ものすごい空虚感に襲われた。大好きな二人。大切な二人を一遍に、俺は失ったんだ。…本当はわかってたはずだった。二人の見交わす眼。笑い合う仕草。気付いてなきゃいけなかった…。でも、俺は、グレンも含めて、いつまでもこの四人の時が、幸福な時間が続くと思ってた…思いたかったんだ。」
カーテンに薄く薔薇色に染まった朝日が映り、それは夢のように美しかった。
「でもな、いつまでも夢の中にいるわけにもいかねぇしな。」
カーシュがいつものように豪快に笑った。だが、セルジュには、その眼がわずかに潤んでいるのが見て取れた。
「カーシュ…。」
「あ?あ、おい!小僧…。」
セルジュは戸惑うカーシュに抱きついた。
「僕じゃダメ?僕じゃ、カーシュの助けになれない?僕じゃ…カーシュの力になれない…?」
セルジュがカーシュの首に腕を回し、切羽詰まったような眼で見つめる。カーシュはその眼の色を、何かに似ていると思った。
「今だけ…忘れて良いでしょ?今だけ…ほんの少しの間だけ…僕じゃカーシュの救いになれない?」
セルジュが背伸びをして、カーシュに口びるを押しつけた。カーシュはそれを受け止めた。
哀れ、悲しき夢の目覚め。
夢のあとに、われは一人取り残され、
夢の残骸に埋もれ、忍び泣く。
帰り来よ、夢の輝き。
帰り来よ、ああ、あやしき夜よ。
カーシュが目覚めると、セルジュは隣にいなかった。ふと、夢を見ていたのかと思う。だが、自分は一糸まとわぬ姿で眠っていた。かすかに、腕に柔らかな肌の感触が残る。カーシュは頭を掻いた。とりあえず衣服を身につける。
コンコン。誰かが窓を叩く音に、カーシュはそちらに眼を向けた。
「…小僧…!」
窓の外、明るい陽光の下でセルジュが手を振っている。カーシュは慌てて窓を開けた。
「まだ寝てたんだ。寝坊だね!朝ご飯食べたら、出掛けるよ!」
セルジュの笑顔に、カーシュは顔が赤らむのを感じた。セルジュが囁くように言った。
「いいんだ、カーシュは気にしなくて…。僕がカーシュを好きなんだから、だから、いいんだよ、夢だと思って忘れても。」
セルジュが澄み切った空を背景に、明るい笑顔を見せる。
ああ、これだ。この空だ。
カーシュはセルジュの青い眼を、空の色に似ていると思った。心の色を映し、いつも変わらずそこにある空に―――。
FINE.
|