サラミとマミイが通った横浜市立富岡中学校は1974年当時、全校生徒数350名程度の新設校で、ほとんどの生徒が周囲の新興住宅地の子女であった。当時としては不良の少ない学校だったが、周りの西柴中学や浜中学(山ちゃんの母校)から時々カツアゲに来る不良達がいた。新設校にありがちだが、学力のレベルは平均よりもかなり高かったようだ。そんな中、それぞれ異なる学区から入学したサラミとマミイは1年5組(大山級)に入った。サラミは梅林小学校時代にとてもおとなしい生徒だったが、同じ学校の生徒がほとんどいなくなりこれを機に明るい生徒になろうと決心した。 一方、マミイも全く独りぼっちの状態だった為、努めて明るく振る舞っていた。1クラス30〜35人で1学年5クラスという恵まれた環境の中、二人の中学生活はスタートした。そのころの横浜では1クラス45人(場合によっては50人)があたりまえで、山ちゃんの通った浜中学では1学年14クラス、リダーの通った大鳥中学でも1学年10クラス以上もあり、同じ学年でもまったく誰だかわからないのがごく普通の中学生活だった。1学年に600人以上も生徒がいては当然であろう。富岡中では学年全員の顔と名前はすぐ覚えた。そりゃそうだ、たった130人ぐらいしかいないんだもの。 サラミが覚えているマミイとの鮮烈な出会いは1学期最初の体育の授業である。体育館でのマット運動の授業だったが、先生が来る前にマットの上でクルクルとバク転、バク宙をくりかえす体操の選手みたいな少年がいた。もちろんクラス全員(男子だけだが)のヒーローである。その宙返り少年がマミイであった。マミイの覚えているサラミとの出会いは入学式が終わり初めて教室に入った時、「やけにニコニコしている少年がいるなぁ。」とおもったら、それがサラミだった。 当時サラミはちばあきお(ちばてつやの弟)の漫画「キャプテン」の大ファンで、一般にも「ドカベン」という大人気漫画が流行っていたこともあり、迷うことなく野球部に入部した。新設校の野球部なんてたいしたことないだろうという読みは正しかったが、顧問のK見先生(社会科、高知県出身)は茶色い色眼鏡をかけたパンチパーマで見た目はまさに「ヤ〜球部」っていう感じ。入部して練習に参加した日に先輩から髪を切るようにいわれたサラミは即刻退部した。2年になりK見先生に歴史を習ってわかったことだが、極めていい先生であった。人は見かけで判断してはいけないことを学んだが、一方で第一印象が大事だということも学んだ。 結局サラミは小学校からの仲良しである隆(通称チャカシ)とおなじテニス部に入部した。サラミは実はだたの軟弱者であった。チャカシはマミイというあだ名の名付け親でもある。マミイは柔道部に入部した。硬派である。 課外活動の他に毎週1回のクラブがあり、サラミはクラシックギタークラブ、マミイは旅行研究クラブに入った。サラミが本格的にギターを弾くようになったのはこの頃である。マミイも¥500で仕入れたクラシックギターを弾くようになっていた。ブリッジがボールペンの芯だったため、ギターを弾くと芯から出てくるインクで右手が真っ黒になるという話しを聞かされて「こいつはタダ者じゃない」とサラミは思った。 二人がギターを始めたのは、周りの仲のいい友達がみなギターを弾き、ビートルズ・クイーン・クリーム・ディープパープル・レッドツェッペリン・フー・ジェフベックなどを聴いて、しょっちゅうお互いの家を出入りしていたことも大きく作用している。レコードもずいぶん貸してもらった。ありがとう、友よ。なんちゃって。