この詩は、20歳の頃、インスピレーションを得てほとんど即興で書き上げたものです。
それ以来詩など書いたことはないので、私の唯一の詩だと言えるかもしれません。  
              
 当時私は油絵を描いていましたが、自分の芸術に関する観念が成熟するにつれて、
作品を作らず、日常生活の中に芸術を解消するという方向をとっていくことになりました。
詩や文学作品、あるいは絵画や映像にしても、結局のところフィクションに過ぎない。
いくら心ときめく冒険の世界を作りあげたとしても、また、どれほど美しい世界をくりひろ
げたとしても、それは作品の中での話に過ぎません。
なぜそのような作品世界を人は作ろうとするのか?おそらくは、自分自身そのような心
ときめく生を、美しい生を求めているからではないでしょうか。当然でしょう。自分自身の
欲望を、理想を実現してゆくことが生きることだとすれば。

 私は、文学、美術など芸術表現の媒体(メディア)とは、そのように自らの生を充実さ
せる手段であると考えていました。しかしすでにダダイストたちは、それら芸術表現の
制度を破壊し尽くし、身体こそが人間の根源的な表現のメディアあるということを発見
していました。芸術とは「行為」であると、つまり芸術とは生きることそのものだという
のです。彼らの弟子である私は、さらに問題意識を先に進めなければなりません。
 身体という根源的な表現のメディアの発見を浮き立たせるためには、文学、美術、
演劇、映像といった二次的な表現のメディアの使用には、ストイックにならなければなら
ない。そして、日常の生活の中にこそ欲望の、理想の実現のドラマがなければならない
と思ったのです。それが、芸術を日常生活の中に解消すると言うことの意味であり、私
が作品を作らなくなった理由です。    

 今現在、私は詩も、絵も描いていません。しかしながら、もし身体が根源的な表現の
メディアであるとすれば、それは「私の生そのものが詩である。」と言いかえることがで
きるのではないでしょうか?また逆に、私自身が表現の主体でもあることを考えれば、
「世界」、身体の対極の概念である世界そのものを、表現のメディアとしてとらえかえす
こともできるのではないでしょうか?とすれば、「世界が私のカンバスだ。」と言えるの
ではないでしょうか? すなわち、生とは、世界というカンバスに描かれた詩であり、そ
れはまた芸術そのものなのです。

                  
                  2002. 5. 12 荒井 賢

P.S. 現在、新しいホームページを計画中です。そこで、さらにこの芸術論を展開する
予定です。