《けあれす・うぃすぱー》



  ―――― チョコレート…? 甘いものはあまり好きではないのだけれどね。


「…そう言うだろうと思って! じゃーん♪」
花梨はにっこりと得意げに微笑み、持ってきた箱をぱかっと翡翠の目の前で開けてみせる。
あまりにも無邪気な花梨の様子に、翡翠は内心苦笑した。
…まったく、折角私の塒までおいでいただいたのに。
目の前にいる愛しい姫君ときたら、あまりに警戒心の欠片もなくて。
これではかえって手が出せないね。


今日の暦は二月十四日。いわゆるセント・バレンタインデー。
どうしてもこの日、仕事がひけてからでいいから会いたい、と望む花梨を翡翠は自らの家へと招いたのである。

仕事で知り合った女性たちから山ほど押し付けられそうになり、なかにはいきなり口に放り込もうとした者までいた菓子。
花梨が差し出す箱の中身は、香りでおそらくそれだと分かるが、本日嫌と言うほど見せつけられた、そのどれとも違う形状に翡翠は首をかしげた。
「…これは?」
「オレンジピールチョコ、って言うんです。オレンジピールを洋酒につけて、ビターチョコをコーティングして、ココアパウダーをかけたものなんですよ。
これならあんまり甘くないし、お酒やブラックコーヒーと一緒に食べられるから、翡翠さんの口に合うかなって思って…」
懸命に説明する花梨の様子に、翡翠の表情が和らぎ、瞳は温かく柔らかな光に満ちる。

こんなままごとじみたことで自分が幸せだと感じる日がこようなど、夢にも思わなかったことだね。
本当に君と居るだけで、私の色あせていた人生は驚きに満ちた鮮やかなものへと変わっていくよ…。

そんなことを思いながら、翡翠はからかうような笑みを口元に浮かべる。
「ふふ、愛しい君が私のために作ってくださったのだからね。
例え毒を差し出されようと、私の口の方を合わせるよ」
「…また、そんなこと言って! そんなことを言うなら、もうあげませ―――――」
頬を紅潮させて花梨がしまいかける箱を、翡翠はひょいと取り上げた。そのままチョコをひとつつまみ、口へと放り込む。
口内に広がる苦味と酒の香り。ほのかな酸味のなかに、感じる甘味。
まるで彼女と過ごすこのときのようだ、と翡翠は思う。
「…ああ。確かにこれはいつも飲む酒に合いそうだね。美味しいよ、白菊」
翡翠の心からの賛辞に花梨はすぐに機嫌を直し、嬉しそうに微笑んだ。


花梨のティーカップにアールグレイを注ぎながら、翡翠が極上の笑みを向ける。
「…まだお礼を言っていなかったね。ありがとう、姫君。この菓子を作るのはなかなか大変ではなかった?」
ほんのりと立ち上る良い香りと湯気の向こうに、花梨の真っ赤な顔がゆらぐ。
「や、やだ、そんなことないですよ。…それに翡翠さんに食べてもらうためだったもの、いくらでも張り切っちゃえます!」
愛しい彼女が自分を想い、贈り物に工夫を凝らそうと懸命に時間を割いてくれた。
心の証として菓子を贈られたことより、その事実がなにより翡翠を喜ばせる。
彼はすこぶる上機嫌だった。



「…でも、ちょっとだけ見栄をはりたくて、翡翠さんには出来のいいものだけ選んで詰めちゃいましたけど♪」

―――――この台詞が花梨の口から飛び出す瞬間までは。



…翡翠さん『には』…?
『には』というのは、一体どういう意味なのかな?
翡翠は極上の笑顔を顔に貼り付けたまま、花梨自身が全く気づいていない失言をゆっくりと反芻した。

「…ねぇ、姫君」
「はい、なんでしょう?」
「君は私のためにこれをかなり作ってくださったような口ぶりだったけれど、それにしては量が少ないね。
ここにある以外のものは、全部君が召し上がったの?」
「まさか、いくらなんでもそんなにたくさん!
そこそこの出来のものはね、お父さんたちにあげたんですよ」
「ふぅん…。父君『たち』、ねぇ。…ということは、父君『以外』にもこれを差し上げられたわけか。
それで、一体どなたに贈られたのかな?」
誘導尋問に引っかけられたことにようやく気づき、花梨の顔は一気に蒼白になった。
まったく、信号のように忙しいことである。
「え…? そそそ、そんなこと言いましたっけ?」
翡翠は逃げようとする花梨の腕をあっさりと掴んで引っ張り、自分の胸のなかへと連れてきた。
流石は元敏腕海賊、拉致の仕方が手馴れたものである。

「か・り・ん?」

がしっと花梨の身体を捕まえている翡翠の笑顔はどこまでも優しく、柔らかだ。
ただ――。そう、ただ背後に漂う恐しく不似合いな殺気じみたオーラが、
“嘘をついたらひどいよ?”
と明確に花梨へ告げているだけのことである。

「…うう…。翡翠さんにやましいことなんか、全然ないもん…」
不満げな花梨に、凄絶なまでに美しい笑顔をくずさず翡翠が詰問する。
「では、言えるだろう? このまま言わなければ、それこそお仕置きするよ?」
「だって翡翠さん、お兄ちゃ―――――…あっ!」
花梨の口にした人物が誰であるかを悟った瞬間、翡翠の眉がわずかに顰められ、同時に縛められていた花梨の身体が解放された。

「…ああ、なるほど? 姫君はこれと同じものをかの従兄たる“兄上”にも贈られた、と。そういうことだね?」
翡翠がすっかり機嫌を損ねたことを敏感に察知した花梨が、ため息をつく。
「ほら、やっぱり怒った…。翡翠さんがお兄ちゃんのこと嫌ってるから、言いたくなかったのに」

実際には互いに蛇蠍のごとく嫌い合っている、というのが正しいところなのだが、
身内びいきの花梨はその辺にほとんど気がついていないらしい。


もともと恋する男・翡翠にとって、花梨のなかでの大きい存在たる“従兄”は「気に喰わない」という区分に位置する男であったが、それはこの世界にやってきて間もなく「不倶戴天の天敵」という区分へめでたくも昇格していた。
ちなみにその点について、翡翠はかつての四神の半身以上に彼と気が合うらしく。
自らと全くの同年代であることもあいまって、大いに翡翠を気に入らないらしい彼との丁々発止は、花梨の目を盗んでいまだに絶えることがない。


ソファに寝そべったままそっぽをむいてしまった翡翠の肩を、花梨が宥めるように揺する。
「ねえ、翡翠さん。機嫌直してください。お父さんやお兄ちゃんに贈ったのは…」
「義理チョコ、とかいうものなんだろう? それくらいは知っているよ」
「…どこでそんな言葉覚えたんですか…。分かってるなら、いい歳して拗ねないでください」
「どうせ私は頑固で我儘な年寄りさ。
仕方ないだろう? 私は、君にとっていつも特別じゃないと嫌なんだから。
…今日は君から愛を告白していただける日のはずなのに、それすらもいただけないし」
「…ん、もう…! バレンタインなんかじゃなくたって、いつも言ってるでしょう?
私にとって特別なのは他の誰でもなくて翡翠さんだけなんだって。
本当に、一体何度言えば分かってくれるんですか?」
何気に恥ずかしい台詞へ大いに照れて応える花梨は、かたわらでにやりと腹黒い笑顔を浮かべている翡翠の表情に気づかない。

(…私が特別ねぇ…。今日という今日は、それを心ゆくまで体感させていただかないと納得いかないね)

本心が分かったらすぐにでも逃げ出すだろう兎を捕えるべく、悪巧みする猛虎が一匹。
どんなに上手に隠しても、見えないしっぽがふっさふさである。…花梨以外には。

「…けれどね…理屈では分かっていても、感情がついていかないんだ。
君から私へ贈られた物と、同じ物が他の男にも贈られている。それがたかが菓子であっても、相手がたとえ君の父君であっても、そのことが私には許せないのだよ。
…こんな心の狭いことでは、今に君から見捨てられてしまうかもしれないね…」
そうなったら潔く儚くなってしまおう、という翡翠の呟きを花梨が慌てて遮る。
「そんな…! そんなことありませんよ!」
「…そう? ならば、私の願いを聞いてくれる?」
「はい、勿論」
「本当かい…?」
「私にできることなら、何でも!」


かくて、何も知らぬ憐れな兎は、虎の待ち構える罠にまんまとかかったのである。


「ではね白菊。君のくれた菓子を、私に御手ずから食べさせてくださるかな?」
「え…? そんなことでいいんですか?」
意外な申し出に目を丸くしている花梨のほうへ向き直った翡翠が、会心の笑顔をむける。
「たとえ同じ菓子であってもね、愛しい君が食べさせてくださるなら、それだけで格別の味わいへと変わるのだよ?」
「…! そ、そういうものなんですか? じゃあ…」
今すぐに、と行動に移しかけた花梨へ、すかさず翡翠が告げる。
「おやおや、そんな遠くからでは菓子についた粉がそこかしこにこぼれてしまうだろう?
…こちらにおいで、愛しい人」
「………こちらって………あの、まさか」
「そう、ここ。…この場所だけれど?」

詳しく説明すると。
翡翠の指す「ここ」とは、すなわちソファでくつろぐ翡翠自身の膝のうえのことである。
なんというか…“危険、入るな”という立て看板があたりに見当たらないのがいっそ不思議なくらいの、いくら鈍い花梨でもありありと分かるほど恐ろしげな場所であった。

突きつけられたとんでもない要求に、思わず固まってしまった花梨。
そこへ翡翠がどこかの金融CMで見た仔犬のように、寂しげな視線を向けてきた。
「…食べさせてはくださらないのかい…?」
「え…と…その…」
相変わらず、自身の気が向くことになら遺憾なく能力を発揮する男である。



――――どうする、ア@フル。…ではなくて、花梨。



「わ、分かりました…」
しばらくして折れたのは、やはりというか花梨の方であった。
顔に朱をのぼらせて花梨は恐る恐る翡翠の膝へと座り、あさってな方向に視線を向けつつ、翡翠の唇へとチョコを差し出す。
「はい、どうぞ…」
差し出されたそれに口をつけようとはせず、翡翠は不満げに問う。
「…白菊。こういうときは私のほうを向いて、何か言ってくれるものではない?」
翡翠からの教育的指導に、花梨は二度目のため息をついた。
「…ほんっとに、どうしてそんなことばっかり知ってるんですか? 翡翠さん」
「単なる常識だろう? …そんなことより…、駄目なの?」
「もう…、しょうがないですね…」
今度こそ花梨は真正面から翡翠に向き直る。
「…はい、あーんしてください…」
今しも発火しかねないような顔で告げられたその言葉に、翡翠が上機嫌で目の前のチョコにかぶりついた。
翡翠の口唇が、少しずつ白魚のような指へと近づいていく。
そして、食べ終わろうとする刹那。


「―――――っ!?」
びくり、と花梨の肩が大きく揺らいだ。


「…どうかしたの、姫君?」
「い、いえ! なななんでもないです!!」
そっとほくそえみながら何食わぬ顔で問う翡翠に、花梨は茹で上がった顔をぶんぶんと振ってみせた。
「ねねねねえ、翡翠さん。こ、これ少し味が濃いでしょ?
きょきょ今日は、このへんでやめておいたほうがいいんじゃない?」
小鳥にでも餌付けするような軽い気持ちで翡翠の頼みを請け負った花梨は、自分が手を出しているものが実はとんでもない猛獣であることに、遅まきながら気づいたようである。
「…ああ、そうだね。そうしておこう」
堪えきれぬ笑いをくすくすと漏らし、翡翠は花梨の嘆願に応じてみせる。
花梨がほっと息をつきかけたそのとき。

「――――でもね、まだ食べ終わっていないだろう?」
「は? ……ほえぇ!?」
手首がいきなり翡翠に捉えられ、それと同時に絶妙のタイミングでもう一方の腕が花梨の身体に絡みつく。
「…ほら、指に粉がついているじゃないか…」
「ちょっ……翡翠さん!? …やっ………あ………」
柔らかな感触を感じると同時に、熱くぬめったものが花梨の指を這い回る。
チョコのココアパウダーを舐めるという名目で、翡翠は口唇で幾度も花梨の指をそっと食み、舌を這わせていく。
おまけに時々見当違いな部分までも舐めていくものだから、花梨にしてみればたまったものではなかった。
瞳にうっすらと涙を滲ませ、いやいやとでもいうように身を震わせる花梨の姿に、翡翠はとてつもなく人の悪い笑みを浮かべる。
「本当にこの世のものとも思われない、美味しさだね…」
「…そんな…とこ……粉は…ついてない…でしょ……翡翠さ………いい加減……やぁっ…」
柔らかな指の股までくすぐっていく舌先に、花梨は必死で自由になっている手を深緑の黒髪へと伸ばす。
髪を手ひどく引っ張って無体を止めさせようという腹だったのだが、快楽に翻弄されて力が上手く入らない。
結局、かえって翡翠の情欲をあおるばかりだ。


「ねえ、翡翠さ……わたし…………本当に…………変…な……の…。
だからおねが…やめ………んんっ」
背筋を走り抜ける初めての感覚にふるふると頭を振る花梨を、翡翠は難なく押し止め、口付けて宥めていく。
優しく、そしてついばむように幾度も繰り返し、徐々に深まっていく繋がり。
「ん…………っ…………あ………」
口腔内に蠢く、知らぬ感覚が翡翠の舌の存在を花梨に教えていく。
歯列を割って滑り込んだ舌に刺激され、花梨がうっとりと吐息を洩らすと同時に、翡翠の唇があっけなく離れた。
「…きゃあっ…!」
スカートから剥き出しの足を優美な手にするりと撫でられて、小さな悲鳴があがった。
全身真っ赤になって腿を隠そうとする姿に、黒目勝ちの翡翠の眼が細められる。
赤く染まった頬を切なげな息がかすり、うなじから耳にかけてそっと唇が触れる。
「…私だけが特別なのだと、この身に実感させてくれまいか……………花梨」
極上の天鵞絨のような声で真名を囁かれたとたん、花梨が腰砕けになって動けなくなった。
それを了解ととったらしい端正な顔が、潤んだ瞳へと微笑みかける。
そして、いきなり力強い腕が華奢な身体を抱き上げた。
「ひ、翡翠さん…何を…!?」
「…ああ。心配しなくても、ほんの少し移動するだけだよ。
このままでも悪くはないけれど、やはり君と新枕を交わすのがここというのはなんだからね…」

…私が聞きたいのは、そういうことじゃありません!
という花梨の魂の叫びは、寝室へと空しく消えていったのであった。












――――― その後。

いわゆる草木も眠るといわれる夜更けの時刻。
花梨は翡翠のガウンにくるまり、彼お手製の粥の前にいた。
「ねえ白菊、そろそろ機嫌を直してくれまいか?」
「…」
「ほら、食べさせてあげようか。あーん…」
「――――結構です!」
ぷぅっと膨れて食事を始めた花梨に、翡翠が堪えきれぬ苦笑を洩らす。
「お味はいかがかな?」
「………美味しいです」
「そう、良かった。ただでさえ君は細いのだし、やはりきちんと食事をしなくてはね」
向けられた意味あり気な笑いに花梨は激しく翡翠をねめつけるが、一向にこたえた気配がない。
「…そもそも食べそこねたのは、誰のせいなんですか!」
「まあまあ。食べたら、今度はゆっくりとお休み。私も君への夢路をたどるとしよう。
土曜、学校はないのだったね?
明日はどこかへ出かけるのでも、ここでゆるりと過ごすのでも、君の望むままにするよ」
翡翠の言葉に、花梨は唐突にはっとした。
「…あっ!! そういえば私、家に連絡してない! どうしよう…」
無断外泊になりつつある自らの現状を思い出しスプーンをぐっと握る花梨へ、抜かりなく翡翠が告げた。
「それならとっくに私がしておいたよ? 君が今日はここに泊まる、とね。
だから、何も気に病む必要はないよ?」
「…ああ、そうなんですか、良かった…。
――――― じゃ、なくて!! いいい一体、誰にそんなこと連絡したんですか!?」
慌てふためく花梨に、翡翠はどこまでも余裕の笑顔を浮かべる。
「それは勿論。麗しの君の従兄殿だよ」
「なっ…!」
「―――愛しいあまりに無理をさせすぎて、姫君が気を失ってしまわれたのだ、と言ったらね」
「ひ〜す〜い〜さん!」
「さすがは君の自慢の従兄殿だ。器が広くていらっしゃる。
私たちのため、快くアリバイ工作を引き受けてくださったよ」
電話の声音は多少、いやかなり低かったような気もするけれどね、と心のなかでだけ翡翠は付け足した。
怒り心頭に発したらしい花梨がぽかぽかと翡翠の胸板を叩くが、当の翡翠は自ら施した一石二鳥たる措置にひたすらご満悦の様子である。



「翡翠さんのばかぁ―――――っ!!」

花梨が発した怒りの雄たけびは、同時に上がった翡翠の愉快げな笑いにかき消されたのであった。




タイトルは某WHAM!の曲からでした(←名曲を汚すなよ)
Careless(不注意)と言う意味だと思ってたんですが、念のため調べてみたところ。
同じ辞書のすぐ後ろにCaress(愛撫する)って意味が載ってまして…そのまま妄想が暴走しました。本当は発音、ビミョーに違うのですけれどね。
…そういやオレンジピールチョコって、素人には作れる難易度なのか…?
いや、いつも美味しいお店で予約して買ってるもんで(笑)

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