《Home again》
夕方降り出した雨が、静かに大地を濡らしている。
月も星も塗りこめられて、生き物の気配すらない息づまるような時間。
どうしようもなくこみ上げる不安や恐怖、それを分かちあえる人がいない苦しさ。
こんな闇夜は、考えたくないことばかりが頭に浮かんで離れない。
家。
あるのが当たり前だった自分の居場所。
「離れてどこか遠くへ行きたい」と思い始めたのは、いつのことだったろう。
けれど、「いつでも帰ってこられる」と甘えていたからこそ、そう考えられたのだと。
帰ることができないと分かってはじめて、私は自分の愚かさを思い知る。
言葉が溶けない雪のように降り積もり、雨のように冷たく身のうちに染みていく。
身体が芯まで冷え切っても、私を温めてくれる手はどこにもない。
それが居場所を持たないという意味なのだと、私はここで知ったのだ。
―――――それでも、まっすぐに顔を上げて。
歯を食いしばって前へと進む。
私はきかない子だから、泣かない。
大丈夫だ。
陽の光のなかで、私は笑っていられるのだから。
…雨はなおも降り続いている。
雨は嫌い。
声が雨だれのようにいつまでも耳について離れないから。
『私は、確かにここにいるのに! 誰も、私を見ない。
あの子が求めているのは“神子”。
あの人たちが見ているのも“神子”。
そんな得体の知れないものを見る目だけが、ここにある。
“花梨”を必要としてくれる人なんて、誰ひとりいない。
私は、いないも同じ…! 生きていないのと同じ。
…なのにどうして、私はここにいるの…?』
『…崩れ落ちそうな崖の上にずっと立っているよう。
前へ進むことも、後ろの海に落ちることもできず、いつまでこうしていればいい?
誰か…ここから連れ出して。
―――――崖の向こうへ押し出してくれるだけでも、構わないから…』
声を追い出すように耳をふさぎ、目をつむって、私は朝を待つ。
…早く。早く朝が来て。
聞こえてくる声に私が立てなくなってしまう、その前に。
やがて、浅い眠りのなかで夢を見た。
浮かんでは消える、泣きたくなるほどに心地良い幻。ほんの少し前までの、現実そのものの夢を。
夢のなかで、時が少しずつ巻き戻されていく。
いつしか私は幼い姿へと戻り、大好きなあの人の膝の上にいた。
そこはいつも私を受け止めてくれた場所。
大切な、帰る場所。…今は、記憶のなかにしかない場所。
『…また、我慢しているのかい?』
髪をふわりと撫ぜて、顔へ添えられた優しい手。
『意地っ張りなお姫様。いつもそうやって、心を押し込めてしまおうとするんだね』
のぞきこんでくる温かな瞳に、とめどなく涙が溢れ出す。
堰を切ったように泣きじゃくる私の背を、大きな手のひらが辛抱強くなだめてくれた。
どれくらいそうしていたのだろう。
しゃくりあげる私を撫ぜる手もそのままに、静かな声が聞こえる。
『ここは花梨のための場所。だからいつでも帰っておいで。…でもね、花梨』
涙をそっとはらってくれた人の、強いまなざしが私を射抜く。
『ずっとここにいてはいけないよ。思いを伝えられる誰かを探すために、前に歩いていかなければ。
自分からひとりになろうとしちゃいけない。
どんなに時間がかかってもいいから、必ず見つけるんだ。花梨が素直に泣いたり笑ったりすることのできる、ここ以外のどこかを』
こくりと小さく頷けば、見惚れるほど綺麗な笑顔が向けられる。
『花梨、約束だよ?』
約束はまだ果たせていない。あの人の言っていた“どこか”が、私には見つけられない。
でもいつか、必ず果たします。なによりも大切な、あなたとの約束だから。
だけど…。だけどどうか今だけは。
ここで泣かせてください。
今だけは、どうか許して。
陽が昇れば、また元気な私に戻るから。前を向いて歩き出すから。
そしていつか…。
『ずっと側にいることはできなくても、いつも花梨のことを想っているよ』
―――――いつかきっと胸を張って、あなたのもとへと戻るために。