心が通じる
外へ出て行こうとする花梨を頼忠は急いで追った。
頼忠と言葉を交わしていて、突然そこにいない誰かと花梨は会話をはじめた。虚空の一点で視線は留まり、表情はなく、声も低く聞こえない。
頼忠は呆気に取られた。
ただ龍神の名だけは聞こえたから、気が揉めても花梨の邪魔だけはすまいと思った。
だが不意に花梨は頭が痛いと苦しみだし、思わず声をかけた。
その所為かどうか痛さは和らいだようだったのだが……。
花梨がふらりと立ち上がった。
大きく目を見開いたまま、表情の失せた顔で、目の前に座る頼忠を一瞥することなく、真っ直ぐに外へと向かう。
「神、子殿?」
花梨は頼忠の声に反応もしない。
頼忠は即座に立ち上がっていた。
簀子縁を越えようとするところで、頼忠は花梨を捕らえた。
「いけません、神子殿、外に出るのは危険です!」
触れることなど畏れ多いとか、穢れを移してしまうとか、そんなことを考える余裕はなかった。今はただ花梨を引き止めなければならない。
徐々に整いつつある五行の気。
それが完全なものになったとき、京は救われるはずだ。
龍神の神子にしかなし得ない使命を、花梨はやり遂げつつある。花梨自身も力を蓄え、十二分に清らかさを増した。
だがそれは皮肉な事態をもたらした。
京の気が強くなればなるほど、その影響を花梨は受けやすくなった。
五行との相性が悪くなる物忌みは最悪だ。
そうわたしは理解していたはずではなかったか……。
龍神に飲まれて花梨自身が消えてなくなると、そう本人の口から聞かされて、背筋が凍る思いがした。同時にいつも花梨ばかりに負担を負わせ、辛い思いをさせていると申し訳なさでいっぱいになる。
けれど花梨が大丈夫だと言ったから、その言葉を信じた。それが花梨の力になると思ってのことだ。
……やはり、わたしでは神子殿のお力にはなれないのか。
苦い思いが胸に湧く。
花梨は、頼忠に引き止められてもなお外へ、庭へ出て行こうとしている。
力負けする気はしないが、ぐいぐいと前へ出ようとする力はとても少女のものとは思えない。この華奢な身体のどこにそんな力がと幾度となく思ってきたが、この力はそれとは違う。そもそも武士たる頼忠が両手で押し留めていること自体が異常なのだ。
そう、これは龍神の力だ。
花梨に触れているからなのか、頼忠にもそれがわかった。
言いようのないものが花梨に向かって流れてくる。敵意も害意もそこにはない。けれど留まるところを知らない。
これが気の流れというものなのだろう。
しかし自分が感じているそれは、恐らくちょろちょろと流れる小川ほどのものでしかない。では気に鋭敏な花梨はどうなのだろうか。奇しくも自分が口にした如く川が氾濫したかのように感じられているのではないか。
頼忠は青くなった。
なぜいつもこの方ばかりがそのようなお辛い目にあわねばならない。
これほど清らかで、気高く、お優しい方がなぜ!
自然と引き止める両腕に力が入る。
花梨の口から漏れたうつろな呟きを聞き、恐怖に駆られる。
瘧(おこり)のような震えが頼忠を襲う。
両腕にいっそう力を込めて、花梨を胸の中に閉じ込めるように抱き締めた。
そしてなりふりかまわず哀願するように呼びかけ続ける。
けれどどれほど声を嗄らそうと花梨からの答えはない。
不覚にも目尻に涙が滲んだ。
神子殿、わたしの声が聞こえないのですか?
それとも、声が届かないところへ行ってしまわれたのですか?
あなたはこうしてわたしの腕の中にいらっしゃって、わたしはあなたの温もりや匂いを確かに感じているというのに……!
わたしはあなたにすべてを捧げ、守ると誓った。
その誓いを果たす力が欲しい。強い、誰よりも強い、そしてなにものにも、龍神にも負けない強い力が。あなたを守り通す強い力が欲しい!
頼忠はゆるゆると顔を上げた。
気が流れて来る方向を見定め、ぎんと空気が唸るような目をして睨む。
花梨を抱き締める手は無意識に強くなった。
振り返れば館に来てすぐにこの異常を感じていいはずだった。これほどの天気に、庭には小鳥の一羽とて姿を見ない。
不意に一陣の風が頼忠の髪を揺らした。木々の梢からあおられた雪がとさっと軽い音を立てて落ちた。
まるでそれが合図ででもあったかのように、花梨の身体から力が抜けた。
「神子殿……!」
慌てて支え、顔をのぞきこんだ。
が、花梨の顔は蒼白で、目は閉ざされていた。
意識を失われたのか。おいたわしい……。
頼忠は花梨を抱きかかえて中に入った。
御帳台に足を向け、ふと躊躇う。花梨を寝かせるのなら当然そこなのだが、まさかそこに起きるまで侍っているわけにもいかない。場所が場所だけに、起きたときにあらぬ誤解を招く恐れがある。
いや、神子殿がそのようなことを思われるはずがない。
そう思うのはひとえにわたしが浅ましい想いを抱いているからだ。
自嘲気味に口を歪め、気を取り直して、とりあえずは花梨を褥に横たえる。起き抜けに着ていたのだろう、几帳に引っ掛けられていた袿を上からかけた。
頼忠はそこまでやって、廂に下がろうと踵を返した。
が、まだ苦悶の表情を色濃く残している花梨の顔を目にすると、足が動かなくなった。束の間の逡巡ののち、結局、さほど離れていない位置に花梨を見守るように腰を下ろした。
頼忠の表情が暗く翳る。
……いつお目覚めになられるのだろうか。
頼忠は今までのことを思った。
穢れに当たって花梨はよく倒れた。初めて会ったときもそうだった。なにも知らずに龍神に喚ばれた少女は行き掛かりでわけもわからず怨霊と対決し、穢れを受けて倒れた。
あのときも今のように真っ青なお顔をされていた。
苦しそうにお顔を歪められて、ぐったりとなさって。
膝に乗せた拳を握り締める。
それから何度か同じ場面に頼忠は居合わせた。八葉として花梨を守ると言いながら結果は惨憺たるもので、守るどころか穢れを受けたことに、いや、そこに穢れがあることにも気づかず、自分の力不足を嘆くしかなかった。
泰継や泉水のようにとは言わない。せめて少しでもそういったことを感じ取れる能力さえあれば、花梨を辛い目に遭わせずに済んだと切実に思った。
今も思っている。
龍神の神子の力が高まり、花梨は気の流れや怨霊の気配に鋭敏になった。
しかし自分はどうなのか。
八葉として力が高まっているのかどうかすらわからない。
確かにさきほどは龍神の気のようなものを感じ取るが出来はしたが、それは神子殿あってのこと。わたし自身の力ではない。
この手はただ太刀を振るうことしかできない。
かつてはそれで十分だと思っていた。だが今は、それしかないことが悔やまれてならない。
花梨を見つめる。
それしかできない。
自分が出来ることをするというのが花梨の口癖だ。
ならば自分もそれに倣おうと頼忠はそう思い、なにが出来るのかと自問をする。
ふと記憶の表層に浮かんできたことがあった。
あれはいつ頃のことだろうか。
泉水の出生の秘密が露見する前のことだったと思う。
その場には彰紋とイサト、そして泉水がいた。そのほかには花梨と紫姫だけで、他の八葉はいなかったと記憶している。
立ち聞きをするつもりはなかったのだが、楽しそうに歓談する雰囲気に気後れして、中に入れずにいた。
それをそのとき聞いたのだ。
さすがは龍神の神子のお母上だと感心した矢先、同じように感心する彰紋達に花梨はそれを否定し、誰にでもできるのだと言った。
「相手を思う気持ちさえあれば……」
そのときの言葉が不意に口をついて出た。
ではわたしにも出来るのだろうか?
いや、それはあまりにも僭越に過ぎる。
それにこの想いは、お母上のそれとは違う。
わたしのこの想いは……。
いつのころからそこにあるのか、頼忠にもわからない。気がつくといつも花梨を目で追っていた。いくら朴念仁と言われる自分でもわかる。まったく経験がなかったことではないから。
そんなことがあるはずがないと否定し、あってはならないと戒めた。
けれど想いは日々膨れ上がり、ただ狼狽した。
己の罪を思い出してからはそれに慄き、自分は花梨の側にあってはならない人間なのだったのだと打ちのめされた。従者だからと花梨を遠ざけようとしても、それは却って花梨を悲しませることにしかならず、それどころか花梨の悲しむ姿に喜びを感じた。
今や、花梨こそが頼忠の生きる理由、場所だ。それは疑いようもない。
「このような浅ましい想いでもよいのですか?」
答えの返らない問いかけ。
返る必要もない。
再び雪が落ちる音がした。
西に傾きはじめた陽の光で雪景色の庭が朱に染まりはじめる。室内にもその光が届く。
静寂の中、衣擦れの音がかすかに響いた。
恐る恐る手を伸ばし、躊躇いつつも花梨の髪の毛に手を触れた。その指どおりの良い滑らかさに、秋の一日、伏見稲荷の尾花の原で見た光景を思い出し、目を細める。
やおら花梨を抱き上げる。
迷いはある。
花梨の言っていた呪いは、母親の気持ちが花梨に届き、通じたからこそなのだろう。
自分のそれが届くどうか、通じるものかわからない。
だがわたしは信じたい。
あのときあなたが北山にわたしを追って来てくれた、その事実を。
どうか、目覚めてください……!
花梨の唇に触れた。
甘美な衝撃が脳髄に走る。
離れなければと思うのに、身体が言うことを聞かない。
花梨を抱き締め、沸き溢れる激情のままに強く、さらに強くと、自分の唇を押し当てた。
夢中になるあまり花梨が身じろぎしたのにも気づかなかった。気づいたのは、苦しげに背けられようとする唇を追い、わずかに開いたその狭間に無意識に舌を滑り込ませようとしたときだ。押し返そうとするごとく強く胸を圧迫する力にはっとなった。
花梨は大きく目を瞠っていた。
頼忠に弁解する余地はない。もっともしようとする気も起きなかった。頭の中は真っ白で、なにも考えられない。ただ自分のした行為を花梨に知られてしまったと、そのことだけが心を占めていた。
時が止まったかに感じた数瞬。
花梨の声で再び時が回り出す。
花梨は顔を赤くして束の間視線を泳がせ、外の様子を目に留めると言った。
「あ、あれ、もう夕方?」
頼忠は答えなかった。否、声が出なかった。
「えっと……」
花梨の声が途切れた。
「……お気づきになられましたか?」
我ながら間の抜けた応対だと思った。
が、それがきっかけですらすらと続く言葉が流れ出た。不思議なほど落ち着き、平素と変わりない態度をとる自分に自身が驚く。
気を失ったことを花梨は覚えていない様子だった。
「頼忠さんに心配かけちゃいましたね」
「いえ、どうかお気になさらないでください。あなたをお守りすると言っておきながら、わたしにはなにもできませんでした」
花梨は、ううんと首を振る。
「そんなことありません。頼忠さんはずっとわたしの側についていてくれたんでしょう? それだけでも嬉しいし、感謝してます。ありがとうございます」
「神子殿……。勿体無いお言葉です」
「あの、ところで……、さっきのは」
頼忠は瞬く間に顔を染め、表情を強張らせた。
しつこいようだが頼忠に弁解の余地はない。なにしろその最中に花梨は目を覚ましてしまったのだから。
さきほどまであれほど回っていた口が、ぴたりと動かなくなる。
「あ、あれは……」
そう言ったきり、続きが出てこない。
これでは神子殿に誤解を与えてしまう。
わたしは決して疚しい気持ちではなくて……、いや、本心そうだと言いきれるのか、頼忠。
いつになく豊かに表情を見せる頼忠に、花梨は顔を和ませた。
「……頼忠さん、すごく困ってる? 今、そんな顔をしてましたよ」
「え? あ、いえ、その……、はい。…………申し訳ございません」
「どうして謝るんですか?」
「……あなたのお気を煩わせてしまいました。それに、わたしがしたことは申し開きのしようもないことで。ですが、これだけは知っていていただきたい。わたしはあなたの苦痛を退け、一刻も早く目覚めて欲しかったのです。だからあなたのお母上がなさったように」
「頼忠さん、あのとき、あの話、聞いてたんですね。だから」
「はっ、申し訳ございません。立ち聞きなど下世話な真似を」
花梨の手がそっと頼忠の頬に触れた。
「わたしは気にしていないから。それより、やっぱりありがとうって言います。その……、わたし、ぜんぜんいやだとか、思ってませんから。ちょっと驚いたけど」
照れたように笑う花梨に想いが溢れる。
どうしようにもなくて、頼忠は無言のまま花梨を抱き締めた。
神子殿、なぜあなたはわたしが欲しいと思う言葉を下さるのか……。罪人であるわたしにそれでも生きていて欲しいと言ってくれたあなた。それだけでもありがたいと、嬉しいと思うのに、あなたはいつもそれ以上のものを下さる。そんなあなたをわたしは守りたいと思う。今一度、わたしに誓わせてください。
「わたしはあなたを必ずお守りいたします。ですから神子殿、どうかいつでもこの頼忠をお呼びください」
「はい。お願いします、頼忠さん」
花梨はうなずきながら小さくそう応(いら)え、きゅっと頼忠の着物を掴んだ。
この上ない幸せを噛みしめながら、頼忠は目を閉じた。
神子殿、今だけはわたしに錯覚させておいてください。わたしの心が通じたのだと。
「one hand,one heart」の寧乎様がサイト弐周年記念としてお配りになっていたフリー創作を頂いてまいりましたその一です。キスの話を『立ち聞く』とか、思いつめたら一直線に突き進んでいくあたりとか、女の子があそこまで言ってくれてるのに『錯覚』とか言ってるあたりも(笑)、実に頼忠さんらしいと思いました。
タイトルは、寧乎様曰く『尾花の花言葉から』なんだそうです。