黄龍は総天然色の夢を見るか



 目が覚めた。

 嫌な夢を見ていた。
 それは確かなのだが、内容は憶えていない。
 ただ身体中に感じる気色の悪い寝汗が、悪夢の記憶を裏付けする。

 薄暗い行灯の明かりのなか、布団に大の字になったまま悪太郎は天井を睨み付けた。
 妙だ。
 天井が低い。いや、これが普通なのだが、自分が見るべき天井はもっと高い筈だ。

 からりと唐紙の開く音がした。
「どうしたの?悪太郎さん」
 闇の中から美里の声がした。あぁ、ここは龍泉寺だったのか。
 ゆっくりと身体を起こしつつ、首筋に手をやる。じっとりと嫌な湿り気が心地悪い。
「酷くうなされているようだったけれど…水でも持ってきましょうか?」
「いや、自分で行くからいいよ。騒がせておいて申し訳ないが、娘さんがこんな時分に男の部屋に出入りをするもんじゃないよ」
 枕元にある筈の手拭いを手探りでたぐり寄せ、額と首筋を拭った。水を飲む前に顔を洗った方がよさそうだ。
「まぁ…いつまでも他人行儀なのね、悪太郎さんったら」
 ふふっ、と笑う気配が戸口でしたかと思うと、美里がするりと室内へ入ってきた。何のためらいもなく寝床に近寄ると、掌をぺたりと悪太郎の胸元にあてた。悪太郎の身体が一瞬強張ったのち、無意識に後退る。
「酷い寝汗ね。今、手拭いを絞ってきます」
「水を浴びに行くから構わないで。それよりさっきも言ったけど男の部屋への出入りは…」
「いやね、悪太郎さんたら寝惚けてるの?妻が夫の閨に入るのは、当たり前のことじゃないの」

 つま?

 呆然とした表情が余程可笑しかったのか、しばらく笑い転げると、美里は押入からもう一枚寝間着を持ってきた。
「とにかく着替えた方がいいわ。そのままでは風邪をひいてしまいます」
「ああ、手数をかけて済まないが、水を浴びるから着替えはそれからするよ。だから美里さんも自分の寝間に戻って…」
「いけません。夜中に水を浴びるなんて、いくら悪太郎さんが丈夫でも身体に毒だわ。今は汗を拭くだけで我慢して。明日の朝、一番にお風呂を沸かしますから。
 それと『美里さん』なんて呼ぶのは止めて下さい…いつもみたいに『藍』って呼んで」
 そう言いつつ、するりと手が伸びてきて寝間着の腰紐が解かれる。慌ててその手を止めようとすると、却って不思議そうな眼差しで見られてしまう。でもこのまま放っておいたら、身ぐるみ脱がされた上に身体まで拭かれてしまいそうだ。
 それだけは避けたい。
 とりあえず美里をこの部屋から遠ざけようと、悪太郎は瞬時に考えを巡らせた。
「着替えは自分でするから。それより手拭いを絞ってきてくれないか?やはり寝汗で気色が悪いから、それだけでも拭いておきたいんだ」
 少し待ってくださいね、と言い置くと美里は部屋を出ていった。

 つま?おっと?

 確かに自分に妻はいるが、それは雹ちゃんの筈だ。
 そりゃもう、我ながら涙ぐましいほどの尽力の末に勝ち取った、愛しい女房殿だ。
 だが美里のあの様子は、嘘をついているとは到底思えない。
 人の話を聞こうとしないことの多い娘ではあるが、そこまで捨て身の嘘をつくとは思えない…というか、思いたくない。

 では、この状況はなんなのだ。

 夢だ。

 先刻まで見ていた悪夢の、これは長い続きなのだ。
 ならば、どうする。
 もう一度寝ちまえばいい。

 悪太郎は再びごろりと横になると、頭まですっぽりと布団をかぶって目を瞑った。
 かきっぱなしの汗が気色悪いが、寝入ってしまえばどうということもない。元々そんなに繊細に出来ている人間ではないのだ。
 とにかく肝要なのはこの悪夢から抜け出すこと。それだけだ。

 またの名を『現実逃避』という行動に出た悪太郎の命運や、如何に。
 寝苦しい夜はまだ続く。








 目が覚めた。

 嫌な夢を見ていた。
 それは確かなのだが、内容は憶えていない。
 無意識に握りしめたらしいシーツの皺が、身体の下で不愉快な自己主張をしている。

「ダーリン、大丈夫ぅ?」
 声をかけられた方を見れば、高見沢さんが心配そうに覗き込んでいた。自分はまたヘマをやって入院したんだろうか。でも高見沢さんは何故かナースキャップを被っていない。それどころかナース服も着ていない。
 …それって『べびーどーる』とか言いませんかー?

「目が覚めたのね、龍麻。酷くうなされてたから心配したのよ」
 更に脇から現れたのは藤咲さん。こちらも揃いの『べびーどーる』。淡いピンクの薄衣の下は、見る気が無くても目に飛び込んでくる『だいなまいつ』。しかも同系色の下着だから、一瞬つけてないのかと見間違えてしまう。あぁ、とりあえず見えるのが上半身だけで助かった。

「嫌な夢でもご覧になったのですか?」
 雛乃さんまでがお揃いの衣装ときたら、それはもう有り得ない。しかも枕のすぐ脇に座り込んで、肩越しにこっちを覗き込んでいる。胸元が見えないのは幸いだけど、見えなければ見えないなりに気になるのは何故だ。男って悲しい。

「だったらもう一度寝直すといいぜ…今度はイイ気分を味わえるようにしてやるよ」
 反対側の枕元から、やはり肩越しに雪乃さんが笑う。解いた髪の隙間から見える笑顔は、見たこともない色っぽいもの。日焼けした肌にベビーピンクって、案外似合うもんだなぁ、などと冷静に考えている場合なんだろうか。

「そうですね。子守歌を歌いましょうか?それとも別のことがいいですか?」
 全国的に水着姿は披露しているものの、これってヤバくないですか、アイドル様。綺麗な声で耳元で笑うのは止めて下さい。僕はまだ蓬莱寺とか紫暮とか劉とか霧島に闇討ちされたくはありません。いや、返り討ちに出来るのは明白なんだけど、友情とか打算とかいろいろあるし。

「あら、せっかく起きたんだから一緒に遊びましょ?退屈はさせないわよ」
 頭上から覗き込んでいるのは本郷さん。するりと伸ばしてきた指先が、頬を掠めるように擽っていく。そうか、お団子髪を解けばそんなに長いのか。それより豊かな谷間が丸見えです。正義の味方としてそれはいかがなもんでしょう。

「遊ぶノ?だったらマリィもタツマと遊ぶ!…ねぇ、なにして遊ぶ?」
 腹の上に座り込んだマリィが、僕の鼻の頭を猫のような仕草でぺろりと舐めた。綺麗な金髪が顔にかかる。この状態では服装まで見えないけれど、もしかして他の人達と同じ…いや、それはもう勘弁してください。

「遊びと申す物は存じおりませんが、心を込めて仕えさせていただきます…ご主人様」
 あー、日頃から露出度の高い芙蓉さんは、あんまり違和感がなくて助かった。でもご主人様って呼び方は微妙にいかがわしさ倍増って感じ。日頃からそんな呼び方させてる男の気が知れないね。仕方ないか、根がいかがわしい人間なんだから。

 目の前の事態から逃れるようにそんな事を考えている間に、気が付けば微妙に皆との間合いが詰められている。マリィに至っては僕の上に腹這いに寝そべって顔を覗き込んでいる。ごめんなさい、僕は犯罪者にはなりたくありません。
「ちょっと待って!ここは何処なのかな?いや、そもそもなんで皆、そんな格好してんの?あっ、その前にえーと、えーと…」
 パニックを起こしかけて、しどろもどろになっている僕を見て皆が一斉に笑う。普段のような底抜けに明るい笑いじゃない。艶とか媚びとか、とにかく『女』の香りが充満した笑いだ。

「京一だったら『極楽』って呼ぶ場所じゃないかな」
 この声は桜井さんだ。それはマズイ。何がマズイって、醍醐の事とか考えると、非常にマズイ。きっとまだ醍醐も見たこともない御姿を見ちゃったりするのもマズければ、その後に登場するであろう仲好しさんを考えると、本当にマズイ。なおかつ残りの面子を考えれば、更にマズイ。

「大丈夫、私がいれば何処だって天国にしてあげるわ。ねぇ、龍麻君」
「えへへ、聖女様が見せる天国なんか面白くないですよね。でも私なら…ね?」

 出ちゃったよ。それも二人揃って。
 二人とも悪い人じゃないのに、何故か揃うとすごい瘴気を感じるっていうか。
 身の危険を感じるっていうか。

 とにかくこれは夢なんだよ。どう考えても夢なんだ。何から何まで有り得ないんだってば。
 普通の男、例えば蓬莱寺とかアランあたりだったら大喜びするような夢だとは思う。仲間達は可愛い女の子ばっかりだし、スタイルも皆すごくいいし、気だてもいいし。
 でも僕には悪夢でしかないんだ。だってミサちゃんて愛しい人がいるんだから。

 だけどそもそもどこが悪夢かっていえば、決して居心地が悪いだけじゃないってことかもしれない。あぁもう、男ってやつは、本能ってやつは…!

 ミサちゃーん!お願い、この駄目な男を悪夢から救い出してくださーい!







 目が覚めた。

 嫌な夢を見ていた。
 それは確かなのだが、内容は憶えていない。
 瞑ったままの両目の裏で、何かがぐるぐると渦巻いているような感覚が残る。

「…龍麻、大丈夫かい?」
 頬を軽く叩かれて、眼を開く。
 見覚えのある室内と、掌の感触。むさ苦しい髭面…。あぁまた別の夢の中に…。

「目を覚ましなさい。君は酷く魘されていたんだよ」
 その言葉にようやく頭の芯がはっきりする。焦点の合った龍麻の目に鳴瀧の顔が映った。そうか、この部屋は拳武館の館長室だ。
「…鳴瀧さん…?」
「まだ寝惚けているね。すまなかった、急ぎの用事とはいえ随分待たせてしまったようだ。怖い夢でも見たのかな?」
「…よく覚えてないです」
 鳴瀧を待っている間に居眠りをしてしまったらしい。慌てて背筋を伸ばして座り直す。
「今、新しく入れた紅茶を持ってこさせよう」
「ありがとうございます…居眠りなんてしちゃってごめんなさい」
「気にすることはない」
 向かいのソファにどっしりと腰掛けた鳴瀧の姿に龍麻は安堵をおぼえた。
 やっと嫌な夢から解放された。内容は憶えていなくとも悪夢は悪夢。不快感が記憶の奥底にへばりついてなかなか消えようとしない。

 間を置かずに目の前に紅茶とケーキが運ばれる。鳴瀧は龍麻のカップに砂糖とミルクとを勝手に入れ始めた。角砂糖一個にミルクは多め。何故鳴瀧さんはあたしの好みを知ってるんだろう。
「ケーキを食べなさい。甘い物は気持ちを落ち着けてくれるから」
 出されたケーキが大好きな店のモンブランだったため、龍麻は喜んでフォークを取った。一口頬張る。美味しい。栗の香りが口の中一杯に広がる。嫌な夢さえも気持ちの中から追い出してくれる気がする。確かに甘い物は心にいいのかもしれない。
 でも、と二口目に取りかかってから思いつく。
 このケーキ屋は浜町にしかない筈だ。何故葛飾の鳴瀧さんのところで、このケーキが出てきたんだろう。自分の為にわざわざ用意してくれたんだろうか。
 食べるのを躊躇している龍麻を、鳴瀧が心配そうに覗き込む。
「まだ気分が悪いのかね?」
「ううん、もう平気です。なんでこの店のケーキが出てきたのかなって思って。ここからは遠いお店でしょう?」
 ははは、と太く低い笑い声が室内に響く。鳴瀧さんが声を上げて笑うのなんて、初めて見た。まだ自分は寝惚けているのだろうか。
「スウィート・ハニーの好物を用意するのは当たり前じゃないか」
 丁度飲み下そうとしていた紅茶を、龍麻は思い切り吹き出した。

 げほごほと噎せている龍麻の口元を、胸ポケットから出したリネンのハンカチで拭いながらうっとりとした表情で鳴瀧が語り始める。
「あの日、凶星の男との決戦に勝利した君が私を訪れてくれるとは夢にも思わなかったよ。
 私に向けて言った言葉はまさに殺し文句だったね。
 『暗殺はまだ出来ないけれど、きっと覚えます』
 なんて可愛いことを言うんだろうと、あの夜は嬉しくて眠れなかったものさ」
 ツッコミを入れようにも、気管に入ってしまった紅茶がそれを許さない。涙を流しながら咳き込んでいる龍麻の背を鳴瀧の大きな手がゆっくりとさする。
「かつての失恋を子供の代で取り戻すことが出来るなんて…私は果報者だ」
 ようやく復活した龍麻は、さりげなく相手から距離を取る。
「…鳴瀧、さん…迦代お母さんが好きだったの…?」
「何をいってるんだ。弦麻に決まっているだろう。それから私のことは『おじさま』と呼びなさい。何度言っても改めてはくれないのだね…弦麻そっくりな照れ屋さんだ」
 目の前では鳴瀧が、父・弦麻との甘酸っぱいを通り越した酸っぱい青春を語り始めた。

 潤んだ瞳と、赤らんだ頬。
 それが天然ソバージュ・ヘアに髭面の中年男の表情ときたら、これはもう視覚の暴力で。
 なおかつ耳から入るのは、馴れ初めから始められた実父への失恋話という聴覚の暴力で。

 夢だ。これは夢なんだ。
 夢だ夢だ夢だ夢だ…覚めてぇぇぇぇ…







 目が覚めた。

 嫌な夢を見ていた。
 それは確かなのだが、内容は憶えていない……

 寝苦しい夏の夜はまだまだ続く。



この悪夢から抜け出してみます?
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