紅燈寓話


 チン、トンと爪弾く三味線の、糸に合わせて思い出したように足をさする。

 妓(おんな)の足は誰しも冷たい。
 遊女はどんな御職だろうと足袋は許されないから。
 鼈甲の笄に鶴の簪で飾りたてた太夫でも、羅生門河岸で商売をする妓でも。
 病を得てなお店に出されている女でも、皆足は冷たい。
 
 床入りはいらないよ、と言うと妓は少し悔しそうな顔をした。病気がばれたのが口惜しかったのだろう。
 今日は田舎から来てる男の案内なんだ、ちょいと操を立ててる相手もいるのさ、という出任せに少し頬が緩んだ。
 酒を頼むよ、それから何か芸があったら見せておくれよ。
 そうねだって見せると、妓は部屋の隅から三味線を持ち出してきた。
 
 ぽつん、ぽつんと曲にもならない爪弾きを聴きながら杯を重ねる。
 きちんと座っていた妓の膝を崩させて、酔った振りをして足に触れた。
 ひんやりしたつま先をきゅうと握り、ゆっくりと撫でるとほんの僅かの間音が止んだ。
 
 芸事なんか仕込まれる位高の妓じゃない。
 切見世女郎の一歩手前、裏を返すことなしに床入りもさせる。
 辛うじて通せる無理が一つ二つ許される程度か。
 だから三味線を覚えたのは、きっとこの街に来る前。
 ふた親が揃って、毎日喰うにも困らない。芸事の一つ二つは手頃な嫁入り道具。
 でもこの妓はここに居る。
 この街で身体と意地を売って暮らしてる。
 
 ここはそんな妓たちが大勢居る街だ。
 
 そこに来たいとあの男は言った。
 お江戸に出てきたからには、一度行ってみたいのだと。
 あいつにとっては浅草も吉原も同じことらしい。
 
「ぬしさんは慣れておざんすね」
「なかに慣れるほどのおあしは持ってないよ。旦那衆の惚気話を真似てるだけさ。言っただろ?操立てしてるってさ」
 信じてもいないように笑うと、すいと背筋を伸ばして妓が糸を弾く。

   ほかの女を待つならお待ち わしも意気地じゃ 切れはせぬ

「嘘ばっかし言って」
「ぬしさんも」
 初めて楽しげな貌をして笑った妓の声を消すような、無粋な足音が廊下を近付いて来た。

「やっぱりここかよ、悪」
 訪いもなしに開かれた唐紙から現れた相手を見て、悪太郎が思いきり嫌な顔をした。
「馬鹿野郎、他の客の部屋を開ける野暮天がどこにいやがる」
「あぁ?いいじゃねぇかよ、まだ何してるわけじゃなし…やっぱ、お前んトコには妓が来てんだなぁ」
 俺んトコは待てど暮らせど猫一匹こねぇんだよ、とぼやく連れに内心で大きな息をつく。
 喉まで出掛けた言葉を呑み込んだ。
 お前は振られたんだよ。

 吉原へ行きたいならまず形を改めろ、と一から教えたつもりだった。
 髪結いへ行って見苦しくない髷を結って、誰に借りるでもいいから羽織を調達して、勿論足袋は白に限る。下駄は許して貰うとしても、鼻緒くらいは新調しとけ。
 その忠告は全部無視された。
 同じ寺に住んでいるというのにわざわざ告げられた待ち合わせ場所に行くと、普段とまるで変わらない様子の蓬莱寺が立っていたのだ。
 髷はどうした、羽織はどうした、と問いつめる悪太郎に向けて悪びれることもなく蓬莱寺は言ってのけたものだ。
「細っけぇコト、気にすんじゃねぇよ。男は度胸と心意気だぜ!」
 そう言い切った男は平素通りの姿で大門をくぐり、そこそこの見世に入ろうとして妓夫太郎に値踏みされた。引きずって連れて行った頃合いの見世に入ることが出来れば出来たで遣り手を『婆』呼ばわりして睨み付けられ、揚げ句腰の物を離すのを嫌がって…。
 野暮をなにより嫌う、気位だけは町屋の女の何倍も高い妓がこいつの相手をするわけがない。
 やはり遣り手に握らせた銭だけじゃどうにもならなかったか、と悪太郎は頭を抱えた。

「一人で三味線なんか楽しみやがってよォ」
 自分の振る舞いを棚に上げ、不満げに呟いた蓬莱寺が腰を下ろしながら膳の物を行儀悪くつまむ。
「膳のものに手ぇつけるな」
「あぁ?これ、悪のじゃねぇの?」
「そいつは廊下に出して、店の若い衆の取り分にするんだ…言ってるそばからつまむんじゃねぇ!」
「お前が頼んだんだろ?なら自分で喰えばいいじゃねぇか」
 これでこの辺りにゃ当分顔が出せやしない。
 郭、髪結床、湯屋は人の話を聞き込むのにうってつけの場所だってのに。
 野暮天を連れ込んだくらいなら、一人で顔を出した時に謝ってなんとかなる。だが自分の部屋の膳に手がついていたなんてのは…耐えられない。
 女が意地を売るならば、男も意地で通すのがこの街のやり方だ。
 金だけ出して好きなように遊ぶなんぞは下の下。
 ちょいと無理をして、その無理をさらりと隠すのが客の意地だ。

 そんな遣り取りを見ていた妓の口から、殺し切れなかった笑いが零れる。
「ぬしさんのお連れでありんすか」
「すまないね、馬鹿が入り込んで…いいから出ていけ。一つ部屋に二人も客をくわえ込んだら、この姐さんに迷惑がかかるんだから」
 廊下へ蹴り出すと、妓が更に笑い声を立てた。
「あちきならようおざんす。お座りなんしてくんなまし」
 長年の技術で塗られた白粉に隠された妓の本当も判らない男は、その言葉に甘えて座り込んだ。

 仏頂面して酒を飲む悪太郎の隣で、蓬莱寺は楽しげに妓と話し込む。
 陽気なこの男は人と打ち解けるのが上手い。それは本人も自覚しているのだろう。だから平気で喧嘩も売る。相手の怒りを宥めることも簡単だと高をくくっているからだ。
 この街でそれは通用しない。
 嘘で作った土台の上に更に嘘を塗り固め、剥がれかけてはまた嘘を上塗りする。
 この街はそうして出来ている。
 この妓たちはそうやって生きている。
 客はその嘘を丸飲みしてやる。そうしなければやっていけない妓たちの嘘を、それと承知で飲み込んで、毒すらも全て受け入れてやる。

 真正直な男こそが、この街では毒なのだ。

 妓の嘘に本気で答えてやるな。
 風邪だという悲しい嘘を真に受けて、身体の心配なんかしてやるな。
 この街が好きだという嘘を、全て本当と思い込んでやるな。

 妓たちは、そう思わなければやっていられないんだ。

 堪えきれなくなった悪太郎が、蓬莱寺の襟足を掴んで立ち上がった。
「大門が閉まる前に帰るぞ」
「えっ、泊まりじゃねぇのか?」
「それで雄慶に申し立てが出来るのか?」
 お前が帰らないなら置いていくまでだ、と言い捨てて座敷を出かけた。案の定、蓬莱寺も慌てて腰を上げる。来たのが初めてならば、帰り方も判っちゃいないと睨んだのは当たっていた。
「姐さん、すまないね。また今度あがるから」
「約束でありんすえ」
 婉然と笑うのも嘘ならば、待っているというのも当然のように嘘。
 悲しい妓の最後の嘘に悪太郎もまた微笑む。







「なぁなぁ、お葉ちゃんが言ってたお前の『操立て』の相手って、一体誰だよ」
 大門をくぐって日本堤を足早に歩く。帰る自分たちとは反対に、まだまだ中へと向かう男も多い。
 黙って歩く悪太郎の不機嫌にも気付かずに、蓬莱寺がまくし立てる。
「藍は随分お前が気に入ってるよなぁ、それを言ったら小鈴も同じか。あいつらお前と俺とじゃ飯のよそい方から違うんだぜ。まさか涼浬?あいつともよく骨董屋で話し込んでやがるよな。まぁ、あいつも無愛想だけど器量よしなのは確かだし…」
 山川町の手前で曲がり馬道を通る。夜とはいえども吉原へ続く道はどこも人足が途絶えることはない。浅草寺脇を真っ直ぐに通り抜けて、駒形堂へさしかかったところで漸く人気が切れた。
 自分の話に夢中になっている蓬莱寺の背が、手近な塀に押しつけられた。

「いいか、二度とは言わないからよっく聞け。
 僕は今後絶対にお前とは色街へは行かない。吉原に限らず何処だろうと、だ。
 女が欲しいなら内藤新宿の飯盛りでも、岡場所の妓でも江戸にはいくらでもいる。だから『ひとりで』行け。決して人を誘うな。一人で歩けないなら諦めろ」
「お、俺は別に女が抱きたいわけじゃなくて…」
「それなら余計に色街の流儀を心得ろ。行きたいというなら、事前に誰にでもいいから聞いて最低限の約束事くらいは心得ておけ。今日お前がやったことは目も当てられねぇ不作法ばっかりだ。
 吉原はただの色街じゃねぇ。男も妓も意地と見栄を見せるとっておきの場所でもあるんだ。そこに普段通りの格好でなんぞ行くな。金がなかろうと何としても取り繕うくらいの心意気を見せるのが、妓への手土産ってもんだ。まして中に入れば腰の物を預けなきゃなんねぇのは子供だって知ってる話だ。喧嘩と心中を出しちまったら、お上に見世が潰されても文句は言えねぇんだから。
 お前の部屋に妓が来なかったのは手違いじゃねぇ。お前はふられたんだ。お前みたいな無粋な男の相手をしたがる妓なんざいないってことだ。
 他の部屋を開けたのも最悪だ。居たのが連れだったからいいようなものの、余所の男が、下帯も解いちまってる部屋でも開けてみろ。身ぐるみ剥がれて放り出されたって文句はいえないんだからな」
 日頃温厚な悪太郎の剣幕に、ただ目を丸くしている蓬莱寺に更に言葉が叩き付けられる。
「それから妓の言葉を全部鵜呑みになんぞするな。
 あいつらは嘘しか吐かない。
 いい話だろうが、悪い話だろうが全部嘘の皮だ。
 その嘘を承知の上で飲み込むならいい。だが、信じるな。
 本気で信じられたら、男も妓もやり切れない。それが色街だ」
 胸ぐらを掴んでいた手が外された。鍛えていたつもりの自分が身動き一つ出来なかった事に蓬莱寺は呆然とする。日頃から強い男だとは判っていたが、その底がここまで知れないとは思ってもいなかった。
「お前はおそらく多摩あたりの出だろう。郷士か…千人同心なんぞと言われている辺りの家の次男坊か、三男坊か。贅沢はしたことがないが、喰うに困ったこともない。心得と言われて通わされたヤットウ稽古に血道を上げて、手習い算盤は上の空。親から貰える土地が無いに等しいならばいっそ腕一本で身を立てようとは思ったが、京へ上がって人の作った新撰組に入るのは業腹だ…ってなところだな」
 違うか、と見据えられて返事も出来ない。当たらずといえども遠からず。何故この男は聞きもしないでそこまで見通しているのか。

 どこか風変わりな男だとは思っていた。馬鹿じゃないかと思うほどに親切で、生真面目で、だがどこか投げ遣りで。人当たりよく笑っていても、どこか腹の底が読み切れない。
 だからこの街に連れ出してみた。自分自身が興味があったのも本当だが、この色街で悪太郎がどんな顔を見せるのか確かめてみたかった。藍が気のある素振りを見せても、小鈴があけっぴろげに懐いても、無愛想な涼浬が微かとはいえ笑顔を見せても知らぬふりを押し通す男が遊女に対して見せる顔が見てみたかった。
 それを自分の不手際でしくじった揚げ句、見せつけられたのがこの厳しさか。

「自分が恵まれてることに気付いてない奴ほど始末に悪いものはないのさ。早くそれに気付け。それが出来ないなら郷里へ帰れ。さもなきゃ京の血の雨の下へ行け。ただし今のお前の了見じゃ、三日と生き延びることは出来まいよ。
 人は腕前で生きるもんじゃない。気概で生き延びるのさ」
 言い捨てると、悪太郎はさっさと一人で歩き出す。
 あいつを成仏させてやりたかったのに、という言葉は蓬莱寺の耳には届かない。

 こんな男を連れ込んだからには、自分のところに妓は来ないだろうと腹を括っていた。
 酒の二、三本も空にする頃には蓬莱寺も自分の境遇に気付く。そうしたら軽く説教をして帰ればいいと思っていた。
 なのに、妓は来た。
 正真正銘の陰気だけで出来上がった、妓の形をしたモノが来た。
 どこかで嗅いだ覚えのある闇の匂いを承知で部屋の中へ招じ入れた。
 たとえ『鬼』が関わっていようと、こいつが悲しいままに死んだ妓であることに代わりはない。死して猶この街に心を残しちまっている、ありがちな程に『不幸な妓』。
 だから優しくしてやりたかった。
 妓が自慢にしている芸と、苦労して身につけた遣り取りと。
 肌は求めないのに金離れはいい上客と。
 中の下よりもなお下がり気味な妓には到底望めないささやかな夢。
 最期にいい思いの一つもさせてから、成仏させてやりたかったのに。

 間をおかずにあの妓は蓬莱寺の前に再び現れるだろう。
 今夜よりも闇の氣を濃く纏って、心の底の恨みを表に引きずり出して。
 その時、あの男はどうするのだろう。
 あの男がそれと知らずに腹の底に飲み込んだ『妓の嘘』は、どんな毒を醸すのか。

 家康よ、これがお前の望んだ『平穏』だよ。
 安閑とした世に胡座をかいた者達は一切の闇を知らず、一度闇に沈んだものは二度と陽の目を見ることが叶わない。
 己の子孫と、人の世の繁華を望んでお前が作った街の、これが今の姿だよ。
 『鬼』と『正義』とが跋扈する、これがお江戸のなれの果てだよ。

 目の前をちらちらとよぎる『鬼』は、その使う術も策もどこか未熟さが隠し切れていない。対する幕府の策もまた一貫性を欠いている上に、無謀さばかりが目立つ。
 何か不穏なものが更に奥で蠢いているのは感じるものの、未だ姿を現さないのが気に障る。
 早く、来い。
 何処の何者でもいい。何を望んでいようと、どんな手段を用いようと構わない。
 お前を始末さえすれば、自分にも末期が訪れる。
 この愛しくて、疎ましい世に別れを告げることが出来る。

 後ろから小走りに追いつこうとする蓬莱寺の下駄の音が聞こえる。
 悪太郎は振り返らなかった。
 今までそうして歩いてきたように、一度も後ろを見ることはしなかった。



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参萬おためし企画を承諾した際、久助さんから頂いたご褒美です。
「天狗掌話」で悪ちゃんが呟いていた「失敗」がどんなものだったのか、
どうしてもどうしても読みたくてリクエストしたものです。
結局得したのは私なのでした〜(笑)