汗ばむくらいの陽気のこの日、ボアヴィスタFC(Boavista F.C.http://www.boavistafc.pt)のカーサ、エスタジオ・ド・ベッサ(Estádio do Bessa)を目指し、ワタシはリベルダーデ広場から3番のバスに乗った。2両連結のバスは工事中の車がやっとすれ違えるくらいの細い坂道をあえぎながら登っていく。坂の街ポルトではあたりまえの光景だ。バスはようやく坂道を登りきり平坦な台地を快調に飛ばしていき、10分後には円形の広場にそった大きなリンクをぐるりとまわって、ボアヴィスタ大通りに入る。エスタジオ至近のバス停はもうすぐそこのはずだ。
どうやらひとつ前のバス停で降りてしまったようだ。エスタジオ方面を示す交通標識の指示通りやってきたのだが、確かにエスタジオはそこに見えるものの、裏門の関係者入口に来てしまった。どうもここからは入れそうにない。守衛の老人がいたので、聞いてみる「ここからは入れないんですか?」。「反対側に回るんだよ」。老人は目の前にそびえるエスタジオを指さしながら、優しく教えてくれた。
礼を云い、来た道を戻る。ちょっと先ではアメリカ資本のホテルが建設中だ。あたりはそれぞれかなり広い敷地を抱える一軒屋が並んでいる。このあたりの家はいくらぐらいで買えるんだ?などと下世話なことを考えながら再び大通りまで出る。そこを右折して次のプリメイロ・デ・ジャネイロ通りをまた右に入る。すると閑静な住宅街の中、正面にWebで見たボアヴィスタFCのエンブレムを配した建物が目に飛び込んできた。
ポルトには三つのフットボールクラブが並存する。下町のビッククラブとでもいうべき強豪FCポルト、ピニェイロ地区を本拠とするサルゲイロス、そしてポルトの山の手、比較的裕福な層が住むここボアヴィスタ地区に作られたボアヴィスタFCだ。広く知られていることだが、スポルティング、ベンフィカ、FCポルトという3大クラブによる本当にたくさんの優勝回数とベルネンセスのたった一回の優勝(1945-46)。リーガ・ポルトゲーズでは、この4チームしかこれまで優勝を経験したことがない。しかし、そんな歴史を打ち破る試合が、数日前まさにこのエスタジオで行われた。その試合で、ボアヴィスタFCが2000-2001シーズンの優勝を手に入れたのだ。当然、これはボアヴィスタFCのリーガ・ポルトゲーズにおける初優勝であり、リーガ・ポルトゲーズ史上5つ目の優勝チームの誕生を意味する。まさに21世紀最初の年の、画期的な出来事だったといえるのだ。その感動の瞬間が舞い降りたエスタジオがいまワタシの目の前にある。
建物に近づくとそこはどうやらエスタジオに併設された事務所と体操などを行うギムナジウムのようである。総合クラブなのだ。正面玄関を横切って進んでいくと、建物に沿ってスロープがある。上がりきるとはたしてそこがエスタジオの入り口のひとつだった。見上げるとクレーンがそびえたっているので、どうやら工事をしているのかもしれない。「優勝を決めたとは云え、まだリーガは終了していないのだが、なぜ工事を?」という疑問がもたげたてきたが、ドアが閉まっているし、エスタジオ内に勝手に入るわけにはいかないようだ。そういえば喉も渇いてきた。ペンサオンを出てから休んでいない。スロープを上がるときから気にかかっていたのだが、建物の一角に併設されているカフェが開いていた。ワタシは喉を潤すことにきめ、このPavilhão Dr. Acácio Lello Snack Barに足を踏み入れた。
中は少々時代がかった印象の内装だ。あまり広くない長方形の空間にカウンターがひとつと机がいくつか並んでいて、すでに何組かの客が思い思いに時間を過ごしている。本を読んでいる女性、バイクで乗り付けたらしい若い男の子、おしゃべりに夢中な若い女の子のグループ、カウンター内の店員と話をしている老人と客層はてんでばらばらだが、ここはボアヴィスタFCのエスタジオに併設されているカフェだ。
おそらく、ボアヴィスタFCのファンやクラブ員、またはその関係者というあたりの共通項はあるに違いない。こういった人が集まれる空間がきちんとあるというのは、英国的なクラブの印象が強い。そういえばボアヴィスタFCはもともと英国人が作ったクラブだったはず。この雰囲気が生成されてきた理由には、こういった伝統もあるのかもしれないが、とにかく平日でもクラブにやってくればカフェで時間をつぶせるというのは羨ましい。まあ、総合クラブであるのだから、平日も他のスポーツを愉しみに来るクラブ員は多いだろうから、当然のことなのではあるが。カフェを頼みながら、ワタシはそんなことを思っていた。
20分ほどこのほどよい空間でカフェを飲みながらぼんやりしていたが、やはりどうしてもエスタジオの中が見てみたい、という思いがふつふつと沸いてくる。客席に入れないだろうか、と考えるが、どうもドアは閉まっているし、クラブ員でもなんでもない東洋人が許可も取らずに入れる気配はまったくない。どうしようか考えながら悶々としていると、外のスロープを上がっていく親子連れがいる。エスタジオへお散歩といった風情だ。ワタシは飲み終えていたカップをそのままに、カフェを出て後を追った。案の定、父娘はエスタジオの入り口に向かい、閉まっていたドアの取っ手に手をかけてなんの問題もなく開けている。「なんだ開いてたのか」。さきほどの自分の間の抜けた行動を反芻していると、お父さんの方が手招きしている。一緒に入れてくれるというのだ。「いいんですか?」と尋ねると「大丈夫だよ」と笑っている。ワタシは父娘の後についてエスタジオの中に入り螺旋階段をあがってホーム側ゴール裏のスタンドに立った。
ピッチの四方にスタンドをつけたイングランドスタイルの造りだ。ピッチが近い。数日前、このスタンドで熱狂的な応援が行われ、試合終了のホイッスルとともに歓喜に包まれたわけだ。あたりを見渡すと、その時の興奮の痕跡がそここに残っている。食べかすや、応援グッズの残骸などなど。欧州では良く見られる宴のあと。汚れているけれど、嫌な感じがまったくない。逆に午後の陽射しの中で宝石のように輝いているといってはいい過ぎだろうか。
「どうだい。このエスタジオは?」。ワタシを招き入れてくれた父親が声をかけてきた。「いいですね・・・。そうだった。優勝、おめでとうございます」。「ありがとう。優勝は、初めてだったんだよ。わたしはその瞬間あそこにいたんだ」と満面の笑みでメインスタンドを指差す。席は“BFC”の形に塗り分けられている。「SOCIOなんですか?」。ワタシはお決まりの質問をしてみた。「もちろん、ずっと子供の頃からね。この子もそうだ。いま、女子フットボールチームに入ってるのさ」。父親は娘の頭に手をかけて誇らしげに続けた。「ボアヴィスタはフットボールだけのクラブじゃないんだ。体操、空手、水泳、テニス、ハンドボールなど様々なスポーツを愉しめる総合クラブなんだよ」。
初めての優勝という溜まりに溜まったエントロピーを蕩尽する瞬間。その快楽はクラブSOCIOの脳髄に大きな衝撃を与えたことだろう。そして、その衝撃の波紋が余韻となって、このエスタジオの空間に漂っている。
また父親が笑顔で話しはじめた。「ほら、そっちは建設中だろ。メインと同じような観客席を作っているんだ。来季はチャンピオンズリーグにも出るからね」。この場所にやってきたときから気になっていたクレーンはこのバックスタンド改装のためのものだったのだ。「作ったら、メインとバックを入れ替えるんだ」。云われてみて気がついたが、今のところ、確かに多くのフットボール場とは逆でメインが東側にあり、ゴール裏が南となっている。
優勝もしたし、チャンピオンズリーグの放映権料も入るし、ここはひとつ奮発したのかなとまた下世話な考えが脳裏をよぎる。なんにせよ、正直云ってうらやましい。
お世話になった父娘にお礼を云い、少しの間、優勝当日のホーム側ゴール裏だった南側スタンドを散策した。あちこちにゴミが散らばっている。お菓子の食べ残し、ビン、カン、クッション代りの新聞、ティッシュ、壊れたメガネやキーホルダ。その中に優勝試合の映像で見たソーセージ型の白黒市松模様ボアヴィスタカラーの大きな風船が、今は萎れて何本も落ちている。そのひとつを拾い、穴の開いてる方を持ち、青い空に向かって持ち上げてから急激に落として、少し空気を入れてみた。風船に少しだけ空気が入って、恥ずかしそうに首を垂らした。恥ずかしがらなくてもいいじゃないか。君達は優勝したんだから。
帰国後、新シーズンがはじまってからWebやボアヴィスタカーサの試合で確認したのだが、どうやら「バックだったメイン」の大改装は終わっていた。メインスタンドが今は東を向いている。次の宴の準備はできたようだ。