ただし、このページで筆者が問題にしていきたいのはフットボールクラブのピンズに限る。主な理由が三つある。
一)筆者がフットボールファンである
ニ)美しくかっこいい
三)ピンズならばなんでも、ということになるとあまりに範囲が広がりすぎる
これだけはっきりした理由があるのだから(笑)、フットボールクラブのピンズを集めないわけにはいかないとお思いにはなるまいか。いや、集めなくてはならないのである。これはわれわれの使命といってもよいであろう。
現代という自由と享楽の時代にあって、ひとつの使命に向かって邁進する美しい姿。これこそ“ピンズ者”の特権と言わずしてなんと言えばいいだろうか。美しくかっこいいものを愛するフットボールファンがフットボールクラブのピンズを集めない理由はまったくないのである。
また、ピンズ、ピンズといってもピンズにはオリンピックもの、国家代表もの、様々なエキジビジョンもの、社章、軍章など、数限りないカテゴリーと種類があるため、神以外これらすべてを把握するのは難しい。もちろん、われわれの目的は、ピンズの世界を把握することではない。そしてわれわれはフットボールファンである。ならばフットボール関連のピンズ収集に特化するべきではないだろうか。否、しなくてはならない。
小さなメタルのプレートは小宇宙である。われわれがフットボールクラブのピンズにまなざしを向けるとき、その先には、クラブの歴史とシンボルとファンの愛と神の加護と地域の誇り、そして喜怒哀楽の記憶のすべてが構成美と暗喩の中に介在する。むろん、サポートチームのピンズを胸や襟に挿せば、ファンとしての誇りがここに加味される。このメタファを「読む」楽しみを妨げるものはなにもない。
そのうえ、このまなざしと誇りから、われわれは「好き」「嫌い」という人の根源的な判断に関する興味が増幅される。人はなぜ好きになり、はたまた嫌いになるのか。その象徴としてのフットボールクラブピンズなのである。
また、フットボールクラブのピンズとくにエンブレムピンズには紋章の20世紀的大衆化、メディア化、ポップ化という側面がある。フットボールクラブのエンブレムは11世紀にドイツではじまったとされる「紋章」の系譜に位置付けるられるものであるものの、その多くが紋章のプロトコールから逸脱した例が数多く見うけられる。これをプロトコール違反であると糾弾するのは教条主義者のそしりを免れない。われわれの興味はこの「逸脱」の中にもあるのだから。
この「逸脱」は、多くのフットボールクラブが19世紀末から20世紀にかけて産声をあげていることと無関係ではない。フットボールは産業革命期に都市に流入した工場労働者の間で支持されたことにより大衆化がはじまり、後に市民スポーツとしてクラブ化。ふたつの大戦後にはメディアと経済のグローバル化により世界的流布が加速し、20世紀末には近代の一大産業へと変身した。このような歴史的経緯を経たフットボールを体現するクラブのエンブレムは欧州の「紋章」の歴史をバックボーンに、産業革命後のメディア時代の影響を受けるという「逸脱」行為によって形成されていったと考えられる。
つまり21世紀のわれわれにとって、19世紀的世界からの「逸脱」を行った20世紀を考える上でフットボールクラブのピンズは非常に示唆的な存在と考えられるのである。
このため、われわれは基本的に、フットボールクラブのエンブレムをあしらったピンズを好んで収集することになる。優勝やdecade記念ピンズなどは付随的な意味はもつが、収集の本線にはない。ただし、エンブレムから派生したデザインピンズや偽ものに、エンブレムピンズからの「逸脱」という価値を付与することを妨げるものではない。
基本はフットボールクラブのエンブレムのピンズ。ただし、エンブレムをデザイン化したものやパチものも許容範囲、というのが、われわれの立場であるとここに宣言しておく。