
三浦事件と転落事件 (3/7/03)
「三浦事件」の核心部分である「ロス銃撃事件」について無罪を確定する最高裁判所の決定は、多方面に波紋を広げることと思う。真実とやらは結局なんだったのかよくわからないが、少なくとも国が刑事罰を与えることのできない事件であったことははっきりした。一番問題なのはこのような事件を立件した検察であるのは間違いない。検察がなぜ立件したか、なんとなく世論に押された感が強いという印象はあるものの、正確にはよくわからない。「無罪覚悟で、検察の威信と正義をかけて起訴した」などという出所不明のコメントもあるが、これが本当に検察関係者のコメントだとすれば「ふざけんなボケ」である。無罪の可能性があるんだったらはじめから起訴するな。また、第2審で無罪判決を出した秋山判事が「無罪判決を出すのは勇気がいる」という言葉を残して、判決後退官したとされること、その後検察が無謀としか思えない上告をしたことは、少なくとも裁判所と検察の関係の深さや、両者の硬直化がうかがえる現象だ。「お上は間違いを犯さない」という意識が検察や裁判所上層部には果たしてなかったのか。
この事件について、一方の主役はやはりマスコミだったと言っていいだろう。事件の経過については、意外と複雑なので、島田荘司「三浦和義事件」、安部隆典「三浦和義との戦い 〜疑惑の銃弾」などを参照していただきたいが、要は週刊文春の特集がきっかけになり、三浦氏の特殊なキャラクターや経歴が耳目を集めたこともあって、ほぼ全マスコミによる狂ったような集中豪雨的事件報道がなされたのである。マスコミによる犯罪報道、犯罪「捜査」がどのあたりまで許されるかが問題となる。
マスコミが先鞭をつけた「疑惑の人物」から刑事事件に発展した例は数多くある。最近だけでも、リクルート事件のE、和歌山毒入りカレー事件のH被告、埼玉保険金殺人事件のY被告、薬害エイズ事件のA被告などが挙げられる。マスコミの情報収集能力と影響力は強大であり、もし社会の安定に役立つのであれば役立てた方がいいに決まっている。特に、政財界や官界の住人、いわゆる「公人」の追及はマスコミの重要な使命のひとつだ。また、表現の自由でもあるので、犯罪報道すべてが悪であると一概に決め付けることはできない。
しかし、何にでもやりすぎということはある。埼玉保険金殺人事件のY被告が、毎週のように有料記者会見を開くことが「できた」ことからわかるように、マスコミ報道の基本的動機は商業目的である。マスコミが「やりすぎ」る危険性は高い。自主的な監視機関もできているようだが、まだ「書いたもん勝ち」の状況は続いている。一人の人間、特に私人を罪に落とすのであれば、重大な誤りがあった場合、それなりに責任をとる方法が必要だろう。
ところで、私は昨日出た別の事件の結果も気になった。ある高裁での和解である。当時小学校1年生だった児童が、学校行事の練習時間に校舎3階の窓枠に登って転落死した事件について、遺族に対して市が2250万円の支払いをすること、市長の直接謝罪、安全マニュアルの策定などの条件で和解することになったというのだ。この事件では、去年地裁で「小学1年生は危険や死の意味を理解できず、危険の予測は困難」であるとして、児童の過失を認めず、2700万円の賠償を命じる判決が出ていた。小学校や市側の対応が当初極めて悪かったことも加味しての判決だという。遺族は大変気の毒であり、また、詳しいことはわからない(以前窓に登っているときに指導しなかったなどの大きな指導ミスがあったかもしれない)ので事件自体についてのコメントは避けようと思う。思うが、正直言って、この決定について心から納得できる人はどれくらいいるだろうか。非常に気の毒だが、遺族に対する嫌がらせが多少起きるのではないか、と想像した。もちろん、嫌がらせは正義でもなんでもない。金額に気をとられただけの、ねたみから来る理不尽な行為である。
ここまで考えて、ふと気が付いた。この「ねたみ」こそが三浦事件の最も大きな要素ではなかったか。
確かにマスコミは集中豪雨的な取材をし、洪水のように番組を流し続けた。しかし、需要のないところに供給は生まれない。この場合、視聴者や読者の希望が需要に当たる。週刊文春の特集記事への電話やはがきなどの反響、その後の番組の視聴率、ついでに警察・検察(アメリカも含む)への投書の数は、すべて驚くべき数にのぼったという。「三浦事件」の報道を「させた」のは、ただの視聴者や読者に他ならない。このあたり、島田荘司氏は「高度成長期の価値基準を壊す存在への嫉視」だと分析しているが、きっとそれは正しいと思う。もう少し付け加えれば、メディアの情報を丸呑みして、それを基に自分なりの正義を主張した者、覗き見を楽しんだ者、ただ単に「お祭りだ」と尻馬に乗って騒いだ者たちが、集団で三浦氏を被告席に蹴り落としたのだと考えられる。それらの根底にあるのは、突出したものへのねたみである。
メディア・リテラシーの考え方には、自己責任という要素が含まれると私は考える。「あおるような報道が悪い」「誤解を招く報道が悪い」という。確かにそうだろうが、マスコミの情報が商業ベースのものである以上、「そんなもんにだまされる方も悪いんじゃ」「乗る方も悪いんじゃ」という視点もそろそろ必要なのではないだろうか。一般視聴者や読者は常に善良で潔白だ、というのは、「お客様は神様です」という発想でしかない。受け手の側は全く責任がない、彼らはだまされて当然なのだから、という発想であり、考えてみれば馬鹿にした話だ。私たちは、自分自身がメディアの誤りに加担したり、誤りを助長したりする危険があるのだ、ということを念頭に置いて、自分の目を鍛えていく必要がありそうだ。すべての窓枠に鉄格子をはめる前に、高所の危険性を学ぶべきなのである。
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メディア・リテラシー その3 (1/2/03)
そろそろ本題に入ります。メディア・リテラシーという言葉をお聞きになったことはあるでしょうか。三度もタイトルにしておいて何を今さらという気もしますが。「メディア」は「媒体」のことです。ここでは主にテレビ、新聞などのマスメディアをイメージしていただきたい。「リテラシー」とは「読み書きの能力」のことです。つまり、メディア・リテラシーとは、「メディアを読み解く能力」のことになります。
前回まで見てきたように、マスコミというもの自体、いわゆる良識から程遠い存在であることははっきりしています。戦中は軍部の言いつけを守り、現代ではスポンサーその他に逆らえず、といったように常に強者の側を向いている。大した知識もなしに書きなぐり垂れ流し、関係者の迷惑は考えず、「いい絵だ」と思えば飛びつき、ひたすら「売れるもの」を目指す、というのがマスコミの本質です。そして、それでいいんだ、というのが私の考えです。変に「良識」ぶられても、それは何らかのベクトルを持つわけですから、結局同じようなものです。
このようなマスコミが吐く洪水のような情報をすべて鵜呑みにすることは、某乳業の牛乳を飲むようなもので、危険極まりない。かといって、それがすべて毒なのかというと別にそんなことはない。そこで、情報を鵜呑みにせず、自分なりの解釈をしてから評価するということが求められます。情報のうち、何が客観的な事実で、何が伝える側の主観に過ぎないのか、それを峻別する。事実のみを取り込み、主観的な評価を他人に任せない。そういう態度が必要です。しかし、必要なことはこれだけではありません。
前回私は「ただ一点を除いてモラルは必要ない」と書きました。マスコミに必要なただ一つのモラル、それは何かと言いますと、「嘘をつかないこと」です。なんだ、と思われるかもしれませんが、これも一般的な意味とは少し違います。
マスコミがつく嘘は、やらせなどの極端な例を除いては、2種類あります。一つは「裏を取らない」報道。例えば、Aさんがある証言をしたとして、その証言が事実であるかどうかの証明は、Aさん以外の情報源から確認する必要があります。その確認を怠ったまま報道するのは、嘘をつくこととほぼ同義だと考えていい。北朝鮮の拉致被害者関係の記事で、「○○さんは生きている!」という類のものをよく見かけますが、「北朝鮮の元スパイ」と名乗る人物以外からどれくらい裏を取ったのでしょう。また、警察の発表をそのまま丸写ししたような内容を報道し、裁判で有罪が確定したわけでもないのにプライバシーを暴いてまわる手口もこれに近いものがあるでしょう。
もう一つは、「限定された報道」です。媒体の分量、つまり新聞の紙面やテレビの放映時間は限られていますので、どんな情報を載せるかは選ばなければなりません。その選択の仕方が恣意的であった場合、これも一種の嘘だと言えるでしょう。スポンサーに「配慮」する報道もこの一種です。サラ金関係のトラブル報道って最近減ってると思いませんか。もっと深刻な例を言えば、2001年9月11日から少し経つと、アメリカのCNNは「アフガニスタンの女性差別」や、「アフガニスタンの荒廃した現状」についての情報を洪水のように流し始めました。同じ時期の「パレスチナの惨状」や、「チェチェンの弾圧」は、ほとんど画面から消えてしまいました。別にアフガニスタンのタリバン政権が直接テロを行ったわけではないのに、テロがなければアフガンの女性なんて知ったこっちゃなかったはずなのに、テメエらの片割れだってテロ行為をしているのに、論点がずらされていった。非常にうまいだまし方だと言えるでしょう。
これら二つの例――はい、思っていらっしゃるとおり、唯一のモラルであるはずのことも、結構守られていないのが現状です。週刊金曜日の記事は「裏が取れていない」記事の見本のようでしたし、フジの「キムヘギョン特番」の涙連発は、限定された報道の例だと思います。他にも、「政治改革騒動」時の報道、「三浦和義事件」の報道、「菊」「桜」「鶴」のタブー、いくらでもあります。さて、私たちはどうしたらいいんだろう。
結局、すべてを疑うのが基本かな、と。まず全部に対して反論をする。それは嘘だろう、それは主観に過ぎない、それは以前の報道と矛盾する、それは話ができすぎている、などなど、あらん限りのけちをつけ、こき下ろす。そうして、それでも反論できない、認めざるをえない情報だけをとりこんで、自分なりに考える。それを多くの人が行えるようにすれば、そんなに奇妙な結論には到らないと思います。別に陰謀論であるとか不可知論であるとかそういう話ではなく、ただまずは疑ってみること。それだけで少しは違うのではないでしょうか。
次回はもう少し各論ができたら、と思います。
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メディア・リテラシー その2 (11/28/02)
できればこっちから読んでください。
これを読んでる人は、ジャーナリズムって何だと思ってる?何か偉い人が真実を伝えてくれるもんだというイメージを持ってる人はいないか?眼鏡をかけた短髪痩身の弁舌さわやかな男や、白髪交じりで長髪の口元がゆがんだ男、あるいは国営放送出身で目の据わった妙に単純な名前の男、彼らは真実を言っている、彼らの「良識」は信用してよいと考えている人はいないか?もしいたら、その考えは今すぐ捨てて、ペットの亀に(亀がいない場合は隣の家の亀に)、食わせてやってほしい。
誹謗や中傷をする気はない。極言すれば、ジャーナリストに良識など、――ただ一点を除いて――必要ないのだ。理由は二つある。まず、そもそも「良識」などというものが考える人によって異なるということだ。保守主義者にとっては伝統が、宗教者にとっては宗旨が、商人にとっては利潤が、共産主義者にとってはその達成が、それぞれにとっての良識になるだろう。人は良識なしで生きられるほど強くはないので、マスコミもジャーナリストもそれぞれの良識に従って行動する。しかし、それが受け手の利益と一致するかというと、そうとは限らない。全員に一致させるのは不可能で、また、一致させるべき理由もない。
テレビの出演者に関して言えば、彼らは民間放送局の番組に出演している。番組の内容を決めるのは局や製作会社だ。局や製作会社はスポンサーから金をもらう。スポンサーは何を求めるか。自分たちのコマーシャルを一人でも多くが見ること、番組が自分たちの商売の邪魔をしないことだ。つまり、テレビの製作者、出演者の良識はその範囲内に留まるのである。
テレビに出ている者全員がスポンサーのことだけを考えているとは言わない。しかし、スポンサーのこと「も」考えないといけないのは事実だ。そうでない人はテレビに顔を出し続けることはできない。スポンサーにたてつく人はダメ、話が長い人はダメ、話が難しい人はダメ、見た目がぱっとしない人はダメ、なのだ。
フジの番組作りは、完全にスポンサーの側を向いた結果だといえる。夕方から画面に番組告知のテロップを出したままにして――それもCM中はなくなるのだ 考えてみれば変じゃないか?――散々に煽った。15歳の少女を晒し者にして、何度も同じシーンを繰り返したのも大げさなBGMもザッピング対策だ。内容は関係ない、ただ目が留まればそれでOK!横田夫妻をわざわざ放送車に待機させ、その気持ちを踏みにじり、挙句政治的に重要なことは何一つとして明らかにせずに終わった。深刻そうな顔を作るな!数字(視聴率)が稼げてうれしいくせに。喜んだのは局の人間とスポンサーだけだ。そして見た人の多くは思う――まただまされた、と。
ジャーナリズムに良識が必要ないもう一つの理由は、本質的にプライバシーの考えと相容れないものだからだ。犯罪や汚職の報道については、取材源に了解をとってなどいられない。そうではないケースで取材源の了解をとったとしても、関係者全員の了解をとっていたのでは、情報の鮮度が落ち、死んでしまう。また、そもそも利害関係の対立がない事件などほとんどないのだから、関係者全員の了解が簡単に得られる報道など大した中身ではない。ジャーナリスト、マスコミという存在そのものが、本来的に一般的良識とはかけ離れたものなのだ。
実際の取材現場を知っている人ならば、彼らが如何に傍若無人か、辟易しているだろう。無断で人の家の庭に入る、勝手に人の家にあがりこんでくる、写真を撮る、電話をかけてきて一方的にしゃべる、敬語を使わない、そして勝手に放映する。三浦和義氏も林真須美被告も取材そのものの暴虐についての裁判では勝っている(曽我さんについての報道によって佐渡島がどんなことになっているかを詳細に書いたページがあったが今は休止中で残念)。これは、「心無い一部の報道機関」の行動というよりも、ジャーナリズムの本質、本能みたいなものから来ているのだ。インテリが書いてヤ○ザが売る、なんて言うが、実際はヤ○ザが書いてヤ○ザが売る、それがジャーナリズムだ。
週刊金曜日のケースについて。彼らの雑誌は自分の正当化でいっぱいいっぱいだ。如何に自分達が権力に汚されていないか、人権に配慮しているか、少数意見を採り上げているか。――まあ、それはそれでよろしい。しかし、彼らは何らかのイデオロギーを持っている。もう一つ誌面からは伝わってこないが、権力(日本政府)は悪、大企業は悪、というような。それだけでも記事には圧力がかかる。そして、あれだけやかましく人権や報道被害について書いていたのに、自分たちのスクープの時にはほぼ当事者といってよい曽我さんの了解をとらなかった。なんか連絡とるのを邪魔されたみたいなこと書いてるけどね。でも実際発刊日には連絡が取れているのだし。なんで一号待てなかったかな。しかしそれがジャーナリストの本能、週刊金曜日も他のメディアと大同小異なのだ。自分たちだけの手が白いなんて顔をするんじゃない!
私が我慢できないのは、そもそも罰当たりなはずのジャーナリストが、あるいは取材すらしないただの台本読みが、正義ヅラ、良識ヅラをすることだ。もともと彼らは事実を伝えるだけの存在で、良識も正義も何もない事実があればいい、それだけで十分であるのに、彼らは自分の考えを語る。語るのはいいとして、その寄って立つところ――というか、言い訳として、正義や良識をもってする。「私はこう思う」ではなく、「これが普通だ」「これが正しい」「世間ではこうだ」と言う。そして世の中を憂う顔で民衆をバカにする。バカにするのはかまわないが、だったら市民の味方のような顔をするな!
拉致事件関係の取材においては、代表取材が中心となるなど取材規制がきつく、各メディアはネタに飢えていた。だって、書けば売れるとわかっているのにネタがない、これ以上イライラする事態があるか?ジャーナリストとしての本能も騒ぐ。日常ネタやお涙ちょうだいにも飽きた。そこでやってしまった、というのが今回の騒ぎだ。マスコミやジャーナリストなんてものが良識とは無縁だってことがはっきりしたのはいいことだと思ってるよ。
なかなか本題に入れない。続く。
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わが町 追加 (11/26/02)
あらかじめお断りしておきますが、私が日曜日に某城の周りを散歩したのはネタ探しのためでも悪意からでもありません。タダ券があったからです。
さて、某城の周囲には現市長が作った比較的新しい施設がいくつかあります。その一つ、某作家の記念館は、作家の劇的な人生と膨大なエネルギーを生き生きと伝える素晴らしいものです。作家の住居、ことに書斎と書庫をそのまま移設したものはまさに圧巻。いやあ、この町に生まれてよかったなあ。
もう一つ、某城庭園があります。周囲の発掘調査で明らかになった旧某城の庭園の形をほぼそのまま再現し、その横に大名屋敷を再現した施設です。お抹茶をいただくこともできます。
「某城庭園は、和を楽しみ、日本の美を再認識する、空間です。某市の中心部にあって『和』の雰囲気を五感で感じる、ストレスの多い現代人にもリフレッシュゾーンとなっています。」(ママ・某城庭園のページから転載)
皆さんにも見ていただきましょう。これ。
・・・・・・・・。リフレッシュ、できました?
ちなみに、屋敷の縁側から見る某城は最も美しいと言われています。たしかに。
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メディア・リテラシー その1 (11/23/02)
北朝鮮による拉致事件は急展開を見せた。以前も書いたように、政府が自らの犯罪を正面から認めるのはずいぶん珍しい。「金王朝」の崩壊も指呼の間に迫っていると思われる。金王朝の出先機関とも言われていた朝鮮総連も機関紙に謝罪記事を(社民党より、もちろん朝日新聞より早く!)載せ、アイデンティティを失いつつあるかのようだ。私たちは冷静に、何よりも安全保障――つまり北から東からもミサイルがカッ飛んでこないこと――を最優先に、また北朝鮮政府の行いと北朝鮮の市井の人々を混同しないように気をつけながら、事態の推移を見守らなければならないと思う。もちろん、必要なときには声をあげる準備をしながらな。
これに伴ってマスコミもさまざまな報道をしている。まず、フジテレビと朝日新聞と毎日新聞が横田めぐみさんの娘、キムヘギョンちゃん15歳の独占インタビューに「成功」した。フジはわざわざ特別番組を放送、15歳の少女が(おそらくリハーサル通りに)、「おじいちゃん、おばあちゃん、私に会いに北朝鮮に来てください」と涙ながらに訴えるシーンをBGM付きでこれでもかというほど繰り返すという、首領様もおもわずニッコリの愚挙を演じ、視聴率24%と一緒に視聴者の軽蔑も買った。チーン(レジの音)。その後視聴者の抗議とスクープを逃した各局の集中攻撃を受け、コメントを3回も出して弁明に努めた。曰く、「北朝鮮のプロパガンダに与するものではありません。」テメエの娘が15歳で晒し者にされたらどう思うか聞きたいもんだな。いっそなあ、せっかく首領様にカネ積んだのにお蔵にしてたまるか、北朝鮮側の見方も情報として必要だろうが、と開き直ったらどうなんだ?
大手3社の野合に続いたのは、意外にも究極の市民派、広告収入ゼロ、購読料だけで経営する異端の週刊誌、週刊金曜日だった。曽我ひとみさんの家族、北朝鮮で楽しく暮らしていると言い張る夫と子供二人のインタビューに「成功」。ご丁寧に写真入りで記事にした。内容はまたしても「帰ってこいよ」。さらに記者が発行前に曽我さん本人に電話、「この記事以上のことを知ってるから連絡ちょうだいね」。いやあ、びっくりしたなあ。私はこの雑誌を一時買ってたんですが、本多勝一が編集長になった時期から絶望的に面白くなくなったのでやめました。その後「買ってはいけない」が出たのを見て、ああ買うのやめてよかったと思いました。トンデモだよあれじゃあ。あのカネってどう使われたのかなあ。支出明細を公開請求とかできませんかね。市民派なんでしょ?今こそ情報公開を!で、編集主幹のコメント。「正しいことをしたと思っています」何を基準に?これだからサヨクはダメだって言われるんだよ。まあまともにコメントが伝わってるとも思えないけどね。
誤解しないでほしいが、私はこれらの記事について発表するなと言ってるわけじゃない。確かにフジの番組を見て横田めぐみさんのお母様は気分を悪くされたそうだし、曽我さんにいたっては雑誌を投げつけて泣き崩れたとのことで、大変お気の毒だ。拉致被害者やその家族の気持ちや考えは尊重すべきだと思う。でも、それを外交指針や報道の基準にはできない。小泉訪朝時の記者会見で、「北朝鮮を爆撃しろ」と言った家族もいましたが、まさか真に受けるわけにはいかないでしょ。ブッシュじゃないんだから。猥褻やプライバシー侵害なんかじゃない限り自粛も規制もそぐわない。でもプライバシーにはちょっとかかるかな。
流すべきだという積極的な理由もないことはない。例えば、今回の報道について「日本政府の外交努力を妨害するものだ、非国民め売国奴め」という批判もけっこう見かける。これは「政府の政策に反するものは発表できんのかい」、というツッコミを期待するボケでしょうな。「正義」などというものが相対的でフラフラしてるものなんだから、明らかに危険なものでない限り、いろいろなベクトルの情報があっていい。これを誰かの基準に合わせて一定の方角を向かせるのは、ヒトラーや偉大なる首領様に任せときゃいいんだ。
いや、実のところ私はフジや金曜日に拍手をしたい気分なんだ。別に首領様がどうのこうのと言いたいんじゃない。あの金華豚はそう遠くないうちに塩漬けになる運命だ。故人の悪口は慎もうじゃないか。そうじゃなくて、マスコミとは何じゃ?という問いに、明快な答えを提示してくれたからだ。
ちょっと長くなったので、次回に続きます。
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わが町 (11/20/02)
一体なんだってこんなことになったんだ?
これを見てほしい。これは私の住む町、某市某区中央部の光景だ。秋の色彩豊かな木々の向こう、正面に見えるのが某城。元は400年前、細川忠興(ガラシャのダンナ、って言ったらわかるかな)が建てたらしい。今建ってるのは再建された鉄筋コンクリート製だが、まあ町のシンボルといっていいだろう。右側の蔦の絡んだ壁は市の中央図書館の建物だ。
写真を見て何か気が付くことはないか?車のそばにいるおっちゃんのジャンパーが赤すぎる?いや確かにぎょっとするくらい赤いがそっちじゃない。はいそこ、右側のじいちゃんがこけないか心配しないように。じいちゃんはじいちゃんでうまくやってますって。車椅子用のスロープがない?いや、左奥にあるにはある。地獄への道のようにじめじめして暗くて長くて、自転車が来るので危険極まりないやつがね。まあ、図書館に入ったら入ったで天国への階段みたいに明るいがやっぱり長いスロープとバカみたいに重いドアがあるので大した問題じゃない。今回の話とは関係ない。
正面に某城がある、って言われてすぐわかったか?そりゃわからないことはないだろうが、なにか埋もれてるような気がしないか?そう、城の向こうに建造中の建物があるな。形も悪趣味だし、色もキ○ガイじみた赤やら黄色やらだ。秋だからビルも色づいたのか?おかげで私がガキの頃から見慣れてきた図書館からの眺めはぶち壊しだ。城の後ろの黄色と赤、ついでに灰色と茶色の建物がない絵を想像してみてくれ。風情のある、いい景色じゃないか?つい何ヶ月か前まではそうだった。図書館で疲れた目を青空に映える天守閣が癒してくれたもんだ。わが町、ここにありってね。今じゃ顔を上げる気もしない。なんでこんなことになったんだ?
こうなった理由は16年前にさかのぼれるかもしれない。16年前、わが町は新しい市長を戴いた。建設省出身のその市長は魔法使いだったらしい。彼が呪文を唱えると、川には新しい橋が10本も架かっちまうわ、恐竜みたいにでかい箱物がはびこるわ、町中道路だらけになって立ち退き代はもうかるわでみんなウハウハだ。少なくとも建設業者と地主はな。
城の向こうに建造中の建物は、市の出資する事業体が作る総合商業施設。シネプレックス、大型演劇場をはじめ、新聞社の本社やNHKなどのオフィス、そして商業施設からなる複合施設だ。商業施設に入る予定だったデパートのひとつは倒産して店じまい。やはりぶっ潰れたそ○うの跡地で残務整理してる。もう一つの大テナントはいつ潰れてもおかしくないあのダ○エー。まあ入る予定のテナントは他にもいるようだがね。シネプレックスは既に何個も市内にある。大型演劇場は歓迎しないこともないが、すぐそばに厚生年金会館のホールがあるし、車で20分も行けばなんとかホールって音楽ホールなかったっけ。750人から入るフルオーケストラ演奏可能なホールらしいけれど、うちの母校の合唱コンクールもそこでやってたし、こないだはピアノ教室の発表会をしてたな。ああ、ピアノ教室の発表会が多すぎてホールが足りないのか。それじゃあしょうがない。
いや、正直、新しい複合施設には含むところはない。五木ひろし特別公演も宝塚公演も見に行かないと思うが、あの辺りの建物の古さはどうしようもなかった。何よりこの御時世に働き口がたくさんできるんだ、いいことじゃないか。某駅の裏のバカでかい商業施設みたいにメインのテナント――これは名前だしてもいいな ヤオハンだ――が消えてなくなるようなことはたぶんないだろうしな。私が我慢ならないのはこの建物のどうしようもない趣味の悪さ、品の無さ、センスの無さだ。アメリカの建築賞をもらったらしいが、何かの陰謀か?単体ならともかく、せっかくの城――これも金をかけて施設を作ったのに――とマッチしないことこの上ない。忠興公が墓から這い出してこれを見たら切腹してもう一回果てるぞ。
他にもわが町には妙なものがある。さっきも言ったように市内の川には10本の新しい橋が架かった。確かに車にとっては便利になった。しかしちょっとシャレたいのか、役所はそれぞれの橋にテーマをつけた。「木の橋」だの「火の橋」だの「海の橋」だの。奇をてらうよりもシンプルに作った方が結局歴史に残るし余計な金もかからない、と私のような凡人は考えるがね。「音の橋」は当初の予定では音が出るはずだったが今はただの橋だとか、「風の橋」のモニュメント(銀河の船っていうんだって)が台風のたびにぶっ壊れて修理に何百万かかったとか、まあその辺はご愛嬌。しかし、「太陽の橋」のコレは一体なんだ?「ちくわぶ人間」「ペンネ人間」と地元では不気味がられているが、あの「VOW」にまで載って全国的に笑いものになったことを知ってるか?こんなのを14体も作らせるために住民税払うのもちょっとな。
それと、橋のそばにある施設。日曜日の昼間、周囲は人であふれてるのに入場者は私と連れだけ。かつてどぶ川のようだった川が「こんなにきれいになりました」って壁面の巨大なガラス越しに川の中が覗けるようになってるんだが、泥とウナギしか見えなかったぞ。まあ子供の見学用施設なんだろうが、物騒なものが流れてきたらどうするんだ。
もちろん、まともな政策なしに16年間市長の椅子に座れるわけもない(と思いたい)。公害のイメージを逆手に取った環境事業都市っていうのも面白いと思う。有力地場産業と合わせて「便器とゴミの町」と言われても私は平気だ。人間下水とゴミを出さずには生きられないんだ、歓迎しますとも。PCB処理を請け負うのもけっこう。箱物の中でも公園整備はいいと思うぞ。新空港、ハブポート、高速道路、学術研究都市の四大事業のうち――少なく見積もって三つは要らないと思うし中央もそう考えると思うが、とにかく魔法使いだから何とかするかもしれない。何でもムダの切り捨て、財政再建の手腕は全国指折りだそうだし。そういえば、去年博覧会があったな。もう忘れたか?
開く前からあまりいい噂は聞かなかった。リサイクルがテーマで説教くさくて地味、総合プロデューサーが大阪万博以来のベテランだということはそれだけありきたりの内容だと。案の定、人が入らない。入場者200万人の目標が達成されないかもしれないとなると、役所は目の色を変えた。タダ券をバラまくのはもちろん、学校には無料送迎バスを出す、市の職員には「最低5回は行くように」と通達を出す。尊い努力の結果、閉幕の数日前に入場者は200万人を越えたが、結局18億5千万円の赤字を出しちまった。何万人もボランティアを使っておいて。役所は猛暑と不景気のせいにしたが、すぐ隣の県で同じ時期にやった博覧会は入場者250万人を軽く越えて大幅黒字だったのだから何の言い訳にもならない。人口がひとケタ違うこと(もちろんこっちが多い)、こっちは会場の隣にけっこう有名な遊園地があったことなんかを考え合わせると、要するにこっちの博覧会が「かなりつまらなかった」ということにうちの亀だって気が付くだろうさ。彼女は何も言わないがね。
これもセンスの問題だ。まあ国内の地方博覧会として史上2位の赤字をたたき出したのも見方によっては武勇伝かもな。「入場者が少ないようですが」って記者に言われて「人集めや遊びが目的じゃない」って血相を変えたのも勉強好きの市長だからしょうがない。しかし、博覧会終了後の11月になって初めて「跡地利用をそろそろ考える会」(だったか?)が開かれたのをニュースで見たときはさすがにめまいがしたぞ。1年経った今も博覧会とその駐車場跡地にはさわやかな秋風が吹いている――風通しだけは最高だ。何もないんだから。あ、施設を再利用した博物館ができてるな。あの中に恐竜の骨が飾ってあるのは何かのジョークか?
で、財政再建の手腕がどうしたって?
来年選挙がある。市長は5選を狙うらしい。うんざりしている人は多いと思うが、何せ魔法使いだ、多分当選するんだろう。それもいいが、センスの問われる景観関係や客商売にはもう手を出さない方がいい。出してもいいが口を出すな。部下のせいだったら部下を替えてくれ。それと、あの醜悪な建物をせめて白か茶色か灰色に塗り替えてくれ。年中秋だってわけにもいかないだろう。
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