12歳 補逸 (9/5/03)

 更新がずいぶん遅れたので、雑記風に。

・地域コミュニティーの落とし穴
 前回、犯罪の抑制や教育の支援には、地域コミュニティーの復興が有効かもしれない、ということを書きました。かつての町内組織には「口やかましい爺さん」や「世話好きの人」がいて、知らず知らずしつけの手助けをしたり、近所の人の留守を知ってそれとなく気をつけてくれたり、様子のおかしい人に気を配ってくれたりしたようです。犯罪の原因として、犯罪者やその保護者の孤独や無支援があるとすれば、確かに有効だと思えます。空き巣の防止については、NHKの番組でもその有効性が謳われていました。

 確かにそうかもしれません。人と人との触れ合いが少なくなったといわれる現代においては、地域コミュニティーの復興はさまざまな効果が期待できる策かもしれない。しかし、どんな策であれ、実現できなければあまり意味がありません。地域コミュニティーを全国的に復興するのは、前述の通り実現性が乏しいように思えます。特に地元のお年寄りが少ないいわゆる「ニュータウン」や、若い夫婦や核家族だけが住むマンションでは実現の可能性があまりないと思われます。

 私の実家を例に挙げましょう。私の実家の近所一帯は町内会があり、それなりに活動していました。それが、あるトラブルメーカーが越してきて以来様子が変わりました。詳しい事情は書きませんが、例えば早朝や夜中にひどい騒音を立てたり、その家の子供が近所の女性に対して傷害事件を起こしたり、その示談金を支払った後で難癖をつけ恐喝まがいの行為やいやがらせをしたり、というような事件が続発しました。その家も町内会に入会し、なぜか役員になりたがり、他になり手がないので実際なってしまいました。その結果、近所の家の大半が町内会から脱退してしまったのです。仲裁をするべき会長や役員たちも無力でした。事情がよくわかっている老人もいません。迷惑防止条例違反程度では地元の警察は動かず、手の打ちようがないのが現状です。転入者が多い、いわゆるニュータウンであり、元々結びつきが薄いわが地域社会は、かくもたやすく崩壊してしまったのです。

 もうひとつ、大きな落とし穴があるという言い方をしました。それは、極言すれば、地域コミュニティーこそが犯罪を生む可能性があるということです。

 地域コミュニティーといえども人間の集団です。集団を形成するということは、個人は何らかの譲歩、プライバシーの制限や習慣に従うことなどの譲歩を迫られます。そして、その譲歩の割合についての合意は自然に形成されるものですが、それを理解できない者、意図的に合意に従わない者は確実に出現します。その合意が理不尽である場合もありますし、はみ出す者が間違っている場合もあります。そして、属している集団の支配から脱出するのは困難です。特に集団が小さければ小さいほど、ちょっとした悪評もすぐに周知のものとなる。集団で主導権を握る者の性質によっては、その異質な者に対して無視なり排斥なりの行為が起きることもあります。人間にとって真に耐えられない孤独とは、集団の中での孤独です。結果的にその孤独も犯罪に結びついてしまうこともあります。

 単独犯による連続殺人事件としては国内で最悪の事件、「津山30人殺し」は、戦前の村落社会の中で起きました。大分の18歳少年による一家6人殺し、文京区幼女殺害事件も、ある意味共同体の中で起きた事件です。これらの事件については詳述しませんが(どれもあまりに陰惨な事件なので 興味のある方は検索なさってください)、どれもコミュニティーの中のはみ出し者によって起こされた事件です。

 先ほどの例の場合、問題の住民は意図的に合意に従っていない者だということになります。受け入れるわけにはいかず、かといって地域が一丸となって追い出すわけにもいかず、誰も関わり合いになりたくなくなった、というのがさしあたっての状況です。無理からぬことだと私は思っています。

 脱コミュニティー的な地域のありようは、地方から都会に移り住んだ人々が形成したものです。確かに人間同士のつながりが薄いというデメリットもありますが、因習や束縛からある程度自由であるというメリットもあります。ないものねだりのようにユートピアを求めても、そう簡単に手に入るものではないと私は思うのです。

・少年法改正その他
  先日新聞を開くと、被害者のお父さんが寄せた長文のコメントが掲載されていました。悲痛な叫びのような文章は正当な怒りに満ちていました。その怒り、悲しみの深さは、私などの想像では到底及ばないでしょう。私たちがこの問題を考えるとき、社会全体のバランスと同じように、被害者やその遺族の無念を頭に置かなければなりません。ただし、被害者の家族が言うことは常に正しく、社会はそれに従うべきだと考えるのは誤りです。

 人間社会はつくづく飽きっぽくできていて、事件当時ある程度声が上がった少年法改正の声も、いつの間にかなくなってしまいました。よって、この項で書くことは無くなりました。少年法に興味がおありの方にはこのメルマガをお薦めします。実務担当者、学者などによる興味深いメルマガです。今やセンセーショナリズム一辺倒のマスコミでは報道されない少年事件の実際が垣間見られます。



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12歳 (7/18/03)

 長崎で12歳の少年が4歳児を殺害した事件について書きます。

 事件は衝撃的に報じられています。私もショックを受けました。「無邪気な残忍さ」とでもいいましょうか、まるで子供がおもちゃを壊すような犯行は、私の理解を遠く超えています。しかし、被害者や加害者くらいのお子さんを持つ方には、「ショックですねえ」で済まされない深刻な問題だと思います。私も子供に接することが多いので、いろいろと考えずにはいられません。

 まず、「これは異常な事件である、最近の少年はおかしい、教育を見直さなければならないのではないか」「ゲームなどの環境がよくない」という意見をよく目にします。もちろん教育にしても環境にしても、常に見直され、改善されるべきものだとは思います。ただ、今回の事件をすぐにこれに結びつけるのはあまりに安直でしょう。例えば、こういうデータもあります。これによれば、13歳以下の子供による殺人は何年かに一回起きています。件数が多いことに驚かれた方もいらっしゃるかもしれません。忌まわしいことではありますが、どうしてもこういう異常者はまれに出現し、異常事態は起きてしまうものらしい。この中の昭和54年の事件などは今回の事件に似た部分が大きいと思われますが、昭和54年と平成15年では教育内容も環境も大きく異なるはずです。したがって、単純に世の中のせいだというわけにはいきません。また、少年事件という枠で考えても、殺人事件は減少しています。今の子供たち全体を特別視して病人扱いしてみたり、学校教育やゲームやテレビなどの環境だけのせいにしてみたりしてもあまり意味がないのです。あくまでもケースバイケースで考えるべきです。

 ただ、繰り返しになりますが、教育や環境が常に見直されるべきであるのは間違いありません。少年による凶悪犯罪のうち、殺人事件はともかく、強盗事件は確かに増加しています。自分の心の弱さと向き合わせ、我慢する心を育てることは、家庭や学校、マスコミをはじめ子供を取り巻くあらゆるものにとって、これから大きなテーマになることでしょう。しかし、私が関わっている中学生たちに、「今回の事件について学校の先生が何か言っていたか」と聞いたところ、ほとんどが「何の話もなかった」と答えました。過剰反応をする必要はないと思いますが、全く何もないというのもちょっと不思議です。まあ、中学生同士が殺し合いをするという内容の映画や、学校で殺人事件が起きまくるアニメをプッシュして、年端も行かない子供に浸透させているテレビ局あたりは、教育や環境がどうのこうの言っても説得力はないと思われますが。

 実際に起きてしまった事件について、誰の罪を問うべきか、という問題もあります。一番の責任は「犯人」である12歳の少年にあると私は思いますが、現行法上、14歳未満には刑事責任がないということからか、他の何者かに責任を求める考えがあるようです。特に、保護者の責任を問う声は強い。ある国務大臣の「市中引き回しの上打ち首」発言がずいぶん話題になりましたが、割と好意的に受け取られているようです。確かに、保護者に責任があるのは間違いがない。これから保護者は一生この件を背負って生きるでしょうし、民事上の責任、言い換えれば賠償責任を負うことにもなると思われます。保護者は社会に対してこれくらい重い責任を負うからこそ、子供の人権を大幅に制限する権利(あるいは義務)を持っているのです。ただ、「市中引き回し」、つまり顔や名前を晒して謝罪する、あるいは何らかの刑事罰を加えることは、果たして正当なことなのかどうか。

 件の大臣の真意は、おそらく親は覚悟を持ってしっかりしつけをしましょう、ということだと思います。それを承知で続けますが、まず、親ができることにも限界がある。マスコミ報道の内容を見る限り、この件に関しては母親に問題がありそうだな、とは想像できますが(このあたりstephanie3氏がリアルで恐ろしいことを書いています こちら)、それにしても一から十まで保護者の責任だと言えるのかどうか疑問です。次に、「市中引き回し」という言葉に着目しましょう。かつて江戸時代などに刑罰として存在した「市中引き回し」の効果は大きく分けて二つあります。ひとつは、悪いことをするとこうなるぞ、という「見せしめ」の効果。もうひとつは、市民のフラストレーションを発散させる「見せもの」としての効果です。まさに国務大臣が考えたマスコミ晒しに近いものがあります。確かに、社会の沈静化に向けて、それぞれ手っ取り早い効果であるのかもしれません。しかし、そこに想定されているのはいわゆる「愚民」の姿です。溜飲が下がればそれでいいのか、それ以上考えるべきことはないのか、という疑問がわきます。

 私は、この事件については、治安責任者、つまり長崎県警の責任が非常に大きいのではないかと考えています。大して追及されている節がないのが不思議なのですが、何度も起こっていた痴漢事件や、犬が投げ殺された事件について、もっと真剣に取り組んでいれば、この事件は当然予防できたのではないか、と思えるからです。犯罪の増加に比べて検挙率が極端に落ち込んでいることからわかるように、今警察官は忙しすぎます。忙しすぎると、例えば私の家の近所に露出狂の変態が出て、それに遭遇した職場から帰宅途中の女性が泣きながら交番に駆け込んでも、現場に行こうともせず「女がこんな時間にうろついているのが悪い」と言い放ったりするわけです。長崎県警は、過去一年に20件を超えていた男児へのいたずら事件対策についてそう手を抜いていたわけではありませんが、それでも結局犯人を検挙・補導できず、教育機関へ警告を出してもいませんでした。

 なぜ警察官が忙しいのかというと、人数が足りないか組織がおかしいのかのどちらかです。そのどちらであるかはよくわかりません。私にわかるのは、この状況下、つまり犯罪が多様化、国際化して、さらにテロ対策までしなければならないこの状況下に、警察庁予算は0.3パーセント減(平成14年度最終予算 警察白書より)とされているということです。地方警察の予算は、この警察庁予算からの補助金と、都道府県の出費から成り立っていますが、この都道府県の予算も「三位一体の改革」とやらで削られるのは必至の情勢です。果たしてこれで社会は守れるのか。

 さて、この事件の二つのポイントである「家庭でのしつけ」と「地域の治安」のどちらをたどってみても、多数の人が行き着く結論は「地域コミュニティーの復興」だと思います。親がしつけについて不安に思うのならば、地域の人が一体になって子供を叱ればいい。何か異常なことがあっても、地域の団結がしっかりしていれば、犯罪を未然に抑止したり、大事を小事で済ませたりできるのではないか。わが国の首相を含めて、そういう考えを持っている人は多い。私もおおむね賛成です。しかし、二つほど懸念があります。一つは、果たしてそれが可能なのか、できたとしても時間がかかり過ぎないか、ということです。これだけ変容した世の中、生活時間も余暇の使い方もばらばらな人たちが、生活の一部を共有することができるのか。もう一つ、この「地域コミュニティーの復興」という考えには大きな落とし穴があると思うのです。これについては後述したいと思います。

 私としては、漠然と教育や環境のせいにするよりも、個人を晒し者にして溜飲を下げるよりも、実態がはっきりしない地域コミュニティーに期待するよりも、さしあたっては児童相談所などの福祉施設、特に家庭教育について相談できるような施設の充実や、警察関係予算、中でも警備・公安ではなく犯罪捜査の人員の充実に、税金を使って欲しいなあと思います。自業自得の銀行や、わけのわからないODA、戦争の片棒担ぎに税金を使うよりも、よっぽどいいと思いませんか。



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イラク戦争 その後 (6/23/03)

 空母エイブラハムの艦上から、ブッシュ大統領は「戦闘終結宣言」を発表した。イラク戦争は比較的あっけない展開で、アメリカ・イギリス軍の勝利に終わったようである。「衝撃と恐怖」作戦と名づけ、1500発のミサイルや誘導弾を撃ち込んだ結果、フセインどころか世界中が沈黙してしまったように思える。歴代大統領がシビリアン・コントロールを象徴するために公開しなかった軍服姿で戦闘機から降り立った大統領は、確かに勝利者(ボスザル)の顔をしていた。

 イラクがテロ支援をした証拠はなく、大量破壊兵器とやらはいまだに発見されていない。フセイン政権の圧政は去ったが、イラク国民による政府は成立のめどが立っていない。イラク国内での「テロ事件」も相次いでいる。従軍マスコミも多数現地入りしたにもかかわらず、あるいはそれゆえに、戦闘があった3週間でどれだけのイラク国民が犠牲になったのかいまだに明らかにならない。それでも軍事的な勝利はすなわち正義だという古来の法則はしぶとく生き残り、世界は再びアメリカを中心に動き始めているようだ。

 しかし、それでも何かが変わったのではないか。

 艦上でブッシュ大統領は中東和平の努力をすることを約束し、その後サミットを途中ですっぽかしてまでして中東首脳会談に臨み、「ロードマップ」とやらを示した。しかし、その後の混乱ぶりは周知の通りである。それはそうでしょう。仲介国のアメリカ自ら軍事力で強行突破する範を垂れておいて、イスラエルやパレスチナには「武力抗争をやめ、平和を」なんて言ったって説得力のあるはずがない。シャロンだって「殺した方が早いじゃん」と思うに決まっている。ついでに言えば、ネオコンのボスのパール氏は、「北朝鮮って爆撃した方が早いよね」と明言した(CNN)。恐怖は連鎖する。この方法はダメなのだ。繁栄はともかく、平和は来ないのである。

 今回の戦争で、アメリカの敵国は世界の敵国に仕立て上げられること、圧倒的な軍事的勝利があれば、戦争の理由など後でどうにでもなる野蛮な世界に自分たちが生きていることを改めて学んだことと思う。利害調整をするはずの国連は機能せず、国際世論とやらは結局無力であった。各国、各個人は、不条理を覚えつつも、生き残るために対症的な行動を取らねばならない。しかし、アメリカ不信の種は撒かれたように思う。ユーロ圏をはじめとして、アメリカ抜きの国際戦略を打ち出す勢力は今後目立ってくるだろう。

 私は直接に何ができるわけではない。しかし、自己満足でもいいから声をあげつづけること、そして、イラク戦争で何が起こったかを調べ、記憶し、記録すること。その蓄積がいつかは役に立つときが来るかもしれない。私達の多くがそれをするならば、それはアーカイブとなって、将来同じような事態に至ったときに、なんらかの啓示を後世にもたらせるかもしれない。そういった意味で、ペンは剣より強いのだと私は思う。



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Bowling for Columbineを見て (3/31/03) 
 映画の内容に触れていますのでご注意ください

 F市でラーメンを食べたついでに、以前から見たかった「Bowling for Columbine」(監督 マイケル・ムーア)を見てきた。F市に二つあるミニシアターの片方でやっていたのだが、平日の昼間であるにもかかわらず行列ができていた。この田舎ではスピルバーグの新作の封切りでも行列ができることはまれだ。イラク戦争(映画を見に行ったのは開戦前)が近づいていたことにも関係があるだろうが、どちらにしても驚くべきことである。

 ちょっと以前に読んだマイケル・ムーアの本がとてつもなく面白かったので、そこそこの期待を持って見た。この前に見た映画――「少林サッカー」――以上の衝撃を期待するのは酷かもしれないなと思いながら。

 Columbineとは、2人の生徒が銃を乱射し、12人を殺した大事件の起こった高校の名前だ。この事件に目をつけたムーアは、原因や背景を探るべく、カメラを持ってインタビューをしてまわる。カメラの向こうに映るのは、日本人には想像もつかないアメリカ銃社会の姿である。銀行預金で銃がプレゼントされ、スーパーに銃と銃弾がいくらでも売っていて旅行者でも買え、銃を枕の下に置いて眠る男もいる。全米ライフル協会は国内最大の圧力団体だ。彼らと彼らの会長、チャールトン・ヘストンは、事件の数日後にColunbineで気勢を上げている。「俺たちは決して銃を手放さないぞお!」

 アメリカ社会は事件の「犯人」探しを始める。暴力的なゲームか、暴力的な映画か。真っ先に槍玉にあがったのは、犯人たちがファンであったマリリン・マンソンという歌手だ。どんな歌手かはリンク先を見ていただければわかるが、とにかく彼のツアーは中止を余儀なくされた(マンソンへのインタビューはこの映画の山場のひとつである。超クールである。馬鹿のフリは馬鹿にはできないということか。もちろんムーアの魔法でもあるだろうが)。しかし、マンソンが原因だと言うのならば、犯人の二人が事件直前にやっていたボウリングはなぜ関係ないと言うのだろう。これがタイトルの由来だ。

 カメラは別の銃撃事件とその背後関係を絡めながら、Columbine高校の校風、土地柄、その日の米軍の行動(コソボ空爆)、銃の入手先になど迫る。人々が考える事件の原因を一つ一つ考証していく。ゲームも映画も残虐な歴史も同じように持つ他の国に比べて、アメリカの銃犯罪による死者の数は2ケタ多い。なぜだろう。特に隣の国、カナダでは、失業者も多く、銃の数も多いのに、やはりアメリカに比べ銃犯罪は2ケタ少なく、人々は家に鍵をかけない。なぜだろう。そこでで浮かび上がってくる理由は、2つあった。ひとつは社会保障の差。もうひとつは、アメリカ社会が根源的に持つ「恐怖」であった・・・。

 結論から言うと、「少林サッカー」と同じくらいの衝撃があった。「少林サッカー」はハイテクを使って泥臭く真面目に馬鹿を極めていたが、「Columbine」はローテクを使って泥臭く真面目に悩みぬいている。真面目な映画は胸を打つものだ。ジーンズにネルシャツ、キャップにひげ面、巨体をゆすってインタビューを繰り返すムーアの姿は、いやみがなくて自然でわかりやすい。インタビューを受ける者もまた、いやみなく自然にわかりやすく――ただ一人の例外を除いて――答えていた、というよりも自ら話していた。これは天分というものだろうなあ。ギャグを期待して見た向きには期待はずれだっただろうが。ギャグとユーモアは違うのだな、と考えさせられた映画でもあった。

 カメラを持ってまわしながらアポなし直撃、という手法は、日本人には「電波少年」でおなじみだ。もちろん「Columbine」にはヤラセがない(たぶん)という点で決定的な差があるが、ぱっと見は似たようなものなので、別に新鮮さはない。しかし、その手法で明らかになる内容は重大で衝撃的で、しかも得心がいくものだ。恐怖を煽り、その恐怖により企業が利益を上げる社会体制――ダイエットもそう、2000年問題もそう、銃が売れるのもそう。テレビでは黒人の若い男の犯罪をしょっちゅう報道している。なんだかわからないが、黒人の男が襲ってきたときに備えて銃を持たなければ。そして、黒人をアラブ人に置き換えれば、今まさに中東で繰り広げられている愚行も全く同じ構造ではないか。

 ドキュメンタリー映画であるから、別に劇的に何かが好転するわけではない(事件の被害者が直接訴えたことで、スーパーが銃弾の販売を取りやめた件もささやかな前進に過ぎない)。しかし、ヘストンのような卑怯で尊大な人種主義者(彼へのインタビューがラストの山場。銃撃事件のことを「知らなかった」と答えたのには仰天した。まあボケ老人へのいじめに見えなくもないが)もいる一方で、ムーアのような男もいるのがアメリカなのだなあ、とも考えた。ムーアのページを読めばわかるが、彼は社会を変化させるのが容易ではないことを百も承知で、それでもさまざまな方法を模索しながらあがき続けている稀有な人間だ。批判だけをして後のことを考えない「理想主義者」や、社会の醜さに片目をつぶって「そんなもんさ」と受け入れてしまう「現実主義者」は世の中を動かせない。彼の主張自体はともかく、その姿勢は参考になるかもしれない。

 ともあれ、今後もアメリカという超大国と絶対に付き合わざるを得ない日本人にとって、必見の映画であることは間違いない。機会があったら是非見てください。この映画をコメディー、ムーアをコメディアンとして紹介した日本の馬鹿マスコミに惑わされないように。



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イラク攻撃開始 (3/21/03)

 今朝メールチェックをすると、小泉内閣のメールマガジンが来ていました。その冒頭に、小泉首相がアメリカのイラク攻撃を支持する理由を説明したコメントを書いていました。私はその文面を何度も読み返しました。要するに、「外交努力をしたけれど無駄だったですよ。日本が当てにできるのはアメリカしかいないんだから、アメリカのすることは支持するしかないですよ。悪いのはイラクですよ。ブッシュもやりたくてやってるんじゃないんですよ。でも日本は軍隊を出さないですよ。」ということらしい。ふむ。

 小沢一郎との会談で、「戦争を支持するかどうかはその場の雰囲気だ」と言い放った首相らしい言い草だな、と思いました。日本政府は知らないうちに国連中心主義外交とやらを捨て、対米追随一本やりで行くんでしょう。確かにこの国のアメリカ依存度は非常に大きいので、他に道はないといえばない。(脅威だということになっている)北朝鮮問題もある、商売もあるじゃあしょうがないかもしれない。これだけ反米の機運が高まっている中ではっきりと支持を打ち出すことで、アメリカに恩が売れるかもしれない。でも、これで一段と「口先では平和を唱えて、大義名分がいまいちわからない大量殺戮を支持する、信用のならない口だけの国」という評価が高まることでしょう。私が今フランスを旅行したらきっと石を投げられると思います。ドイツでもパキスタンでもサウジアラビアでもベルギーでもそうかもしれない。もしかしたらイギリスでもそうかもしれない。

 ついでに言うと、次か、次の次に来る北朝鮮危機での軍事的解決を支持したも同然だ、という考え方もできます。そうなると今度こそ他人事ではない。

 外交努力とやらは具体的に何だったのか、是非お聞きしたいものです。誰か要人がアメリカ以外の国に行きましたかね。ブッシュに電話して「ごもっとも」と言ったり、安保理の非常任理事国に電話して、「アメリカに賛成してね」と言ったりし(て失敗し)た以外何かしたんですか。たぶん、外務省はアメリカが国連、殊に常任理事国の過半と分裂する可能性については想定していなかったのだと思います。イラクがフランスと中国とロシアには油田採掘の権利を売っている事実についてはどう思っていたのでしょうか。え、イラクの石油利権は日本に関係ないと思って無関心だった(実話)?あ、そりゃどうも。

 さて、わが国についてはもういいです。我々はおサルの電車につながれたボロ貨車に積まれていてどうしようもないのですから。貨車が自力で走るには時間と金と手間がかかるでしょう。「北朝鮮に関しては平和裡に」などというたわ言が通用するかどうかは今後のことです。では、電車の運転手のおサル――アメリカ大統領閣下は何を考えているのでしょう。

 ブッシュはすでに戦後のイラク「復興」において、どの企業にインフラ整備をさせるか、入札までさせています。もちろんアメリカの企業に限定して。その中にはチェイニーがCEOをやっていた会社も入っています(ウォールストリート・ジャーナル 3/10)。サウジアラビアに次ぐ原油埋蔵量を誇るイラクはやはり魅力的なようです。資金は国連の供託金(イラクへの経済制裁に関係する資金)とどこかの気のいい国からでるので懐は痛まないし。そりゃ賞味期限切れ直前の兵器の在庫一掃も兼ねて戦争したいよね。あ、「武装解除」でしたっけ。イラクは12年間に渡って国連決議を無視してきた!世界平和と正義のためにフセインを追い出せ!というアレね。12年間も待ったんだからあと4ヶ月くらいは待ってやってもいいのに。

 12年間世界は危険に晒され続けていたのに、最近いきなりそれを思い出したと。あと10年、一説によればあと2年でアメリカ国内の原油ストックが底をつくというこの時期に。テロの恐怖がまだ国内を覆い、世論の誘導が非常に簡単だと思えるこの時期に。ついでに、今までころっと忘れていたイラク軍によるクルド人への虐殺も思い出した。フセインひどい!隣のトルコもクルド人殺しまくってるけどそっちには資金援助!同盟国は大事にしなきゃね。それと、フセインは独裁者だからダメ。民主国家アメリカの敵。サウジアラビアもヨルダンも独裁国家だけど、こっちはアメリカの友達。・・・えーと、誰か納得できます?これ。

 で、たぶん国際世論の誘導も簡単だろうと思って軍をのこのこ中東まで行かせたが、外交で失態を繰り返しているうちに、展開した軍隊の維持費がかさみ(準備段階で120億ドル、待機だけでも月10億ドル ニューズウィーク誌による)、どうしようもなくなってきた。しょうがないから常任理事国の過半数の同意を取り付けないうちに攻撃開始。こんなものは国際政治とは言えない。ただの成り行きまかせだ。これからイラク人は米軍の食ったハンバーガーの元をとるために虐殺されることになります。「攻めるぞ」と脅しながら包囲を続けていれば、大して殺すことなく武装解除ができたかもしれないのに。

 話し合っても決着がつかないことは確かにあります。アラブ会議の荒れようもひとつの例です。しかし、今回、話し合いは本当に尽くされたか。尽くされていないと感じる国が多かったのではないか。それに、アメリカはフセインの免責保証を拒否しています。これじゃあ亡命なんてできないよね。もう、話し合いも何もする気がなくて、査察もただの建前で、初めから流血を望んでいたとしか思えない。かなりの理不尽さに、アメリカのネオコン(新保守主義)が接点を持つキリスト教原理主義からくる宗教的動機まで取り沙汰される始末です(ブッシュはキリスト教原理主義者に大統領にしてもらったようなもの)。アメリカではキリスト教原理主義者の「大統領のために祈れ。イラクを占領してキリスト教に改宗させろ。」という説教が流れています。冗談だと思いたいのですが。

 フランスやドイツに正義があるかと言うと別にそんなことはありません。しかし、今回は殺さない選択をしようとしたことで、政治的に大きな勝利を収めたことになると思われます。同じ利権目当てでも人死にが少ない方がいいじゃないですか。イラク攻撃が長引いて、イスラーム社会がますます反米に傾くことがあれば、ユーロ経済圏はドル経済圏を食い始めるかもしれません。「いつ爆破されるかわからないおサルの電車よりEUの方がいいかも」と思う人は増えるんじゃないですかね。

 イラクの国内状況や周囲のアラブ諸国の反応を見る限り、フセインがロクな政治をしていないのも事実であるようです。短期間でフセインをどこかにやって、死傷者が少なくてすむことを祈るばかりです。しかし、すでにもう死傷者は出ています。殺された者は――親や夫や子供を殺された者は、誰に殺されたかを決して忘れません。これでまた憎しみの連鎖が始まる。小泉にしてもブッシュにしても、勇ましいのは結構ですが、それを忘れないようにしてほしいものです。



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