<クロアチアの歴史>
他の西ヨーロッパの国々と同様に、
クロアチアはローマ帝国の支配下にあった。
ローマ帝国の消滅後
ヨーロッパ全土において繰り広げられ大移動の動乱のなか、
クロアチアの民族はこの地に落ち着いた。
クロアチア人は7世紀頃、独自の公国を築きあげ、
その後9世紀には独立国家を建設した。
10世紀になるとクロアチア人の王によるクロアチア王国を形成。
9世紀頃までにキリスト教はクロアチアに浸透し、
クロアチアはキリスト教国として西ヨーロッパ社会の一員となった。
自国の統治者によって統治されてきたクロアチアは11世紀になって、
新たな局面を向かえた。
クロアチアはハンガリー王国の支配下に入ったのである。
その後800年余り続くこの連合体制はクロアチアに
議会、総督、通貨や軍隊を持つことによって、自治権を確立した。
しかし、15世紀初頭にはハンガリーの政策によってクロアチアの沿岸部は
ベニスの直接支配下に入ることとなる。
そして、16世紀にはハンガリーと共にクロアチアはハプスブルグ帝国の下に組み込まれた。
領土の中心部のほとんどを失った代償として、
クロアチアはオスマン帝国の侵略を食い止めることが出来きた。
そして16世紀から17世紀にかけてのクロアチア経済と文化の発展はトルコ帝国の来襲をさけ、
その当時最先端の西ヨーロッパの文化に付随するができたのだった。
長い歴史の中、
クロアチアはヨーロッパの動向につねに遅れることなく貢献してきた。
そして19世紀になると市民の中に自国の復興を望む動きが見られた。
1918年のハプスブルグ帝国の没落後、
クロアチア人は70年間もの間、敗戦国民として苦汁を飲まされることとなる。
当初「スロバキア、クロアチア、セルビア王国」としたが、
その後「ユーゴスラビア王国」と改称した。
このユーゴスラビア王国は第2次世界大戦の戦乱のなか消滅した。
クロアチアは1945年以降ユーゴスラビア連邦の一員として新しい時代を迎えた。
しかしながら、50年間の共産党時代を経て、多くの東ヨーロッパの国々のように、
クロアチア市民も一国一党主義を拒絶し、民主主義を選択することとなった。
1992年1月クロアチアは独立国家として国際的に認められた。
クロアチアの新しい歴史の幕開けである。
<略史>
400BC頃:最初のギリシア人がアドリア海の島を発見
100BC頃:ローマがアドリア海東岸を支配
305年:現在のスプリットにローマ皇帝ディオクレティアヌスが宮殿を構える。
600年頃:クロアチア人が現在のクロアチアに移住を開始
l 852年:デューク トリプミア が国内の公文書に始めてクロアチアという名を記録する。
1102年:クロアチア最後の王の没後、クロアチアはハンガリーの支配下に入る
1527年:クロアチア議会の決定により、ハプスブルグ王朝にクロアチア王位を譲渡する。
1699年:トルコ支配から国土を開放。内陸部はハプスブルグ、アドリア海沿岸はベニスの支配下。
ドゥブロヴニクのみが唯一の独立共和国として存在。
1815年:短期間ナポレオン率いるフランス軍の支配下に入るが、
その後、現在クロアチアのほとんどの地域がハプスブルグ君主国家に統治される。
1847年:クロアチア語がクロアチアの公用語となる。
1866年:東南ヨーロッパで初の芸術、自然科学のクロアチアアカデミーを創建する。
l1918年:第1次世界大戦でハプスブルグ王朝が没落し、
「スロヴェニア、クロアチア、セルビア王国」後の「ユーゴスラビア王国」を建国
l1941年:クロアチア独立宣言
1945年:ユーゴスラビア連邦建国
l1990年:第2次大戦後初の複数党による選挙がクロアチアにて行われ、フラニョ・トゥジマン博士を初の大統領とした。
l1991年:ユーゴスラビア連邦より独立。
l1992年:クロアチア共和国が国連に加盟。
l1998年:国連の協力を得て、最後の占領区域ブコバルをクロアチアに統合。
(木村理恵)
<クロアチアの起源>
クロアチア人の原住地については様々な説があるが、現在のポーランド東部やベラルーシから西ロシアにかけてのスラヴ民族揺籃の地であるとする説と、イラン起源説の二つが主流である。イラン起源説の主な根拠は、紀元前6世紀ペルシャのダリウス一世の石版にHarauvatiとして、また古代ペルシャ聖典アヴェスタにKarahvatiとして出てくるクロアチアの名前である。(Croatは英語読みで、クロアチア語では自分たちをHrvatと呼んでいる)
いずれにせよ、この民族は5世紀にはカルパチア山脈の北東部にいたが、6世紀にはアヴァル人と盟約を結んで南下を始め、イリリヤ人、ギリシャ系、ローマ系などといった先住民族を追い払い、または同化して、7世紀の初めまでには現在の地域に定住していったとされている。クロアチア人は、東・西・南のスラヴ3民族のうちの南スラヴ民族に属しており、セルビア人、スロヴェニア人、マケドニア人、ブルガリア人などと兄弟関係にあるとされている。Yugo-Slavia つまり、Yug ( = 南 )のスラヴ人達と言うことになる。
ボスニアのイスラム教徒たちは、昔トルコ支配下で改宗した南スラヴ人である。
<スラヴ民族について>
スラヴ民族はラテン・ゲルマンとともにヨーロッパで3大グループの一つをなす大きな民族グループだが、彼等はさらに次の3グループに分類されている。
東:ロシア、ウクライナ、ベラルーシ(白ロシア)
西:ポーランド、チェコ、スロヴァキア
南:セルビア、クロアチア、スロヴェニア、マケドニア、ブルガリア
使われている言葉はスラヴ語で、文法はほとんど同じ、単語は共通のものが非常に多い。文字は、東と南(東方)がギリシャ文字に似たキリル文字、西と南(西方)はラテン文字。 宗教は、ほぼ文字に対応しており東と南(東方)はギリシャ正教の流れを汲む東方正教、西と南(西方)はカトリックに別れる。いずれも、ポーランド東部の辺りから東西南に広がって行ったとされている。 昔から、粘り強い、客好き、人が良い、芸術感覚に優れると言った肯定的な面と同時に、鈍重、不器用という面も語られる事が多い。
ヨーロッパの歴史では、今までラテンとゲルマンが表舞台にあって、スラヴ諸族は目だたなかったが、近世からはロシアを始め活躍が広がってきている。 スラヴという言葉は、共通スラヴ語では栄光を意味する。スラヴ人たちが自分たちを栄光の民族として祈りを込めて命名したのかどうか知る由はないが、スラヴ諸民族が台頭する時代がやがて来ても不思議ではない。
<ヴェニスとクロアチア>
アドリア海の女王と称されるヴェニスは、海洋国家ヴェネツィア共和国として千年の長きに亘りアドリア海に君臨したが、クロアチアはイストラ半島とダルマチア地方を中心にその歴史と深く関わっている。その内のほんの数例を御紹介する。
"海上都市": 沼沢の上に築かれたヴェニスの街はクロアチア産の固いブナや樫の丸太が杭として海底の砂礫層に打ちこまれ、さらにその上にイストラ半島産の岩石が支えとして置かれてできたとされている。クロアチアは今でも大理石や良質の樫・ブナ材の輸出国である。
スキャヴォーニと呼ばれる港通りがあるが、ここはダルマチア地方からのスラヴ人がたくさん住んでいたことから名つけられたと言われる。スキャヴォーニとはイタリア語で奴隷を表す言葉で、これは、ダルマチアからのスラヴ人がガレー船の漕ぎ手として使われ、彼らが多くその地域に住んでいたことから、名ずけられたとされているが、この辺はまだまだ不明な点が多くさらなる調査が必要だと思われる。SCHIAVO(伊)=SLAWE(独)=SLAVE(英)=ROB(クロ)=奴隷
SLAVO(伊)=SLAWE(独)=SLAV(英)=SLAVEN(クロ)=スラヴ人
スラヴ人=奴隷というイメージがヨーロッパでは強く、ヴェニスでもSLAVO=SCHIAVONIという連想が働いたものと思われる。ご承知のように、ローマ時代はゲルマンが蛮族と呼ばれ、奴隷になるものも多かったように、民族を問わず、戦いに敗れ捕虜になったものは奴隷という運命が普通であり、特にスラヴ人だけが奴隷ではなかったが、東北部から遅れてヨーロッパ中央ブに三々五々移住してきたスラヴ人たちは、既存の社会や家庭で隷属的な働きをした期間の長かったことが窺える。
多くのスラヴ人が奴隷としてアラブやトルコなどに徴用されたのは記録として多く残っている。”セルビア”の語源もラテン語の”奴隷”だと言われている。英国人がいつの頃にSLAVからSLAVEを編み出したのかは、実に興味のある話である。しかしこれはスラヴ人諸兄姉には好ましいテーマではなく、当地ではあまり多くを語りたがらない。
クロアチアはヴェネツィア海軍や商船にとり水夫の供給源であり、スラヴォニアやダルマチアなどからの多くのスラヴ人がこの辺りに住んでいた事を示している。現在でも多くのクロアチア船員が世界中の船会社で活躍している。
"海の高速道": 地中海に出るアドリア海の航路は、航海安全上の理由から、平坦な海岸線の続く西のイタリア沿岸ではなく、入り組んだ海岸線と多島を擁する東のダルマチア沿岸であった。従い、ダルマチアはヴェネツィア海軍と商船にとり共和国の生命線だったので、この要所要所に砦を設け、そこを拠点にして安全で高速の海上交通網を張り巡らせた。これらの砦が今でも多くの港町に残っており、往時の様子を偲ぶことができる。バルカンの経済活性化を狙って、現代のアドリア高速道建設計画が浮上しており、トリエステからダルマチア沿岸を縫ってギリシャ国境に至る陸の1000kmが脚光を浴びる日もそう遠くないと見られる。
"ヴェニス人": イストラ半島やダルマチア沿岸・島礁では自分たちをイタリヤ人(ヴェネツィア人)とする人々が今でも多く住んでおり、イタリヤ語しか話せない老人もいる。イストラ半島の道路標識は、クロアチア語・イタリヤ語を併記している。
(山本寧雄)