他者がおのれを夢見ている 〜 諸星大二郎 〜


諸星大二郎序説

彼の作品をはじめて意識したのは「暗黒神話」を読んだときでした。それは例えば巻末に参考文献が羅列してあるとか、謎の理由が理路整然と説明されているからではなく、全編を通して執拗に描かれたあまりにも日本的な風景から、弟橘姫が保存液のなかで溶けていくといういかにも彼らしいクライマックスに至る独特の雰囲気の持った物語の進み方のせいでした。偉大なる手塚治虫にとって生物の形の自由な変化が無意識的な主題のひとつであったように、彼には人間がその形を失ってしまうところに大きな意味があるようです。ホムンクルス〈人工生命〉の女の顔が溶けてコンクリートにその形を残す「肉色の誕生」、生物と無機質の融合を描く「生物都市」、人間の体の表と裏がひっくり返る「異界録」。そういった作品でそのような主題が繰り返し語られています。彼には人間がその形をを保っていること自体奇跡に近いことなのでしょう。彼は人間の自我と肉体に深い関連性があると思っていないのです。
その後に読んだ初期の作品集「コンプレックス・シティ」で、SFとナンセンスが得意なマンガ家であると思いました。その印象は今でも残っていますが、彼の作品について言葉にするのはとてもむつかしいことです。偏愛するマンガ家のひとりであることは間違いないのですが、何がどのように好きであるのか全く自分で理解していないのです。

彼の描く物語は独特で、近代小説などで語られるような自我の葛藤はほとんどなく、あるのは驚異の世界へ誘う効果だけです。そういった意味で彼の描く物語はエドガー・アラン・ポウの短編小説によく似ています。

「ぼくなら手始めに効果を考える。独創的であることを絶えず念頭に置きながら──この明らかに容易に得られる興味の源泉を敢えて無視するのは自己欺瞞である──」(エドガー・アラン・ポウ「構成の原理」)

その手法によって表出される主題の多くは驚異の感覚で、現実的な感覚からを持った主人公が落差のある世界を垣間見てしまったところから生まれる違和感が象徴的に描かれている物語が多いのです。そうした効果の根元は語りが主人公のモノローグで行われているところから来るものですが、日常感覚から浮遊した世界を体験した彼らは、あるものは哲学的な思索で自分という存在の意味を否応なしに考えざるを得なくなりますし、おかしな世界と同等におかしな者であればナンセンスギャグになっていきます。
淡々と進む物語は崩壊によって終わりを告げ、その後に物語的なコーダがあっても後日譚的なものであることが多いのです。長編はすべてが旅をする話であり、汝の宿命の意味を知るために旅をする彼らは彼自身である世界の存在意義を求めて旅を続けます。そういった意味においては事件の解決が必要なのではなく探偵自身の問題の解決が必要な探偵小説と構造が似ています。

SF、ナンセンス、ホラー、歴史物、冒険物と非常に懐の深いマンガ家ですが、得体の知れない漠然とした不安を描く力量は特出したものがあります。
辺境物や蛮族の物語は高度経済成長期の日本が抱えた暗喩になっているのでしょうか。彼の発想の源は目には見えない観念的なもの、例えば不安や感情、会社とか病理、そういったものを文字通り視覚化することで成り立っています。「不安の立像」では毎日満員の通勤電車で揺られるような生活の不安と苛立ちの隙間に隠れている死への誘惑を、得体の知れない黒い影法師という姿で実体化させています。こういった暗喩的なものの考えをすることが科学が発達した現代ではめずらしいために、奇想のマンガ家とよくいわれているのです。
個人的に惹かれる作品は、システム化された社会を描き出す辺境物で、そこから脱出するという主題が何か自分の心持ちに訴えるものがありました。

無意識的な主題のひとつに風土が人に与える影響があります。都市化が異常なまでに進みどの地方都市もミニ東京化している現代では、その土地土地の風土というものにしばられることは少なくなったものの、高度経済成長期までの日本では、どの土地にも重苦しいようなその土地独特の因習を感じさせたものだったといいます。そういった何かというものは彼自身東京で生まれ育ったせいもあってか、ひどく普遍的に描かれることが多いのです。
そんなものを強く感じさせる短編は「商社の赤い花」や「失楽園」などで、会社に忠誠を尽くすことの不毛さや、機械にかこまれた仮想現実的な世界が決して天国ではないといった主題があるのですが、それ以上に彼の独特の画力が描く異質な世界の風景や、そこから感じられる風土というもののインパクトが強すぎるのです。その衝撃が彼の天才なのです。

最近の作品で一番お気に入りは「遠い国から 追伸 カオカオ様が通る」です。辺境の星に降り立ち蛮族の町を旅する「私」は、カオカオ様とふたつの顔と足だけのただ走り抜けるだけの大きなものを見るのです。わかりやすくいえば両面宿儺(りょうめんすくな)の手を取り除き脚を二本にしたようなものを怪獣のように大きくしたようなものなのですが、それが砂漠のなかの人の住んでいる町から町へただ走り抜けていくのです。カオカオ様はただ通り過ぎるだけで、土地に住むものになにも干渉はしない。ただ土地の人々は「あれは私だ」といったり、極力無視したり、ひどく感情的になったりと、その町に住む人種ごとに反応がまったく変わってくるのです。
この作品で秀逸なのがカオカオ様が連れてきた天気雨の中を、カオカオ様が走り抜けるところでです。最後に「私」を案内してくれたタパリ人のガイドは、「あれは、ああいうものです。風景といっしょです」と言ってますが、こうした何かの暗喩になっていてそれが何かはっきり判らない、おそらく描いている本人も判らないようなけれども、何か大きな意味のあるように感じられるものを描くことができる人はなかなかいないのです。

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Last Modified on Monday July 26, 2004