誰も知らない私の悩み
「時折私は喜びを感じ、時折は悲しみを背負う。もしあなたが私より先にたどり着いたら、もうじき行くと皆に伝えてくれ。」
亮介が母を悪魔だと初めて思ったのは、小学校四年生、十歳の時だった。同じ団地に住んでいる同級生の克彦の家に遊びに行って、雑然とマンガ本やカードなどが散らばっている部屋の中で、古いサッカーゲームに飽きて、開け放たれた窓から十一月の秋の眺めていた時だった。ゲームをしているときは架空の世界の勝負事に熱中して、ふたりとも普段は上げたことのないような大声で騒ぎながら興じていたが、そのあとの現実の世界に戻ったときの妙に白けていて、やり場のない怒りに似た疲労感がふたりを支配していた。
「うちの母さん、最近うるさいんだよな」
克彦は体育の時間の並びで前から四番目といったほどの小柄な少年だったが、夏から少年野球を始めたせいで、顔から首、そして二の腕から指先にかけて褐色に日焼けしていた。春先に比べて小さな顔が引き締まって、常に驚いているように見える目がさらに大きく見えた。それでなくても克彦は落ち着きがなく、いつも何かしらやっていないと気が済まない性格だったので、無駄な贅肉を身体に蓄えることはなかった。
「宿題やったのとか、明日の学校の準備は終わったのとか。こっちがやろうと思っているときに限って、絶対言うんだよ。亮介のところは、そんなことないか」
「うちはないよ」
「亮介のところはいいなあ。妹もいるだろ。一人っ子って面倒だよ、本当に。母さんといつも一対一でさ。父さんが仕事から帰ってくるまで、話し相手になってないと駄目なようなんだ。これじゃ親の子守だよ」
「でもうちのお母さんは、克ちゃんのとこのように、友達が来てもお菓子を出してくれないよ」
「そうだね、亮介のとこの母さんは、なんか暗いもんね」
帰り道、病院通りの前の欅並木の落ち葉を踏みながら、母を暗いと評した克彦の言葉を何度も繰り返し思い出していた。秋の夕暮れは逃げだすように夜を引き連れてくる。タクシーのテールランプがコンビニエンスストアの十字路で赤い軌跡を残しながら曲がっていった。風は乾いて冷たかったが、厚手のジャンパーのせいで冷えているのは靴下を穿いていないくるぶしだけだった。
父はこの地方で二番手の建設会社の課長を務めていたせいで、家計は裕福だった。母は専業主婦で、週に一度着物のスタイリスト講座に出かけるくらいで、それ以外は外出することもなく家の中にいた。母を疎んじるようになったのはいつの頃からだったろう。一歳年下の妹の亜矢が小学校に入学したあたりから、かみ合わないことを自覚し始めていた。自分の気に入らない服を買ってくれた時文句を言ったりすると、不自然なほどに逆上して、亮介に食ってかかるのだった。その点亜矢は女の子らしく、買ってくれた服で気にいるものだけしか着ていない。そして母がそのことに全く気付いていないこと亮介は知っていた。
母は機嫌がいい時と悪い時の落差が激しかった。母の中にはふたりの人間がいるのではないかと考えたことがあった。機嫌がいい時は父に内緒でゲームのソフトを買ってくれたり、「やっぱりわたしの息子だわ」とおべんちゃらを振りまいたりした。しかしそんなことがあった次の日には非道く不機嫌になっている。
「何であんたはもっと早く起きれないの。もうあなたの分のご飯は作らないからね。そんなに学校に行きたかったら、勝手に行けばいいじゃない」
こういったことがあると、母は混乱のうちに支配しようとしていると亮介には感じられた。何かが契機となって感情が突然切り替わるのだろうと気付いていたが、そのスイッチがどこにあるのか亮介には判らなかった。そうなった時に母の心は深い霧の中にあって全く見えなくなる。普段でも母の言葉は磨りガラスの向こうで話しているようだった。そしてそんなことを繰り返していると、亮介自身も自分より力のないものに対しては、同じように不条理な言動を繰り返して、相手を混乱させていることにも気付いていた。それは間違っていると知っていたが、何がどう間違っているのか、十歳の亮介には判らなかった。
母はやはり人間ではない。家に近づくにつれて亮介の考えは確信に変わっていった。人間でないとすれば何なのだ。怒りにまかせた忘我の母の顔は、百科事典で見た悪魔の顔そのものだった。だとしたら何とかして悪魔から逃れないと、自分も悪魔の仲間入りをするだろう。
家に着いて、立て付けの悪くなった玄関の茶色のサッシ戸を開けて、亮介は中の様子を伺った。
「ただいま」
スリッパの音を立てながら、居間と茶の間の間にある狭い廊下を走って、母が出迎えてくれた。廊下の照明はつけられないままで、それが亮介にとっては純白のテーブルクロスについた一点の染みのように感じられた。
「今日は早いのね。シチューを作ってあるから、早く手を洗ってね。寒いからうがいもしてね」
テレビドラマでよく見る、目が見えなくなるくらいの満身の笑顔が目の前にあった。それはお仕着せの作られた感情で、本当の心はやはり亮介には見えなかった。
今日の悪魔は、とても機嫌がいいようだった。
中学一年に入学したばかりの春、初めて母を殴った。
その頃母は更年期障害の自律神経失調症と診断されて、病院を転々としていた。医者からたらい回しにされたのではなく、診断が不服で、自分が納得する医者を捜していたのだ。亮介はもう母のことを悪魔だと思っていなかった。
大きめの学生服は固く、まだすり減ったテカりも全くなかった。古びた肌色の鉄筋コンクリートの校舎も、まだ亮介の体に馴染んでいるとは言えなかった。三つの小学校の児童達ががひとつ中学校の生徒になったせいで、友人の力関係に敏感な女子生徒達は授業中もその言動を牽制し合っていたが、窓際の席をあてがわれた亮介は遠く校庭の向こうに霞んで見える桜の色を眺めながら、四線譜の英語帳のかたすみにぶっきらぼうな字でこんな言葉を書いていた。
「正義病」
亮介が診断を下すとすれば、母の病気は正義病だった。自分が正しい側についていなければ致命となる病だ。倫理や哲学といった諸相をまだ理解していなかったせいで、学生時代にサルトルやシュタイナーなどの難解な書物を偏愛していた母の性癖など知るはずもなかったが、母が世の中の政治や経済、そして人のあり方すべてを変えるべきだと思っていることに気がついていた。
父との口論も増えていた。深夜に激昂した母の声で目が覚めることも何度かあった。もとより温かみのある家庭とは言えなかったが、帰宅すると二階建ての瀟洒な造りの家そのものが、巨大な恐竜の骨組みだけで出来ているような錯覚さえした。亮介に対しては以前のような言いがかりをつけてくることはなくなっていたが、そのかわり自分の殻に立て籠もって、家の中は荒れていた。妹の亜矢は母の隷属と化していたが、以前の亮介の代償として感情のはけ口になっていた。そのためふたりの関係は親子の立場が逆転していた。
授業も終わりの頃、担任の若い英語教師は黒い人工皮の張られた出席簿の上から、束ねた紙を取り出して席順に配った。家庭訪問の日程のアンケートだった。本来なら朝のホームルームの時間に配布すべき書類を自分の科目の時間に回すといった鷹揚さも含めて、亮介はこの教育学校を卒業して三年目の教師を気に入っていた。彼女に自分の母を会わせたくなかった。
用紙を鞄の中に入れたまま一週間が過ぎた。自室の机の前に張っている時間割を見ながら次の日の教科書やノートをを入れ替えている時も、鞄の前にあるチャックの付いた小物入れに、折りたたんだ用紙が入っていることを意識していたが、無理に忘れようとしていた。家庭訪問なんてことは始めからなかったんだと、自分で自分に暗示をかけていた。
ホームルームの最後に担任から声をかけられたことで、亮介の抱えていた幼稚な幻想は壊れた。
「星君のところ、まだ家庭訪問の紙が出てないけど、お父さんお母さんは忙しいの」
心配そうに顔をのぞき込まれて、亮介は赤面した。こんな羞恥を味わうのは母のせいだと思い、そしてそう思った自分を憎んだ。
「そんなことないです。明日持ってきます」
今さら用紙を母の前に出すことが億劫であったし、また担任と母が自分について話をすること自体が亮介には想像できなかった。それでも明日には提出すると言った約束は、絶対守らなくてはいけないという強迫じみた観念が心を占めてきた。
春の欅並木は一目見ただけでは冬のそれと違わない。けれども冷涼な山地にこしあぶらやたらの芽などが山菜として食せられる季節になれば、欅も赤紫と薄緑の小さな花の蕾を人の目の届かないところで次第に膨らませていく。見慣れた家の近くの風景だ。いつかこの風景とも別れを告げる時が来るのだろうか。その時はもっと自分は自由になっているのだろうか。そんなことを亮介は考えるようになっていた。
いつも家に帰るたびに感じる躊躇が、玄関で靴を脱いでいる亮介を責め立てた。自分も悪いところがあるのだと納得させて台所に向かった。
台所の照明は黄色のガラスを使ったもので、他の色と違って黄のガラスを作ることは難しいために高価なものだった。それが母の自慢で、そうした女らしい喜びが亮介には苦手だった。
思った通りに母は台所にいた。わざとぶっきらぼうな態度で、台所のテーブルの上にアンケート用紙を置いた。
「忘れていたけど、明日まで出さなくっちゃいけないから、日にちを書いて」
夕食の準備をしていた母が無表情のまま振り返ると、テーブルの上の用紙の日付からもう一週間が過ぎていることに気がついて、白く乾いた顔の皮膚に激情の赤が差した。疲労で縁取られた眼だけが泣きそうに潤んでいた。
「何これ、一週間前のじゃない。何でもっと早く出さなかったの」
「忘れてたんだ」
「忘れてたなんて、いつもそうね。何でそうなの」
この詰問に答えられるわけがなかった。何でそうなのか説明できるくらいなら、亮介のすべての悩みは解決しているし、こうした意味のない質問をすることが母のいつものやり方だった。真面目に考えようとすると、混乱の渦で足をすくわれてしまう。返事をしないで黙っていると、畳みかけるように母は訊ねた。
「何でいつもそうなの、ねえ」
それでも亮介は口を閉ざしたままでいた。いつもと同じような機械的な会話。既に済んでしまった問題を蒸し返して相手の出口のない迷路に追い込み、挑戦するような語調で自分の優位を確保しようとする。そうさせたのは自身の接し方のせいなのに、それに気がつかないで親という支配の論理だけで相手を拘束する狭窄な思考。
長い沈黙の空白に亮介が耐えきれなくなった頃、抑揚のない調子で母は言葉を続けた。あたかもそれが自分の切り札であるように。
「担任の先生は、学校を出たばかりなんでしょう。そんな若い先生だったら会っても意味がないでしょう。私は忙しいのよ。こういうのは、もっと早く持ってきて頂戴」
堪忍が切れた亮介は、母の顔を殴りつけていた。鋭感な感情が熱せられた鉄柱のように赤く燃え、頭の中を駆けめぐったが、それは母の悲鳴を聞いた時点ですぐさま氷のように凝固した。
引き金になったのは、会ったこともない亮介の担任を揶揄したことだった。自分のことだったら、いくら言われようと構いはしない。自分勝手な価値で状況を独断して、会ったこともない者を非難するというのは、ようやく十二歳を迎えたばかりの亮介には許し難いことだった。
自分の力拳くらいで簡単に倒れてしまうような母を、今まで疎んじていたことを馬鹿らしく思えた。
後日何度かこの事件の経緯を反芻した際、それが一時的な感情ではなく機会があれば瞬間的な暴力で、自分の鬱積した感情を知らしめてやりたいと決意していたことに気がついた。予想通りに母の仮面はそこでふたつに割れてしまい、隠していた脆さを哀れむように、唇から血を流しながら床の上で泣哭していた。茶の間でテレビを観ていた亜矢が叫び声を聞きつけて台所に走ってきた時、亮介の頭は自分でも信じられないくらいに怜悧に澄んでいて、高鳴った鼓動を押さえるために流しの前に歩み寄ってカランを回し、冷たい水を一気に飲み干した。
母の怪我は唇を切っただけの軽いものだったが、それでも五日間入院した。それは身体的な苦痛だけではなく、多分に精神的なものがあった。亜矢は母親代用の役目を発揮できる機会に恵まれたせいで、嬉々として炊事と洗濯に勤しんだ。小学校五年生くらいでそのようなことに責任感を持ってしまうことは異常であると亮介には思えたが、それを指摘する気にはなれなかった。亮介は母の入院を理由に家庭訪問は無理なことを担任に告げた。もうそんなことはどうでもよくなっていた。彼はようやく自分自身の手で、自分を掴むことが出来たのだ。意外だったのは、この件で家庭を顧みることのなかった父が三日間の有給休暇を取ったことだった。民生病院に母の見舞いに行き、上手いとは言えない亜矢の手料理を食べ、そして亮介の部屋にやってきたのは二日目の夜のことだった。
説教されることは覚悟していた。小手先の物分かりの良さを披露されるくらいなら、怒鳴り付けられた方がかえって清々するだろうと思っていた。しかし父が話し始めたことは、亮介の予想を裏切っていた。
「だいたいの話は聞いている。今回のことは亮介が悪いわけではなく、お母さんが悪いわけではなく、なるべくしてなったことなんだ。なあ、亮介。まだお母さんに対してわめき散らしたいことが何かあるか」
しばらく考えて、ないと答えた。すると父はそうかと嘆息して、しばらく黙った。
「お母さんは昔からそういうところがあった。結婚して、お前たちを産んで、年を取ればいくらかよくなるかと思っていたんだが、それは間違いだったようだ。これからもしお母さんと喧嘩になりそうなことがあったら、その時は素直に自分が感じていることを言いなさい。部屋に閉じこもってもいいから、お母さんと距離を取るようにしなさい。そしてそうしたことがあったら、必ず私に相談しなさい。わたしが言いたいことが判ったかな」
「うん」
不思議なほどに父の考えが亮介には理解できたのは、自分が感じてるそのものを父が代弁しているからだった。
「お前が子供だからというわけではなく、お前にはお前が一番大切なんだ。お母さんはそうしたところを壊そうとする癖がある。全うに相手をしていると、同じように壊れてしまうのだ。だからその時は逃げなさい。逃げることは決して悪いことではないんだ」
ふと亮介は両親が結婚したばかりの頃、自分が生まれる前のふたりの関係を想像しようとしたが果たせなかった。彼にはまた判らないことが多すぎた。ただ父は母のように自分が抱えている荷物を、子供にまで背負わそうとしてないことだけは理解できた。
父が部屋を出ていった後、亮介はカーテンを開け放ったまま、電気をすべて消してベッドに横たわった。寝具がほてった体に冷たかった。父は好きだったが、母は嫌いだった。亮介は何でも理詰めで考える癖があった。父の忠言はもっともなことだった。早くこの家から出なくては、いつしか母に巻きこまれていくことも知っていた。母は自分の言動に反省している様子を見せる時もあったが、何度でも同じことを繰り返していて、それは亮介にとっては恐怖以外の何物でもなかった。
早く家から逃げだすことが、それ以降の亮介の様式になっていった。そして現実には、母の掌で弄玩され始めたのは妹の亜矢だった。
この事件から二年後のことだった。亮介は中学三年になって、進路をどうするか考えていた。家から抜け出すためには、通学に便利な近郊の公立高校は避けるべきだと漠然と思うようになっていた。そのため定期テストでは学年で十番以内に入るように勉強を怠らなかった。あれ以来母は意識的に亮介を避けるようになっていたし、亮介も必要な会話以外はなるべく母と物理的にも距離を置くようにしていた。
代わりに亜矢が家にいる時は母の側に影のように寄り添ってきて、家事の手伝いなども進んでやっていた。中学校に入学するまでは、学校でも模範的な優等生で通っていた。彼女が荒れ出したのは、中学二年の夏休みの直前だった。小学校に通っていた頃の亜矢は算数が得意で、それが彼女の自負の根底にあった。それが中学になって文字式を扱うようになってから、概念的な数式の取り扱いが理解できずに数学の成績が目に見えて下がってきた。数学担当の教師との相性も悪かった。彼は機械的な数式の処理の的確さを重んじていて、視覚的に全体数を把握しなければ思考が回転しない亜矢のような生徒には不向きな指導をしていた。それでも亜矢は休み時間には職員室を訪れてその教師との雑談することによってプライドを支えていたが、三学期の成績で三がついた時に、世界に自分が見捨てられたと感じた。こうした視野の狭さは、全く母親譲りだった。
二年に進級して一学期の始めは他の学科にも手が着かずに、授業中もぼんやりすることが多くなった。今までテストの結果を進んで見せていたのに、それをしなくなった。素行の良くないクラスメイトを一緒にいることが多くなり、学校に行く時でさえめだった化粧をするようになっていた。自分が留守の間母が勝手に自分の部屋に入り、隠していたテスト用紙を抜き出したことに気がついて、亜矢の怒りは頂点に達した。無断で机の中を荒らされたことに対する憤怨を一頻り母にぶつけた後、最後にこう叫んだ。
「私がこうなったのは、お母さんのせいなんだからね」
気付かれないように台所のドアの後ろでふたりのやりとりを聞いていた亮介は、全くその通りだと思った。こうした心理的過程は母の中で常に行われているはずなのに、逆に相手がそうなってもそれと気がつかない。亜矢の怒りの理由を受け流したまま、母は学校の成績が下がっていること、テストの結果を報告しないこと、そして最近化粧が濃くなって帰宅時間が遅いことなどを責めた。泣きながら台所を飛び出した亜矢は、亮介にぶつかって哀感の表情を見せたが、そのまま玄関から外に走り去っていった。亮介は亜矢を追いかけた。
妹の名前を何度も呼びかけたが、声は聞こえているはずなのに走るのを止めようとしない。十字路の角にあるコンビニエンスストアの前まで行くと、ようやく諦めたように早足に変わった。後ろから亜矢の腕を掴むと、息を切らしたまま亮介は言葉を探した。
「どこに行くんだ」
「どこだっていいでしょ。お兄ちゃんには関係ないんだから」
「いや、関係はある。あれは俺達の母親なんだ」
ふたりが小学生だった頃は、夕食の後トランプ遊びに興じたりテレビゲームの点数を競い合ったりしていたものだったが、この頃は母と亜矢が対になって亮介を影で非難するようになっていたので、家の中で一緒にいることもなくなっていた。これほど近くで亜矢の声を聞いたのも久しぶりだった。掴んだ腕から強ばりが取れていった。
結局は程度の問題なのだと、亮介は思った。おそらく親子のこうした諍いは、どこの家庭でも起こりうるありふれたものだ。ただその容認と拒絶が瞬時に切り替わるような対応をされること、それが恒常的に行われることは、混乱を含有した支配なのだ。
亮介は亜矢を連れてコンビニエンスストアに入り、缶コーヒーをふたつ買った。そして店の前に設置してあった、白いペンキの剥げかかったベンチに並んで座った。
通りの欅並木は新緑を湛えて、桔梗色の夕刻の空に映えていた。
「うちのお母さん、心がないのかも知れない。そう思わない、お兄ちゃん」
「心がないわけではなく、心が見えなくなる時があるだけだ」
何が一体問題なのだろうと、長い間亮介は考えていた。その時々で人が変わったように接し方が変わる、そのあり方なのか。普通だったら感じられる人の心の動きを感じ得ずに、自分の理念だけで状況を断定するその狭量さなのか。それとも自分の評価が善悪の両極で激しく入れ替わる、その不安定さなのか。
母の悩みを聞いて大人の世界の複雑な構造を抱えこみ、家事を手伝うことによって母を救済しようとして、それが自分の存在意義にしてしまった亜矢が、反動で母の希望している優等生の外套を一気に脱ぎ去ってしまったのは当然だった。子供は親を変えることは出来ない。人は誰でも自分を変えることは出来るが、他人を変えることは出来ない。
根元的な問題を解決することの不可能性を亮介はいやというほど知っていたので、自分に出来ることは亜矢の流れを変えることだと思った。
「数学の成績、よくしたいんだろう。俺も受験を控えているけど、毎日三十分くらいだったら教えてあげられるよ」
このまま行ったら亜矢は母と同じになってしまう。母がつなごうとしている負の繋縛は、それが親子だけに断ち切ることは出来ない。ただそれから逃れることは可能なのだ。
「それにしばらくは、お母さんと顔を合わせないほうがいいよ。会えば面倒に巻き込まれるし、言っても判らないから」
そう、母に自分の非を認めるところが少しでもあれば、問題の殆どは解決している。彼女は整合性のない不条理な命題を相手に突きつけている時でも、決して自分から謝ろうとしたことはなかった。相手の方から謝れば、際限なくその非を責め立ててくるのだ。それは狂気の感触だ。少なくとも亮介はそれを容認することは出来なかった。
亜矢を連れて家に帰った後、彼女を部屋に籠もらせて夕食は亮介の手で運んだ。そして深夜父が帰ってくるのを見計らって一階に下りると、亜矢にあった出来事をなるたけ自分の感情を交えないように伝えた。父の神妙そうな表情を見て、結局この荷物を最後に抱えこむのは父以外にいないだろうことを悟了した。しかし勇気を持って父に対する同情を振り解いた。亮介には亮介の人生があった。
「ねえ、父さん。こんな時にいうのは何だけど、七月の三者面談は父さんが一緒に来て」
そうして県外の付属高校を受験したい旨を告白した。
亜矢の数学に対する苦手意識は、複雑なものがあった。亮介に言わせれば数学の問題は始めの原理さえ理解できれば、後は反射で解いていくものだ。そこには根本的な原理に疑問を投げ掛ける余地はない。亜矢は同様の問題に対しても、常に何故という疑問が頭をもたげて前に進まなくなってしまう。何故という問い掛けは問題の解決には役に立たない。この問題は以前問いだどの問題と最もよく似ているのか、それを見極める反射的な分析力が大切だ。週に三日の家庭教師の真似事を二ヶ月続けた二学期の始めに、そうやくそこの事を体得して、問題の匂いを嗅ぎ取り反射的に問いでいけるようになった。機械的な演算はもとより得意だったので、後は自力でやっていけるだろうとして、四ヶ月で個人教授は終えることとなった。
それからは自分の受験勉強に力を入れた。この家から抜け出すことが亮介の強迫観念であり、それを達成するのはゲームのような感覚だった。だからこそ勉強は楽しかった。
「前向きに進んでいて、亮介はえらいわね」
クリスマスも近い十二月の夕食の後、そう言った母の言葉に亮介は苦笑いを浮かべた。その母から逃れるために、勤勉してることに気付かない鈍感さを心の中で嘲笑した。
そして三月、念願通り志望校に合格した。
長年の雨のため黒い染みが屋上から筋状の模様を作っているモルタルの旧校舎は、校庭から新校舎と体育館をつなぐ渡り廊下を抜けて、さらにプレパブの部室が八棟ほど並んだその奥にあった。今では第三科学室やピアノ練習室と名称が付けられた教室に宛われていたものの、実際に授業で使用されることは殆どなかった。その奥はクヌギなどが立ち並ぶ雑木林で、旧校舎のピアノを弾く幽霊話と並んで、そこで心中したという若い女教師と生徒に化かされるという噂が、現実と空想の端境を知らない生徒達の間で伝わっていた。
昼過ぎの時刻でも落葉の下に霜柱が残っている、雑木林の小道をさらに進んでいくと、野球部のための大きなグランドがあった。高校に入学して一年目の冬は晴れた日が多く、堅強な寒気の塊を破って差し込む日射しが明るかった。亮介にとっては、一番寒い冬だった。
グランドに下りる観客席の枯れた芝生から、一面群青色の空に向かって一筋の煙が立ち上っていた。自由な校風のためか、寮の先輩の中には隠れて煙草を吸う者も多かった。授業を抜け出しているという共犯意識が働いて、亮介は急な傾斜に足を取られないように気を付けながら、その方に進んでいった。
芝生に寝転がっていたのは、意外なことに同じクラスの祐子だった。彼女は亮介を一瞥すると、悪びれた様子もなく携帯灰皿に煙草を差し込んで火を消した。
「先生に言うんだったら、言ってもいいわよ、別に」
「俺はそんな野暮なことはしないよ」
そう言って亮介は隣に座った。そうすることがとても自然なことに思われた。
「俺にも一本くれ」
「あなたも吸うの」
「いや、煙草を吸うのは初めてだ」
カーキー色の薄手のジャンパーのポケットから、ラッキーストライクの箱を取り出すと、人差し指と中指を使って器用に一本引き抜いて亮介に渡した。
「口にくわえて吸わないと火が付かないからね」
そう言って祐子は青い安物のライターで、火を付けてくれた。
祐子はクラスのどの派閥にも属さない、奇妙な個性の持ち主だった。入学当初に亮介が感じた印象は、外見が示す通り小柄で色白のおとなしそうな女というものだった。それが球技大会や合唱コンクールなどの校内行事を終える頃には、掴み所のない透明ものに変わっていた。何をするにも目立っていたが、いつもひとりで自由にクラスの中の人間関係を泳ぎ渡っていた。恋愛感情とはほど遠いところで、亮介は祐子を好きになっていた。それは当然だった。祐子は亮介の影だったのだから。もっと正確に言えば、亮介が祐子の影だった。
二口ほど煙草を吸ったくらいで、頭の中で渦を巻くように眩暈がして、亮介は芝生の上で大の字になって寝転がった。十二月の爽涼な大気が、亮介の全身を押し付けていた。隣で祐子が笑っていた。
「あなた、馬鹿ね」
「それは自分でも判っている」
「そういうのって嫌いじゃないけど」
煙草という小さな悪事がふたりを結び付けた。それから教室でも親しく言葉を交わすようになり、簡明で風通しの良い性格の祐子に、さらに惹かれるようになった。彼女はいつも何かを考え、何かを掴もうとしていた。そのベクトルは歪曲されることがなく、額面通りの評価を亮介に与えた。妹に送るクリスマスプレゼントを理由に街への買い物に誘った時も、祐子はふたつ返事で承諾した。祐子は観念が服を着て歩いているようなものだった。絶対的な自分に対する肯定が、他人の評価も求めず内省の徒労に侵されることもなく、目に見えない空気中の元素から新規の化合物を合成するように、些細で新しい自分の人生を楽しんでいた。
しかし調子に乗った亮介がクリスマスイブのデートを誘ってみると、慇懃に断られた。
「ごめん、その日は用事があるのよ」
「そうか、じゃあ仕方がないな」
わざと明るく返事をしたが、それで傷ついた自分がいることも知った。単純な自己肯定と自己否定の間で揺れ動いている自分を見て、初めて母の心の片鱗を理解出来たような気がした。終業式を終えたクリスマスイブの夜に男子寮と女子寮の間で交歓会が行われる予定はあったが興味が湧かず、いつ実家に帰省するかが亮介の最大の関心事に切り替わった。
二学期の授業が残り一週間となったある日のこと、寮に帰ろうとして通用門で靴を履き替えている亮介のところへ、祐子が追い掛けてきた。
「あのさ、話したいことがあったんだけど」
「何だい」
「二十四日、大丈夫よ。ねえ、どこに連れていってくれるの」
怪訝そうな表情をして、嬉しそうに笑う祐子の綺麗な瞳を見つめた。そこで亮介は理由を聞くべきだったのだが、人の心の奥に決して触れまいとする幼い頃からの体験を通して得た処世術が、言葉を失わせていた。
「そんなの、考えてなかったよ」
「今年はひとり暮らしをして初めてのクリスマスだったから、ひとりで過ごそうと思って計画を立てていたのよ。ちょっと考えが変わったわ。アパートでひとりパーティーをする準備をしていたから。一緒にしようよ、ふたりパーティー」
祐子が嘘を言っている可能性を考えた。先約があったのにそれを断られたために、亮介に誘いをかけた可能性だ。それはないだろうという結論はすぐに出た。代替要員をひとり暮らしのアパートに誘うなんてことはあり得ないだろう言うのがその論拠だった。亮介は笑顔を作って承諾の返事をした。
「その代わりと言ったら何だけど、ツリーの飾りは買ったんだけど、肝心のツリーがないのよ。もみの木をどこかから調達して頂戴ね」
女性の扱いが不慣れな亮介には、男らしい自尊心からわざと背伸びをしてもかえって窮屈だろうと思われたので、全ては流れに任せることにした。中学時代も女性とつき合うような鷹揚さはなかったので、祐子の言ったツリーの件に関しても、街で売ってなかったら山奥に行って小さめの木を一本切り倒してくるべきかと、真剣に考えていた。
十二月二十一日の金曜日が終業式だったので、二十二日から実質的な冬休みだった。ふたりは街に出かけて、ホームセンターの園芸用品売り場で、一メートルほどの高さのもみの木を見つけた。持って帰ることは出来なかったので、配送してもらうことにした。祐子が手作りのケーキを焼いてくれるというので、翌日の午後からも食料の買い出しに街へと出かけた。スーパーの籠の中には、甘口のデザートワインを一本入れておいた。もし身分証明書の提示を迫られたらどうしよう。そんなことを言い合って、ふたりは笑っていた。クリスマス前の連休で混雑したレジでは、そんな心配は必要はなかった。
ふたりは恋人同士なのだろうか。それは違っていた。それでは誰にも知られない秘密の企画の共有者なのだろうか。それだけではなかった。亮介は今まで得ることの出来なかった安らかな愛情を祐子に感じていたし、祐子にとっては自分の子供じみた計画を実行に移す正当な理由として亮介が必要だった。
買い出しの荷物を持って初めて訪れた祐子のアパートは、築年数が経ているものの、学生にしては身分不相当の部屋数があった。四畳半の台所に六畳と四畳半の二部屋があって、風呂とトイレが別にあった。配送されたもみの木はビニールのカバーが掛けられたまま、台所に置いてあった。ふたりは男と女がひとつの部屋の中にいる気まずさを隠そうとして、ツリーの飾り付けに熱中した。階下に音が洩れてしまうほど、ステレオセットのボリュームを高くしていた。
明日のパーティーだけでは食材が余ってしまうというので、夕食をご馳走してあげると祐子は言った。
「何か手伝おうか」
「休んでいていいわよ。テレビでも観ていて」
亮介は電気こたつも横になったまま、台所の煮炊きものの準備をする音を聞いていた。幸福感に満たされながらも、それが自分には非道く似つかわしくないという不安が消すことが出来なかった。祐子は月並みだが幸福な家庭で育ち、その父母から受けた愛情を体現すべく夕食の準備に勤しんでいる。亮介の場合は、目の前にある幸福を絵空事のようにしか感じられずに、理想と現実の二極を激しく往復する不安定な母につき合わされた。いつかこの事を祐子に話す日が来るのだろうか。亮介には判らなかった。もし祐子と喧嘩するようなことがあれば、亮介はそうした体験の殻に籠もって自己を正当化するつもりでいた。しかしそうした信念は間違っていることに気付き始めていた。祐子の姿が亮介にそう告げていた。
主菜は肉じゃがと鰤の照り焼きだった。
「どう、美味しい」
「うん、旨いわ。まじで」
「よかった。人に作ってあげるの初めてだったから、どう言われるだろうってそれだけ考えていた」
後片づけは亮介も手伝った。食器を洗いながら祐子はクラスメイトの寸評を始めた。亮介も話に合わせてそれぞれの風貌や性格などの美点や欠点を語った。祐子の人物評は的確だった。ふたりは祐子の淹れてくれたコーヒーを飲みながら、寮の門限の時間まで話し込みそして笑い合った。時間が止まり世界にはふたりしかいないような錯覚を、亮介は覚えた。
帰りがけアパートの玄関口で靴を履き替えた亮介は、さよならを言う前に祐子の肩を引き寄せて唇にキスをした。潤んだ目を見て、自分と祐子は似ているとか似てないとかそういう問題ではなく、彼女は自分と同じように生命力を持って生きている一個の人間であることに思い知らされた。
次の日はクリスマスイブだった。亮介は午後からアパートを訪れた。
台所には焼き上げたばかりの共立てのスポンジが冷ましてあった。何かが覚醒したように、荘厳な美が甘いスポンジの匂いと共に部屋の中に満ち溢れていた。祐子は昨日と祐子と明らかに違っていた。聖母と言うには祐子はまだ幼すぎるものの、生来的に持っている絶対的な生命力への賛歌が開花して彼女を成長させたのだった。
ふたりでツリーのイルミネーションのスイッチを入れて、近くの小さな陶器店にワイングラスを買いに出て、帰ってきてからはケーキのデコレーションをした。料理の準備はやはり祐子の領分で、亮介は部屋でプレーヤーに載っていたクリスマスソングのアルバムを聴いていた。
秘密のクリスマスパーティーのコースは、ツナとトマトのブルスゲッタ、スモークサーモンとオニオンのサラダ、メインデッシュは骨付き鶏もも肉の香草焼きといった玄人はだしのものだった。これでは確かにひとりパーティーで食べるには多すぎた。買ってきたばかりのワイングラスでふたりは乾杯した。寮の先輩と隠れて宴会をすることがあったので亮介は酒を飲み慣れていたが、祐子も実家は酒屋をやっていて嗜む程度には飲んだことがあった。
その夜、亮介は祐子を抱いた。
ふたりとも初めてだった。アルコールがまとわりつくような自尊心を捨て去る役目を果たしてくれたこともあって、亮介は滑稽さをそれほど感じられずに済んだ。祐子はまた違った別なものを感じていた。やがて反動で嫉妬心を煽り立てるような、恐ろしいほどの安堵感だった。
カーテン越しに街路灯の青い光が、ベッドの上に一筋の白い線を作っていた。掛け布団のなかは熱気が籠もっていたが、全裸で抱き合ったままの、丸みを帯びた祐子の肩や背中は夜気で冷たくなっていた。
「寒くはないか」
返事はなかった。亮介の胸に顔を埋めて、祐子は寝息を立てていた。破裂したように乱れた柔らかい髪を撫でながら、亮介は静かに仰向けになって、もう片方の手を掛け布団の中から出して体を冷やした。
亮介は祐子のことを愛してはなかった。それはまだ愛の象形に変化するような高等な感情ではなかった。一ヶ月前までは時折意識することはあっても単なる同級生であり、午後のグランドで煙草を吸うことをしなければ、このように肌と肌を触れ合わせながらともにベッドに眠ることもなかったろう。自分と同じくらいに若く幼い女の肉体が、全ての精神を委ねてすぐそばにあるということ自体が、亮介にとって驚異だった。髯が伸び始めたため初めて買った剃刀で剃ろうとした時に、刃に当たった朝の光のようなものだった。原初的な直観で世界の全く異なった構造を発見するような、また目に見える色彩をその色彩のままに感受するといったような、そんな新鮮な体験だった。
すると子供の作ったブロック玩具の造形が一旦ばらばらにされて、また新しい造形に組み替えられるように、亮介の内部で何かが変化した。信念が体験を規定するわけではなく、体験が信念を強化するのだ。光と影が繋がるように祐子の力で彼の信念は解体されて、心の中に隠れていた強堅な四肢を持った意志が静かに光り始めていた。
その時初めて、亮介は母を許せるような気がした。
朝の光で目覚めると、ベッドには亮介ひとりだけだった。慌ただしく服を身につけて引き戸を開けると、六畳の部屋のこたつの上は綺麗に片付けられていた。祐子は台所にいた。
「トーストでも焼く。お腹空いてない」
挨拶代わりの祐子の言葉を無視したまま、亮介はその体をゆっくりと抱き締めた。