明るい表通りで
深町衣子が三階にある音楽室のベランダから飛び降り自殺をしたのは、昼休みもちょうど中頃の時間だった。
わたしは学生食堂で持参したおにぎり片手に天ぷらうどんを食べて、一緒に行った美希とそそくさと別れると、ひとり音楽室の併設してあるピアノ練習室に立て籠もり、スピーディー・ワンダーの「迷信」のフレーズを鍵盤を叩くように弾いていた。本来ならクラビネットの音色でその独特のグルーヴ感が醸しだされる曲なのだけれども、それをピアノで弾こうとしているのだから我ながらアホだと思う。タンバーペダルをばたばたいわせながら、ファンキーなフレーズの切れぐあいを試していた。
ゴールデンウイークが終わったばかりの梅雨入り前の初夏の空気は、落書きだらけの狭い練習室の空気まで清浄にさせるようで、そんな晴れた日が続いているためもあってか、えんえんと同じ指運を繰り返してと妙に気分が高揚してきた。
音楽室からは衣子が弾いている、ベートーベンのピアノソナタが聞こえていた。わたしの通っている高校は公立のくせに不思議と音楽に才能がある人間が集まってくるようで、芸大に進学した先輩も過去五年間で三人いた。声楽科で二人、器楽科で一人である。二年になってからは、クラスの中にもピアノ部門で全日本学生音楽コンクールに出場するほどの腕を持った人間が二人いたのだ。衣子はその一人である。正直言ってわたしはクラシックはよく判らない。中学二年までピアノを習っていたものの、ハノンの退屈さに飽き飽きしてやめてしまったのだ。
しばらく聞こえていた「悲愴」の第三楽章が鳴りやんでいた。わたしはつられてビリー・ジョエルの「今宵はフォーエバー」を弾いていた。そのときだった。音楽室からかなり長い女性の金切り声が響きわたった。とっさに携帯電話を上着のポケットから取りだして時間を見た。十二時四十分。そして練習室から飛び出たとたんに、同じクラスの半澤理香とぶつかってしまった。
「きゃあ、ごめんさない」
「ああ、志保。どこからしたの、声は」
「音楽室の方」
重いだけが取り柄の音楽室のドアを開けて、ふたりでなかに入ったものの、そこには誰もいなかった。教官室の入り口のそばにあったベランダに出るサッシ戸が開いていた。わたしは思わず駆けだした。明るい陽差しがあふれるベランダの隅には、上靴がきれいにそろえて置いてあった。いやな予感を抱えたまま手すりから身を乗り出して下を見た。
コンクリートブロックが並べられた石畳の上に、不定型のインクのしみのように手足を伸ばし倒れていた衣子の姿があった。上から眺めていると、頭の辺りから流れ出した赤や白の液体が彩る、平面的な抽象画のようだった。
校庭でサッカーをしていた男子生徒たちが、声を上げながら集まってきていた。中央通用門からは、教師たちが出てくるところだった。校舎の窓という窓からは、黒い頭が生えだしたように出ていた。
地面にへばりついた何も言わない彼女の姿態が、校内の好奇をすべて集めているようだった。
「で、警察の人には何て言ったんだい」
「そのまんまよ。現場に一番始めに現れたと言っても、そばには理香がいたし。わたしの証言は何の役にも立たないでしょ」
「でもまあ、飛び降り自殺なんて、なかなかショッキングなことではあるな」
「自殺って決まったわけじゃあないけどね」
二年に進学した四月から、わたしはおじいちゃんちに世話になっていた。去年の冬おばあちゃんが亡くなって、子供たちみんなが家を出てひとり寂しくしているおじいちゃんを慰めるという意味もあったのだけれども、本当の理由はわたしにあった。高校に入ったくらいからどうも親との折り合いが悪くなって、特に母とは顔を合わせるたびに喧嘩するようになってきた。
おじいちゃんは国立大学の教授を退官したあと、近所の私立大学に招かれてゼミを開いていた。寂しさを感じる暇がないくらいに忙しくしていて、単純にわたしは体のいいまかない係である。おじいちゃんは英文学のなかでも古英詩が専門で、今はその関連でフィンランドの伝説を調べているそうである。
大学に出かけるときは小柄な体に仕立てのいいブレザーを羽織っていて、なかなかダンディーではあるものの、穏和な見かけとは裏腹に恐ろしいほどに頭が切れる。わたしはどんなことがあっても、おじちゃんにだけは嘘をつくまい決心していた。それはわたしが誠実な人間だからというわけではなく、嘘を言ったところで必ずばれるに決まっているからだった。
以前神戸で児童連続殺傷事件があったとき、おじいちゃんは早くから犯人が未成年でしかも被害者とは顔見知りであると言っていた。あのときは中学に入ったばかりのころで学校から通達される注意書きの文面にかなり怖い思いをしていたものの、犯人がおじいちゃんの予想通りだったので不思議に思って訊ねたことがある。
「そんな、理由は簡単なことだよ。猟奇的な殺人を行うのにわざわざ県外からやってきて、見ず知らずの人間を相手にするなんてことはあり得ないんだよ。それではその行為をする意味というか、理由が限りなく薄れてしまう。そしてあの事件の行動範囲が、学校や公園といったごく狭い範囲に限られている。社会性というものを理解していない人間の行動だって考えた方が腑に落ちるからね」
きわめて単純明快である。こうした明快さのために、おじいちゃんにはやけに子供っぽいところがあることも確かなのだけれども。
さすがにあんなことがあったあとでまかない準備もする気にはなれず、店屋物でごまかした。わたしはラーメンのどんぶりを軽く洗って勝手口の外に置くと、おじいちゃんの紅茶のコレクションからクインメリーを選んで、食後のお茶を淹れた。
「自殺でない可能性は、ないんじゃないのかな」
おじいちゃんはテーブルの上に「初等フィンランド語入門」という本を出して、ページを広げながら言った。
「だってその子が飛びおりた直後に、志保はベランダに行ったんだろう。そのとき周りに人影はあったのかい」
「ない」
「遠隔操作で誰かに操られていたのならともかく、だったら自分の意志で飛びおりたと考えるのが妥当だね」
「うーん、確かにそうだけど」
わたしの頭には、衣子の弾いていた「悲愴」のロンドが鳴り響いていた。彼女は美人だったけど、どちらかと言えば内向的な性格だった。けれども彼女の弾くピアノは、情熱を秘めたような強弱の落差の激しいタッチで、そんな演奏をする人間がたやすく自ら命を絶ってしまうことは考えられなかったのだった。
いつもより早めのお風呂に入ったあと、わたしはおばあちゃんの部屋に布団を敷いた。眠れそうになかったけど、今日一日は中途半端な高さで気分が高揚したままで変に疲れていた。布団にもぐり込むと、ようやくひとりになれた安堵感があふれて、それと同時に堰を切ったように慟哭していた。
なぜ自分が泣いているか判らなかったけれども、あとで考えてみるとそれは、人の命がそんな風にあっけなく終わってしまうことへの憤りの気持ちがあったからかもしれなかった。
次の日の朝、美希と携帯電話のメールで連絡を取って、おじいちゃんちの近くの公園で待ち合わせた。学校へ向かう途中の風景は、いつもの通りの見慣れたものだった。空は昨日と同じで雲ひとつなく、澄んだ明度の低い青はどこかしら衣子の死の匂いを染みつかせたように感じられた。
「ねえねえ、第一発見者の気持ちってどんなものなの」
「第一発見者と言っても、わたしが行ったときはもう地面で寝ころがっていたわけだからね。かえって校庭にいた人たちの方がショックが強かったんじゃないのかな」
「確かにね。でも衣子ちゃんて、そんなことする娘には見えなかったんだけどな」
美希とは小学校時代からの腐れ縁だった。小学校のころから美希はわたしを無二の親友と思っていたが、わたしは表面上は仲良くしているものの、そのころは彼女のことが大嫌いだった。とにかく自己中心的なのである。例えばもうひとりの友達とわたしが、ふたりだけで買い物に出かけたとする。すると次の日はロッカールームに呼び出しがかかる。壁にどすんと手をついて、
「どうしてわたしを誘ってくれなかったの!」
と、そういうことをするから誘いたくないのよと、こちらは大声で言いたくなってしまう。そうした娘だった。
美希に対するわたしの評価が変わったのは、中学に入ったあとだった。ある事件にわたしが巻きこまれて、クラス全員の信頼を失いそうになったとき、美希だけはわたしを信じてくれた。込み入った話なのでここでくわしく書いている余裕はないけど、そのおかげでクラスメイトから疎外されることなく元通りの人間関係を続けることができたのだ。わがままな態度の裏側には、わたしと同じような心を持っていたわけだ。
高校に進学してからは、一年二年と別のクラスになったためだろうか。以前ほどボス風情を見せなくなっていた。その代わりおしゃべりな点は、昔から変わっていなかった。そのため人に知られたくない秘密は、絶対美希に話さないようにしている。
「それはわたしも同じ印象」
「やっぱり啓太くんのことで何かあったのかな」
「啓太って、秋元啓太のこと」
「そう、ふたりはつき合っていたようだわ」
「それは初耳だわ」
秋元啓太はやはり二年で同じクラスになった男子生徒で、ピアノで音楽コンクールに出るもうひとりだった。衣子よりは腕がいいようで、去年のコンクールでは全国大会で奨励賞を取っている。
「死亡推定時刻は午後十二時三十七分だから、昼飯も食わずに飛び降りたわけね」
「それは違う。十二時四十分ちょうどよ」
わたしは上着から携帯電話を出して、時間を見た。
「美希、いま何時何分」
「待って。七時四十六分だわ」
「同じだ。おかしいわ。だって悲鳴が聞こえたとき、わたしとっさに時間を見たもの。四十分ちょうどだった」
「警察の人も、数学の高梨も、飛び降りたのは三十七分って言ってるわ」
「ふうん」
まあ三分くらいの時間差だったら、それほど変でもないか。
線路を渡ってすぐの東口から校内に入ると、わたしはとっさに三階の角にある音楽室のベランダを見た。衣子が落ちた校庭のわきの歩道よりも、そこに大切な何かが残されているような気がしたのだった。
ホームルームで担任のカンテルこと菅野照子が、哀悼の意を語ってその日の授業は始まったのだけれども、先生も生徒も授業にまるで身が入っていなくて、奇妙なほど雑然とした静けさが続いていた。衣子の机には花瓶の花が飾ってあって、そこには悲しみと言うよりもどかしさが漂っていた。わたしは斜め後ろに座っている啓太の顔をときおり眺めてみていたけど、迷い事があって心ここにあらずといった風だった。
もどかしさの理由は、まだ衣子の死が自殺か他殺かはっきりしていないせいだった。授業の間もさまざまな情報と憶測が、携帯電話のメールを通して流れていた。クラスの世論は、他殺説が有力だった。その理由は衣子の携帯電話が飛び降りた現場にはなく、まだ見つかっていないこと。衣子の両親も、彼女が自殺する理由にまったく心当たりがないこと。一年のときに同じクラスだった兵藤麻衣と、一週間前の放課後に口論していたこと。などなど。警察も両方の線で捜査を進めているということだった。
昼休みはさすがに学生食堂に行く気にも、ましてやピアノ練習室に行く気にもなれなくて、教室で自分で作った弁当を食べていた。わたしは麺類が大好きで、うどんかそばもしくはラーメンがあれば、米がなくても生きていけるのだ。教室の中で突然カセットコンロを取りだして、うどんを茹ではじめたらやはり変な目で見られるだろうか。そんなことを考えていた。
いつもなら誘いに来る美希が来ないところを見ると、彼女は彼女で情報収集に余念がないといったところなのだろう。
ちょうど食べ終わって、弁当の容器を包み直しているときだった。半澤理香が話しかけてきた。
「志保さんが昨日弾いていたの、スティービー・ワンダーでしょ」
「よく知っているわね」
「うん。あたしのお兄ちゃん、ブラック・ミュージックが好きだから、よく一緒に聴いていたの」
「そうだ。半澤ちゃんは、ブラバンだったよね。何の楽器やっているの」
「トロンボーン。それとたまにパーカションとか」
「今年も学祭でバンドやるんだけど、三管のホーンセクション入れたいなあと思っていて。できないかな」
「三管って」
「トランペットとトロンボーンと、あとはサックス」
「サックスはテナー、それともアルト」
「普通はどっちでやるの」
「音域はアルトの方が広いけど。どんな風に入れたいの」
「短いリフ的なフレーズなんだけど」
「迷信」のクラビネットに絡むブラスのリフだった。彼女もわたしの意図を理解したらしく、微笑みながら答えた。
「だったら、テナーサックスの方が音の切れがいいわ」
去年の学園祭では臨時の楽団を結成して、椎名林檎とミーシャをやったのだ。どちらも一般受けがいい上にメジャなので選曲されたのだけれども、リズム隊はまあまあよかったものの、ボーカルが壊滅的に下手くそだった。声質は悪くはないのだけれども、何かを完全に勘違いしていた。少なくともわたしの知っている洋楽では、日本人が好むようなフェイクを入れて歌うような人はひとりもいない。体が小さいために声量のない猿まね日本人という以前に、歌というものの持っている意味を根本的に理解していないのだった。
そういうわけで今年は、小手先の技術が通用しないような渋い選曲で攻めようという腹であったのだ。ふさわしいボーカルがいなかったら、自分で歌う覚悟もできていた。
理香はいまどきには珍しい長い黒髪を持った色白の娘で、話してくる言葉の端々に媚びてくるような優しさが感じられて、もしわたしが男だったらこういう娘を彼女にしてもいいかなと思わせるところがあった。
そんなことを考えていると、ポケットのなかの携帯電話が振動した。開いてみると美希からのメールが入っていた。
「三組の兵藤麻衣、警察から任意同行を求められる。放課後に出頭の予定」
昨日の事情聴取は職員室の隣にある教務準備室を使って行われたので、本格的に他殺の線で捜査が進められているということなのだろう。
「でも、昨日は大変だったわね」
「ええ、そうね」
理香は少しだけ逡巡した風に、言葉を選ぶようにして言った。
「同じクラスから、ああいう風に自殺する人が出るなんて思ってもいなかった」
「確かにね」
わたしは偶然同じ現場に居あわせたもの同士が感じる、奇妙な連帯感を理香に感じ始めていた。
クラス全員で参加した告別式の日も、怖いくらいによく晴れていた。梅雨抜きでこのまま夏が来るんじゃないかと思わせるほど暑く、八月上旬の気温が続いていると天気予報は言っていた。上着を脱ぎたかったけど堅苦しい式の間はそうすることもできなかった。衣子の両親はどちらも理知的な感じで、音楽教育に熱を入れるくらいだったらそれも当然かなと妙なところに感心していた。
黒い縁に飾られた大きく引き伸ばした写真が正面に飾られて、わたしたちクラスメイトは葬儀会館の会場の後ろ側の、やけに狭い間隔で設えたパイプ椅子の間に座らされていた。クラスを代表して告辞を述べたのは啓太で、その内容からふたりが同じピアノ教室に通っていることを知った。切れ長の澄んだ目には深い悲しみが湛えられていて、ふたりがつき合ったいたと言った美希の言葉を思い出していた。
焼香が始まると、あたりには鼻をすするようにして泣き出す声が聞こえ始めた。わたしは何か我慢できないような暴力的な衝動に襲われて、狭いパイプ椅子の間をすり抜けて棺桶の前で焼香を済ませたあとは、そのまま会場の外に出ていった。こういった葬儀の場面で泣く者は、結局やがて来る自分の死を想起してその憐憫を共感し合っているだけなのだ。
表に出ると、目の前のやけに車通りの多い二車線の国道を走る車からは、この異常気象をもたらす排気ガスを威勢よくまき散らされていた。偉大なる人間の進歩心だ。自然保護を声高に叫ぶ人間ほどその文明のもたらす利便を享受し、そのくせ自分以外のすべての人間に有罪を宣告しようとするものだ。何と自分勝手な自己愛の肖像。
このような他罰的な傾向が強くなっているときは、ナイーブになっている証拠なのだ。そこでわたしは初めて、衣子の死がもたらした衝撃で参っていることに気がついた。どんな人間でもいつかは死んでしまう。それは自然の摂理だ。けれども自らの手で死を選ぶというのは、わたしの感覚では絶対にあってはいけないことだった。
停留所でおじいちゃんちのある団地行きのバスを待っている間、色々な考えが頭のなかに浮かんで、例えようもない不条理な感覚に襲われてたじろいでしまった。何かが変だ。彼女の死で感傷的になっているわたしの感覚は、実は間違っているのだ。なぜなら衣子の死はまだ自殺と断言できるものではなかったからだ。
結局警察に呼ばれた兵藤麻衣は、事件とは何の関わりもなかった。ふたりの口論の理由はベートーベンの音楽理論に関するものであって、それで人を殺してしまうような私怨とはまったく関係のないものであった。また衣子の携帯電話は、彼女のロッカールームにかけてあった上着の中から見つかった。鍵がかかっていたので、それを壊して開けたというのが美希から得た情報である。
その通り。衣子の死は、いまだ自殺とも他殺ともつかない灰色の状態だったのだ。
音楽室で衣子の幽霊が出るという噂が立ったのは、一年のクラスからである。音楽の授業中、日当たりのよいベランダに白い影が横切ったという話が、瞬く間に学校中に広まった。そして決定的な怪奇現象が起きたのは、告別式の翌日だった。その現場に居あわせた自分の数奇な運命に驚いてしまったけど、もしかたらそれはわたしが誰よりも彼女のことを思っている証拠だったのかもしれなかった。
しばらくはピアノ練習室にも立ち入らないようにしようと思っていたものの、ブラスのアンサンブルを理香をお願いした手前、「迷信」のリードシートくらい書いておこうと思って、記憶を頼りに採譜していたのだ。おじいちゃんちには、家から持ちこんだキーボードがあったのでそれを使っていたのだけれども、学校に鍵盤楽器があるのは当然のことながら音楽室だけである。ブラスのリフはオクターブ・ユニゾンの単純なものだったけど、採譜するためにはどうしてもピアノが必要だった。
そうして昼休みの時間、いつものようにピアノ練習室に籠もっていると、音楽室の方から「悲愴」の第三楽章を奏でるピアノの音が聞こえ始めた。わたしは鳥肌が立った。そんな馬鹿な、いやそれは誰かの悪質な悪戯かもしれない。けれども「悲愴」はベートーベンのピアノソナタの中でも難易度が高くて、誰でも弾けるという代物ではない。しばらくするとピアノの音は鳴りやんだ。わたしは音楽室をのぞき込んでみたいという衝動に襲われたが、恐怖心が好奇心を押さえつけていた。
すると、あのときとまったく同じように、長い女性の悲鳴が聞こえてきた。反射的に携帯電話を見ると、十二時四十分。何なの、それ。
恐怖心も何もか忘れて、わたしは反射的に音楽室にかけ込んでいた。誰もいない。あのときと同じように教官室に近いベランダに出るサッシ戸が開けはなたれていた。とっさにわたしはベランダに出た。そこには誰もいなかった。ベランダ越しに下をのぞき込み、衣子が落ちた歩道を見たけどそこに誰かが倒れているわけでもなかった。反射的に空を見上げてみた。相変わらず恐ろしいほどに晴れわたった青空が広がっている。
あきらめて音楽室に戻り、教務室のドアのノブを回してみた。鍵がかかっていた。
やがて悲鳴を聞きつけた何人かの生徒が、けたたましい足音を立てて中に入ってきた。その中には美希と理香の姿もあった。
ちょうどその頃、捜査線上に秋元啓太の名前が浮かび上がっていた。衣子の両親から彼女名義のクレジットカードがなくなっていて、四月の始めに限度額の二十万円が引き落とされていたという連絡が警察にあったのだ。そして見つかった携帯電話の履歴の最後には彼の名前があった。
毎週日曜日の午後に、おじいちゃんちで美希とふたりでお茶会を開くのが習わしになっていた。紅茶のコレクションを全部飲んでみたら、一万円のお小遣いをくれる。そうおじいちゃんが言ったので少しずつ飲んでいたのだけれども、試飲というのはひとりでしても面白くも何ともない。そこで美希を巻き添えにしていたのだった。
おじいちゃんちは古い造りで和室が多かったが、台所だけは改装して使い勝手のいい広いリビングキッチンになっていた。こげ茶色のフローリングはしっかりとワックスがかかっていて、ビルドインタイプのカズレンジには、カズオーブンもついている。イングリッシュブレッドを焼くときも、高さがあるのでてっぺんを焦がすことなくきれいに焼くことができた。
水回りのそばに四人掛けの厚い天板のテーブルがあり、レンジも近いので普段はそこでお茶を飲んでいるのだけれども、今日は陽差しがひどく心地よかったので、南に面したソファーを陣取っていた。
「それがね、衣子の携帯の発信履歴の最後が啓太だったのはそれほど不思議ではないんだけど、それだけでは済まない変なことがあってさ」
「何なの」
「いや。でも志保は恐がりだからね。やっぱり話すのやめたほうがいいかなと思うわ」
「そんなこと言わないで、いまは昼だし大丈夫よ」
「あとで恨まないって約束してね」
「大丈夫」
「最後に啓太にかけた電話の履歴の日付は、衣子が死んだ次の日なの」
わたしは口に含みかけた紅茶を、あやうく吐きだしそうになった。やっぱり聞くんじゃなかった。
「それじゃあ、鍵のかかったロッカーの中の携帯で、電話をかけたって訳」
「そうとしか考えられないでしょ」
「そんなの幽霊の仕業じゃん。あっ」
もし衣子を殺した犯人が啓太だった場合、それは十分に考えられることだった。犯人を知らせようとして衣子の霊が彼に電話をかけて、履歴にそれを残した可能性だ。告別式の翌日にわたしが聞いたピアノの音も金切り声も、彼女が遺恨を伝えるためのメッセージだとしたら。
「衣子のクレジットカードを持っているって、啓太は白状したそうよ」
「つまりこういうこと。彼女のクレジットカードを使いこんたことがばれてしまった啓太は、口封じのために衣子を殺した。そしてそれを知らせるために、死んだあとも携帯で電話をかけたり、ピアノを弾いたりしていた」
自分で言っていながら、背中に何かの気配がいるような錯覚がして怖かった。
「ねえ、もうやめようよ。この話」
「志保は、本当に恐がりね。大丈夫よ、こんなこと話したくらいで、死んだ衣子の霊が寄ってきたりしないわ」
「そんなの、判らないじゃない」
笑っている美希を憎らしげににらみつけた。こういうのって夜に思い出すと、眠れなくなってしまうのだ。恐がりの人間の気持ちを、美希には想像もできないのだろう。三つ子の魂百までも。美希の自己チューはいつまでたっても直らないものなのだろう。
「でも美希はさ、何でそんなにいろんな情報が入ってくるの」
「よくぞ聞いてくれました。あたしのおじさん、南署の署長をやっているの」
「へえ、どおりで」
「人身事故を物損にすることくらいは、簡単だっていっていたから。人身事故は前科がつくそうよ」
やはり権力というのは、存在するものなのだ。そんな変なことに感心しながらも、衣子と啓太の話しに関しては、釈然としない不可解さを感じていた。何がおかしいのがうまくは説明できなかったけど、わたしの中のバランス感覚では、不自然に歪められた形がその中にあったのだった。
美希が帰ったあとの夕食の時間に、そんな話をおじいちゃんにしてみた。
わたしの話が支離滅裂なせいもあったのだろうけど、食事の間おじいちゃんはただ話を聞いているだけだった。後片づけをはじめてテーブルに食後の紅茶を淹れたあとに、ようやく口を開いた。
「その男の子が彼女のクレジットカードを持っていたといっても、彼が彼女をだましてお金を使いこんだという理由にはならないよ」
「なんで」
「ふたりの間に何かの同意があって、結果的にそうなったという可能性だってあるからね。志保には彼氏がいるかい」
「すみません、わたしは奥手です」
「彼にはやむを得ぬ事情があって、お金が必要だった。彼女がそれに同意をしてカードを貸したということだってありうる。それに彼女の死が自殺は他殺かまだ断定できる条件が揃っていないのだから、両方の可能性から考えて行かなくては片手落ちだね。志保はどちらだと思っているんだい」
「そうではないって思っているんだけど、自殺だと思っている」
「それはどうして」
「だってわたしが音楽室に行ったときは、誰もいなかったし、例えば誰かいたとしても、逃げ出せるような場所も時間もなかったから」
「それは矛盾しているよ。状況から下した判断では自殺だと思っているのに、実際のところ志保は他殺だと思っている。同じように志保は幽霊の存在を信じていないと言っているのに、ピアノの音がして悲鳴が聞こえたために、幽霊の存在を信じるようになっている」
「だって、あのときはすぐに音楽室に行ったのよ。それで誰もいなかったんだもの」
「だから、そこのところが大切なんだ。一度その彼と会ってゆっくり話をしてみたほうがいいね。そして幽霊というものが現実的にはいないんだという前提条件から考えていかないと、本当のことは判らないと肝に銘じておいたほうがいい」
おじいちゃんの口調は真剣で、凄みさえ感じさせた。わたしは自分の考えが確かに整合性に欠いているものだという自覚はあったが、何がおかしいのか気付かなかった。煙草に火をつけて、紅茶のおかわりを所望したので、ポットに残っている紅茶をおじいちゃんのカップに注いだ。色がやけに濃かったので、魔法瓶のお湯をたしてやった。
「人間が誤った判断を下すときというのは、たいていの場合色眼鏡で物事を見ているときなのだ。自分はこう思う、そう言って自分の感覚を前提に演繹を進めていけば、論理はすぐに破綻してしまうんだよ。自分の感情や感覚を交えずに、実際にあったことと、それがなぜそのようになったかという可能性だけを考えていかなくては駄目だね」
はい判りましたと言いたいところだったけど、困ったことにわたしは数学的な思考も苦手だったし、幽霊も大の苦手だった。ただもし告別式の翌日のピアノの音と悲鳴が、衣子の幽霊の存在を証明するものではなかったとする可能性を考えてみたときに、それは誰が、何のために、どのような手段を用いて、そうしたのかを明らかにしなければいけないことだけは判った。
それは事件の発端である衣子の飛び降り自殺から、根本的に見直していかなければいけないことでもあった。
休み明けの月曜日に学校に着くと、さっそくわたしは焦燥した面持ちの啓太のところに行って話しかけてみた。
「あのさ、啓太くん。話をしたいことがあるんだけど」
いつもより早めにおじいちゃんちを出たのだけれども、それでも教室には半分以上のクラスメイトがいた。衣子とつき合っていて、そしていまはその殺人の嫌疑がかけられている啓太に、飛び降り自殺の現場にはじめに足を踏み入れ、続いて起きた怪奇現象の体験者でもあるわたしが話しかけたのだ。いやでもクラス中の好奇が集まってしまう。
啓太は軽く頷くと、困ったようなそれでいて助けを求めるような複雑な表情をした。わたしは胸がきゅんとなった。切れ目がちな整った顔は幼くが残っているものの、及第点以上の男前である。わたしの中の母性本能が突然発動してしまい、何とか助けてあげたい気持ちで一杯になってしまった。
「あなたが知らないことで、わたしが知っていることもあるかもしれないから」
頭の中で自分の感情や感覚を交えずにと、暗示をかけるように繰り返しながらわたしは言葉を続けた。
「昼休みに音楽室でかまわないかな」
啓太の表情に驚きが混じった。それでも気を取りなおした風にして頷いた。
自分の席に戻ると、普段はあまり話したことのない隣の席の娘が、最近テレビのバラエティ番組によく出るようになった男性タレントについて話しかけてきた。わたしは適当に受け流しながら、教室の中にいるすべての人が自分について話をしているような錯覚を覚えた。前から二番目の席にいる理香もわたしの顔を見ている。
真実を知るということは、つまりは強くならなくてはいけないことのようだった。
二限目と三限目の間にある休み時間に購買部に行き、コーヒー牛乳と菓子パンを買って、昼休みになるとさっそく教室を出て音楽室に向かった。待ち合わせの場所を音楽室にするのは、わたしだって気が進まなかった。けれども事件はそこから始まったのだ。その背後にどのような事実が隠されているかは判らなかったが、少なくとも現実にあったことを、また現実にあったであろうことを、探しあてなくてはいけなかった。
第一校舎は一階から一年生、二階に二年生と学年ごとに教室が割り当てられていて、音楽室は三階の三年生の教室からさらに奥に行った棟にあった。校舎がL字になっていて、短い方のラインに特殊教室が割り当てられていたのだ。東側階段から三階に上って校庭と中庭に挟まれた廊下を通ると、階下の左側に学生食堂の建物が見えた。校舎から食堂に連なる渡り廊下には、席を確保するために急ぐ者たちの姿がひしめいていた。つい一週間前まではわたしもあの群れの中にいたのだ。不思議な感慨に襲われながら、わたしは音楽室の前に着いた。
音楽室は学校にある教室の中で、最も特殊な造りをした教室だった。入り口にはフラッシュ製の大きな引き戸が二重についている。ひとつ目の戸の手前、廊下に面した場所に第一ピアノ練習室のドアがあり、ふたつの戸の間にある風除室に第二ピアノ練習室があった。わたしがいつも使うのは、壁の落書きの少ない第二練習室の方だった。一坪ほどの広さの風除室の途中から、一段床が高くなり板間になっている。それが音楽室まで続いているのだ。リノリウムの床では反響が大きくなることを考慮したのだろう。風除室に入り二番目の戸を開けると、音楽室の全景が見える。右側に教壇と黒板があり、左側の壁に面してコーラス部の連中が使っている大きなロッカーがある。その奥には授業で使うクラシックギターが並べられてある。
中央にはグランドピアノがでんと置いてあった。木製鍵盤に象牙がはられてあるかなり高価なピアノだったけど、相当の年代物だった。鍵盤全体は薄く脂色にくすんでいて、D3のキーは象牙が欠けて木製の地が見えていた。教室の奥はわたりの広いひな壇になっている。一番奥の段だけは他の段よりさらに幅があって、音楽の時間に並びきれない生徒が重なるように立つわけである。壁は音響効果を配慮して、小さな穴が一面に開いた堅いコルク製の壁材が張られていて、教室全体が奥に行くほどやや狭まった造りになっている。
わたしはグランドピアノの前にあったピアノ用の長椅子に座って、黒板の方を眺めた。ベランダに面した側の教壇の端には、黒板消し用の掃除機とラジカセが置いてある。ブラスバンド部やコーラス部の連中が、コンクールや定期演奏会の練習をするときに、演奏を録音するために使われているものだ。ふと立ち上がって教務室の前に進み、ドアについているノブを回してみた。やはり鍵はかかっていた。ドアの上にあるガラス張りの小窓からのぞき込んでみると、中は雑然と物が散らばっていた。教務室とは名ばかりで、実は物置と化しているのであった。
なかなか啓太が姿を現さないので、わたしは再びピアノの前に座って、菓子パンで空腹をいやしはじめた。
衣子の悲劇があったとき、急いで音楽室に近い方の第二ピアノ練習室から中にかけ込んだので、悲鳴が聞こえてから音楽室の中に入るまで十秒もかかっていないだろう。もし衣子が誰かに殺された場合だ。犯人は彼女の背中を押す。悲鳴を上げながら、彼女は地上へ落下する。そこから十秒以内で犯人は履いていた上履きをそろえて、ベランダから姿を消す。不可能だ。
おまけにベランダから突き落としたからといって、三階くらいの高さでは絶対的な死を約束するものでもなかった。すると犯人は衣子が落ちて少なくとも死んだ形跡を確認するまで逃げだすことはないだろう。もし衝動的に突き落としたのであれば一目散に逃げだしていただろうけど、他殺であることを前提に考えたならば、その形跡をまったく残さないほどの周到な準備をする頭脳と、計画を滞りなく遂行できる大胆さが必要になってくるのだ。
わたしの頭は既にオーバーヒートしていた。駄目だ、あまりにも条件節が多すぎる。
パンをくわえてコーヒー牛乳を片手に持ったまま立ち上がり、ベランダのサッシ戸の鍵を開けた。外に出ると五月の暖かい風に混じって、外のやけに浮ついたような喧噪が聞こえた。ベランダの左端は行き止まりになっていて、右側は間仕切りで仕切られている。ベランダから体をはみ出すようにしてその向こうへ渡ることもできなくもなかったけど、少なくともわたしはごめんである。第一そんなことをしたら、校庭にいる者からその姿がばっちり見えてしまうのだ。
教務室にもベランダに出るサッシ戸があったけど、やはりそこも鍵がかかっていた。
犯人は彼女を突き落としたあと、教務室に入って中の鍵をかけて、人気がなくなるのを待って逃げだした。物理的に可能だけれども、そんなお馬鹿な犯人はいない。事件の警察がやってきて騒然になるだろうと予測される現場に、いつまでも居残ることは致命的な失敗を意味している。わたしの証言から自殺説が有力になったのだけれども、凶器を隠すくらいならともかく、丸ごと自分を隠してしまえるという考えが通用するのは、小学生の隠れん坊の世界だけである。
音楽室の非常階段はベランダと別個になっていて、教室の後ろ側にアルミ製のドアがあった。そのことを思い出して教室の方に振り返ると、ピアノの脇に啓太が立っていた。
わたしは音楽室の中に戻っていった。
「俺を犯人だと思っているのかもしれないけど、衣子が死んだとき俺は携帯電話で、用があったからね、話をしてたんだ。履歴も残っているし、相手も証人になって警察に話してくれたよ」
待たせた詫びも言わないで、啓太は一気に話し始めた。わたしは横目で非常口に出るドアを見た。犯人が彼女の背中を押す。彼女は地上へ落下する。犯人は上履きをそろえたあとベランダから音楽室に入り、非常口から逃げだす。所要時間は十秒。やはり不可能だ。
「その話はもう聞いているの。衣子のカードを使ってお金を引き落としたっていうのは本当なの」
「ああ」
勢い込んだ険しい顔つきが、あっという間に朝と同じような困惑したものに変わった。人をせつない気持ちにさせるような、不思議と魅力のある表情だ。私情を交えるな、志保。今の目的は彼に恋することではなくて、衣子の死の理由を突きとめることだぞ。
「芸大に行った先輩から、頼まれたんだよ、すぐに返すからお金を貸して欲しいってね。金を返すまでバイオリンを預かって欲しいってね。事情は判らなかったけど、よっぽどのことがあったんだろうなあって。高価なものだし、音楽家にとって、楽器は命の次に大切なものだからね。俺の貯金だけじゃ足りなかったから、衣子に相談した。快くカードを貸してくれた衣子に感謝しているけど・・」
つまった台詞の続きは、だからといって殺す理由など何もないと言いたいのだろう。
「二日後には返してくれたので、すぐにディスペンサーから入金したよ。利子がつくだろうけど、あとで精算しようって話をしていた。安心したせいか、カードを返すのを忘れていたんだ」
「そうなんだ。わたしの聞いた話では、まるで啓太がカードを使いこんだような言い方をしてたから」
「しかたないな。衣子のカードを使ってお金を引き落としたっていうのは本当なんだから」
衣子の名を呼ぶときの微妙なニュアンスに、嫉妬しそうになっていたわたしは心底アホである。
「彼女が死んだあと、携帯に電話がかかってきたっていうのは本当なの」
「ああ。すぐに切れてしまったけど、衣子の番号だった。始めはすごく怖かったけど、これは衣子が俺に何かを伝えようとしてかけて寄こしたんじゃないかって、今では思っている」
「問題はそこなのよ」
わたしが急に大声を出したので、彼はびっくりして後ずさりした。ようやく糸口をつかむことができたのだ。わたしはおじいちゃんの助言に感謝した。
「死んだ人間に携帯がかけられるわけがないじゃない。誰かが彼女の携帯を使って、あなたに電話をかけて寄こしたのよ」
鍵のかかっているロッカーを開けることは、鍵を持っていれば簡単にできることである。その判断を誤った方に錯覚させるのは、衣子の幽霊が存在するという思いこみなのだ。死んだ衣子の携帯電話から電話があったということは、何らかの意図をもってそのような行動をする第三者がいるということであり、衣子の死は自殺などではなく、誰かの手によってもたらされたことを意味しているのだ。
またそれは、電話を受けた啓太が犯人ではないことを示している。啓太が衣子の携帯を片手に自分の携帯に電話をかけた可能性もあり得るが、彼女の幽霊が存在することと彼の身の潔白を証明することは、つながりを持たないのだ。
「あのね、啓太くん。ひとつお願いがあるのだけれども、音楽の北田先生に言って、この教務室の鍵を貸してくれるように言って欲しいの。わたしは頼むより、あなたが頼んだ方が快く貸してくれるでしょ」
「ああ、それはかまわないけど。何で志保はそんなに熱心になっているんだ」
「だって二回も彼女の悲鳴を聞いてしまっただもの。しかたないわ。自分の身に降りかかった火の粉を、自分で振り払っているだけなのよ」
休憩・・、である。今まで使ったことがないくらい頭を酷使したのだ。休憩である。放課後に美希を誘って一時間五十円のカラオケ屋に行き、百五十円分の大声を出して、帰りにファミレスに寄って二百グラムあるステーキをかみついた。おじいちゃんはゼミのコンパに出席するので、今日はまかない抜きなのだ。決して自分のはやる恋心を押さえるためにヤケ食いしたわけではない。
食後のコーヒーを飲みながら、美希に今までの出来事をかいつまんで話した。
「勉強が嫌いなくせに、意外と志保は頭がいいのね」
「でもミスマープルの道は、まだまだ遠いわ。まだ誰が何で衣子を殺したのが、まったく判ってないんだもの」
「それではあたしが、ちょっと足りないマープル婦人に手助けいたすといたしましょう」
「どんな手助けよ」
「志保は衣子の悲鳴を二回聞いたって言っているけど、それは衣子の悲鳴じゃないのよ」
「どうして」
「そんなの、当たり前じゃない。ベランダから飛び降りた衣子の悲鳴が、どうしてピアノ練習室にいる志保に聞こえるの。聞こえる訳ないじゃない」
わたしは絶句した。確かにそうだ。どうしてそんな簡単なことに気付かなかったのだろう。ピアノ練習室も音楽室と同様に穴の開いたコルクの壁材で覆われていて、中にはグラスウールが張っている。音楽室のベランダから落ちていった衣子の悲鳴は、外で発せられたものだ。それを防音効果の高い練習室で、わたしが聞くことはできるわけがなかったのだ。
「何で気付かなかったんだろう」
「そんなの、簡単よ。実際志保は悲鳴を聞いたんだから。それで聞こえないという可能性を疑う理由はなくなってしまうもの。それにね、衣子が飛び降りたのは、十二時四十分ではなくて、十二時三十七分なの。そうだってちゃんとあたし、志保に言ったでしょ。本当に人の話を聞いてないんだから。そこには三分間のブランクがあるのよ」
しばらくして美希の言っている意味をようやく理解したわたしは、心の奥底からやり場のない怒りが吹き出てきた。わたしは始めから、犯人にだまされていたのである。
「何でわたしが、だまされなくちゃいけないのよ」
まんまとはめられた自分に対する憤りもあって、わたしは堰を切ったように美希に悪態を突き続けていた。名探偵気取りもあったものではなかった。わたしは犯人の術中にすっかりはまっていたのである。
「そんなこと、判りきったことじゃない。犯人は衣子を殺すきっかけを音楽室でしかつかめなかった。それも毎日決まった時間に時間に現れる昼休みの時間でしかね。そして同じように毎日ピアノ練習室でピアノを叩いている志保のことが邪魔だったわけ。そして自分が現場から逃げだす時間を作るために、嘘の悲鳴を志保に聞かせたのよ。二回目の幽霊騒ぎも同じ。録音しておいたピアノの音と悲鳴を聞かせて、はいお仕舞い。それにしてもこの犯人、なかなかすごいわね。志保が幽霊なんかひどく怖がっていることを知っていて、その心理を利用するくらいだから、かなり頭のいいやつだわ」
確かに音楽室にはラジカセが置いてあった。そんなことをするのは訳もないことだろう。
「でも志保が話してくれたのは今日でよかったわ」
「何でなの」
「そんなこと、自分で考えなさい」
ファミレスを出たときは、もう日が暮れかかっているところだった。
陽の沈みかかった夕暮れの薄明の中に、青い街路灯が列をなして輝き始めていた。ビルの影は切り紙細工のように陰り、その上にぽつんとひとつ浮かんだ金星の黄色がかった輝きが、おとぎ話を読み終えたあとのような、現実に対する憧れと不安を抱えた子供のときを思い出させた。色んなことがありすぎて、それが自分の失敗を提示された形になったので、疲れきっていた。早く家に帰ってお風呂に入り、ゆっくりと眠りたかった。
おじいちゃんちに帰る前に自分の家につき合って欲しい、そう美希が言った。わたしは一度は断ったが、かなり強引な誘いだったので、また美希の自己チューが始まったのだなと思って、あきらめて従うことにした。町中を抜けたあと、おじいちゃんちに続く病院通りではなく、美希の家がある学校通りの方へ横断歩道を横切ろうとしていた。そのときだった。
青信号で渡った歩道の中ごろに来たとき、信号無視をした黒いセダンがわたしたちめがけて突っこんできたのだ。わたしはぼんやりしていたので、美希に力任せに手を引っぱられて道路に転げ込まなければ、はね飛ばされていたことだろう。右の腰骨と膝をしたたかに打ったわたしは、反射的に走り去る車のナンバープレートを確認しようとした。夕闇とテールランプの赤い光のせいで、ナンバープレートの数字は見えなかった。
気がつくと美希がわたしの体に覆いかぶさりながら、子供をあやすように頭をなでつけていた。
「怖がらなくてもいいからね、志保。こんなとき警察は何もしてくれないけど、あたしのおじさんがいるからね。今晩は、あたしが志保の家に一緒に泊まってあげる」
自分が殺されかけたことに気がついたのは、しばらくして救急車のサイレンが病院通りの向こうから聞こえてきた頃だった。
疲労に全身がくまなく縛られたようであり、また勇気も失いかけていた。けれどもわたしの推理が当たったせいで襲われたわけで、それには自信をもっていいと美希は言ってくれた。啓太に話したために被害を被ったのであれば、彼が犯人に違いないけど、それではまた矛盾が生じてしまう。わたしは彼を犯人ではないと断定したのであり、彼がわたしを殺す理由はそこにはなかった。
犯人が車を使ったので、学校外の人間の仕業かもしくは教員の誰かに狙われたのだとも思ったが、その仮定は学校を休んでいる間に美希と一緒に見舞いに来てくれた美希のおじさんに否定された。
「金を出せば何でも引きうけてくれるチーマーが、この町にはいくらでもいるからね」
「いまどき、チーマーなんて言葉は使わないのよ。おじさん」
隣にいた美希が、つかさずつっこみを入れていた。
こんなことがあっても実家に帰ろうとしなかったのは、単なるわたしの意地だった。美希のおじさんの権限で、しばらくの間私服の警官がふたり一組でついてくれることになったけど、身の安全が保証されただけで問題の解決にはならなかった。警察では再び兵藤麻衣をマークしていた。彼女は援助交際で小遣い稼ぎをしていて、ゲームセンターにうろつく少年たちに知り合いが多かったのだ。
どのような理由があり、どのような利害があるのか。すぐれた推理を見せてくれた美希も、犯人が誰であるのか、皆目検討がつかないという。おそらく真実を知っているのは、犯人とこのわたしだけだろう。三日間学校を休んだあと、わたしはまだ痛む腰骨を引きずりながら、忌まわしい音楽室のある学校へ登校した。
そこにはどうしても確認しておかなければいけない事実が隠されているのだ。
教室に入るとさっそく啓太のところに行って、先の約束である教務室の鍵の件を話した。彼はわたしの気迫に押されて、ふたつ返事で請けおった。もう啓太には意味のない恋心をときめかすこともなかった。今回の事件は厳しい言い方をすれば、彼の身から出た錆であったのだ。
鍵を手に入れたわたしは、昼休み美希に同伴してもらって音楽室へと向かった。
「志保、そんなに急がなくてもいいじゃない。まだ脚、痛いんでしょ」
「これは単純なトリックなのよ、美希。トリックというのもおこがましいような、単に見えない線が一本隠されていただけに過ぎないのよ」
「犯人が判ったの」
「まだ判らないわ。でも、衣子の幽霊が存在しないとすれば、残された可能性はひとつしかないもの」
わたしは音楽室に入ると、さっそくラジカセのボリュームを確認した。思った通り最大に近い目盛りを示していた。そして教務室の鍵を開けて、中へと入っていった。
音楽室に面した壁側には教卓がふたつ並べられていて、その上には古い音楽の教科書や書類などが積んであった。さらにその上には丸められた模造紙や壊れたクラシックギター、電源が入りそうにもないカセットデッキやレジ袋に入ったウーロン茶の空き缶や、空になったコンビニエンスストアの弁当容器まであった。床には陽差しで色あせて印刷した字さえ見えなくなった段ボール箱が積み重ねられていて、その上にはブラスバンド部が使っている備品のホルンやクラリネットなどが置いてあった。
ベランダに抜けるサッシ戸には、ロックのついてないクレセント錠がついていて、中から開けることは簡単だった。わたしは雑然と積んである荷物をかき分けながら、教務室の奥に進んでいった。文字通り足の踏み場がなく、足場を確保するために高く脚を上げるたびに、アスファルト道路に打ちつけた骨盤と大腿骨のつけ根の部分がきりきりと痛んだ。紺色のスカートは白く埃にまみれてしまったけど、教務室からピアノ練習室をのぞき込む小窓の下に、予想した通りに四角く切りとられたような跡を見つけ出した。
「何か判った、志保」
振り返ると、美希の隣には心配そうな表情をした啓太が立っていた。
「もし衣子の死が自殺でなかったとしたら、一番の問題は彼女を突き落とした犯人がどこから逃げだしたかということなの。ベランダ越しに間仕切りを越えたり非常階段から逃げるのは、目撃者を生みだす可能性が高いのでお勧めできないわ。それにベランダから非常階段を抜けるのは、時間がかかりすぎるしね。だからこれ」
わたしは小窓の下の壁を指さした。
「おそらく犯人はこのことを知らなかったら、衣子を殺さすに死んだのかもしれないわ。けれども知っていた。そして並はずれた分析力と注意力を持っていなければ、計画を実行に移すことがなかったかもしれないわ。わたしは犯人にある意味ひどく敬意を感じるわ。まあ、少しだけひねくれた敬意だけどね」
わたしはそこで一呼吸をおいた。自分で書いた台本通りとはいえ、こういった役柄はあまりわたしには適してないようだった。
「犯人はあなたよ」
そう言い放つと同時に、ピアノ練習室に接する壁を思いきり蹴り叩いた。教務室からピアノ練習室に抜ける隠し戸は、予想した以上に簡単に外れた。
「美希、ピアノ練習室の前に回って」
さすがにわたしと違って機転のきく美希だった。すぐさま教務室の外へと飛び出していった。
「一体何が起こっているか、俺には判らないよ」
いつものように困惑した表情を顔に張りつけたまま、啓太が言った。
「判らない訳ないでしょう。今回の件は、あなたが引き金になったのよ。自分でも判っているくせに」
わたしは脚を引きずりながら、音楽室の黒板とグランドピアノの間を抜けて第一ピアノ練習室の前に行った。そこには美希に両手を伸ばされて、通せんぼをされた半澤理香がいた。
理香は抵抗するわけでもなく言い訳をするわけでもなく、美希の携帯電話から連絡を受けた警察の手によって連行されていった。啓太は理香に何か話しかけようとしていたけど、理香の澄んだ目はそれを頑なに拒絶していた。私服警官たちと一緒にやってきた美希のおじさんに、わたしはえらい勢いで賞賛されたのだけれども、この結末への筋書きを書いたのは他ならないわたしなのに、素直を喜ぶことはできなかった。
美希が頭をなでてくれたので、それをきっかけにしてわたしは泣き出してしまった。脚も痛かったし、寝不足で頭も朦朧としていたし、何よりわたしは事件の結末に最も衝撃を受けたのもののひとりであったからだ。美希の手によって保健室に連れていかれて、そのまま眠ってしまったわたしは、結局午後の授業を受けることなくおじいちゃんちに帰っていったのだった。
理香が衣子を殺そうと思いついたのは、わたしの推測通り教務室とピアノ練習室の間にある隠し扉がきっかけだったのだ。その存在を知っていたのは音楽の北田先生だけで、在校生の中でそれを知っているものは誰ひとりとしていなかった。ブラスバンド部で教室から楽器の出し入れを行っていた理香は、以前からその隠し扉に気付いたのだけれども、口外することはなかった。もし彼女が話のネタとして同じ部活の誰かにしゃべっていたとしたら、この事件は起こらなかっただろう。彼女ははしゃいで、人目を寄せつけるようなタイプの人間ではなかった。
これは後から聞いた話であるのだけれども、理香に殺意を抱かせるほどあおり立てのは衣子の方であった。学年末に啓太は理香と別れて、その後すぐに衣子とつき合いだした。ふったのは理香の方だった。音楽家特有の自己憐憫と優越感が入り交じった幼いプライドに、理香が我慢できなくなったのだ。それだけだったらことは済んだに違いなかったけど、困ったことに衣子がクレジットカードの件で理香に相談を持ちかけてきたのだ。
啓太の持っている子供じみた正義感を衣子が揶揄し、理香がそれに同意をしていたのだけれども、会って何度も話をするうちに、啓太の持っているすぐれた面を衣子が賞賛し始めたのだった。こうした心理は奥手なわたしにはなかなか理解できないことだったけど、美希に言わせるとそれも衣子が理香に嫉妬していたせいなんだそうだ。どうして彼氏の別れた女に嫉妬しなければいけないのか、やはりわたしには判らない。そのうち衣子は啓太が告白した理香に関する愚痴を直接理香にしゃべり出すようになっていた。そうすることでしか自分の優越を感じられなくなった衣子は、ことあるごとに啓太を引き立て理香を揶揄し、引き立て上げた啓太につき合っている自分を特別視して、啓太と別れた理香を嘲った。衣子に対する殺意もあったのだろうが、彼女を殺すことで啓太を懲らしめてやりたいという気持ちも理香にはあったのだ。
すべては衣子がけしかけた理由のない誤解だった。
それからは美希の推理通りに、殺人の現場には音楽室が選ばれた。それは啓太に対して見せしめの意味もあった。学生音楽コンクールの課題曲の練習で、昼休みに衣子が音楽室を使っていたのは周知の通りである。邪魔者はピアノ練習室に立て籠もって、訳の判らないリズムアンドブルースを弾きまくっていたこのわたしである。そこで理香が考えたトリックは、自分の悲鳴をを録音してそれを時間差で流すことによって、現場から抜けだす時間を稼いだのだ。
衣子は昼食をほとんど取ったことがなかった。一番始めに音楽室に入りピアノを弾き始めれば、ブラスバンド部やコーラス部の連中も遠慮して入ってこなくなる。これが理香の算段の中に組み込まれることになる。
わたしが音楽室に近い第二ピアノ練習室に入る。その後理香が音楽室に入り、天気がいいから表に出ましょうなんてことを言って、衣子をベランダに誘い出す。理香の証言によると、ホルンのケースに隠し持ってきた鉄パイプで衣子の頭を殴りつけ、昏倒させた後で上靴を脱がす。そして脚を持って頭から階下へ突き落としたのだ。靴を揃えていったん音楽室に戻ると、用意していたカセットテープをセットする。無録音部分の後に、自分の声を録音した悲鳴を流れるようにしたテープだ。そこから教務室に入り、隠し戸から第一ピアノ練習室に入り、自分が録音した悲鳴が聞こえるのを待った。
実際飛び降り自殺をしたものがいて、それが本格的な騒動になるには若干のタイムラグがある。現場を目撃した者さえ、警察や消防に連絡しようという理知的な感覚が働くのは、若干時間がかかるものなのだ。
そして悲鳴が聞こえる。わたしがピアノ練習室に飛び込む。その後を追って、いかにも音楽室に用があってやってきたふりをして、外側の第二練習室から出てきた理香はわたしと合流する。これでアリバイは成立したのだった。後はわたしが衣子の死体に動転している間に、カセットテープを抜き取れば証拠は残らない。ブラスバンド部だったので、カセットテープを持っていても何の不自然もないし、ホルンのケースの中の鉄パイプは、何の疑いもなくその日のうちに回収できるわけだ。なんといっても衣子が自殺ではないかと証言したのは、音楽室に始めに飛び込んだわたし自身だったのだから。
二度目のトリックもまったく同様である。「悲愴」のピアノ演奏は、衣子のものを録音しなくても、CDから録音したものを使ったとしてもかなわない。音楽室のラジカセに空白部分を調節したテープを入れておけば完成である。幽霊話を信じ込んだものにとっては、それが仕組まれたものだと疑う余地はないし、そう思わせただけでも理香の計画は成功を保証されたものだったのだ。普段のわたしなら、そのとき後から入ってきたであろう理香がラジカセを触れることに気がつかないわけがなかった。それほどわたしも、そして周囲の者たちも気が動転していたのである。
と、そこまでわたしがおじいちゃんに報告を終えると、今度はおじいちゃんがわたしに紅茶を淹れ直してくれた。
「でもよくそこに、うまい具合に犯人の彼女が現れたものだな」
「だってそうでなければ、わたしが車で轢き殺されそうになることもなかったんだもの」
「どうしてだい」
「そうなるためには、わたしが啓太に話したことを犯人が知っていなくてはいけないことだもの。美希にも話したけれども、彼女が犯人である可能性はないわけだから。すると啓太が誰かに話したことも考えられるけど、彼の態度から考えてみて、その可能性はかなり低いと思ったの。おじいちゃんが教えてくれた実際にあったことから考えていくやり方ね。彼はわたしの論理ではまったくの白だったわけ。だから彼が手を下したり誰かに依頼してわたしを陥れようとすることもするわけがないんだもの。すると残された可能性はわたしと啓太の会話を誰かが聞いていたということだから、理香が犯人で彼女が隠し戸の存在を知っていたとすれば、ピアノ練習室から教務室に入って、盗み聞きをしていたと考えると、前後のつじつまが合うわけだし」
「あらかじめ音楽室に入っていって、カセットテープで録音するという手は」
「それは不可能よ、おじいちゃん。あのとき教室を一番先に出たんだもの。そのときはまだ理香は教室に残っていたわけだから、ラジカセにテープをセットする余裕はないもの。でもね、おじいちゃん。トリックは理解することはできても、わたしにはやっぱり理香の心も、衣子の心も、啓太の心だって理解できそうにもないわ」
「それはお前がまだ子供だからだよ」
「それを言われたら、身も蓋もないんだけど」
「何はともあれ、お前が無事でそれだけがなによりだ」
「よく考えてみると、一番始めに理香が話しかけてきたことも、変なことだったんだよね。彼女は本当だったら聞くことのできなかった、わたしのピアノの曲を言い当てたんだよね」
理香の証言ではわたしを殺すつもりはなかったそうで、脅しをかけて欲しいと頼んだ少年グループの先輩が、何を勘違いしたのかわたしを車で追い回していたそうだ。
この事件を通してわたしが手に入れることができたものは、おじいちゃんの忠告から気付いたわたし自身の弱さを乗り越えたことと、そして何より美希の厚い友情である。
「ねえ、おじいちゃん。わたしはこれで名探偵の仲間入りをすることができるかな」
「無理だろうな。学校を三日も休んで、おまけに次の日は早退。まかない当番を一週間もさぼる名探偵なんてどこにもいないだろう」
それはそれでいい。何と言ってもわたしらしいのが、わたしの一番望むところだった。そうしてわたしは笑い転げながら、美希のおじさんからもらった秘密の報奨金で、今度おじいちゃんに新しい紅茶のセットを買って上げようと思った。