「冒険者たち」
Chapter1 剛史
予備校の建物を出ると、街を照らしていた柔らかな陽射しに包み込まれた。小春日和で日が高く、ビルの間を吹き抜けていく風もどこかしら優しい。頑なさで強ばった肩も、心なしか軽くなっていく。
重いだけが唯一の存在意義であるバックを、肩先に掛け直して振り返る。背後には巨大な鉄筋コンクリートの建造物が、太陽の逆光を受けて暗くそびえ立っていた。
「剛史、これからベイズンストリートに行くんだろ」
正面玄関の一枚ガラスのスウィングドアを押して、のっぽが出てきた。背中を丸めたまま、ひょろ長い四肢を器用に駆使する独特の歩き方で近寄ってくる。
「ああ」
短く返事をすると、ポケットから銀製のジッポウを出して煙草に火を点ける。総務課からの通達では、構内での喫煙は禁止と言い渡されていた。しかしそんなことは関係ない。正面玄関の隣にある購買部の入り口のそばでは、巷では予備校の主と称されている、三浪目の小太りの男が同じように煙草を喫っていた。早くここを抜けださなければ、そうしたそうした焦燥感が心を占めてくる。
「後で行くから待っていてくれないか。駅前の本屋に用があるんだ」
いつの間にかくわえた煙草の先を剛史に向けていたので、仕方なしに火を点けてやった。のっぽは一日に一箱は灰にするベヴィスモーカーのくせに、決して自分のライターを持ち歩こうとしなかった。
「話したいことがあるんだ」
「また、憧れの君のことか」
「そんなようなものだ」
「あれ、史郎は一緒じゃなかったのか」
「自習室だよ。この間の模試で第一志望がD判定だったからね。かなり焦っているようだよ」
「遊び過ぎなんだよ、あいつは」
のっぽがビル街の向こうに消えていくのを煙草一本分見送ると、剛史は再び目前のビルを見上げた。それはさながら檻のようだった。世の中のありとあらゆる哀楽から無縁の小さな世界。笛の音につられて川に身を投げ出す鼠の集まり。深い嘆息をついて目の前にあった街路灯の柱を見ると、そこには大きめの付箋紙が貼りつけてあった。
<人生とは双六のようなものである。ゴールに着いたと思ったとたん「振り出しに戻る」>
剛史は大声で笑い、その笑い声があまりに空々しかったので直ぐに止めた。
紅葉の木々が並ぶ斜交いの児童公園では、微睡んだ空気の中幼い子供らが群れをなして遊んでいた。それに自分の姿を重ねていると、次第に落ち着きを取り戻してくる。そうなのだ、世界はもっと広いのだ。そんなことでいちいち落ち込んでいたって仕方ない。
まだ二十歳にもなっていない彼に人生なんて言葉を背負いこむには重過ぎたし、彼の単簡な感受性は苦悩という言葉の意味を理解する程の繊細さも欠けていた。ただ体験のひとつひとつを、真摯に受けとめていくだけの真面目さはあった。
目に見えない制帽を目深に被り直すように視線を上げると、剛史は雑多な生命が溢れる街へと歩き始めた。
ベイズンストリートは、街の外れにある小さな洋菓子店だった。全面ガラス張りの店舗は、表通りから中のファクトリーが見えるように設計されていて、それが若い女性に受けて繁盛していた。ティールームもあったが店舗の奥の余ったスペースを利用しているので、表からは目立たない。入り口の自動ドアにはカウベルが取り付けられていて、客が入るたびにからからと乾いた音を立てる。
ときおり学校帰りの小学生がふざけて自動ドアを開けていく。そうしてカウベルは鳴るが、誰も入ってこないこともあった。
剛史とのっぽ、そして史郎の三人がそのティールームに足繁く通うようになったのは、のっぽの憧れの君である松崎水紀のせいだった。彼女がベイズンストリートのケーキが気に入っていて、よく買いに来るという情報を聞いたため、三人で彼女にケーキを貢いでいたのだった。
水紀はたいていの場合、予備校の寮で知りあった友達と連んでいた。クラスは剛史と同じ国立文系の選抜コースで、のっぽは私立の理系コースだったため、水紀と同じクラスの剛史が諜報の役目を担っていた。色白で眉がやや濃く、洗いざらしのセミロングの髪を左寄りに分けている。濃い緑色のトレーナーを着ていることが多く、それがすっきりした顔立ちによく似合っていた。
水紀のことなどどうでもよくなっている剛史が、いまだにベイズンストリートに通っているのは、このあたりの町並みに惹かれているせいだった。
秋の澄んだ空気に映える並木道の佇まいが、吹き抜けていく乾いた風の涼しさと相成って、レンブランドの風景画のような趣を見せてくれる。夏が過ぎて秋となり、目に映る風景のひとつひとつが着古したコットンシャツのように馴染んでくる。そんな古い本の一ページのような、遠い記憶に似た色彩を剛史は好んでいた。
表のバス通りからカウベルを鳴らして店内に入ると、ケーキが並べられているショーケースを無視してそのまま奥のティールームに向かった。
「今日の授業は、もう終わったの」
ショーケースがあるカウンターの向こうから、やけに舌足らずな女の声が聞こえてきた。
「今日は英文読解と数学の二つだけ」
「日を追うごとに少なくなっていくのね」
「あと二ヶ月でクリスマスですから。いいじゃないですか、見里さん」
「真面目に勉強しないと、また落ちるわよ」
「里見さんに言われると辛いな」
「冗談じゃなくて、真面目にさ。あんまり親を泣かせちゃ駄目よ」
厳しい言葉とは裏腹に里見の顔は笑っていた。それがかえって剛史にとってきつかった。彼女は二十四歳の旦那持ちで、店にいるときはいつも軽くパーマを当てた茶色の髪を無造作にゴムで束ねていた。おっとりとして笑顔を絶やさず、機転のきく接客が評判だった。茶色のエプロンを付けたまま工場の手前にあるカウンターから剛史のあとを追ってティールームに向かった。ケーキの販売以外に喫茶業務が役割だった。
「たまには息抜きと必要だからね」
「剛史君のたまには、いつもだからね。コーヒーでいいの」
「フレンチがいいな」
里見はショーケースの傍らに設置されたドリンクのブースに入ると、湯を沸かし始めた。剛史は四人掛けのテーブルを一人で占領して手にした新聞を開いていた。紙面は相変わらずありふれた現実の羅列で、心揺さぶられるような記事は何もなかった。
ティールームはテーブルが二つと四人掛けのカウンターがあるだけだった。しかしその全てが埋まったところなど、見たことがなかった。
しばらくすると淹れ立てのコーヒーと一緒に、レアチーズケーキを持ってきた。
「一個だけ古くなったのあるのよ。食べない」
「里見さん、食べればいいのに」
「これ以上わたしに、太れっていうの」
「そんなに太ってないじゃん」
「服を着てると、判んないのよ。すごいのよ、本当は」
「ダイエットっていうのは、女子高生が暇つぶしにやるものだよ」
夏に高校時代からつき合っていたひとつ年下の彼女と別れたばかりだったが、その彼女には会うたびに食欲と体重の相関関係について講義されていた。女の場合、太っているのが健康の証拠であるというのが剛史の持論だった。
里見はコーヒーとケーキをテーブルに置くと、カウンターのスツールに座って足をばたばたさせ始めた。アルトの声で大人びたことをいう割には、ときおりひどく子供っぽい態度を見せることがあった。
「悪いわね、わたしは確かにもうおばさんよ」
「そういう意味じゃないんだけどな」
「そう言えばね、最近ここも忙しくなってさ」
「ここって、ティールームの方」
「じゃなくて、お店の方よ。ひっきりなしにお客さんが来るようになってさ。ねえ剛史君、暇な時でいいからバイトしない」
「今日から真面目に勉強するって決めたんだ」
「日向子ちゃんでもいいからさ、彼女ならしっかりしてそうだしね」
「それじゃあ俺はしっかりしてなさそうなんですか」
「ずいぶんひがみっぽいわね。そんなこと言ってないじゃん」
「目がそう言っている」
「ばれたか」
カウベルがからから鳴ったので、里見は立ち上がってエプロンのたわみを直した。
「いらっしゃいませ。あれ日向子ちゃん、久しぶり」
そこだけスポットライトを浴びているかのような強烈な存在感を振りまきながら、日向子がティールームに入ってきた。ほとんど荷物置き場と化しているカウンターの上にバックを投げつけると、何のイクスキューズもなしに剛史のいるテーブルの向かいの席に座り、もう片方の手で持っていた紙バックごそごそ言わせながら開いた。
「お前、最近授業にも出てなかったじゃん」
「実家に帰っていたのよ。里見さん、これおみやげ。みんなで食べて」
「日向子ちゃん、気を遣わなくてもいいのに」
「大したものじゃないのよ。いつもご馳走になっているから」
「じゃあいただくわ」
日向子は剛史と同じクラスだった。今でこそ腐れ縁のように一緒にいることが多かったが、知り合ってからまだ数ヶ月しかたっていない。きっかけは剛史とのっぽと史郎の三人で水紀にここのケーキを週に一度のペースで貢いでいたときだった。それを知った日向子が、三人に話しかけてきたのだ。
「水紀のこと知りたかったら教えてあげるよ」
いや違う。剛史は初めて会った時のことを思い出そうとしていた。そんなありきたりな言い方を日向子はするわけがない。そうだ、ケーキだ。日向子はその本心を隠してしまうような絶妙な笑顔をみせてこう言ったのだ。
「わたしにもケーキをご馳走してくれたら、水紀のこと教えてあげるよ」
二人は秋田市内の同じ私立高校の出身だった。美人が多いという噂の高校だったが、顔の良さで言ったら水紀より日向子の方が上だった。しかし日向子はその外見からは想像も出来ないような天の邪鬼で悪舌家だった。次第に三人の輪の中に入ってくるようになったものの、のっぽに至ってはその口の悪さに辟易して、かえって水紀への思慕を強くしたくらいだった。
「日向子ちゃん、もし時間があるんだったら、ここでバイトしない」
「わたしがケーキを売るの。合わないよ」
「そんなことないわよ。日向子ちゃん可愛いし、きっとお客さんがいっぱい来るようになるわよ」
「確かにぱっと見だけだったら、何とかなるな」
テーブルの下からの蹴りで、剛史は応酬された。
「別にいいか。生活に覇気がなくなってきた頃だし」
「じゃオーケイね。崎谷さんにはわたしから言っておくから。今日はわたしが奢ってあげる」
「やった、ラッキー。じゃあわたしウインナーコーヒーね。生クリームたっぷりめで」
里見はドリンクのブースに戻ると、ウインナーコーヒーに使う濃口のコーヒーを淹れ始めた。ベイズンストリートのウインナーコーヒーは無料で配布される情報誌に紹介されたことがあり、それを目当てにやってくる客もいた。ケーキのデコレーションに使っている乳脂肪分の高い生クリームをふんだんに使い、熱いフレンチコーヒーとかけ合わせて、足の長いカクテルワイングラスで提供するのだった。生クリームとコーヒーとコーヒーシュガーの三層が綺麗に分かれて、見た目も美しい。それが人気の秘密だった。
「何てお前がここに来るんだよ」
「わたしが来ちゃ駄目なの。今日は剛史に用が合ってきたのに」
「何の用だよ」
のっぽの話はどうせ水紀のことだと判ってはいたが、日向子がいたのではのっぽも話しづらいだろう。そうした気遣いが剛史にはあった。
「怪盗乱麻の噂は、聞いたことある」
「ああ、これだろう」
剛史は街路灯に張りつけてあった付箋紙を、シャツの胸ポケットから引っぱり出して日向子に渡した。彼女は思慮深げな表情でしばらくそれを眺めたあと、嘆息のような短い吐息をついた。
「これ、どこにあったの」
「予備校の表だよ」
「これって何なんだろうね」
「俺に聞かれたって知らないよ」
夏期講習が終わった九月の始めあたりから、剛史たちの通っている予備校で奇妙な事件が起きていた。古今東西の格言や警句が書かれた付箋紙が至る所に、例えば教室の机の上や黒板のわき、忘れ物のノートの間や購買部に並んでいる参考書の中などから出てくるのだった。その全てに怪盗乱麻という署名があった。今では何でそのようなことをするのかについてだったら言い尽くされた感があるが、誰について言及できるものは一人もいなかった。
「これを誰がやっているのか、それを突きとめようと思ったの。剛史に手伝って欲しいと思って」
「そんなことをしてどうするんだ」
「どうするのって、別にどうする気もないのよ。ただ強いて言えば」
若干躊躇したあとに日向子は答えた。
「ただの暇つぶしと、あと好奇心を満たすため」
「よし、話に乗った」
「やっぱり、剛史なら四の五を言わず乗ってくれると思っていた」
単なる暇人と言われたような気がしたが、肯定の返事をしたのは日向子の言った理由が気に入ったためであった。受験勉強というのはある意味機械的な作業であり、真理の探究という側面はない。浪人生活の退屈な日々の中で、ひとつくらいは人間として生きている証明として、そうしたことに首を突っこんでみるのも悪くないのではないか。
「そうと決まれば話は早いわ。今までわたしが集めた付箋紙、明日持ってくるわね」
「ひとつ聞いていいか。のっぽや史郎じゃなく、何て俺なんだ」
「そんなことも判らないの」
大きく目を見開いて、幼稚園のお遊戯会ほどに芝居がかった口調で言い放った。どことなく里見の口調を真似ている。
「あなたがこの予備校で一番暇そうだったからよ」
「そんなに俺、暇そうに見えるか」
「うん、見える」
「そうか。俺、人生もっと考え直さなくちゃいけないな」
里見がウインナーコーヒーと一緒に、ショーケースの上のカウンターに置かれてある写真入りのメニューを持ってきて、ケーキの販売に必要な商品知識をレクチャーしはじめた。
手持ちぶさたになった剛史は、出窓に飾ってあった丈三十センチ程のコーラの瓶のような体型をした少女の人形を手に取った。里見が自分の趣味で置いていたものだ。顔と手が陶器製で、ヨーロッパの山岳地帯の風俗を模したフレアのツーピースを着ている。舶来品かも知れなかった。衣服の布は色褪せて、それが白のクロス壁とリノリウムの店舗に似つかわしくなかった。暇にまかせてスカートの中を検分すると、オルゴールの機械が隠されてあった。円筒形の底を回してテーブルに置くと、「舞踏への招待」を五コーラス分回ったあと、オルゴールはただの人形になった。
夕方のピークは会社の退社時間が過ぎる五時以降だった。説明を終えた里見も退屈そうにマガジンラックから女性雑誌を抜き取ってページを広げていた。
「そう言えば、今日はのっぽ君は来ないの」
「来るって言ったたんだけど、遅いな」
日向子のは能面のような表情をして、ケーキのメニューとにらめっこをしていた。共通一次試験まで残すところあと三ヶ月だった。アルバイトなんかしていていいのかと、日向子のことを揶揄しそうになった剛史だったが、オープン模試の結果はいつも上位に食い込んでいて、ボーダーラインすれすれの剛史が言ったら単なるやっかみになってしまう。
それから煙草三本分のっぽが来るのを待っていたが、結局彼は姿を現さなかった。
女性を家まで送ることは、剛史が自分に課している禁止事項のひとつだった。女というものを不思議な生き物だと剛史は思う。何かことがあってことがなくても、なぜかその後の関係がぎくしゃくすることを何度も体験していた。そうした自分の信念を破って日向子を家まで送ることにしたのは、怪盗乱麻について彼女が知っていることをなるべく聞き出そうとする考えからであった。
駅前と違って地価の安い駅裏は、再開発が進んでいるとはいえ古い建物が多く残っていた。
整備された歩道を歩いていると、深い霧が赤や青の広告塔を効果にして。スピルバーグ好みの映画セットに変えていた。街路灯が並木の間からかすかな光を浮かべ、時折ヘッドライトの光が連なった自動車の列からこぼれてくる。
秋の夕暮れは胸がしめつけられるように寂しい。店の向こうの茶の間でテレビでも観ているのだろうか。客のいない古びた八百屋の庇の奥から、子供達の笑い声がした。雑居ビルの換気扇から流れてくる秋刀魚の塩焼きの匂いが、早く家へ帰れと誘いをかけてくる。今日も一日が終わったのだ。さっきまでの元気な口調を維持できなくなった日向子は、テキストの入ったトートバックを肩に提げて、黙ったままコンクリート畳みを数えるようにうつむいて歩いていた。話は大方終わったところだった。剛史も無理に話題を振る気になれずに、義務としての歩数を稼いでいるに過ぎなかった。
「芳野さん」
日向子を呼ぶ声と共に、自動車のエンジン音が近づいてきた。振り返るとスモークを後部座席に貼った黒のステップワゴンが、路肩に喧嘩を売る程に近づいていた。ドライバーシートから顔を出したのは、剛史よりやや年嵩の髪を茶色に染めた男だった。
「ずっと待ってたんたぜ」
日向子の反応は静かだった。汚物でも眺めるような一瞥をくれ、再びさっきと同じような調子で歩き出した。
「何だよ、話したいことがあるんだぜ」
「もう近寄らないでと言ったでしょ」
一瞬、通りの自動車の流れが止まったかと思うようなひどい剣幕だった。剛史は二人から離れた位置に下がっていった。高校を卒業してからは無理に粋がって無用なトラブルに首を突っこむことを止めにしていたのだ。少なくとも自分から手を出して喧嘩をしたことはここ最近はなかった。通りがかりのサラリーマンの群れが対峙している二人に注目し始めたので、意味のない愛想笑いを浮かべてそれを追い返した。
男はファッション雑誌から飛び出てきたような顔立ちと、ファッション雑誌から拾ってきたような格好をしていた。
視線の会話が終わったのは、男が剛史のほうを見たせいだった。アイロンをかけていないダンガリーシャツに洗いざらしのジーンズなんて値踏みの価値があるかどうか判らなかったが、再び剛史は犬歯を見せるように歪んだ笑いを見せた。体中の血管にアドレナリンが暴れ始めようとしている。
「そう言うことか」
「そう言うことよ」
鸚鵡返しに日向子は言った。男はウインドウを閉め二三度エンジンを空ぶかしすると、鋭いタイヤの摩擦音を残して夕刻の自動車の流れの中に消えていった。剛史はジーンズのポケットの中で握りしめていたジッポウを取り出すと、煙草に火を点けた。力まかせに握りしめていたので、掌が非道く汗をかいている。
「何だ、あいつは」
剛史の声に反応して、思い出したように日向子は歩き始めた。
「自動車を走るベッドだと心得ているような男よ」
「可哀相に、勘違いもいいところだ」
足早に歩く日向子から三歩下がって歩いた。すらりとした後ろ姿は、見事な遠近法で描かれた夕刻の街の中で浮かんで見えた。
「ありがとう。まさか剛史が送ってくれるとは思ってもいなかった」
「本当にたまにはな」
白に塗られた瀟洒な三階建てのアパートだった。表から見えるテラスには白に縁取られた焦げ茶のドアが並んでいて、青みがかった蛍光灯の光に浮かび上がっている。モルタル作りの雑居ビルが建ち並ぶ街並みに、それだけが孤高といった然で建っていた。
「上がっていく。お礼にコーヒーでも淹れてあげようか」
「遠慮しておくよ。ベイズンストリートに忘れ物をしたんだ」
それは嘘だった。何となく早く日向子のそばを離れたい気持ちが心を占め始めてきたのだ。
「判った」
そして別れの挨拶を短く言い合うと、彼女はロゴが書かれたアーチをくぐって階段を上っていった。三階のテラスに彼女の姿が現れると、剛史は左手を振った。ドアが閉まるとそのまま踵を返して、もと来た道へと歩き出した。
人の目をはばからず何でも言いたいことを言い切ってしまう日向子の性格に惑わされていたが、知り合ってからまだ三ヶ月もたっていない。それまで彼女がどういう生活をしていて、何を求めて暮らしてきたのかは剛史は知らなかった。
そう、判らないことが多過ぎるから戸惑ってしまうのだ。
時折訳もなく街を彷徨っていることがあった。ひたすら雑踏の中を歩き、知らない町名がそこら中の壁や電柱に貼りつけてある路地へ入り込んだり、商店街の雑貨店や靴屋、パン屋の店構えを眺めたり、デパートのショーウインドウで買う気もないのに立ち止まったり、高校を卒業した後はそんなことしかやっていないような気がした。何故だろう。人混みが恋しくなるからだろうか、それとも生来放浪癖があるせいなのだろうか。
確かにそれらは理由のひとつではあったが、決定打というわけではなかった。
地下鉄の駅に降りていって、自動券売機で切符を買う。一日分の疲労を抱え込んだ人の流れが、改札口に吸い込まれるように歩いていく。
彼らには皆んな帰るべき家があるのだ。それが剛史には羨ましかった。剛史にも帰る家はあったが、いつの日かそこを出ていかなくてはいけない。
ホームに並んだ列に混じって地下鉄に乗る。シートに座って金属的な振動に揺れる車両に身をまかせていると、何故か頭の中でサイモンとガーファンクルの「ニューヨークの少年」が流れ出した。
何故その歌が急に流れ出したのか、剛史にはまだ判らなかった。
次の日昼食の合間を見て、地下鉄の定期券を買うために予備校の受付に顔を出した。以前購入した定期券があると在学証明書もなしに新規のものが購入できたが、まとまった金がなかったのでしばらく切符を買って通学していたのだ。期限の切れた定期券では新しい証明書が必要だった。
日向子は授業に出てなかった。彼女のサボりはクラスでも有名でだったので、会えなかったら携帯で連絡を取ればいいと考えていた。
受付の女性は生徒から洋子ちゃんとファーストネームで呼ばれる程、親しみやすい性格だった。何人かの男子生徒と出来ているという噂もあった。
「そう言えば、洋子ちゃん。怪盗乱麻の書いた紙って、どこかにないかな」
「ちょっと待ってね、忘れ物の中にあるかも知れないから」
そう言って洋子は講師の詰め所に出るドアのそばにある机に向かった。その一角には生徒の忘れ物が集められていた。剛史は病院の受付に似たカウンターに両手をついて体を伸ばした。睡魔がまだ背中にへばりついている。昨日の夜は幾何の証明問題で手こずったのだ。高校時代数学は得意科目だったが、どういう訳か最近は入り組んだ証明問題で失敗している。解答を見ても理解できないこともあった。
ロビーの後ろでは綺麗に着飾った女子生徒たちが、はしゃぎながらオープン模試の申し込み用紙を記入していた。能天気なその様子を半分うらやましく思っていると、洋子が受付に戻ってきた。
「ごめん、いろいろ探してみたけど、これしかなかった」
透明なアクリルボード越しに二つの紙片が差し出された。どちらも怪盗乱麻の署名が入っている。
「これ、いつくらいの」
「さあ、あたしはよく判らないわ」
人工の御影石のカウンターの上に並べてみた。
<優雅な生活が最高の復讐である>
<人生とは神様が気まぐれに書いたシナリオに過ぎない。人はそれを演じているのだ>
「何か判った」
「これ何の引用か判ります」
四割の好奇心と六割の社交辞令を巧みに織りまぜながら訊ねた洋子だったが、質問を質問で返されたことが不服そうにしていた。
「あたしには判らないわよ」
剛史は片方だけ知っていた。それはアンデルセンが言った運命に対する幾分さわやかな諦念の気持ちだった。
「これだけなんだ。もっとあるかと思った」
「秋次先生が持っていっちゃったのよ、数学の」
「秋次先生ってひょろってして、もじゃもじゃの」
剛史は頭をかいてみせた。
「そう、かなり集めているって話よ」
「ありがとう、洋子ちゃん。今度機会があったらケーキ買ってきてあげるね」
「もう水紀ちゃんのことは諦めたの」
「彼女を追いかけているのは、俺じゃあないんだ。それに俺は彼女より洋子ちゃんの方が好きだな」
「あら、ありがとう。剛史君もお世辞が言えるのね」
敬礼するように右手をさっと挙げて黙礼すると、洋子も真似て手を挙げた挨拶した。それがお世辞と判るようでは、どう考えても剛史の負けだった。受け取った付箋紙をシャツの胸ポケットに入れると、そのまま玄関口へと向かった。
秋晴れだ。一枚ガラスに描いたようないわし雲が空に高い。天気はいいのだが陽射しは全く嫌みを言わず心地良かった。風があるせいだろう。照明の悪い建物の中から出てきたせいで、日の光は寝ぼけ眼に痛かった。ジーンズの後ろポケットに入れた煙草の箱は午前七時のベッドシーツのようにくしゃくしゃだったが、それでも眠気を追い払えることには変わりはなかった。
こんな日には何もしないでゆっくりと彼女でも連れて出掛けたいものだと剛史は思った。無論そんなものがいればの話であったが。困ったことに別れた後というのは自意識過剰が板についてしまい、会う女性皆んな自分に気があるような錯覚を覚えてしまう。
数学講師の秋次は、地元の公立高校から引き抜きで講師になったくちだった。少子化が進んでインパクトのある講義だけでは生き残れない予備校講師の世界では、教務の方式は次第に個別指導へとシフトしている。そのため親身な指導が、お題目となっていた。そんな中で秋次は、理路整然とした解説に定評のある昔気質の講師だった。
昨日の夜に苦労した幾何の証明問題をネタに秋次と話をしてみようと思いついたものの、彼は理系のクラスの担当でだった。それでも生徒ひとりひとりの顔など思えていないだろうという楽天的な考えから、計画を実行に移すことにした。剛史は勝負事などにはせっかちな方で、例えばチェスを指すときも次の一手を熟考するということはほとんどない。自分の直観だけで、白黒を振り分けて考えているようなタイプだった。
それでも煙草一本分段取りを考えたのは、古風な気質の秋次に対する敬意があったためであった。
講師の詰め所はコンピュータ端末の唯一の自慢である進路指導室の隣にあった。入り口のドアの隣には講師の名前が書かれた札が下げられている。札があれば在室だった。主要三科目は午前中で講義が終わることが多く、秋次の名前の札はかけてあった。
ノックをしてドアを開けると、二十坪程のやけに採光がいい白っぽい室内が広がっていた。生徒の評判よりまず講師の評判と言ったところか。秋次の机はすぐに判った。講師の多くは他の校舎とかけ持ちをしていて、机の上はほとんど何も置かれていないのだが、秋次の机は参考書や書類で防壁が築かれていた。そのすきまからもじゃもじゃの頭が飛び出ていた。
「先生、判らない問題があるんですけど」
「どら、貸しなさい」
顔も上げずに差し出したノートを手に取ると、腕組みをしたまま一分間問題の図形をにらみ付けていた。
「ここに一本の補助線を引く。と、ここに合同な三角形が三つ出来る。これで証明はお終い」
神業と言っていいくらい鮮やかな手口だった。心底感嘆してもじゃもじゃ頭を眺めていると、そこで初めて秋次は顔を上げた。
「私の腕を試しに来たのかね」
「先生、本当にすごいですね」
「何、古典的で有名な問題だよ、これは。こんなものどこから拾ってきたのかね。君は国文の選抜クラスの生徒だろう」
「やっぱり先生は生徒の顔を覚えているものですね」
「ケーキをダシに女を引っかけようとしているという話は聞いている」
「女を引っかけようとしているのは、先生のクラスにいる友達の方です」
「それが原因で彼女と別れたそうだな」
それは初耳だった。水紀にケーキを貢いでいた時期と別れた時期は確かに重なっていた。しかし剛史は秋次の言葉に躊躇することなく話を続けた。
「先生は何でも知っているんですね。怪盗乱麻は誰だと思いますか」
今度は秋次が目を見開く番だった。
「先生が趣味であの付箋紙を集めているって聞いたんです」
「ああ、確かに集めている。けれども犯人探しをしている訳じゃない」
「それでは何故」
「単純な理由だよ。そうする心理の奥底にあるものを見てみたという好奇心だよ」
「それでは先生は犯人の見当がついているということですね」
「まあね、こんなことをするのはよほどの暇人だろうから」
「するとこの予備校の生徒がやっていると」
秋次はそこで大声で笑った。
「そんなことは当たり前だ。第一それ以外の場所で見つかっていないじゃないか」
まさしくその通りだった。怪盗乱麻の格言警句にどことなく違和感を感じていたが、それは予備校生活に感じる違和感と同じような色彩を持っていることに気がついた。もどかしい程の閉塞感だった。
「そしてそうしたことに興味をもっている君も、同類だということだよ」
「それを集めている先生だって、同じ穴の狢です」
また秋次は大声で笑った。笑っている顔が子供じみていて、剛史は奇妙な親近感を覚えた。
「大学受験に失敗するというのは挫折のひとつだろう。そこで挫折の体験のない脆弱な自己愛しか持っていない人間は、空想の中で自分自身の像を美化するものなんだ。すると現実の無意味さに虚無を感じて、さらなる挫折を味わうことになる」
「目標を持つ人生というのはいいことですね」
「君は集合論というものを知っているかい。君もそのうちのひとりなんだよ」
そこで剛史も笑った。全くその通りだった。
「俺もみんなから暇人だって言われますよ。先生、ありがとうございました」
「最後に言っておくけどね、解決できない問題を思う悩むことは時間の無駄だ。解答があるから問題なのであって、答えのない問題は問題ではない。判ったかね」
ドアへと向かった剛史は、最後の言葉を背中で聞いていた。これで解決に三センチは近づいたような気がしたが、実際剛史の知りたいことはもっと単純なことだった。
剛史がベイズンストリートのカウベルを鳴らすと、聞きなれない声の挨拶が聞こえた。
「いらっしゃいませ」
日向子の声だった。普段は低めの声質が、ややハイにかかっている。茶色のエプロンをつけ髪を後ろに束ねているせいか、まるで別人のように見えた。それに白のブラウスを着ているところなんて、剛史は初めて見た。そのせいで顔が幾分明るく見えた。
着物姿の年老いた女性二人の会計をしているところで、里見がその隣でレジスターの使い方を確認していた。
「あれ、閉めちゃった」
「その時はこのキーを押すの」
「ずいぶん好ましい娘さんだこと」
「今日が初めてなんですよ」
里見が黙礼したので、剛史はそのままティールームに向かった。いつものように四人掛けのテーブルを占領して、卓盤の上に秋次から譲り受けた付箋紙を広げる。
<いつになったら人間は、欲望から離れて知性のみを追いかけるようになるのだろうか>
<地上とは思い出ならずや>
<切り札かこちらにない限り、強気で攻めなくてはいけない>
<人生とは全ての病人がそのベッドを代えたい願っているひとつの病院である>
<人の一生は重荷を背負って歩いているようなものである。急いではいけない>
「だから、どうした」
ひとり呟くと、椅子の背もたれに背中を押しつけて大きく伸びをした。結局は定義の問題なのだろう。世の中や人生をどのように捉えるかによってその意味が全く変わってくる。怪盗乱麻の言いたいことは、剛史には理解できたが決して納得できるものではなかった。しかしそれの理由を何故かと聞かれると、やはり答えることは出来なかった。
しばらく経ってもオーダーを取りに来ないので、少しばかり苛立ち始めた。どうもひっきりなしに客が来ているそうだった。わざと自分が無視されているような錯覚を覚えてきた。
「あら、のっぽさん。剛史君が来ているわよ」
里見の声で入り口の方を見ると、のっぽが一抱えもある参考書を持ってティールームに入ってきた。
「何だ、昨日は来なかったじゃん」
「野暮用が出来たんだよ」
いつもの調子で長い足を折りたたむようにして剛史の前に座ったが、どういう訳か剛史と目を合わせようとはしなかった。
「どうしたんだ、その参考書の山は」
「今日から勉強に専心することに決めたんだ」
「それは健勝なことで」
のっぽの「今日から俺は」の言葉は、日に一度は言うクリシェだった。剛史は聞き流すようにしてテーブルの上に置かれた参考書の一冊を手に取ってページをめくった。有名予備校の講師が書いた英単語の本だった。
「そうだな、俺たち今まで遊びすぎてたんだよ。少しは真面目にしないとは」
「俺、共通一次、受けてみようかと思っている」
「今から五科に切り替えるのか。お前は社会、壊滅的に苦手だろう」
「為せばなるだよ、何事も」
それは嘘だ。受験勉強は宝くじを当てるのとは訳が違う。客が切れた合間を見て日向子がティールームにやってきた。エプロンのポケットに手を突っこんだまま、営業用の笑顔を張りつけている。
「剛史、お待たせ。フレンチでいい。のっぽさんは」
「あれ、日向子ちゃん。何やってんの」
「最近いいことないから、気分転換にバイト」
「わりと似合っているなあ」
「どうしたの、のっぽさん。そんなに本を抱えて」
「今日から真面目に勉強することにしたんだ」
「耳に痛いわね。水紀に好きな人がいたの、判ったのかな」
「日向子ちゃん、知っていたのか」
のっぽの驚嘆ぶりは目に見張るものがあった。勢い込んで立ち上がろうとしたが、脚がテーブルにつかえてしまい、また椅子に座り直した。知らない人間が見たら器械体操でもしていると思ったことだろう。
「ごめんね、言ったら悪いと思ったのよ」
日向子の口振りは、寝たきりの婆さんを見ていたたまれなくなって毒を盛ってやったと言わんばかりだった。再び立ち上がろうとしたのっぽは、結局果たせずに再び体をテーブルの前に折り畳んだ。誰に対してというわけではない笑みを浮かべようとしたが、顔の筋肉の訓練をしているようにしか見えなかった。
剛史は二人の顔を交互に見渡した後、日向子を指さした。
「あんたが悪い」
「何で私が悪いのよ。知らない方がいいことを無理に教えることがないと思ったから」
「煙草、買ってくる」
そう言うレースがあったら一等賞を取れるんじゃないかと思われる程、瞬く間にのっぽはティールームから出ていった。やけにぎくしゃくした歩き方を二人で見送った後にぽつりと日向子は言った。
「私が悪いわけ」
「悪くはないよ。でも普通だったらそんなこと言えないぜ。お前、人を好きになったことあるのかよ」
「あんな女、好きになる方が悪いのよ」
「あんな女っていうのは、色が白くて可愛くて、誰に対しても優しくて笑顔が素敵ってことか。やっかみだぜ、それって。それに誰を好きになろうと、それは人の勝手じゃあないか」
「あんたも一緒になって、喜々としてここのケーキ運んでたものね」
「毎日じゃあない、一ヶ月。それも週に一度だけだ」
それでここのティールームに入り浸るようになって、この見てくれだけの天の邪鬼ともつき合うようになったのだ。
「とにかくのっぽが帰ってきたら謝った方がいい。誰がいい悪いの問題じゃないけど、そうした方が日向子のためだよ」
日向子は素直に頷いて見せたものの、のっぽはそのまま帰ってこなかった。
そして水紀から剛史の携帯に電話があったのは、その日の夜のことだった。
Chapter2 日向子
日向子が予備校の授業に出たのは一週間ぶりのことだった。それにしたって剛史に約束の怪盗乱麻の付箋紙を渡すために来たようなものだった。理系選抜クラスとの合同授業である二限目の英文読解の授業が終わった後、長いテーブルがいくつも連なっている広い教室の一番うしろの席で、集めていた付箋紙を全て剛史に明け渡した。
「怪盗乱麻が誰か、見当はついたの」
「全く」
「それらしい手がかりは」
「それもない」
「何だ、思ったより頼りないのね」
「必要経費込みで、調査料金を請求しようと言うわけじゃあないんだ。依頼人は気長に待って欲しいな」
剛史に対しては同年代の男性に感じる印象と同様に、どこか頼りなく思っているところはあったが、どこか自分と同じような匂いを嗅ぎ取っていた。そう思えた理由は、彼には些細なニュアンスを受け止めてくれる感覚があったからだった。怪盗乱麻の件も確かにあったが、それよりも彼の見ているものを見てみたいという気持ちが日向子にはあった。
髪をそろそろ切りたかったものの、美容室に行くのが何となく億劫だった。大学生の兄が高校時代に使っていた野球帽を実家から失敬してきたので、今日はそれで前髪を押さえていた。
「一緒に学食に行かない」
「悪い。午後から人と会う用事があるんだ。時間があったらベイズンストリートに寄るよ」
日向子は現役で国立大学に合格できる程の学力を持っていたものの、運悪く二次試験の当日は体調がすこぶるつきで悪かった。試験会場に充てられた教室は換気が悪い上に、埃っぽいエアコンディショナーの風が直接当たる席に座らされて、くしゃみと鼻水に格闘する羽目になったのだった。それは多分に精神的なものがあった。小学校の時分にも遠足の当日に限って風邪をひいて休んでしまうといった手合いだった。
ベイズンストリートのアルバイトは午後二時からだったので、まだ小一時間程の時間が空いている。人の集まるところは空気がよくないので避けていたところはあったのだが、空腹に耐えきれずに日向子はひとり地下の学生食堂に向かった。
学生食堂の不味さはこの予備校の名物のひとつだった。一番安い素うどんでさえ生醤油をそのまま薄めたようなつゆで、まともに食えた代物ではなかった。味よりも低価格を重視するという学校側の意向をまともに受けて、最低限の食材で勝負しようとする腹だった。
昼休みも半分を過ぎた時間では、席もまばらだった。券売機で食券を買うと麺類の表示が書かれている配膳口でミートソースを受け取り、なるべく人の少ないテーブルを選んで日向子は座った。
どうも最近はついてない。父から呼び出しがかかって実家に帰ったのもそのひとつだった。よく帰省を求める電話が来るのはひとり暮らしの娘を気遣うというより、自分の手許から離したくないためであった。日向子からすれば、父は支配欲の権化だった。秋田市の郊外で果樹栽培を手広く行って、一年前には市議会議員の選挙にも当選した。しかし実の娘の耳にも、いい噂は聞こえてこなかった。
ミートソースは自前で仕込んだものだったが、ソースの味が馴染んでいない味気ないものだった。テーブルの端に置かれた塩をかけて力まかせにソースと麺をからめると、中から一枚まんまのローリエが姿を現した。
「最悪」
それでも空腹には勝てずに、フォークに巻き付けたパスタを口にしようとした。
「そう言えばさ、国文選抜の三善日向子って知ってる」
「うん、知ってる。割と綺麗な感じの娘でしょ」
真後ろに座った二人組みは、当の本人がすぐ後ろの席にいるとは知らないで話をはじめた。日向子はフォークを皿の上に置くと、野球帽を目深に被り直した。
「この間、国文選抜のクラスの娘から聞いたんだけど、彼女中学校時代に妊娠したことがあって、かなり大きな騒動になったそうよ」
「中学生で。そりゃすごいわね」
「彼女のお父さん、地元でかなり有名人らしくて、結局相手の男の子が悪者になって結局がついたそうなんだけど、結構来ているよね」
頭の中でぱちんと弾けた音がした、と同時に日向子は立ち上がって振り向きざまに後ろの席の話している方の頭の上に、食べかけのミートソースをぶちまけてやった。
「あら、ごめんなさい。手がすべったわ」
席の隣に置いていたバックを手に取ると、能面のような表情をしたまま出口へ向かって歩き始めた。歓声に似た喧噪が背後で爆発しはじめたが、かまわずそのまま学生食堂を出ていった。入り口の蝋細工が並べられているショーケースのガラスに黄色の大きめの付箋紙が貼ってあったので、足早に歩く勢いで手を伸ばしてそれをはがし取った。
<涙と共にパンを食べた者でなければ、人生を味わうことは出来ない>
それでは、怒りを発して不味いパスタを食べそこなった自分はどうなのだろう。怪盗乱麻の書き写した格言は日向子の怒りを止めることは出来なかったが、涙を止める程には役に立った。
一方剛史が水紀と待ち合わせの場所に指定したのは、全国にチェーン店を持つコーヒーショップだった。相談したことがあるということだったが、百パーセントと言っていいくらいのっぽのことだろうと見当を付けていた。窮鼠猫を噛むというわけではないだろうが、その気がない水紀に対してのっぽが何かしでかした公算が大きかった。
コーヒーショップは、駅に近いアーケイド街の携帯ショップの隣にあった。最近はポイントカードやギフト商品以外にスイーツのメニューに力を入れていて、メニューが煩雑で見づらくなっていた。メニューを選ぶのが面倒になった剛史は、ブレンドコーヒーをオーダーして入り組んだ造りの店内を見回してみた。水紀の姿はなかった。コーヒーを受け取り、入り口に近い席を座ると携帯電話をバックから取り出した。着信もメールも入っていなかった。
そこで日向子から受け取った付箋紙をテーブルの上に広げて、一枚ずつ検討を始めた。
<そうであってもいいし、そうでなくてもいい。どっちでも同じだ>
<事柄が重大であった場合、成功の秘訣は失敗ということだ>
<人間は肉体を棄ててから真個の覚醒生活にはいる>
<彼らは善や真を粉飾的に、また空想的に弄ぶのみで、自ら進んで実存的に、善及び真それ自身であろうとしないところの罪の状態に放置されている>
等々。剛史が違和感を感じる最も大きなもののひとつは、怪盗乱麻の提示する格言や警句が何か詭弁を孕んでいるように思えるためであった。格言や警句の類は先達の失敗談を語るようなところがあるので、それは致し方のないことではあった。しかし問題はそれを欲しているものに対しては役に立つものであるのだが、必要としないものにとっては七面倒で邪魔なものでしかない。病気を患っている者にとって薬は有効であるが、健康な者にとってそれは毒にしかならない。剛史は薬漬けになる程健康を害しているわけではなかった。
するとこの怪盗乱麻という人間は、危篤に至る病を患っていることを周囲に喧伝していることになる。そこまで考えがたどり着いた時、水紀がコーヒーショップに入ってきた。剛史は手を振って合図をすると、彼女がカウンターでオーダーの品を待っている間に、テーブルの上の付箋紙をバックの中に仕舞った。
「ごめん、待った」
「そんなでもない」
水紀はラージサイズのアメリカンコーヒーと苺のチョコタルトを乗せたトレーをテーブルに置くと、ジーンズ姿のくせに足を揃えるようにして椅子の上に座った。ややつり目がちな目は大きく、形のよい唇にはいつも笑顔を示していた。やや茶色がかった黒のセミロングの髪は柔らかく、瓜実顔の頬のラインを隠すように内に巻いている。クーポン雑誌の美容室のモデルをしたことがあるというのもまんざらではなかった。改めてのっぽが思慕する理由を、目の前で見せつけられたような気がした。
「のっぽが何か変なことしたのか」
「のっぽさんのことじゃないの、今日は。日向子ちゃんのことで話をしておきたいことがあって」
「あの悪たれ娘のことか」
思わず方向から進んできたナイトの駒に、のっぽのポーンが取られたようなものだ。勝負事には日和見主義の剛史は、水紀の次の手を待った。
「これは日向子ちゃんの悪口を言っているのじゃなくて、剛史君のことを思って言っているつもりなの。最近日向子ちゃんが剛史君のグループと連んでいるようだけど、彼女やっかいな性格だから深く関わらない方がいいと思うよ」
「確かにあいつはやっかいな性格だ。それにしても、ここのコーヒー、あまり美味くないな」
「そうでもないと思うよ。あたしは好きだけど。彼女時々、おかしくなることがあるのよ」
「あいつはいつでもおかしいさ。そんなことは大した問題じゃあない」
「そうじゃなくて。何て言ったらいいのかな」
水紀にイクスキューズもしないで剛史は煙草に火を点けた。それを咎める風もなく水紀は言葉を続けた。
「思い込みが激しいところがあって、人の話をきちんと聞かないで勝手に状況を判断するところがあるの」
「確かにそうだ。それは判る」
可愛い顔をしているものの、さすがに選抜クラスに入るだけのことはある。水紀の駒の振り方には無駄がないと、妙なところに剛史は感心した。
「剛史君は判ってないのよ。そのうち、本当にずたずたにされるわよ」
その時剛史の携帯電話のメールの着信音が鳴った。見ると史郎からだった。
「話はそれだけかい」
「うん、あたしは経験したことがあるからよく判るけど。言葉ではうまく説明できないわ」
「ありがとう。でも俺はいいんだよ」
席を立った剛史は、苛立ちを隠しながら出来る限り優しい口調で言った。
「俺はいいんだ。やっかいごとは抱え込むことを恐れていたら、そのうち何も出来なくなってしまう」
剛史が人からよく鈍いところがあると言われるのは、自分の保身を考えないで行動するためであった。自分の利害を計算に入れることは面倒なことであり、出来ることなら単純な論理で解明できる世界に生きたいと思っていた。
しかしそれでは世の中は絶対許してくれない。水紀に最後にいった言葉が怪盗乱麻の書くところの格言警句の類に影響を受けたものであることに気がついたのは、しばらくしてベイズンストリートに向かう並木道を歩いている途中だった。
史郎のメールは、日向子の学生食堂での顛末を伝えるものだった。カウベルを鳴らしてベイズンストリートに入っていくと、妙にうわずったな調子の日向子の声で迎えられた。
「元気だな、日向子」
「嫌なことがあってさ、剛史。あたし嫌なことがあると、変にハイになるんだ」
「変わったやつだよ、お前は」
水紀の話を聞いた後では幾分日向子の肩を持ちたい気分だった。
「里見さんは」
「休憩中、あと三十分で戻るわよ」
「濃いコーヒーが飲みたいな。半端に薄いコーヒーを飲むとどうも落ち着かない」
「あたしが淹れてあげる。教えてもらったんだ」
「格別美味いの淹れてくれよな」
「まかせといて。どうしたの、人の顔じっと見ているのよ」
「いや、日向子は美人だなと思って」
「お世辞言ったって何も出ないわよ」
日向子は美しい顔立ちをしていたが、それは凝り固まった時間の中での瞬間的な美しさだった。水紀のように内に秘めた生命力を躍動させて、次々に表情を変えていくような若さが持つ美しさではなかった。剛史は自問した。日向子に感じてる感情は、同情なのか愛情なのか。剛史にはどちらとも断定することは出来なかった。おそらく日向子が内包している、人の好奇心を煽り立てるような不可解さに惹かれているのだろう。確かに彼女は謎だらけの女だった。
日向子がドリンクのブースに入って、水の入った冷やタンをカウンターの上に置いたので、剛史はそれを受け取っていつものテーブルを陣取った。
連休明けの平日ではケーキを買いに来る客はいつもより少なかった。読む気もないのに新聞を手にして、上っ面の文字だけを追いかけ続けた。判らないことが多過ぎる。水紀は何故わざわざ呼び出して日向子のことを話したのだろう。日向子は何故食べかけのパスタを人の頭にぶちまけるようなことをしたのだろう。入試も間近だというのに何故にっぽは水紀に対する恋慕を止めることが出来ないのだろう。その全てに正確な解答がないことも剛史は気づいていた。しかし人の言動の全てが意味も目的もないものと思える程に、達観出来ているわけでもなかった
「美味しいかどうか判らないけど、飲んでみて」
「金は取るのか」
「当然。でないとバイト料が出ないもの。はい、いらっしゃいませ」
入り口のカウベルを鳴らして入ってきたのは、のっぽだった。やけに高揚した表情をして、二人の前にやってきた。
「何だのっぽ。今日は授業さぼったろう」
のっぽは剛史の言葉を聞いていなかった。そこに日向子がいることを知っているのに関わらずわざと無視するように、うわずった口調でまくし立てはじめた。
「おい剛史、知っていたか。日向子ちゃんは中学校の時に妊娠騒動を起こしたんだってさ」
「何だ、のっぽ。急にどうした」
「何でも、相手の男を騙したそうだぜ。ひどいと思わないか」
反射的に日向子の顔を見た。能面のような表情をしていた。
「道理で、言ってることがおかしいと思ったぜ」
剛史はゆっくり立ち上がるとテーブルにあった冷やタンを取り、つま先を上げて手を伸ばしてのっぽの頭の上で傾けた。冷たい水が頭から頬に伝わり、そしてあご先から床へと滴を作った。
「頭を冷やせ、のっぽ。自分が何を言っているのか、判っているのか」
それでも答えの判らない質問を受けて呆然としている小学生のようなのっぽの向こうずねを、剛史は力一杯に蹴りあげた。
「いい加減にしろ。お前は自分で何をしているのか、判っているのかよ」
悲鳴を上げたのっぽは、おどおどした様子で蹴られた足を抱え込むと、そのまま店舗の外へ飛び出していった。日向子は硬直した表情のまま突っ立っていて動かない。煮えたぎる怒りの奥で切なさが広がって、剛史は剛史は日向子の肩に手をかけてテーブルに座らせた。ここで日向子の頬に流れる涙を見なければ、おそらく剛史の気分は違った方向に走っていたかも知れなかった。しかし決して泣いたことがないだろうと思っていた日向子が溢れる涙を拭おうともしたかったので、彼の感情は一点に収斂した。
「駄目だ、今日は飲みたい気分だ。つき合え日向子」
返事をしない日向子に、繰り言のように剛史は言い続けた。
「なあ、つき合えよ。たまにはいいだろう、日向子」
時折厚い雲が頭上を覆って小雨を降らしていたが、強い風のせいで青空の方がやや優勢だった。早回しのフィルムのように雲が形を次から次へと変えていく。その様子が膨れあがるような剛史の感情を代弁していた。雨が降っているにも関わらず、空気は揚げたてのフライドポテトのようにからりとしている。それでも上着を強要する風の冷たさは近づいた次の季節をまざまざと知らしめているようだった。
わざと人通りの少ない裏通りを選んで、繁華街に向かった。
駅前から西に続くアーケイド街は、藩政時代には大手門に続く主要な街路のひとつであり、大番士より身分が一つ低い組士の屋敷が軒を連ねていた。そのため武家長屋の間合いに合うように区切られた路地が規則正しく交差してる。駅前に近い裏通り程、通勤帰りの会社員を当てにした小さな飲食店が多く、新参の店舗に混じって古びた佇まいの店もかろうじて残っていた。デパートの壁に押しつけられるように野菜売りの露店が大根や長ネギなどの常物を並べられていた。その脇を通り抜けて画廊の看板が入り口に立てかけられた雑居ビルの階段を上っていった。画廊の手前にあるその店を選んだのは、店の名前が「どん底」という理由からではなく、今どき珍しくバーボンのボトルキープが出来るためであった。
店内はワンホールの板張りに居心地のよいソファーが並べられている。壁一面にジャズのレコードが並び、今では骨董品の価値しかないような馬鹿でかいJBLのスピーカーから、セロニアス・モンクの四分の三音下がりのスケールメロディーが流れていた。
先ずはマールを一杯。甘い飲み物が苦手な日向子はジントニック。無理に会話を振ろうとしないのは彼女への気遣いというより、剛史自身がアルコールで自分の感情を抑え込もうとしているからだ。
「いい店だけど、そんなに緊張しなくていいよ。何せ料理がお通しの牛タンの煮込みしかないんだ」
そんな単純な言葉で彼女の肩の力が抜けたのを感じた。
「のっぽの件は単なる仕返しだから、そんなに気にすることはないよ。あいつは昔から子供じみたところがあって、そういった感情は幼稚園のお遊戯会程のものしか持ちあわていないんだ。勘弁してくれな」
「いいのよ、それは私が悪かったことだから」
「別に日向子は悪くないよ。以前あったことをああして持ち出す人間の方が間違っている。そんなことより、何で学食でパスタをぶちまけたんだ」
単品で飲み続けられる程予備校生の懐は潤っているわけではない。すぐにボトルに切り替えてアイスとウォーターをもらった。次に流れるアルバムは「ワルツフォーデビィ」、喧噪の中のステップのようなピアノの音が続く。
「人の悪口を影で言うのが嫌いだったから。思い切って正面から言われた方がよっぽど気が楽よ」
「目の前で言われたって、結局頭に食いかけのパスタをぶちまけてやるんだろう」
「そんなの当然」
結局は真面目すぎるのだと剛史は思う。つまらないことは軽く受け流せばいいのに、そのひとつひとつを追いかけてしまうのだ。
「嫌なことは嫌だもの。そんなの逆立ちしたって変わらないわ」
ただひとつ剛史に失敗があるとすれば、妊娠騒動という噂に対して突っこんで話を聞くべきだった。もし相手が話す気持ちがあるならいつでも聞く準備は出来ているのだが、無理に話を聞き出そうとする程剛史は面倒見のいい性格ではなかった。
「お前はどうしてそんなに頑ななんだ」
「そんなの知らないわよ。あたしのことをかばってくれているのは判るけど、そんなに簡単に解決できるような問題じゃないの」
どうも顔を突きつけて飲んでいると、言いたいことの半分も言えないでしまう。ボトルに手をつけたばかりだったが、日向子を誘って店の外に出た。もとより剛史はこらえ性のない人間で、一軒の店に居座って飲み続けることが苦手だった。すぐに河岸を替えてあちこちの店を彷徨い歩く癖があった。
雨で濡れた通りのアスファルトは街の光を反射して、印象派の画家のパレットのように青とオレンジの補色が入り乱れている。外気に当たったことが日向子の気分を変えたようだった。
「たまにね、ほんの時々だけど、自分の中にもうひとりの自分がいるように思える時があって」
「それは俺も同じだ。参考書やノートとずっとにらめっこをしていると、あれ俺は何をやっているんだろうと、そう思う時がある」
「そうじゃなくて、全く別の二人の人間がいるのよ」
「それは進んでいく方向の違いなんだろう。誰だってそれは持っている。それはどっちも自分だよ」
「そうなんだよね。前はどっちが本当の自分なのかって悩んだけど、どっちも自分なんだよね」
ラッパのようなバスのクラクションが、ビルとビルに囲まれた四車線の間にこだまする。シンメトリーな十字路の角に備えつけられた人工大理石のベンチに座って街の様子を見ると、歩道を歩く人々は二人と違った世界の住人のように薄っぺらなものに感じてしまう。
「あたしたち、これからどこに行くんだろうね」
「お前はアパートに帰って、俺は地下鉄に乗ってうちに帰る。それで話はジ・エンドだ」
「そうじゃなくて、これからどこに行くんのかなって」
「どこに行くのか判って歩いている訳じゃない。おまけに俺たちは酔っぱらいだ」
「そうね、世の中はずっと宿酔いのようなものだもんね」
秋次が言う通りだと剛史は思った。日向子は解答をなくしてしまった参考書を開こうとしているのだ。二人とも同じような落ち込みの中にいたが、少なくとも剛史は不要な荷物を抱えてなかった。
それはちょっとした相違のようだが、一度のコンパスの違いで航海してる二つの船は決して同じ目的地には着かないものだ。
「見ろよ、日向子。あそこのネオン灯、面白い光り方をしているぜ」
彼女は顔を上げたが、決してそれを見てるようには剛史には思えなかった。
この季節にめずらしい暖かで乾いた風が吹き抜けていた。台風が近付いていると天気予報が言ってるせいだろう。地下鉄の駅が隣接する町中の公園では、週末に開催される野外コンサートの準備で、数人の男たちがPAの設置位置について話し合っていた。そのそばで餌を目当てに集まってくる土鳩が彷徨き回っている。
噴水のある入り口に近いベンチに座って、日向子は強い風をまともに受けていた。晴れた日より幾分曇った日が好きな彼女は、昨日の夜と同じようにやけにまばらな雲が風に押し流されている様子を眺めていた。風が強い日も好きだった。耳元で唸り声を上げながら吹き抜けていく風を全身に浴びていると、自分の抱えている問題をひとつ残らず吹き飛ばしてくれるような気がするのだった。
それにしても生きていくということは、何と面倒なことだろう。世界中の厄難を一手に引き受けているように思えたが、それはあながち錯覚というわけでもなかった。トラブルの中心にいつも自分がいることに気が付いていたものの、今更それは直しようがなかった。おそらく自分は世界と歯車が合わないように出来ているのだろう。付和雷同に連んで歩くことしか知らない人間を、日向子は一番嫌っていた。
携帯電話が鳴った。待ち合わせていた兄の勇也からだった。自分の居場所を簡潔に伝えると空を見上げた。日の光を受けて銀色に光る雲が、凄まじいスピードで空を駈け抜けていく。
日向子は絵描きの中ではゴッホが好きだった。白の顔料をふんだんに使って絵そのものの発色を上げて、塗りつけるように筆の跡を残したタッチは、自然の情景をそのまま描き写すと言うより、自分の心象の中に荒れ狂う嵐を表しているかのようだった。結局は方法論なのだろうと思う。おそらくゴッホの天才というのは自分の感じた心象そのものを表現したと言うより、それを苦笑することなしに表出する技術に開眼したものだろう。自分の気持ちをうまく言えたことがない日向子はそう思った
やがて地下鉄の出口から黄土色のダッフルコートを着た勇也が姿を現した。立ち上がって手を振ると日向子の姿を認めて近寄っていた。
「元気だったか」
「お兄ちゃんは」
「まあまあと言ったところだ」
日向子にとって兄の勇也が、唯一何の前提条件もなしに自分の存在を認めてくれる人間だった。兄妹の関係性の中では面倒な感情のやり取りなしにつき合える。ただだからと言っていつまでもおんぶにだっこというわけにはいかない。最近は新しい彼女が出来たというのを聞いている。ひとりの男が救える女の数はたいがいひとりと相場が決まっている。
「おやじに呼び出しを食らったそうだな。また何かしでがしたのか」
「判っているでしょ、いつでもそうよ。歩いたあとは屍累々」
市議会議員をしている父の鞄持ちをしているだけに、勇也には妙に人当たりのいいところがあった。もしかしたらそれは生まれ持ったものかも知れなかった。国立大学の法学部で学んでいる彼は弁護士が将来の夢であったが、もしかしたら父を踏み台にして、政治の道に進もうとしているのかも知れなかった。いつも笑顔を絶やさないこころの奥にそうした野心が隠されているのではないかと日向子は感じるときがある。しかしそんなことはどうでもよかった。少なくとも日向子に対しては、いつも紳士的な態度で接してくれた。
「やけに鳩が多いな」
「餌も売っているのよ。買ってみる」
「面白そうだな」
県庁に面した通りに建てられたプレハブの売店で鳩の餌を買うと、さっそく日向子は安手のビニール袋を引き裂いて辺りにばらまいた。思った以上の数の土鳩が足下の石畳に集まりはじめた。
「こいつら馬鹿だな。食うことしか考えてないのか」
そう言った勇也の言葉を合図に、日向子の掌にあった餌を目当てに土鳩の群れが一気に押し寄せた。
「きゃあ」
「何だ、こいつら」
腕を振りかざしても逃げようともせずに、餌を乗せた手を中心として数十羽の土鳩が空中で飛び交った。羽ばたく羽が顔に当たって、餌をほうり投げて日向子は逃げだした。
「何なの、これは。馬鹿みたい」
ほうほうの体で逃げ切ると、地面にちらばった餌めがけて貪欲に集まってくる土鳩を眺めながら日向子は言った。
「この鳩、躾がなってないわ」
「土鳩だから仕方がないんだよ。見ろ、あの馬鹿そうな顔」
「鳩ってもっと頭の良いものだと思っていたのに」
「それはレース鳩だよ。こいつらは絶対食うことしか考えてないよ」
息を切らしながらも、日向子は自分が本当に久しぶりに心の奥底から笑っていることに気がついた。こうしてはしゃぐことなども、最近ではめったになかった。勇也は短く切った髪に銀縁の眼鏡をかけている。眼鏡こそかけていなかったが、何となく剛史と兄は似た雰囲気を持っていると感じていた。彼は声を荒げて怒鳴っている時でさえ、怜悧な色を保ったままでいるのだった。それに惹かれたことは認めなくてはいけない。しかし彼は感受性という単位を今まで取り忘れていたせいか、気が回るくせに肝心のことが見えていないことが多かった。子供のようだと思った。
人を好きになるという感覚が一体どのようなものであったか、日向子は忘れてしまっていた。それは自分にひどく似つかわしくないものと思っていたが、そう思うこと自体それを求めている証明だと言うことにも気づいていた。
入り組んだ迷路は実は迷路に見えるだけで、実はもっと単純な原理で構成されているのだ。
そう思った途端、強い風が日向子の全身を吹き抜けた。秋の野分は妙に乾いていて、記憶の奥底にある断片を呼び起こす効能があるようだ。嬉しいとか寂しいとかそういった感情とは違った気分が心を占め始めた。それは遠い記憶の中にある、今の自分と全く違った姿をした自分と繋がっていた。
会心の笑顔を作って、日向子は兄に微笑みかけた。
「美味しいコーヒーを飲ませてくれるところを知ってるっていってたじゃないか。早く連れていってくれよ」
「まかせておいて」
アルバイトを始めたばかりで、無理にもらった休みなのだ。さすがにベイズンストリートには連れて行けなかった。かのケーキ屋に焙煎豆を仕入れているコーヒー店を里見に聞いていたので、そこに連れていけばいい。
「ねえ、お兄ちゃん。もし今つき合っている彼女と別れたら、あたしと結婚しない」
「何言っているんだよ、馬鹿。誰がお前みたいな人間と結婚するか」
「そうか、あたしそんなに変かな」
「ああ、自分の思ったことと正反対のことをして、それを相手に判ってもらいたいと願っているだろう」
「さすがにつきあいが長いと、よく判っているわよね」
その理由は日向子自身もよく判っている。しかしその衝動は簡単に直せるような類のものではない。
「えっ、何て言ったのお兄ちゃん」
風の音が耳元で鳴っていて、言葉がよく聞き取れなかった。
「今日は風が強いなって言ったんだ」
「そうね、風はいつでも吹き荒れているわ」
少なくとも、と日向子は思う。少なくとも自分がもっと両親に同情を求めるような性格であったなら、今頃はもっと荒涼とした自責の広野を彷徨っていたことだろう。母は父の言いなりだったので、結局は自分で全てを抱え込むことになった。もっとももとより自分の非は確信していた。だからこそ今まで日向子は生きてこれたのだし、これからもそのスタンスを変えるつもりは毛頭なかった。
翼の折れた天使なんて似合わない。だからこそ誰も受け入れない頑なさを支えにしてきたのだ。
ただ時折、ひとりだけでもすさんだ心を寄り掛けられることの出来る人間がいたらと思う時はある。それがわがままだと言われたら潔く固辞するつもりだったが、そう言うものは今のところいなかった。
風の中に冷たいものが混じってきた。思いがけないお天気雨だった。雲の動きは、相変わらず早い。
全く秋の天気というものは、自分の心を映し込んでいるようなものだと日向子はしみじみ感心した。
「何だあいつは。バイトもサボリかよ」
「サボリというわけではないわ。実家からお兄ちゃんが遊びに来るっていうから、お休みにしたの」
「そんなの聞いてないよ」
剛史は苛立っていた。バックを乱暴にテーブルの上に投げつけると、腕組みをして椅子に座った。予備校で日向子と会うことを楽しみにしていたのに、それをすっぽかされたのだ。おまけバイトにも来ていないという。
昨日の夜、日向子のことが判りかけた気がして、自分に出来ることあったら精神的なものだけでも手助けしてやろうかと思いはじめたのだ。それは恋愛感情と言うより好奇心の方がやや強い。この苛立ちが自分の身勝手なものだと言うことに気がついて、剛史は幾分気分を取り戻した。
「せっかく怪盗乱麻に接触する手を思いついたのにな」
「怪盗乱麻って、変な伝言を残している人ね」
「よく知ってるね、里見さん」
「日向子ちゃんから聞いたの」
里見は疲れたようにしてレジスターの置いてあるカウンターに頬杖をつくと、マニエリスムの聖母像のような少しだけ違和感のある微笑みを剛史に投げかけた。
「剛史君は青春しているわね」
「何言ってるんですか。里見さんだってまだまだ若いじゃあないですか」
「あたしはもうおばさんよ。剛史君たちのように全てのことに対して生真面目になることなんてもう出来ないわ。自分のことだけでもう済まなくなっているもの。生活も人生もね」
剛史はこれから五年が過ぎて、里見と同じ年になった自分を想像したが果たせなかった。そのときは誰かと結婚して人並みの幸福な家庭を築いているだろうか。いやそれはあり得ないだろう。七十歳になってそれまで描き上げた全ての作品に満足できなかった、北斎と名乗る画狂人の心情にいたく共感していたのだ。それは決して譲ることの出来ない強靱な謙虚だった。
不要なものを全部を取り除いたあとに残るものは何だろう。それが虚無ではてんてお話にならない。世界の全てを表す数式があることを彼は信じていた。
「日向子ちゃんはいい娘だけど、少しだけ変わったところがあるわよね」
「少しどころじゃあない。かなりだよ」
「昔のあたしだったら何とか手助けできたかも知れないけど、今では無理だわ。だからもっと剛史君がしっかりしないとね」
「何でそこで俺の名前が出てくるんですか」
微笑んでいる里見の瞳を見ていると、迷宮に迷いこんだような錯覚がした。年齢の違いなのかそれとも男と女の違いなのか理由は判らなかったが、自分の知らないことを里見が知っていることを悟って、剛史はやや憮然とした表情をした。そういう時に彼に出来ることといったら、力まかせに進んでいくことだけである。シャツの胸ポケットから煙草の箱を取ろうとしたが、そこには何もなかった。ジッポウはジーンズの前ポケットにある。そこでバックを開けると一番上にあった煙草の箱があったが、それを包んでいる透明なフィルムの上におまけのように黄色の付箋紙が貼ってあった。
<阿呆者はいつも自分以外のものを阿呆ものだと信じている>
いつ付箋紙が紛れ込んだのだろうと考えたが、それがしわのない新しいものだと気がついて剛史は瞬間逆上しそうになった。
「それはお前のことだよ」
「どうしたの、剛史君」
「いや、何でもないんだ」
それは挑戦状だった。怪盗乱麻は自分のことを調査されていることを知って挑発をかけてきたのだ。鷹揚な剛史はバックを置く時も口を締めないでそのままほおって置くことが多かった。そこを狙われたのだ。気紛れに始めたチェスの試合でも、チェックメイトをかけられればいやでも勝負にむきになる。そしてチェックメイトにはプロモーションで返すのが剛史のやり方だった。
「今日は、日向子ちゃん来ないわね」
「いいんだ。これから院に行っている従兄弟のところに遊びに行くんだ」
「もし来たら、何か伝えておく」
「いや、いいんだ。急な用件というわけでもないから」
自分という存在がこの世界の中でただひとつだという自信を支えにして、剛史は立ち上がった。ガラス越しに見える通りの並木は、夕映えでオレンジ色に染まってきた。勝負に勝とうという気がないわけでもなかったが、同じ人間のすることなのだ。ステルメイトには持っていけるだろう。身軽な動作でウインドウブレイカーを羽織り、いつの間にか握りつぶしていた付箋紙をテーブルの上に置いた。
Chapter3 怪盗乱麻
大学の付属病院は駅から離れた国道沿いにあったが、どのバス停で降りたらいいのか剛史は迷った。停留所を一本やり過ごしたので、降りたところは正門から離れた裏通りだった。そのため高い壁沿いに回らなくてはいけない羽目になった。
高いコンクリートの壁越しに、やけに枝振りの大きな紅葉が見えた。藩政時代にはこの敷地は武家屋敷だった。その頃に植えられたという話を聞いたことがあるので、樹齢二百年を越えているだろう。付属病院には子供の頃母が入院したことがあって、その頃の記憶が残っていたのだ。古い入院病棟に続く細長い通路には、見舞い品に使われる生花や果物が売られている売店があり、壁の至る所に角膜移植のポスターが貼っていたことを覚えている。
<もっと光を・・>
それがゲーテの臨終の際の言葉であると知ったのは、ひとえに怪盗乱麻のお陰だった。
正面玄関を目指して構内を歩いていったものの、玄関口のロータリーには客待ちのタクシーもなかった。近付いてみると、予想通りに閉鎖されている。時間外受付を探すと立体駐車場のある右側にそれを示す標識があった。日没を過ぎて周囲に立つビルの窓から見える照明の白がやけに目立ってきた。
非常口を示す緑色の灯りが寂しく見える。
従兄弟の耕一は、医学系精神科で早期エピソードに関する臨床研究に携わっていた。現在の精神病の治療は人間の精神の所作用が脳内の化学物質によって決定されることを判明されたために、薬物治療にかかる割合が高くなっている。初期治療における投薬の模範的なフローチャートの構築が彼の主な役割だった。
携帯電話で連絡をつけると、数分後に受付のドアから耕一が出てきた。鳶色の季節に早いセーターを着ていて、半年前に会った時は長く伸ばしていた髪を、小綺麗に刈り込んでいた。背丈は百七十センチの剛史よりやや高い。
「晩飯は食ったか」
「まだだね」
「一般食堂も閉まったから、表で食べよう」
五歳年上の耕一は、剛史に対して何かと兄貴ぶった態度で接してくる。剛史はそれを好ましく思っていたが、学生の頃と違って次第に彼の態度が紋切り型になっていくのも認めなくてはいけなかった。
「ホルモン焼きが食いたいな。いいか」
「俺は何でも」
付属病院のそばには生花店ばかりがあるわけではなかった。正門の向かいには、サラリーマン向けのホルモン屋もあった。入り口の真向かいにコの字形のカウンターがあって、作務衣を着た年輩の男性が切り出しをしていた。アルバイトと思われる若い女性が、先に入った客のテーブルに赤く熱した炭を持っていくところだった。
このあたりでは、ホルモンと言えば豚のものが主流だった。耕一は手慣れた風にホルモンとさがりを注文した。二人はジョッキのビールで乾杯した。剛史は瓶の方が好みだったがご馳走してもらう身分で文句は言っていられなかった。
「ところで相談したいことがあると言っていたけど、何なんだ」
「大したことじゃあないけど、予備校で面白い事件があってさ」
もとより理系畑で余計なレトリックを嫌う耕一に、剛史は怪盗乱麻の件にを要点だけ的確に説明した。
「あのな、精神科医というのは心理学や占いを信じないもんだぜ。精神病というのはあくまで脳の疾患を取り扱うものであって、フロイトやユングとは違うんだ。けどな、ひとつ私感を言わせてもらうと、そいつはおそらく変わり者だということは確かだ」
剛史はおかしくなって、飲みかけたビールを吹き出しそうになった。まさしくそれはこれ以上ないと言っていいくらいの正解だった。
「今の時代は物分かりがいいからな。オブラートに包んで飲まなきゃあ薬じゃないというのが一般的な認知だ。最近流行のパーソナリティー障害っていうのを知っているか。あれだって俺から言わせるとフロイトの言うヒステリーと全く一緒だ。実際精神科に通っている患者には本当の精神病はほとんどいないんだ。神経症的な症状が投薬を繰り返すことによって悪化するんだ。ここだけの話だけどうちの閉鎖病棟の患者だって、ほとんどが誤診や多剤大量処方の結果なんだ」
「それ、本当ですか」
「ああ、その怪盗乱麻ってやつのやっていることは、一種の自己主張なんだよ。療法士や福祉士の人だったらうまい具合に相手が出来るだろうが、俺には無理だね。金星人と火星人が共同戦線を張って攻めてくるとか、死ね死ねという声が聞こえてくるとか、私には霊が見えるって言うんだったら、薬ぐらい出してやれるけど」
耕一の言っていることは、まさしく医者の発想だった。野菜売り場に置かれた洗濯洗剤を、日用品の棚に置き直すという発想だった。
しかしそれだけでは解明できない疑問が剛史にはあった。
「鋭敏な感受性っていうのは、やっぱり精神疾患と関係があるのかな」
「全くないというわけではないだろうな。病蹟学では様々なことが言われているが、それはあくまで結果論であって、病んだ人間に創造的な活動が行えるわけがない。しかし個人的な見解では、神経症と鋭い感受性は紙一重だね」
「そういえば、ひとり診てもらいたい人間がいるよ」
持ち前の生命力を発散させて人目を惹く日向子が、時折見せる能面のような表情が剛史には気にかかっていた。心を抜き取られた空箱のようにしか思えなかったのだ。
さがりはまあまあだったが、ホルモンは生きがよくて綺麗なピンク色をしている。熱した金網の上に乗せ始めると、辺りは甘いタレの匂いが煙と共に満ち始めた。
「世の中全ての人が普通ではないものを抱えているという言い方は詭弁だね。そこには明らかに境界が引かれるよ。一たす一は三である。他の人は二だというがそれは間違っていて、三という人間は少ないけど、こっちが正しい。そういうことを言うのが狂っている証拠なんだ。そこには一般論の介在する余地はない」
「辛辣な言い方だね」
「お前は狂気に触れたことがないから判らないんだよ。昔と違って今は自己愛というタームで精神疾患を捉えようとする傾向があるから、そこの境目が曖昧になっているんだ。異常な自己愛のあり方を認めると、多くの人間がルールを持って生活している社会そのものが崩壊してしまうよ。最近の異常な事件は、事件そのものの異常さもさることながら、その異常を容認しようとする社会そのものが助長しているんだ。人間同士の根本的な契約が成り立たない世界では、中世の暗黒時代に逆戻りするよ」
それは剛史にとっては難しすぎる問題だった。それを言い始めると数学の秋次の言ったモラトリアムの論理に舞い戻ってしまう。しかし彼には耕一の言った境界線をどこに引いたらいいのかその取り掛かりを掴むことができなかった。
「ところで剛史、受験はもうじきだろ。こんなことをしていていいのかい」
「酒を勧めたのは耕一さんの方だよ。たまにはね、リラックスしないと気が狂いそうだ」
「そのときは安心しな。俺が診てやるから」
厳しい言い方をしている耕一であったが、彼が精神科医の仕事に進んだのは幼児期の特異な体験のせいだった。両親を本当の両親ではなく宇宙人だと思ったり、人を色彩で分類して接してみたり、風邪のため高熱でうかされた時は自分を揶揄する幻聴が聞こえたことがあった。それは失調症の症例であったが幼年期にはそうした症例が出ることは稀であるという。そうした疑問を解明してみたいと思ったせいだった。
二人とも若者らしい食欲を見せて、ビールを飲んでいるにも関わらず飯を注文して、甘みの勝ったホルモンのたれの味で腹を満たしていった。
剛史が前の彼女と別れたのは、些細な感情のすれ違いが原因だった。毎日が煙草と参考書との切れ目ない夢のような生活を送っていたのでは、相手の体を求めることでしか自分らしさを確認できなくなっていたのだった。それを嫌われたのだ。しかしそれは表向きの理由は発端はまた別のところにあった。
「もう一生離さない」
ベッドの上でそう言って抱きついてきた彼女を剛史は払い除けたのだ。それは反射的な反応だった。そのあとに口先ではフォローしたものの、相手は愛情に対する疑念をぬぐい去ることが出来なくなり、会うたびごとに喧嘩するようになっていた。
どうしてそのような態度に出たのか、当の剛史でさえ理解出来なかった。ただそのときの感情を思い返してみると、何者にも縛られたくないと漠然と思っていた。窺い知れない自分の姿に彼自身が驚いていた。
そうした自分の抱えた矛盾を考えていると、日向子のことをいつも思ってしまう。ひとりで彼女のことを思っている時は、つき合うことも悪くはないのではないかと思えてくる。しかし実際顔を突き合わせるとお互い悪態をついてそんな気分はすぐに吹き飛んでしまう。浪人生だから色恋沙汰を離れそうとしている気持ちも確かにあった。ただその躊躇の原因は大義名分では言いきれないものがあった。
アルバイトをしている時の日向子は髪をゴムで後ろにとめていて、いつもの遊び人風の印象はなく溌剌として見える。彼女がベイズンストリートにいる時、剛史は決まっていつもティールームにいてそこで勉強した。それが彼女に出来る自分の礼儀だと思っていた。
のっぽはあれ以来ベイズンストリートに顔を出していない。予備校にさえ来ているかどうかも判らなかった。ひとりになりたい時は誰にだってあるし、そんな時に無理に慰めてやろうという親切心も剛史は持ち合わせていなかった。
怪盗乱麻の件も手詰まりの状態にあった。終盤でトラップラインを仕掛けるのは形勢逆転される可能性もあるが、それは剛史の選んだ手だった。
客がひいている時日向子はティールームに顔を出して、新しく覚えた仕事の手順やケーキの知識を嬉しそうに話してくる。観念が服を着て歩いているような彼女にとって、実務的で些末なことに熱中することはいいことだった。
英文読解に手こずっているとそばに来て単語の意味を教えてくれる。目の前に近づけられた髪から甘いシャンプーの匂いがすると、初めて剛史は日向子に女を感じた。膨れあがるようなその気持ちを抑え込むように、彼女が口頭で和訳する時代遅れになった経済論評を聞いていた。
「あのさ、日向子」
「そう言えば、この間ふたりきりで水紀と会ったでしょ」
「何で知ってるんだ」
「あの予備校は勉強より噂話にご熱心だもの」
「のっぽの件かと思ったんだ」
「剛史は本当に鈍いのね。水紀は剛史のことが好きなのよ」
「そんなことは」
「ないって言いたいんでしょ。本当にあんたは極楽とんぼね。誰も言わないからあたしが言ってあげたの。あたしって親切でしょ」
日向子の皮肉に気付かないで、剛史はただ頭を掻いてみせた。
「中学校の時、妊娠騒動を起こしたっていうのは本当か」
「本当よ。だから高校は私立に行かされたわ。あらかじめ言っておくけど、誘ったのはあたしの方だからね。あたしが悪者、それでいいの」
充血した目に涙がたまっているのは、泣いているわけではなくてあくびを我慢しているためだった。
「でも、本当は辛かったんだろう」
「時々ね。でも済んだことを何度も思い返して泣く程あたしはタフじゃあないもの。ねえ剛史、ひとつだけお願いがあるの。いい」
「何だ」
「少し眠ってもいい」
そう言って読みかけのテキストを広げたまま剛史の手を握ると、日向子はテーブルに俯せて寝息を立て始めた。始めはふざけてそうしているのかと思ったが、握られた手の上にのしかかる頭の重さでそうではないことを知った。
「お前、まじで寝たのかよ」
カウンターに目をやったが、里見は休憩時間を使って買い物に出かけたようだった。もしいま客が来たら、自分が接客をしなくてはいけないのかな。そんな馬鹿なことを剛史は思った。
日向子が怪盗乱麻に共感しているのは、逃げ場のない状況のためだろう。確かに浪人生は心のよりどころになるような帰属感を感じさせるものを持ち合わせていないものだ。それだったら剛史にも理解できる。しかし帰属感の欠如は自由を意味する側面もあるのだ。日向子が感じているものはそういったものではなくもっと現実的な過去の体験に拘束されている。
つまり怪盗乱麻も剛史には理解できない現実的な牢壁の中でもがいているわけであり、彼の示す出す格言警句が醸しだす韜晦に反発していたのだった。馬鹿みたいだと剛史は思う。過去の体験はあくまで過去の体験であって、現在の自分を規定するものではない。過去の体験に拘束されてしまっては結局何で出来ない不能者になってしまうのではないか。
カウベルが鳴った。身動きの取れない剛史が首を曲げてホールの方を見ると、入ってきたのは里見だった。二人の姿を認めた里見に空いている左手で手招きした後、日向子の頭を指さした。始めは驚いた顔をした里見だったが、ティールームに入ってくると容認するような慈愛の笑顔に変わった。
「最近寝ていないって言ってたから、寝かせておいていいよ」
剛史もつられて笑い顔を作った。
「あたしの休憩も終わったし、あと一時間で上がりだからね」
二人の声に反応して寝言のような声で低く唸ると、日向子は顔を上げた。
「おい、まだ寝ていていいぞ」
再び顔を伏せさせようとして頭に触れると、掌に当たった額が妙に熱いことに気がついた。火照った顔をしているのは寝起きのせいばかりではないようだった。
「熱があるんじゃあないか」
「二三日前にね、シャツ一枚で吹きさらしの風に当たったからかな」
「体温計ある、里見さん」
レジスターの下に常備してある救急箱から、里見が電子体温計を持ってきた。剛史は席を外すためトイレに行って戻ってくると、日向子は帰り支度をしていた。
「いいのよ、里見さん。大丈夫」
「そんなこと言わないで、明日来た時返してくれればいいから」
日向子は里見の白のダウンジャケットを借りて羽織ると出口に向かった。
「送っていってやるか」
「いいよ、大丈夫。子供の頃病弱だったからね、こういうの慣れているの」
軽く咳き込む様子が心配であったが、剛史はそのままカウベルを鳴らして出ていった日向子の姿を見送った。
「大丈夫かな、日向子ちゃん」
「大丈夫なものか。あれじゃあ生きた死にかけだ」
意外に脆い面を見せつけられて剛史は動揺したが、風邪をひいた時は周囲の気配りがうざったいものであることを知っていたので、そのままほおっておくことにした。いくら何でも明日死ぬというわけではないだろう。
「意外に冷たいのね、剛史君は。送っていくかと思っていたのに」
「俺はたぶん冷たい男だよ。人に同情をかけるなんて、いつでも慚愧にたえないと思っているよ」
おそらくこれが最後の一線だと剛史は思っていた。これを越えるともう後戻りできないところまで進んでいくしかないのだ。その勇気は剛史にはなかった。もし日向子が普通の女であるならそうもしていたろう。
「明日までよくなればいいな」
まるで独り言のように、里見は呟いた。
今でこそ健康体そのものの日向子であったが、小学校の頃は小児喘息を患っていて、一度発作を起こすと学校を三日休むことはざらだった。中学高校とテニス部に所属して基礎体力をつけたせいで今でこそひどい発作を起こすことはなかったが、風邪をひくと喉の奥が詰まったようになり呼吸が苦しくなることがあった。小児喘息は依存心が強い子供が起こすと言われていたので、幼い頃から独立独歩が彼女のスタイルになった。
寒い日も薄着でいるのは、肌を鍛えることがいいという民間療法を信じているためだった。
親に疎んじられるように高校は寄宿舎のある私学に入れられて、そして今は六畳一間のアパートでの自炊生活だ。寂しいという感情はとうの昔にどぶの中に捨ててしまったものの、時折ふと居たたまれない感情に襲われて、たじろいでしまうことがある。優しさや温もりが欲しい。それが自分には似つかわしくないものだと言うことも知っていたが、そうしたものを求めること自体は罪悪ではないことも知っていった。
通りを流れていた車の列が赤の信号で一斉に停まる。切り紙細工のように存在感のない人の群れに混じって、横断歩道を歩き出す。人口百万人を数えるこの地方都市は、寄る辺のない心を隠すにはもってこいだったが、ネオン灯やビルの照明が彩る町の灯りは、やけに感傷を誘って仕方がなかった。
少し大きめのサイズのダウンジャケットの袖口から手を出して、さっきまで感じていた剛史の手の温もりを思い出していた。自分の身銭を切って生活することを知らない剛史は、日向子の目から見ればとんだ甘ったれだった。おまけに何か困ったことがあって相談を持ちかけても、話を聞くだけで決して自分の体験談を語ろうとしない。それが日向子にとって多分に物足りなかった。しかしそうしたことを差し置いてさえ、彼には人を惹きつける不思議な魅力があった。
大した経験を積んでないくせに、日向子が決して人に語ろうとはしないような個人的な感覚を理解してくれるのだった。これはどのような神の配剤なのであろう。
そんなことを考えていると、熱のせいか奇妙で不条理な感覚に襲われた。別に好きでもないんでもない剛史に嫉妬していたのだ。剛史が水紀と会ったことを、日向子はひそかに中傷していた。剛史たちのグループにちょっかいを出すようになったのは、水紀からのっぽがケーキを貢いでいるという話を聞いたためであったが、それは退屈な予備校生活に飽いていたというより同じクラスの剛史に興味をもったせいだった。彼を見ていると、裏路地の猥雑な事物を愛した十九世紀のパリの詩人がひそかに標榜してた此処ではない何処かへの渇望、自ら捨てた楽園への憧憬を感じさせた。
それは闊達な印象という薬剤カプセルに入った毒だった。
日向子の中には二人の日向子がいた。剛史が好きな日向子と、剛史が嫌いな日向子だ。剛史が好きな日向子は相手をずたずたになる程に傷つけて、それでもしがみついてくるくらいの根性がなければ認めてられないと思うような意固地さがあった。剛史が嫌いない日向子は、生きていくことの苦みを知らない相手を揶揄していた。どちらにしろ相手を責めていることに変わりはない。
しかしその二人の日向子は、じつのところ表裏一体なのではないか。
アパートに帰り着くと、着替えもままならないままベッドの上に転がり込んだ。鋭敏な神経は高ぶったままで、なかなか眠りを誘ってくれない。夕暮れて次第に深くなっていく闇の淵で、行き場をなくした不安がカーテン越しの静寂な街の光りに溶け込んでいったが、朝が来たとしていもそれが消えてなくなるわけではなかった。
めずらしく午後の講義を受けた剛史は、ベイズンストリートに行く前に予備校の購買部に立ち寄った。日向子は来ていなかった。サボリ癖のある彼女だからそれがいつも通りといえるかも知れなかったが、昨日の今日だったのでさすがの剛史も心配だった。
購買部には主に文房具と参考書が売られていたが、文庫や単行本が並べている一角もあって、女性向けのファッション雑誌まで置かれている。そこをやり過ごしいつも立ち寄る参考書の棚の前に立つと、背表紙が擦れてしまったハードカバーの英文読解の本を手に取った。開校当時から棚に並んでいるもので、帯も壊れて表紙の三色刷のカラー印刷も褪せ始めていた。日販用の注文票は邪魔にならないようにひとつのページに挟み込んである。ページを捲っていくと黄色の付箋紙が挟まれていた。怪盗乱麻からの伝言だった。見慣れたぎくしゃくした字体で住所が書いてあり、その下には次のようなメッセージがあった。
<午後五時以降なら、たいていの場合いる>
「ようやく来たか」
大声を上げた剛史を、向こう角で文房具を見ていたカップルが訝しげな表情で見た。そんなことは構いやしない。この成果を早く日向子に伝いたいと思った。携帯電話の番号は知っていたが、考えてみると彼女には一度も電話をしたことがなかった。知り合ってから電話をかけるような用件もなかったというところもあったが、何となく彼女に電話をかけることに躊躇を感じていたのだった。あいつのことだから、授業はサボってもあるバイトには顔を出しているかも知れない。そう思った剛史は付箋紙を抜き取った参考書を棚に戻すと、ベイズンストリートに向かった。
おそらく世の中には人に知られることのない地下水脈が流れているのではないかと、剛史は思う時があった。高校時代には決して手に取ることのなかった人文系の書籍を開いて、文字で書かれた茫洋とした世界の片鱗に触れる時、こうした世界の未知は全てどこかで繋がっているのではないかという期待を持っていた。書物に書かれたものは絶対的な構成を持って確かにそこに存在するのに、人間の心というものは何と不可思議なものだろう。いま剛史は自分の感じている些細な喜びを日向子と分かち合いたいと思っているが、どうしてそれを熱望しているのだろう。この話を持ちかけたのが彼女だからか、自分の成果を自慢したいためなのか。
めったに見せることはなかったが、剛史は日向子の笑い顔が好きだった。しかし彼女は笑っている時でさえ、どことなく儚い匂いを漂わせている。それはどうしてか。本質的にルマンチサンというものがない剛史にとって、日向子の複雑さは判らない。
予備校からベイズンストリートに行く途中には、六車線同士が作る交差点の上に歩道橋がかかっている。白い手すりは塗装が剥げかかっていて下地の茶色が見えるところもあり、所々は錆かかっていた。歩道のタイルも半分以上は取れていて、補強のためのコンクリートがむき出しに盛り上がっている。歩道橋の中央から東を眺めると駅舎の隣には百メートルを超える背高のっぽのビルが建ち並んでいて、そこだけが未来都市を描いた映画フィルムのような構図を作り出している。足下からそちらに延びる道路には相変わらず自動車が溢れかえっていて、両側の歩道は銀杏並木の黄色に隠されて見えない。右側にはベイズンストリートのある雑居ビルがあるはずだったがやはり見えなかった。
風が吹き抜けたと同時に空を見上げると、冬の到来を知らせる冷たい濃い灰色の雲が、広角レンズに映したような曲線の動きで上に流れていく。気がつくと季節の狭間にいつも立ち竦んでいるようだった。
ベイズンストリートに日向子はいなかった。
「熱が下がらないっていうから、休んでいいよって言ったのよ」
里見はいつものように笑い顔を浮かべたが、体の動きはやや緩慢に見えた。
「心配なんでしょ」
「昨日の今日だからね」
携帯電話に連絡を入れたりメールをするという手もあったが、寝込んでいる人間にそんなことをするのはぶしつけなことではないか。そんな迷いが剛史の判断を鈍らせた。第一そこまでして彼女の身を心配する積極的な理由は剛史にはなかった。いや、それも言い訳に過ぎないのではないか。
「フレンチでいいの、剛史君」
「いや、いけないな。気分じゃあないな」
「どうしたの」
「何でもないんだ、何か変な気分なんだ。フレンチでいいよ」
昨日の日向子との会話を思い出して、剛史はいつも通りの自分の鈍さに呆れ返っていた。どうして日向子は水紀のことをわざわざ言ったのだろう。それは本当は全く関係のないことだったのかも知れないし、あることかも知れなかった。
しかし剛史にそんなことはどうでもよかった。ラマンチャラの男が行くべき方向に躊躇した時でさえ、進むべき方向に勝手に突進しようとするロシナンテのように、彼は何かに思い悩んで立ち止まりそうになると、取り敢えず進むべきだと心が言ってくる。嘘や裏切りなどの苦難も造作のないことだ。
ドリンクのブースでコーヒーを淹れた里見はテーブルにソーサーごとカップを置くと、テーブルを挟んで剛史の真向かいに座った。そんな風にしたのが初めてだったことに気付いたのは、彼女が口を開いたあとだった。
「日向子ちゃんには言ってないんだけど、あたし来月でここの仕事上がることになったの」
「何で、里見さん」
「三ヶ月なのよ」
「何が」
「馬鹿ね、あんたは。母子手帳をテーブルの上に置かなきゃあ気付かないの」
「へえ、おめでとうございます」
そう口で言ったものの、剛史は自分の子供が出来たと言われても人ごとのように受け流してしまう性質だった。素っ気ない反応に里見は笑いながら、その笑顔のまま言葉を続けた。
「だから日向子ちゃんのことは、あとはよろしくね」
肯定の返事も否定の返事もせずに、剛史は里見が言った言葉の意味を考えた。しばらく続いた沈黙が駄馬の尻を叩く鞭の音のように聞こえたが、それとは違った前進の決意が彼にはあった。ひとつだけ対峙する風車があるとすれば、彼女の抱えている問題を容認してしまえば人並みの幸福は望めないということだ。空一面がマーマレイド色に染まるような素晴らしい夕焼けを見て感涙を流したとしても、その美しさを日向子は額面通りに捉えることが出来ない。二人の間に齟齬が生じることは目に見えていた。剛史は自問した。それでいいのか。
しかし一度加速度のついた馬の脚は止めることは出来なかった。
「日向子のアパートに行ってみるよ」
「特別感謝の付録付きの言葉だけどね、剛史君いい男ね。旦那がいなかったらあたし惚れていたかも知れないわ」
「よせやい、里見さん。俺はお世辞があまり好きじゃあないんだ」
「ついでに言っておくけど、女はね、どんなときでも自分の全てを受け入れてくれる男を好きになるものよ。まあ、剛史君には無理だろうけど」
「確かに無理だ」
剛史を言い諭すことを諦めた里見は、テーブルに片手をついて立ち上がった。剛史もカップに残ったコーヒーを飲み干すとバックを手にした。
会計を済まして外に出た剛史が、あとのことはよろしくと言った里見の言葉の重みに気がついたのは、在来線を越える高架橋を渡り終えたあとだった。
剛史は事を起こす時、百個も理由は必要なかった。たったひとつの理由でも重荷に感じる程だった。怪盗乱麻が誰であるのかそれをつきとめるのが日向子との契約であり、チェックメイトの手は当然彼女と一緒に指すべきだと考えていた。それが彼の考えた理由だった。例えば百歳まで生きたとして、それを選択しなかったベクトルで苦悩する芸当は出来なかった。彼には現在が全てであり、現在はいつまでたっても現在だった。
ひとり暮らしの女性のところに、それが特に風邪をひいている時など訪問すべきではない。部屋の中だって散らかったままだし、身だしなみなんて考えている余裕があるわけがない。それをよく知っている剛史が敢えてそうするのは、大切なことは口頭で伝えるべきであるという単純な彼の道徳観のせいだった。
日向子のアパートがどこにあるのかよくは覚えていなかったが、歩いていると不思議に道を思い出すものだ。
いったん大きな通りに出たあとに、再び入り組んだ裏路地に入っていった。熱くも寒くもなく風も凪いでいて、似たような造りの家々が立ち並んでいた。まるで時間が止まったようだった。雑居ビルが建ち並ぶ古い街並みに、気の早い街路灯が青い光を放ちなじめた。夕刻だというのに辺りを歩く人影が全く見えなかった。ようやく入り口にアーチのついた日向子のアパートを見つけると、前に送った時に彼女が消えたドアを探した。消火栓の位置で見当をつけると、アーチをくぐって階段を上っていった。
他人行儀な三階のベランダを歩いていって目的のドアの前に立つと、後ろを振り返った。ビルしか見えない風景だった。駅前周辺の空だけが薄ぼんやりと明るい。いま自分が立っている場所が広い世界の片隅にあるような気がした。
呼び鈴を押したが、返事はなかった。留守なのかも知れない。もう一度押して反応がなければそのまま帰るつもりだった。二度目の呼び鈴を押したあとインターフォンのスピーカーからホワイトノイズと共に声が聞こえた。
「どちら様ですか」
「俺だよ。工藤です」
しばらく間をおいたあと、同じ声色の調子で返事があった。
「ああ、剛史ね。ちょっと待って」
やがて鍵を開ける音を聞かせて、ドアはゆっくりと開いた。上は淡黄の薄手のセーターで、下は同じ色合いの大きなチェックの模様をしたパジャマを履いていた。前髪をクリップで留めて広い額を見せていた。いつもより幼い顔つきにしている。思ったより元気そうだったが、そんなことはどうでもよかった。剛史は日向子の顔を見ることが出来ただけで安心したのだった。
「どうしたの、一体」
「心配なんで見舞いに来た」
「お見舞いにしては、手土産がないじゃない」
「これから買いに行く」
日向子は破顔すると、ドアを大きく開けて後ずさった。
「寒いから、中に入ってよ。言っておくけど、汚いからね」
「構わないよ、急に来た俺が悪いんだ」
入ってすぐの台所は給湯もついている近代的な造りだったが、縦長で狭かった。台所と部屋を区切るドアは、明らかに欠点のある造りをしていた。手前に引くと風呂場の入り口にドアがかかってしまい、部屋から風呂場に行くには開けたドアをいったん閉めなくてはいけない。駅に近い一間のアパートでは、こうした手狭さも仕方のないことかも知れなかった。
部屋の中は日向子が言った程汚くもなかったし散らかってもいなかった。剛史が驚いたのはそんなことではなかった。江戸間で八畳ほどのフローリングの部屋には、テーブルとパイプ式のベッドがあるだけで、他には何もなかったのだ。テレビもない。オーディオセットもラジオカセットもない。今日引っ越してきたばかりで、取り敢えずカーテンをつけただけといったような、住んでいるものの個性を感じさせない室内だった。
「休んでいていいよ。熱は下がったか」
「多分大丈夫」
「病院は行ったか」
「行ってない」
「薬は」
返事をしないで、ベッドの中にもぐり込んでいった。
「馬鹿か、お前は。直す気があるのかよ」
「風邪は病気じゃないもん、寝てれば直るわよ」
「飯もろくすっぽ食ってないだろう」
やけに小綺麗な台所の様子からして、それは一目瞭然だった。
「食いたいものがあれば買ってきてやるよ。何ががいい」
「レモンがいいな」
「弁当買ってくるか」
「もたれそうだからいらない」
「うどんぐらいなら食えるだろう」
見送ろうとベッドから這い出た日向子を制止したら、ベッドの下の鞄から鍵を取って剛史に渡した。
「変な男がうろついているから、しっかり鍵は閉めていってね」
声だけを聞いていると、はしゃいでるように聞こえなくもなかった。
剛史が感じているとまどいは、らしくなさだった。女のために何かしてやるというのが剛史らしくないし、それに甘えている日向子も、日向子らしくなかった。そう感じているのは、日向子が思ったより元気そうだったせいだった。とまどいもそうした感情の裏返しに過ぎなかった。
夕暮れが過ぎた裏通りのスーパーマーケットは、電飾された看板だけがやけに明るい佇まいを見せている。自宅通学の剛史は、めったなことで食糧の買い出しに出ることはない。帰宅途中の主婦と老人が多いスーパーマーケットの店内に違和感を覚えながら、買い物かごを手に取って売り場を急いだ。自分が風邪をひいた時に食べたいものを選んでかごに入れる。うどん、長ネギ、鶏卵。卵酒という手もあるので安い四合瓶を一本。ホット・バタード・ラムが風邪薬になると聞いたことがあるので、ダークラムを探したが小さなスーパーマーケットの酒類売り場では置いていなかった。それでもレモンと一緒に無塩バター、角砂糖などをかごの中に放り込む。一体俺は何をやっているのだろう、そう心底剛史は思う。自分の行為のらしくなさを痛感しながら、レジを済ませた。
静かに鍵を開けてアパートの中に入ると、気配に気付いた日向子は重そうな瞼を開けた。
「ほら、レモンだ」
布団から手を出して受け取ると、火照った頬に当てて笑った。
「この匂い、好きなんだよね。それに体が熱い時、冷たくって気持ちがいいんだ」
「アイスでも買ってくればよかったか」
「ううん、レモンでいいの」
「そういえば怪盗乱麻の居場所が判ったよ。風邪が治ったら、一緒に行こう」
「すごいね、剛史は」
「そんなことはないよ、とても単純なことなんだ。怪盗乱麻が付箋紙をばらまいているのは、一種の愉快犯的な心情があるわけだろう。すると付箋紙の行方を一度は必ず確認するはずだ。そしてそうした心情は、誰かにそうした自分のことを伝えたいと思ってするもんだ。そこで会って話をしたいという伝言を、付箋紙のあった購買部の参考書の中に挟んでおいたんだ。同じ黄色の付箋紙でね」
軽く頷いた日向子は、そのまま目を閉じた。返事を待って黙っていた剛史だったが、しばらくすると寝息を立て始めたので、拍子抜けしてその寝顔を眺めていた。
「まあ、いいか」
おもむろに立ち上がると、中身の詰まったレジ袋を手にして台所に向かった。
ひとり暮らし向けの小型冷蔵庫の中には、調味料以外に牛乳と卵とベーコンしか入ってなかった。うどんを茹でようと思って鍋に湯を沸かしたが、うどんのつゆをどのように作ったらいいのか判らない。醤油に出汁が入っているのは見当がついたが、出汁というものが何であるのか想像がつかない。取り敢えず醤油で色をつけ、流しの前に並べてあったうまみ調味料を入れた。味見をすると食えたものではなかった。腕組みをしてしばらく沸騰する鍋を眺めたあと、レジ袋の中から日本酒を取り出して入れてみた。甘みが増したことに彼は満足した。小口に切った長ネギを手近にあった椀の中に入れて、卵を割り入れる。あとは玉うどんを入れて卵でとじれば完成だ。簡単なものだと剛史は思った。
部屋に戻ったあと、することは何もなかった。携帯電話をいじって時間をつぶすことが出来ればいいのだが、彼はあいにく古風な人間でそれは便宜上持っているに過ぎなかった。頭の後ろに手を組んで絨毯の上に横になると、そのまま眠ってしまった。
疲れていたわけではない。そう自分では思っていたが、この件で神経を張りつめていたことは確かだった。暖房のよく聞いた部屋で目覚めると、疲れがいっぺんに取れたようで体が軽くなっていた。いつの間にか毛布が掛かっている。台所で物音がしていた。ベッドを見ると日向子はいなかった。台所の方を見るとドアが開いた。
「目が覚めた。剛史も食べるでしょ」
「ああ。動いて大丈夫なのか」
「うん、熱は下がったみたい」
剛史は日向子の額に手を当ててみた。火照った温かさはあるが、熱は下がっていた。
どんぶりはひとつしかなかったので、剛史は手鍋のままうどんを食べた。味が馴染んだのか、それとも日向子があたりを直したのか判らなかったが、田舎風に卵でとじたうどんは美味しかった。
「そういえば、里見さん。じきに上がるって。子供が出来たって言っていた」
「そう、寂しくなるわね」
「ああ」
せっかく買ってきたので卵酒を作ろうとして、うどんを食べ終えた手鍋を洗って、日本酒を火にかけた。沸騰したら白い蒸気にライターで火をつけてアルコールを飛ばす。ここまではベイズンストリートで出しているアイリッシュコーヒーと手順は一緒だった。
「剛史、それは逆よ」
どんぶりの中でといだ卵を鍋の中の日本酒に入れると、卵酒にはならないで日本酒の卵とじになってしまった。剛史は笑った。
「馬鹿ね」
「なに、何事も経験だよ」
「どら、貸しなさいよ」
日向子がホイッパーを使って攪拌してみたものの、どうしても白濁した卵酒にはならなかった。
部屋に戻ると、ふたりしてこの特製の卵酒を飲んだ。体の奥から温まるようで、剛史は心地よくなった。それはアルコールのせいばかりではなかった。日向子はおだやかな表情で笑っている。こんな幸せそうな日向子を見るのは初めてだった。
「剛史、帰るんでしょ」
「ああ、地下鉄の最終に間に合えばいい」
剛史の感じているもどかしさは、窮屈の変形だったのかも知れなかった。今まで誰とつき合っていても、お互いの欲望の均衡点を探り当てるだけで精一杯だった。決して恋人ではない日向子とこうしておだやかな時間を過ごしているのは、剛史にとっても奇跡に近かった。日向子がそこにいてくれるだけで、剛史は十分に満足だった。ただそれに彼が慣れていないだけだった。
「またこじらすといけないから、寝ていろよ」
日向子はベッド入ると、布団の下に入れたままのレモンを手に取って剛史の方に差し出した。
「ねえ剛史、レモンが冷たくって気持ちいいよ」
触ってみると卵酒に残っていたアルコールで火照った掌に、紡錘形のレモンの冷たさは心地よかった。もう片方の手で子供をあやしつけるように髪を撫でてやると、日向子は目を瞑った。今度はいつ日向子が眠りについたのか判らなかった。
冬を間近に迎えた秋の夜は、恐ろしい程の寂寥を誘い込んでいた。
部屋の照明を常夜灯に替えると、再びレモンもろとも日向子の手を取った。
人生には様々なシーンが巡ってくる。今は予備校という訳の判らない集団の中にいて、来春うまくいけば大学に入学し、やがて社会に出る。そんな絵巻物の断片が今という時なのだ。だからその切れ端をその掌と同じくらい、彼女は熱く生きているのだった。だからこそ全てに憤り、全てに喜び、そして全てを拒絶し・・。
赤ん坊のように白く滑らかな肌がやけに青く見える。死に水を取ったあとの安堵の顔のようだった。急に不安になって広い額に手を当てる。そこに伝わる熱が彼女が一個の個体であることを否応なしに意識させられる。彼女は生きているのだ。たとえその破天荒さが死を連想させるものだとしても、いま確かに彼女は生きているのだった。
そして気付いたことがある。それは彼女の類稀なる批判家精神は決して夢想ではない死のイメージを引きずっているということを。この考えに剛史は鈍い衝撃を覚えて、しばらくの間半分布団に顔を埋めた日向子の顔をまじまじと見つめていた。
そして自分が越えてはいけない一線を越えてしまったことに気がついた。
次の朝ベッドに寄りかかったまま目覚めた剛史は、喉の痛みを感じた。エアーコンディショナーの暖房は最小に設定してあったものの、一晩中暖かい風に当たっていたために部屋の中は乾燥しきっていた。台所に行って冷たい水を飲む。日向子はまだ眠っていた。携帯電話で時間を確認すると、午前九時を過ぎようとしていた。空腹を押さえるために煙草に火を点けると、昨日の夜からほとんど喫っていないことに気がついた。
カーテンの隙間からこぼれる光は、明るくなったり暗くなったりしている。雲の流れが速いようだったが、風が吹いている様子はなかった。
剛史の気配に気がついて、日向子が目を覚ました。
「腹はへってないか」
「うん、何か作る」
「いや、外に食べに行こう」
いつもの悪戯小僧のようなこしゃまっくれた生気が、日向子の顔に戻っていた。少し怒っているように見える。
彼女がシャワーを浴びている間、剛史はぼんやりと煙草をくぐらせながら授業をサボる積極的な理由を考えていた。何かが回り始めていて、それは決して数式では解答出来ない問題の答えを求めていた。もはや剛史にとって怪盗乱麻に会うことは義務の領域を越えようとしていた。
「着替えるから、出ていって頂戴」
タオルを巻き付けた日向子と入れ替えに台所に入った。日向子の匂いだと思っていたものは、シャンプーの匂いだった。
表は予想に反して風が強く、アパートの敷地に立っていた糸檜葉がいやいやでもするように揺れていた。風で日向子の髪が揺れると、生まれたばかりの新鮮な大気に、シャンプーの匂いが混じった。
「剛史はさ、まだ前の彼女のこと忘れられないの」
「そんなことはないよ」
「そう、剛史は真面目なんだね」
「数学の秋次にも言われたよ、あいつのことは。あそこの夏期講習を受けたからね。そんな噂まで広がっているとは思わなかった」
そのことはとっくの昔に結局がついていた。人生とはたった一度の過ちで終わりになることもあるのだ。ただひとつ誰にもそれに対する弁明をしなかったことが、彼の誇りだった。
「剛史は、馬鹿だよ」
「それは自分でもよく判っている」
「授業には出るんでしょ」
「いや、そんな気分じゃあない。お前、バイトは」
「里見さんに迷惑かけたから、行こうと思ってる」
「連絡したのか」
「あっ、まだだった」
駅裏の大通りに出る横断歩道の前で立ち止まり、日向子は携帯電話で連絡しようとした。前に出過ぎた日向子は、歩道ぎりぎりにカーブしていった自動車の勢いによろめいた。空中を彷徨った彼女の腕を剛史は掴むと引き寄せた。
「どいつもこいつも大馬鹿者ね」
「大丈夫か」
「携帯、落としちゃった」
アスファルトから携帯電話を拾いあげた剛史は、二人の会話がちぐはぐなことに気がついていたが、敢えて気にとめようとしなかった。自分がいつも考え過ぎて、それ以上にわがままなことも知っていた。だから一体どうしたというのだろう。こうして二人でいる時でさえも、今という時間は次々に過去へと変わっていくのだった。
「バイトが終わったら、怪盗乱麻に会いに行くぞ」
悪戯がばれているにも関わらずしらばっくれたままの子供のような表情をして、日向子は返事をしなかった。
休むものとばかり思っていた日向子のことを当てにしていなかったので、里見は自分の休憩を取ったあとすぐに上がりにしてくれた。付箋紙にあった住所を携帯サイトの地図で調べてみると、在来線の沿線沿いにあった。二人は駅へと向かった。
アーケイド街の入り口で地下鉄へと向かう階段を降りて、駅舎へと急ぐ。新しい地下鉄の路線工事が始まろうとしている地下道は、盲人を虜囚とした迷宮のようだった。駅前と駅裏を繋ぐ中継地点の広間には、幾重もの柱が植林された杉木立のように規則正しい配列で並んでいる。その全てには同じデザインの携帯電話のポスターは貼りつけられていた。不案内な日向子は、新しい風俗に驚嘆する老人のような好奇でそれを眺めていた。
駅ビルの地階から改札口に続く広場にある噴水は、赤や青の照明で彩られていて、プロコンで制御された幾何学的な動きを見せていた。改札を抜けると急に古びたコンクリート剥き出しの通路になる。午後四時の寂しさを背負った人の群れが、次々に改札に吸い込まれていく。
目的の駅は在来線で西に二駅目にあり時間に換算して十分程で着く。剛史も日向子も言葉少なく、それぞれに怪盗乱麻の自分なりの印象を思い浮かべていた。
会社帰りのサラリーマンに出くわすには時間が早かったが、私立へ通う高校生達で車両は混んでいた。
剛史はいたわるように、日向子のそばに立っていた。緊張したように日向子の顔から表情が消えていた。それは彼女の中で何かか起こっているサインだと気付いたからだった。目的の駅に着く。無蓋のホームに張り付くように停車した車両から降りた人々は、軍隊の整列よろしく無言で改札へと向かう。城趾から鬼門に当たる駅の周辺は仏閣が多く集まっており、そのため都市化が異常に進んだ駅前周辺とは異なり緑が多く残されていた。長いホームの向こう側は切り立った崖になっていて、剛史の記憶に価値がいなければそこは墓地があったはずだった。
「何か怖いところね」
「このあたりは怪談話も多いからね」
「出るの」
「ああ、出るよ」
無人駅の改札を通り過ぎるとうねるように伸びた一車線の坂道が、高架橋をくぐっている。携帯電話の画面に映された地図を見ながら剛史は位置を確認した。拡大した地図で見ると、怪盗乱麻の記した住所は思った以上に駅から近い。
「ここから見えるくらいだな」
道路の向こう側には、クリーニング店を併設している小さな商店があった。店先には駐車場があり、煙草と缶コーヒーの自動販売機が肩を並べるように立っている。その隣には申し訳なさそうな佇まいで緑色の公衆電話が立っていた
店内に入ると客は一人もいなかった。クリーニングの受付には、初老の女性が伝票の整理をしていた。レジにいるのは学生のアルバイトらしい。
「すみません、煙草は置いてありますか」
「うちは中では売ってないよ。表の自動販売機を使って」
「あの、すみません。この住所ってどのあたりですか」
彼女は不思議そうな表情をして、剛史が渡した付箋紙を受け取った。眼鏡を直して角張った独特の字に目を凝らすと、急に嬉しそうな声を上げて笑い出した。怪訝そうに顔色をのぞき込んでいる二人に向かって彼女は、キーの外れたピアノのような素っ頓狂な調子で説明した。
「これはうちのアパートだよ、店の上の方にある。表に出てすぐ隣だよ。心配しなくていいから、住んでいるのはひとりだけだから」
「ありがとうございます。煙草は表で買います」
「あんた達はあの男のお友達かい」
「まあ、そんなそうなものです」
「あんな男にも友達がいるんだね。いいや、別にあんた達の悪口を言っているわけじゃなくてさ」
そういった彼女の言葉がおそらく正しいだろうと剛史は思った。再び礼を言うと二人は店の外に出ていった。
そのアパートは坂道の途中に建てられた古い二階建てだった。歩道から錆びた鉄製の踊り場を抜けて、二階に繋がるように設計されていた。坂道の下に隠された階下は壊れかけた新聞受けにフリーペーパーが無造作につっこまれていて、幽霊が住んでいると説明されたところで、二人はきっと信じたことだったろう。二階の手前の部屋だけ灯りがついている。そこに怪盗乱麻がいるのだ。剛史が先頭に立って歩道から踊り場へと足を踏み入れた。
入り口にはもちろん表札はかかっていなかった。耳をすませても部屋の中からは物音ひとつ聞こえない。呼び鈴があったので押してみたが、チャイムが鳴った様子もなかった。意を決した剛史は無表情でのぞき込んでいる日向子に話しかけるように言った。
「ノックするぞ」
彼女が頷いたのを見て、ドアを相手に三拍子のリズムを二回程とった。沈黙。そしてしばらく間をおいてから、ドアが開いた。
中から顔を出したのは、いつも予備校の建物の前で煙草を喫っている、予備校の主と揶揄されている男だった。
蓋を開けてみれば、謎でも何でもなかった。秋次と会った時、確かに彼はこう言ったのだ。挫折の体験がこういった行為をさせるのだと。三浪生の挫折感がどれくらいのものであるのか、剛史は想像してみようとしたが果たせなかった。
「彼女連れかい。まあいい、中に入ってくれ」
「あんたが怪盗乱麻か」
「ああ、そうだ。あんた達が一番乗りだよ」
いったい何の一番乗りだというのだろう。やはり単なる暇人だと言われたような気がしたが、剛史は気にせずに案内に請われるまま中に入った。日向子もあとに続いたが、この会見には口を出さないつもりと決め込んでいるようだった。
六畳一間の室内は真ん中に季節に早い電気こたつが置かれていて、上には書籍が堆く積まれてあった。窓から離れた壁側には布団が敷かれたままだった。入り口の左側には流しがあって、その手前だけ半畳程の幅の板間になっている。日向子の部屋よりも殺風景だったが、それよりも温かみのある部屋だった。もっともそれはあまり近寄りたくない温かみであったが。
「好きなところに座ってくれ。と言ってもこたつくらいしかないけどな」
すえた匂いが畳に染み込んでいた。何の匂いだろうと不思議に思ってあたりを見まわすと、流しの横に安物の焼酎の大きなペットボトルが並べられていた。すでに彼は一杯引っかけていたようだった。丸くむくんだ顔に赤みが指さしている。
彼はこたつの周囲を回って自分の指定席にゆっくりと座ると、こたつの上に置いてあったコップの中の液体を飲み干して、言い訳をするようにしゃべり始めた。
「いつも飲んでいる訳じゃないんだ。そうしてもうまくいかないことがある時だけ、飲むようにしているんだ」
「いつもうまくいかないから、毎日飲んでしまうと言うことか」
「そういう訳じゃないよ。あんた達は俺が何であんな事をしているのか知りたくてやってきたんだろう」
「ああ、そうだ」
「みんな判っていないんだよ、本当に大切なことが。それを警告しようと思って付箋紙を置いていったんだ」
「本当に大切な事ってなんなんだ」
「それはむつかしい。目に見えないものであるし、捕らえどころのないものだからだ」
「そんなんじゃ、誰も判るわけがないじゃあないか」
「そんなことはないよ」
急に声が小さくなって、あたりを見まわした。流しの下に視線が動いたので、酒を欲しがっていることはすぐに判った。
「不思議なことだと俺は思うよ。みんな自分の本当の心を隠して生きていこうとするなんて。そして世の中に迎合して、本来持っているはずのそれぞれの価値観の違いを忘れてしまい、自分の意見だけを通そうとしてしまう」
「そんなことはないんじゃないかな」
「そうだよ。少なくとも俺の周りにはそうした人間はひとりもいなかった。子供に対する叱り方だって同じものがあるだろう。むやみやたらにそれじゃ駄目というのではなしに、大丈夫と声をかけてやることだって大切な事じゃないか」
実際にあっては話をすれば、付箋紙から感じる違和感を解消できるのではないか。そう思っていた剛史の期待は裏切られた。心情的にはその理屈は確かに理解できる。しかしそこにはもうひとつ必要になるはずの視点というものが決定的に欠けているのだった。それが何であるのか言葉に出来なくて、ただ彼の話を聞いているだけだった。
「結局世の中は二種類の人間がいるんだよ。そういうことが判る人間とそういうことが判らない人間の二種類が。価値観の違いを大きな目で見れくれたっていいと思わないか」
彼は期待と希望、そして絶望に近い失望を抱えているのだ。それは判った。人それぞれだと言ってしまえばそれまでだが、価値観の相違を認めて欲しいと言っておきながら、彼の言っていることはそうではない者の価値観を否定する方向に向かっている。
剛史は限りなく怒りに近い感情がわき出て、そのままこたつを蹴り倒して外に出たい気持ちで一杯になった。結局彼の言っている大義としての問題提起は、自己憐憫と自己韜晦を織り込んだ敗旗を翻して逃げだそうとしている弱さの裏返しなのだ。付箋紙の格言警句を言い訳にして甘えたい、人の気を引きたいという自己顕示の欲望を満たしているだけなのだ。力がないのに自我ばかり強くなっても、周囲から打ち砕かれるだけだ。
「結局あんたの言いたいことは、もっとおやつを買ってもらいたくてだだをこねている子供と一緒なんだな」
「そんなことはないよ。今まで多くの人間が同じような問題を抱えて頭を悩ましている」
「違うんだよ。問題が始めからあるのではなく、問題なのはあんな自身なんだよ」
怪盗乱麻を名乗る三浪の予備校の主は、目を見開いて絶句をした。そこで今まで黙ったままだった日向子が口を開いた。
「今まで助けてくれる人は、ひとりもいなかったの」
「話を聞いてくれるやつはいたけどな」
「そうなんだ。それじゃ無責任よね」
「価値観の違いなんて始めからないんだ」
付けくわえるように剛史は言った。
「それは価値観の相違ではなくて、単なる甘えなんだよ。それは俺の知ったことじゃあない」
そういうと剛史は立ち上がり、まだ何か言いたげな日向子を促した。予備校の主は誰もいないこたつの向こう側を睨み付けていたが、そうしたところで何か答えが見つかるわけでもなかった。
彼の言っていることでひとつだけ剛史は認めなくてはいけないことがあった。それは世の中には二種類の人間がいるということだった。少なくとも剛史には怪盗乱麻の言っていることは理解できそうにもなかった。
表に出ると風は止んでいて、夜気が冷たく肩先に降りかかった。日向子は黙ったままだったので、剛史も何も言わずに駅に向かうべく坂道を上り始めた。めずらしく日向子は剛史のあとを歩いていた。気になって後ろを振り返ると、日向子の後ろには宝石箱をいっぺんに散らかしたような街の夜景が瞬いていた。あの灯りの下では幾千幾万もの人間が、それぞれの命を燃やして生きているのだった。そのひとつひとつをいい悪い、正しい間違ってると分別することは、剛史には出来そうになかった。
日向子は目を合わせようとしないまま、静かな口調で言った。
「あのさ、剛史。ひとつだけ聞きたいんだけど、弱い人間は大きな声で泣き叫んじゃいけないの」
剛史は返事の代わりに右の手で拳銃の形を模すると、その小さな灯りひとつひとつにめがけて弾丸をうち続けた。それは滑稽な姿だったが、少なくとも剛史は真面目だった。拳銃ではなく大きな砲弾を撃ち飛ばす大砲が欲しかった。心底剛史はそう思った。
「強い弱いという言い方は俺には理解できないよ。けどもし日向子に困ったことがあったら、世界中を敵に回したって俺はお前の側につくよ」
「もしかしたら、剛史は後悔するかも知れないわよ」
「そんなこと、構いはしないさ。まだ起きてもないことをあれこれ思い悩む程、器用じゃあないんだ」
剛史は日向子の手を取った。永遠の時間軸の中で彼は未来と対峙していた。それは困難なことでも何でもなくてとても簡単なことだった。
自分たちがどこに行くのか、剛史には皆目検討がついてなかった。行くべきところがあるのかどうかさえ判らなかった。ただひとつ判っていることは、世の中の多くの者が自分が生まれついた世界が暗黒に支配されていると錯覚していることだった。剛史は、そうではないことを知っていた。
「これからあとは、帰るだけなのね」
「帰るんじゃあない、俺たちは行くんだよ」
日向子は笑った。それでいいと剛史は思った。剛史は日向子の笑った顔が好きだった。
そうして二人は変則的な三叉路に続く坂道を、駅に向かって上り始めた。