心象スケッチの時空的制約
大正九年の春、盛岡高等農林学校の研究生生活を終えた賢治は、自宅に帰り家業の手伝いなどをしていましたが、法華経に対する信心が強くなり、国柱会という法華経の信仰団体に入会しました。しかし父は浄土宗を信仰しており、家庭内で激しく宗教論を繰り返すことが多くなりました。大正十年一月二十三日、賢治は東京に家出して、謄写版印刷の原紙を書く仕事をしながら、国柱会での奉仕活動、図書館通いをしながら童話の制作に打ちこみました。この童話の多作は、国柱会で高知尾智耀と話をしているうちに法華文学の創作を志すようになったことがきっかけと言われています。そして、現在残っている彼の書いた童話のほとんどが、この時期に書かれたものがもとにされていると考えられています。
「人間の力には限りがあります。仕事をするには時間がいります。どうせ間もなく死ぬのだから、早く書きたいものを書いてしまおうと、わたしは思いました。一ヶ月の間に三千枚書きました。そしたらおしまいのころになると、原稿のなかから一字一字飛び出してきて、わたしにおじぎするのです」
小学校のころよく童話を話してくれた恩師八木英三氏に、そう話したそうです。
その年の十二月、花巻に戻って稗貫農学校の教員になった賢治は、「冬のスケッチ」と言われる小品をしたためたのち、翌年から現在「春と修羅」に残されている作品群を書き始めました。
一月六日(金)〈屈折率〉〈くらかけの雪〉(『春と修羅』起稿)
一月九日(月)〈日輪と太市〉
一月十二日(木)〈丘の幻惑〉〈カーバイト倉庫〉
三月二十日(月)〈恋と病熱〉
四月八日(土)〈春と修羅〉
四月十日(月)〈春光呪詛〉
四月十三日(木)〈有明〉
四月二十日(木)〈谷〉
四月二十三日(日)〈陽ざしとかれくさ〉
五月十日(水)〈雲の信号〉
五月十二日(金)〈風景〉〈手簡〉
五月十四日(日)〈習作〉〈休息〉
五月十七日(水)〈おきなぐさ〉〈かたばた〉
五月十八日(木)〈真空溶媒〉
五月二十日(土)〈蠕虫舞手(アンネリダタンツェーン)〉
五月二十一日(日)〈小岩井農場〉
六月二日(金)〈厨川停車場〉
六月四日(日)〈林と思想〉〈霧とマッチ〉
六月七日(日)〈芝生〉
六月十二日(月)〈青い槍の葉〉
六月十五日(木)〈報告〉
六月二十五日(日)〈風景観察官〉
六月二十七日(火)〈岩手山〉〈高原〉〈印象〉〈高級の霧〉
八月十七日(木)〈電車〉〈天然誘接〉
八月三十一日(木)〈原体剣舞連〉
九月七日(木)〈グランド電柱〉〈山巡査〉〈電線工夫〉〈たび人〉〈竹と楢〉
九月十七日(日)〈銅線〉〈滝沢野〉
九月十八日(月)〈東岩手山〉
十月十日(火)〈マサニエロ〉
十月十五日(日)〈栗鼠と色鉛筆〉
十一月二十七日(月)妹トシ死去〈永訣の朝〉〈松の針〉〈無声慟哭〉
この妹トシ子が死んでから、翌年、つまり大正十二年六月三日(日)〈風林〉、六月四日(月)〈白い鳥〉まで約六ヶ月は、心象スケッチと彼が呼んだ詩作は行われていません。
そうしてみると賢治は大変な多作家のような気がするのですが、こうしたスケッチはあくまでスケッチであって、現在残っているような作品になるまでにはスケッチの切りはりを行っていたことを、新校本の編集委員であった天沢退二郎などが指摘しています。それは詩だけではなく、有名な「銀河鉄道の夜」でも第四稿までは確認されているのです。
そのように改作や改編をおこなう心理とは、いったいどんなものなのか不思議な気がします。
同じように自分の作品を何度も改作して、多くの異稿を残した作家として有名なのが稲垣足穂です。もっとも彼は「銀河鉄道の夜頌」という一文で賢治作品に対する共感を告白していますので、賢治の改作の手法を採り入れたのではないかと推測することも可能ですが。
童話と詩が中心で、虚構の登場人物を設定して書かれるいわゆる小説を書かなかったこと。仏教とキリスト教に対する深い造詣や、音楽や美術などの多様性など共通点が多いのです。ふたりの資質にいちばん共通するものは、ふたりとも風変わりな歴史感覚や時間感覚を持っていたということです。賢治自身書簡にて「歴史や宗教の位置をまったく変換しようと企画し、それを基盤にしたさまざまな作品を発表」すると書いています。それはなにかの比喩ではなく、本当にそうしようと思っていたことがうかがえます。それは通常の歴史観の否定であり、時間感覚の否定であり、足穂が好んでいうところの存在学的なものであるのです。
人生は通時的な流れのなかで変化していくもので、そこには成長という言葉が当てはめられます。歴史においては存亡や新しい思想の導入によってさらに複雑で大きな社会システムへと変化していきます。
賢治の歴史観は、春と修羅の序文において語られるように、それぞれの時代でそれぞれの見方をされるものであり、すべての事象が本質的な絶対性を含んでいません。だからこそ賢治は、自分の原稿を恐ろしいほどの綿密さでつぎはぎをして、次々と新しい作品に書き替えていったのです。
仏教の世界でいう空の思想というものは、実体をたてることを否定しています。空を空という観念でとらえようとすると、そこにはまったく意味のない空虚なものしか感じられなくなるのです。空は思考した結果の概念的な空というものではなく、事象の現象を含んだ全体性を空というわけです。この空の思想を基盤として現実の世界をありのままにみていくことで中道を行くというのが仏教の思想の根本です。
ニーチェの実存主義がそれまでの本質的な存在を認める哲学を否定したように、空の思想はクロノス的な時間感覚とは相入れないものです。さらに賢治が座右の書としていた法華経の、とくに彼が感銘を受けたという如来寿量品第十六では、無限の時間に偏在する仏陀が描かれています。その仏陀がおこなった説法は、方便という空の思想をもととなって、話す場所や人によって内容を変えるというものだったということです。
ですから賢治の改作の繰りかえしは、こうした無時間的で生々流転するものになっただろうと考えられるのです。それはまた彼自身の世界に対する認識でもあったのです。それが彼の作品に、独特の透明感を与える結果になったのでしょう。