鏡の国の賢治の秘密
賢治の文章の特徴は、散文でも韻文でも独特のすばらしいリズム感があふれていることです。とくに童話集「注文の多い料理店」のなかにある歌物語の即興性と音楽性はすばらしいものがあります。
「はんの木の
みどりみぢんの葉の向さ
ぢゃらんぢゃららんの
お日さん懸がる。」「お日さんを
せながさしょえば、はんの木も
くだげで光る
鉄のかんがみ。」「お日さんは
はんの木の向さ、降りでても
すすぎ、ぎんがぎが
まぶしまんぶし。」「ぎんがぎがの
すすぎの中さ立ぢあがる
はんの木のすねの
長んがい、かげぼうし。」「ぎんがぎがの
すすぎの底の日暮れかだ
苔の野はらを
蟻こも行がず。」「ぎんがぎがの
すすぎの底でそっこりと
咲ぐうめばぢの
愛どしおえどし。」
「鹿踊りのはじまり」のなかにあるこの鹿たちの歌だけを取ってみると、それが万葉集からの引用と言ってみても間違いではないような、そんな自然と一体化したようなリズムと世界であふれています。
賢治の童話に多用されるこういった多くの歌は、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」に共通したものがあります。もっともキャロルの場合は彼が生きていた当時の英国の有名な詩を元にしたものが多く、賢治のそれはオリジナルという違いはありますが、そのどちらも物語の筋と全く関係のないところでこうした歌が多用されています。
また、賢治は東京にいたときに、浅草の小歌劇(コミックオペラ)をよく見ていたといいますから、そういったものの影響もあったのかもしれません。
それにしても賢治は、どのようにしてこのような言葉のリズム感を手に入れたのでしょう。彼の伝記などをひもとくと、法華経の経典を読経したりすることがたびたびあったようで、そういったところから独特の音楽的なリズム感を身につけたのではないか。そうわたしは推測しています。
かねた一郎さま 九月十九日
あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
あした、めんどなさいばんしますから、おいで
んなさい。とびどぐもたないでくなさい。
山ねこ 拝
この「どんぐりと山猫」の冒頭の手紙の文面は、おかしな言葉遣いがもたらす違和感が笑いを誘っています。また本編では、山猫とどんぐりの掛け合いを三回繰り返すなど、古典的なギャグの形式を用いたりしています。
そうした言語実験的なギャグを好んで使っている現代の作家に筒井康隆がいます。とくに賢治の童話で演劇的な要素を持つものは、会話の進め方や舞台の切りかえ方など同じ作者が書いたのではないかと思えるくらい、似かよっているところがあります。考えてみると、筒井康隆もルイス・キャロルの影響をうけているのですね。
この「注文の多い料理店」の中の九編のうち異界、つまりこちら側の世界ではないところに行って戻ってくる話が六編もあります。これもキャロルの影響なのでしょうか。アリスはそれを書いたルイス・キャロルの手によってまるでわざといじめられているみたいですし、次から次へと出てくる奇怪な登場人物にめんくらいおびえているふうなのですが、賢治の描く登場人物は不思議と異界の登場人物たちと同化しているようです。
新潮文庫版の宮沢賢治の作品は、編者の天沢退二郎がよく考えて作品を選んでいるために、なかなかいい構成になっています。このなかの「新編 銀河鉄道の夜」に入っている童話が演劇的要素を持っているものがほとんどで、それも人形劇に仕立てあげたらなかなかおもしろそうなものが集められています。「王様さようなら。私共は今日からひとでになるのでございます。」
「双子の星」のこの台詞で、わたしは笑ってしまいました。こういった会話のおもしろさだけではなく、地の文の語り口も、いやみにならないぎりぎりのところの面白さがあります。
「仕方ありません。」とみんなは答えました。すると、とのさまがえるは立ちあがって、家をぐるっと一まわしまわしました。すると酒屋はたちまちカイロ団長の本宅にかわりました。つまり前には四角だったのが今度は六角形の家になったのですな。
「カイロ団長」のなかでは、いきおいあまってこういう語り口になって、校正していないものだからそれがそのまま残ってしまったのですね。賢治がこれを楽しんで書いているように思えて、なにかとてもうれしくなります。
今度はひるまです。なぜなら夜昼はどうしてもかわるがわるですから。(「シグナルとシグナレス」)
自明の理をあえていうギャグ。彼のユーモアセンスは、なかなかハイブローです。
けれども私はあんまりこのこっけいのなさにぼんやりしてしまいました。あんまりぼんやりしましたので愉快なビジテリアン大祭の幻想はもうこわれました。どうかあとの所はみなさんで活動写真のおしまいのありふれた舞踏か何かを使ってご勝手にご完成ねがうしだいであります。(「ビジテリアン大祭」)
これはあまりにもひどい。弁士が語りを途中で放棄するんじゃあないと、つっこみを入れたくなります。
一体この物語は、あんまり哀れ過ぎるのだ。もうこのあとはやめにしよう。とにかく豚はすぐあとで、からだを八つに分解されて、厩舎のうしろに積みあげられた。雪の中に一晩漬けられた。(「フランドン農学校の豚」)
「なめとこ山の熊」でも関係性の悲劇に対する感想をもらしているところがありましたな。
けれども日本では狐けんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。(なめとこ山の熊」)
彼の童話のかくれた傑作は「黄いろのトマト」で、ここでは蜂雀がマーク・トウェインばりの肩すかしの語りを披露しています。賢治の童話は不思議と枠構造を持ったものが多いのですが、それはおそらくこうした演劇的な語り口のせいなのでしょう。