Taruho の哲学的体験
空が桔梗色から深い藍に変わるかわたれのひと時、部屋の灯りをつけると自分とあたりの風景がその輪郭線をすべて消し去りひとつの力線となって、銀河を貫き渦状星雲の彼方へ散らばっていく、そんなころの話である。
それはその瞬間にのみ感知されるもので、たいていは灯りのせいで和らいだ空気がその感覚をすぐさま帳消しにしてしまうものだが、もしそれが少しばかりじめじめする初夏の薄曇りのなかで消えないのであれば、迷うことはない、ネクタイを取換えて初夏の宵の空気を吸うべく街に下りていかなくてはいけない。
冷たいビールの一杯かそれとも珈琲かと迷っているときに、街角を通りすぎていく電車の列や、ボギー車のポールの先に飛び散った火花や、影絵のように連なる群衆から自分がいる今はじつははるか昔のことかまたは遠い未来のことか、それとも以前見た映画のなかのワンシーンではないかと感じるデジャ・ヴ。
このことから、同じ既視感系の作家である三島由紀夫や翻訳家の渋沢龍彦が、足穂を持ちあげるのはいたって当然のことなのです。
足穂はモダン・ボーイなので、その自分の体験を擬人化によるファンタジーに置きかえることをよしとしないで、未来派の芸術運動に比した方法をとります。時はモダニズムの空気をふくみ、おまけに彼の住むところは異国情緒あふれる神戸の街。自動車や電気、映画や天体、そうしたものの現象を使って足穂は自分の感受性を表現しようとしました。
哲人であった足穂はけっして魔術師になろうと思っていたわけではないのです。「黄漠奇聞」のような観念的で構成力のある小説も書けるのですが、どういうわけか詩的感受性がもたらすものを作品の表現として使うのではなしに、それが作品の素材になってしまうのです。それをしていたら宮沢賢治以上に今でも広く人気を勝ち得たろうと思うのですが。
もっとも足穂には表現を持って表すべきものが何もないアナーキーなところがあって、また科学より科学的なものを嗜好する性癖をもって、自らの体験や知人から聞いた話、そして本で読んだこととして紹介していくのです。
つまり足穂の詩神は、小説という虚構の世界を構築するのではなしに、あくまで現実とのつながりを持ったスタンスで作品が存在するのです。彼の作品が工芸品とかオブジェ的といわれるのは、そうした理由からなのです。
現実世界の時計の針が刻む秒と秒のあいだに、或るふしぎな黒板が挟まっている。そのものはたいそう薄い。肉眼でみとめることはできない。けれどもその広がりは宏大無辺である。(「童話の天文学者」)
というわけで足穂の童話的手法によって提示されたこの「薄板説」は、先の哲学的体験を説明するものです。電離層のように夕刻から夜にかけて活動が活発化しするこの「夢の板」は、よそ見やふと首をかしげたときに見えるもので、美やファンタジーのもとになっているという考え方です。
「自動車の正面にある蜂の巣はしゃれているね」
友だちは相槌を打ちました。
「あそこには夢が棲んでいるね」(「放熱器」)
機械の構造を知り得たときに感じるファンタジー、こういうのが足穂の十八番なのです。こうした唯物史観的な対象を集めること、文学の形式を使った標本集めが、足穂の文学のあり方なのです。
わたしたちが歩いたり、話したり、仕事をしている時間中に差し挟まれたほんの一瞬の夢心地こそ、常にわたしたちがもっともよく生き得たところの境地ではないか!(「わたしの耽美主義」)
そうした足穂をかこむものたちが未来的郷愁をさそう装置となり、わたしたちを独特のファンタスティックな世界へ引き上げてくれるのです。