いかさま師の印の付いたトランプ 〜 稲垣足穂 〜


Taruho の時代

足穂の代表作でもっともよく知られているのが「一千一秒物語」ですが、これを一番はじめに読んだときの印象がどんなものだったのかをときどき思いだそうとすることがあります。はじめて読んだのが新潮文庫版で何かを読みたいけどけっして長い小説を読むような気力のないときに、繰りかえし読んでいた記憶があります。
月や星、ほうきぼしやガス燈、黒猫やビール瓶、それらのものが投げとばされたり逃げたり落とされたりと、たしかにしゃれたものであったことは感じていました。でもよく判らない。これはいったい何なのだろうと思っていると、物語のなかの人物もハテナ? と立ちどまって考えている。読むものがなかの人物と同じようにその過ぎさったものをなんであるのか考えている。そうした入れ子の構造があります。なんであるのか判らない瞬間にすぎていったものを、あとになって説明していますが、わたしには判ったようで判らないという印象です。

彼が文壇に登場するのは、高校時代の秀作をのちに門弟三千人と称されるようになった佐藤春夫に送りつけたのがきっかけでした。そのころの佐藤春夫は時代のせいか足穂と同じく月夜の詩人ふうな風情があってそこに足穂がひかれたのです。文学的な修練も重ねないうちに足穂は作品を次々と発表していくのですが、それが彼の資質をそのまま映しこんだ作品を残す結果となりました。足穂の書こうと思っていたものが一般的な文学が書こうとしているものとはまったくちがったものだったためと偏愛する読者を獲得できなかったために、戦後かなり経ってから三島由紀夫や渋沢龍彦などの理解者の力によって、ふたたび彼の名前が世に知られるようになったのです。

足穂の再評価は自分のなかでおこったのはここ数年のことで、それは好きな作家やマンガ家の多くが彼の影響をうけているということと、もうひとつは大正から昭和の初めにかけてのモダニズムの流行に興味を持ったからでした。もっとも大正期のモダニズムというものは、主に東京からおこったエロ・グロ・ナンセンスの風潮を含んでいて、足穂もそういった視点から見ることも可能だとは思うのですが、あまりに結晶化しすぎるきらいのある彼の作品が、のちの改作の結果そうであるところもありますが、現在読んでも古さや時代性を感じさせないところに彼のすごさはあるのだろうと思うのです。

もとより文学というものはいったい何なのか、そういう問題があります。芸術作品であれ娯楽作品であれ、言葉によって書かれたという単純な定義もありますが、近代の個人主義、自由主義が個人としての人間、そしてその集団としての社会、そしてそのふたつの葛藤を書くことがおもな主題になっているところがあって、足穂の書こうとしているものがそうした人間とか社会とか、そうしたものとまったくちがうところにあります。
一般的な足穂の作品の評価は、特異な詩的感受性に片寄っているところがあって、その視点から見ると、へえ、なかなかおしゃれで変わっているねというそれだけで終わってしまうのですが、結局のところ生涯文学の世界で生きることになった彼には、やはり書くべき独自の主題がありました。

ある夜見えそめていたおどろくべきもの
しかも次の瞬間にはシルウェトになってそこの行き違っていた群衆でしかなかったもの
(「A Glimpse」)

彼が生涯追いもとめたいたものは、そういうものでした。

のちになって彼はそれを「永遠癖」とか「宇宙的郷愁」とか「六月の夜の都会の空」という言葉に置きかえました。既視感のようなもの、はじめて見るのに何か郷愁を感じさせようなもの、それもあっという間に消えてしまうようなはかないものそれを解きあかすことが彼のめざしていたものなのです。

足穂といえば月や星やほうき星の印象が強いのですが、その感受性のスイッチが入るのはたいていトワイライトのようです。夕刻というのは昼と夜のはざまにあって、私たちを取りかこんでいる世界の質が急激に変化し、そして見知らぬ世界への郷愁をふと感じさせる効果があるようです。そこにもって時代は飛行機、自動車、ボギー電車、映画フィルムや高層ビルといった、そんな背景をもとに独自の空想世界を広げていったのです。

もし彼が「ヰタ・マキニカリス」を編まずに、「弥勒」も書かずに、今までの作品の改ざん、改編をおこなわなかったら、今ごろどんな評価になっていたろうかと思うときがあります。詩人、童話作家、SF作家といういい方をされて、大正から昭和にかけてのモダニズムの風潮のなかで一風変わった作品を残した作家とされるのでしょうか。
自分は詩などひとつも書いたことがないとうそぶいていますが、渋沢龍彦や高橋睦郎が指摘しているようにその作品のほとんどは、独自の詩的感受性にたよっているのです。また「チョコレット」などの童話にあるちょっとわくわくさせてくれるようなおもしろさは、ほんとうに純粋な童心がないと書けるものではありません。「鶏泥棒」や「白いニグロからの手紙」などはSFと言っていいのかもしれません。

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First Written on Saturday August 26, 2006