サハラ砂漠。1986年
1986年、第8回パリダカールラリーが、ぼくの初めての砂漠経験だった。それからちょっとやみつきになって、87年88年と3年続けてでかけていった。そこで挫折してしまったのだけど、菅原義正さんや篠塚さん、浅賀明さん、増岡浩さん、みんな砂漠の10年選手になってしまった。なぜか、2輪にはこういう息の長い人は、いない。
この号がでる頃、世間はもう2月の声を聞こうとしているだろうけれど、今は実は年末である。年末になると、ぼくはパリダカールラリーのことを思いだしてしまう。
1985年年末、ぼくはパリにいて、パリダカールラリー取材の準備をしていた。英語がしゃべるわけでなし、ましてやフランス語はコマンタレブーだってあやしい。それがいきなりパリ暮らし。オートバイを借り、必要なものを買い揃え、主催者に取材の申し込みをし、旅行会社に各種費用を払いこむという、日本でだってぐずぐずしそうな作業をえいやと片づけていた。
東京の地下鉄でもしょっちゅう迷ってしまうのに、パリでの足は東京並にわけわかめな地下鉄と、バイクをお借りしてからは、その足が届かないスズキDR600が足になった。置いておくと盗まれてしまうから、乗って歩くしかないのである。大渋滞で足がつりそうになったりして、何度も泣きそうになった。でも泣いたところでだれも助けてくれないので、泣いてもしかたがないのであった。
世間はクリスマスで、しかもあなた、パリのクリスマスだから、原宿とはわけがちがう。そんな中、パリダカのゼッケンつきのオートバイで買い物をしていると、なんじゃかんじゃと話しかけられて、悪い気はしないながらもわけはわからず(たいてい、わかりきってるくせに“パリダカへ行くのか”と聞かれるだけなんだけど)、結論として、パリダカはパリのクリスマス風情なんだなぁと実感したものだ。
まぁパリのみんなは、パリダカを肴に酔っぱらうのが仕事なので、こちらの悲壮感に対してはぜんぜん責任がない。グッドラックとかボンボヤージュとか、親切に声をかけてはくれるけど、しょせんはそれでおしまい。その後ひとりになると、おれ、いったいどうなっちゃうんだろうとさびしい気持ちになってしまうのだった。うれしがったり悲しがったり、パリダカはコントラストが激しい。
コントラスト豊かなのはおもしろくもあるが、あんなに次から次へと事件が起きる経験は初めてだった。初めて行った龍泉洞トライアルもショックだったけど、龍泉洞がストレートパンチだとすると、パリダカはパンチの百連発である。
85年当時、スタートはベルサイユ宮殿だった。世界的文化遺産の観光名所である。ただでさえお登りさんになるところなのだから、いきなりスターになった気がするじゃないか。と思ったら一転、田舎の一般道ちはだーれもいなくて、限りなく孤独になる。遠くにみえる家にはだんろの火が見えて楽しそうなのである。おまけに雪まで降ってきて、つい残りの距離を計算したら、その日のゴールまで500km以上あった。
泣きべそをかきながら(寒いから鼻水も出ている)街に入れば、いきなり大歓迎を受け、顔中べちょべちょになったまま、今度は舞いあがらなければいけなくなる。感情の起伏が上がったり下ったりで、忙しい。
と思えば、日本人ライダーが事故で亡くなった。ついさっき、いっしょにお茶を飲みながら寒がっていた人が死んじゃったんだから、強烈にショックだった。なのにそのまま船に乗せられてしまった。船に乗ったら疲れにまかせて爆睡して、目がさめたらアフリカ大陸だった。
砂漠を見るのは、大きな楽しみだった。さぞや感動的だろうとずっと思っていた。でも感動している暇はなかった。毎日毎日、ひたすら走り続けるばっかりだ。それでもラリーのスピードについていくのは至難で(競技車じゃなくて、ラリーについていくのがたいへんなのだ)、一生懸命走ってるのにラリーに出会えるのは3日に1回くらいだ。たいへん情けない取材なのである。
外人は苦手である。日本語が通じないから、話も気持ちも通じない。……の予定だったけれど、そんなことをいっていると話相手がいないから、だれでもいいから話をした。相手もきっとそんな状況だったんだろう。フランスヤマハの重役やあっちやこっちの契約ライダーと、かたいパンをかじりながら砂嵐の中でお話をした。そういう時、自分はなんだか幸せな経験をしているのだなと感じられた。
幸せなはずなのに、ひとりで砂漠を走っていると、しかもそれが夜だったりすると、どうしてこんなところに来てしまったのだろうと悲しくなった。山田秀靖という砂漠男に半分だまされて来てしまったのだが、秀靖をうらんだり、でも猛烈に感謝したり、これまた忙しいのである。
命の危険はあんまり感じなかったけれど、それは死ぬ実感がなかっただけかもしれない。その証拠に、無事に帰る自信もまったくなかった。指を折って数えてみれば、何日か後にはラリーは確実に終了するのだけど、その時に自分がどうなっているのか、まったく想像がつかない。かの高橋国光氏は、優勝したドイツGPのスタートラインで「いったいどうなっちゃうんだろう、自分はどうされてしまうのだろう」という不安を感じたという。国さんのそういう気持ちがわかってしまうような、アフリカ大陸のニシマキだった。
目がさめたら、日本の自分のベッドだったらいいのにと思いながら毎日寝袋に入った。目がさめたらやっぱりアフリカで、早起きの現地の人がぼくの寝袋をのぞきこんで、おはようなんてあいさつしてたりするわけだ。砂漠では雨が降らない予定なので(ごくごくまれには降ることもある)テントは持ってなかったから、目をさますといきなり現地の人の顔っていうわけだ。
そのうち、今度は主催者のティエリー・サビーヌが死んだ。ヘリコプターが砂丘に激突して墜落しちゃったのだ。アクション映画みたいに、毎日毎日いろんな事件が起きやがる。映画のほうが、まだストーリーに配慮があるというもんだ。
サハラ砂漠。1986年
いつの間にかぼくは、ほとんどなににも動じなくなった。いちいち動じていたら、心臓がいくつパンクしてもパンクしきれない。だからといって、無感動なのではないぞ。美しい夕焼けや希望いっぱいの朝日には涙もしたし、何日か会えなかった友人と顔を合わせれば(ぼくが勝手に行方不明になっていたのだけど)、飛んでいって抱きつきたくもなった(お互いにものすごく汚い男同士だったので、最後に理性が働いた)。感情的には充分昂ぶっているのだけれど、それとこれとは話が別だ。なにが起こっても、とりあえずおろおろしなくなったっていうことだ。
おろおろするのは、どうしたらいいかわからないからだ。どうしたらいいかがわかっていたら、おろおろする必要なんかないのだった。えらそうなことは言えない。今でも、ぼくはしょっちゅうおろおろしている。締め切りに原稿がなんにもできてないとか、貯金通帳が大赤字になって回復の見こみがなかったりする時だ。
きちんとまじめに生きていれば、こんな事態にはならないはずなんである。ところが仕事の準備をしないで遊んでいたり、仕事もしないで遊んでいるもんだから(遊んでるばっかりだぁ)、おろおろしなきゃいけなくなる。おろおろするのは、とるべき策をまちがったときだ。
ところが砂漠界では、とるべき方法論なんてなにもない。いや、砂漠の住民には正しい方法論はあるんだと思う。ところがラリーで駆け抜けてしまうぼくたちには(これは、そこに住む人たちにはすごく失礼なことだと思う)そんなのは関係ない。なんでもいいから生き延びれば結果オーライだし、旅を続けられなくなったらおしまいだという、それだけだ。
正解がないと、人生はいきなり楽ちんだ。なにをしても正解ではないかわりに、なにをしてもまちがいではない。自分の意志とイマジネーションに忠実に生きられる。
落ちているあき缶にスープを張って飲もうが、ワークスマシンを急停車させて伝言を頼もうが、食いものにありつくためにスケッチブックを広げて動物や鳥の絵を描いて説明しようが、はたまた、ぴかぴかに磨きあげられたダカールの日本大使館に、3週間分のほこりつきジャケット姿で現われようが、問題なのはスープを飲むことで、あるいは伝言を届けることであり、部落では食にありつくことであり、大使館ではおせち料理をごちそうになることである(あき缶は某メーカー系フランス人ライダー、伝言はタイヤがとれたプレスカーに乗っていたイタリア人カメラマン、鶏肉とおせち料理の汚いやつはぼく)。
難事件が発生する。トライアルコースでだったら、ものすごく険しい場所に出くわしたときのような場合。ふつうなら自分の技術のなさやコースの過酷さに怒ったり泣いたりする。
こんな時、おろおろしてはいけない。おろおろしたってなんの解決にもならないからだ。まずお茶でもすする。時間がなくてもお茶をすする。お茶がなければおしっこでもする。とにかくいったんひと息入れる。焦ったところで日が暮れる時には日が暮れる。あわてたってしょうがない。
次に、なんでもいいから進む方法を考える。悩んだって、非力な車にパワーが宿るわけも、トライアルがうまくなるわけもない。かっこよく進めようなんて思わないで、岩を崩したり積み重ねて道を作っちゃったって、無事に進めればぜんぜんオーライである。
トライアルのコースだったら、こうやって悩んでいるうち、藤秀がやってきて、ささっと助けてくれたりする(なぜか藤秀は困っていると現われる。杉谷も助けてもらったことがあるらしい)。トライアルコースには藤秀はひとりしかいないが、砂漠には現地の人がいっぱいいる。彼らは目がとてもいいので、ぼくらが苦労していると、どこからともなく現われて、情けないポンニチを助けてくれるのであった。
ぼくらを助けて、善良な現地の人たちが楽しかったかどうか、ことばが通じないから確かめるすべはないけれど、とりあえず精いっぱい頭を下げて(頭を下げる作法が通じるかどうかはともかく)感謝の気持ちを現わすようにしている。相手が藤秀でも現地のおじさんでも、親しき仲にも知らない仲にも礼儀ありだ。
おかげさまで、砂漠やジャングルでは、世界中のいろんな人たちに助けられながら、ぼくはなんとか生き延びている。日頃、洗濯させれば水をこぼすの、子どもをトイレに連れていけばおしっこを飛ばすのと、家ではてんでできの悪い私であるが、それはきっと失敗しちゃいけないと思っているからだろうなぁ。
さて藤秀がでてきたので、少しオートバイの話もしよう。
砂漠を走った当時、ぼくにはトライアルの心得はほとんどなかった。砂の上を走るのにスタンディングやステアケースのテクニックはいらないだろうと思っていたし、今でもいらないと思っている。
時々砂漠を走るための練習方法を聞かれることがある。そういう時は、最低限オフロードを走ったことがあれば、あとは高速道路でちゃんとツーリングができれば充分ですと答えている。ラリーで優勝しようと思うならともかく、砂漠を走るだけだったら、なんの練習もする必要はない。
砂漠へ行こうという人は、そこそこオフロードの経験はある。ラリーに出ようというひとは、エンデューロの経験も豊富なことが多い。ところが何回かラリーの取材をし、いろんな参加者を見てみるに、オフロードテクニックはともかく、高速道路をちゃんとツーリングできる人は、意外に多くないらしいことに気がついた。高速道路を走るのって、あれでいろいろ忙しい。ガス欠の心配やペース配分、天候の変化も読みとらなきゃいけないし、あやしい動きをしている4輪には充分マークする必要がある。エンジンの機嫌も感じとなきゃいけないし、自分自身の疲労だって、なかなか気がつきにくいものである。
でもラリーに参加するライダーってのは、チェッカーフラッグしか視界にないような競技志向の人が多くて、そういう人はオートバイでツーリングに行った経験が少なかったりするのだった。そういう人に限って、完走が目標ですなんて抱負を語ったりする。そんな気がぜんぜんないのは、走ってる姿を見ればすぐわかる。
砂漠を走る姿というのは、まわりのスケールがとってもでかいこともあって、オートバイにはスピード感がまったくない。みんながみんな、のんびりツーリングしているようにみえる。トップライダーになればなおさらだ。それが誤解なのは、いっしょに走っていればすぐ判明する。とんでもなく速い。そりゃ、敵はモトクロスの世界チャンピオンだったりもするわけだから当然なのだけれど、スピード感がないというのは、それだけ余裕たっぷりだということだ。
それでもう一度日本人参加者の走りを思いうかべるに、彼らは世界チャンピオンでもなんでもないのに、チャンピオンたちよりもはるかに限界に挑んでいる。そうすりゃ、もしかしたらちょっくらいは速く走れるかもしれないけれど、完走しようなんて百年早い。マシンが壊れるか人間が壊れるかして、ドライアップして乾燥してしまうのが席の山だ。
サハラ砂漠。1986年
そうそう、キャメルトロフィーに登場したアメリカのトライアルライダー、ダン・エイモンは、マルコム・スミスが永遠の憧れだという。マルコム・スミスってのは『オン・エニィ・サンデー』に登場したアメリカの伝説のオフロードライダーだ。当時は、ケニー・ロバーツなんか目じゃない人気だった。
ぼくはマルコム・スミスがレンジローバーでパリダカを走るのを見たことがある。ユハ・カンクネンやアンリ・ペスカロロなんて連中はWRCかルマンよろしく、車が横になって登場するが、マルコムは教習所の先生みたいにスマートだ。見ていてちっともおもしろくないが、きっちり4等賞になったのだから、充分速かったってことだ。
パリダカやエジプトのファラオラリーではジル・ブルガにも出会った。彼は道を探すのがへたくそで、それで成績は悪いのだけど、スピードは素晴らしかった。
イタリア人のベッペ・ガリーニは、プライベートではトップクラスの実力の持ち主だ。ベッペは砂漠で何度かいっしょで、その後ジャングルでまたいっしょになった。
砂漠でもジャングルでもいっしょになる人はけっこう多くて、パリダカを撮って15年になるフランスのカメラマンのエリックさんも、キャメルトロフィーで必ず顔を合わせるひとりだ。砂漠でもアスファルトでも顔を合わせる人たちは、メカニック連中だ。グランプリメカニックは冬のアルバイトにパリダカを訪れる。
みんな多趣味だ。こっちは畑を変えたと思っているのに、変わったその先に同じような顔ぶれがそろっているから逃げ隠れできない。みんな、いろんなことをして遊んでいるのである。
おサルさんはオナニーを教えるとオナニーばかりして死んでしまうそうだけど(本当なのかなぁ)、トライアルサルの方、いませんか。モトクロスサルでもロードレースサルでも○○○サルでも、とにかく過ぎたるは及ばザルがごとし、○○過ぎは健康によくない。
初めて砂漠へ行ってから、きっちり10年がたってしまった。砂漠へ行って変わりましたか、とよく聞かれた。そんなことはないよと答え続けていたのだけれど、10年たって考えてみると、たった3週間のことだったけれど、ぼくの人生観や価値感は、あれを境にエアターンをかますごとく、がらりと方向を変えてしまったみたいだった。
砂漠に一度立ったものは、ふたたび砂漠に帰るという。ぼくはまだ砂漠へ帰っていない。もう2度と行かないかもしれないのに、そろそろかなとも思いつつ、原稿が書きあがったら新年になっていた。
そうそう、86年にパリダカールの取材にいった時のことは『おはようぼくの好奇心』という本になっている。宮田さんが同情して作ってくれたのだ。主に金銭的関係で、2度とできないぜいたくな本だから、このページがおもしろいと思ってしまった人はぜひ手に入れてみてください。京都書院発行2060円。