善光寺外苑西之門よしのや  

善光寺外苑西之門よしのやとは

 

 

1善光寺が普通のお寺と違うところ
仏教が伝来する前の、日本人の宗教観は山川草木すべてに神が宿るというものだった。外来の宗教も日本に入ってくると多かれ少なかれ、この土俗信仰と混淆して本来の姿とは違った形になっている。6世紀ごろ渡来したといわれる仏教は日本古来の神様と習合(しゅうごう)して今日の姿になったが、善光寺の儀式や行事を見ると、仏教の中に民俗信仰の痕跡が残っている代表的な例だと言うことができる。これが、歴史に残るような名僧が出たわけでもなく、重要な美術品があるわけでもなく、特定宗派に属さない存在でありながら、常に全国的に一般大衆の信仰を集めてきた最大の理由であると研究者は分析している。
*習合−それぞれ異なった教理・主義などをとりいれて調和させること

2現在の善光寺の経営
善光寺そのものは無宗派だが、天台宗の大勧進と浄土宗の大本願を頂点とする同宗派の宿坊(天台宗は○○院と呼ばれる21カ寺、浄土宗は○○坊と呼ばれる14カ寺)が完全なる合議制で経営に当たっている、善光寺本堂の儀式と経営を担当するのが、この合議体である善光寺事務局である。儀式や行事はすべて天台宗と浄土宗が交代で行っており、事務局のすべての役職も両宗派が交代で担当し二年毎に改選される。善光寺を代表する権限を持つのは、この事務局の局長であり、天台宗大勧進住職(善光寺貫主−男僧)、浄土宗大本願住職(善光寺上人−尼僧)は共に、象徴的存在であって尊重されてはいるが権限はない。僧侶は宿坊を経営するかたわら、毎日、本堂に出仕し収入の分与を受ける。本堂に出仕できるのは一つの宿坊から一人に限られているので、子供が成人すれば親は引退する。これが世代交代を早め、高齢化の弊害の多い宗教界では珍しい若くて活性化した組織体となっている。善光寺は特定の檀家を持たないので葬儀を主宰しない。これも葬式仏教と批判されている一般の市中寺院とは異なる特徴である.

3参詣客の変遷
明治初期迄は宿坊に草鞋(わらじ)を脱ぎ、本堂に御籠(おこ)もりするというのが普通だった。持郡(もちごおり)という制度があって何県何郡はどこの宿坊の担当と決まっていた。戦後、旅行業者による観光を兼ねた団体参詣が主流となって、宿泊参詣は通過型観光に変質していった。これが宿坊経営を圧迫するとともに、旅行会社との関係の強弱により宿坊間の経営格差を生むことになった。参詣者の門前町滞留時間が短くなることは観光収入の減少にもつながる。これが長野市の経済のなかでの善光寺の比重を低下させ、住民の善光寺への関心も薄くなった。近年、バスによる団体旅行が飽きられて、バス台数の減、1台あたりの乗車人員の減という流れは止まらず、自家用車利用の家族または小グルーブの旅行が増えている。新幹線の開通で日帰り個人客の増加という新しい動きも見られる。冬季五輪期間中すべての人の流れは善光寺に向かったのを見て、長野市で世界に通用する唯一の存在が何であるを多くの住民が再認識した。このような趨勢の中で、参詣客の数と滞留時間を増すための努力が寺にとっても町にとっても課題となる。他の有名寺院に比較して狭い境内地、参道の土産品店、東山美術館以外に見るべきものもないという現況から、境内地の拡大と周辺の整備により、点から面への受け入れ態勢を作ることが必要である。

4善光寺外苑「西之門」
善光寺本堂の周辺少なくとも半径1Km以内には参詣客が回遊できるような施設を整備しなくてはならない。それも資料館、美術館だけではなく営業し生活している施設や街が必要である。弊社は善光寺本堂から450mの距離に1500坪の敷地を所有するが、営業の主たる機能は他の場所に移転して久しく半ば遊休の施設となっていた。また祖業である清酒製造部門は業界斜陽化のなかで量産量販体制から差別化高付加価値型への転換が迫られている。そこで地の利を生かし、古い建物を修景保存するとともに、常時見学可能の清酒工場を核とする複合観光施設に衣替えした、遺跡だけではなく現に生産し営業している状態を見ていただくことに意味がある。弊社だけでなく周辺に類似の施設が多数でき、それらを含めて文字通り「善光寺外苑」が誕生するよう願って、僭越ながら施設名に冠した。西之門は所在地の町名である。

5西之門清酒工場
寛永14年(1637年)酒造業創業以来370年余の間、この地で操業していたが太平洋戦争下の企業整備政策により昭和19年(1944年)廃止工場に指定された。その時、大正15年(1925年)に別の場所に建設してあった分工場は廃止を免れたので清酒製造業は規模は縮小したが継続することができた。戦後、事業は同業6社との協業化に進み、そのグループの事業再構築計画の一環として平成7年(1995年)50年の空白を経て、この地に清酒工場を復活した。清酒醸造技術は江戸時代にほぼ完成したといわれ、かびの一種である麹菌を働かせ高濃度のアルコールを収得できる世界にも類のない高度の技術である。その根幹となるのは、微生物の働き易い環境を整えることであり、そこが最も人手を要する部分であった。この部分を自動制御による機械設備に置き換え、伝統的清酒醸造技術の現代の雇用環境下での保存継承を可能にするために建設した工場である。地方の清酒工場は、寒冷な冬の気候に頼る季節操業が一般的だが、この工場は温度制御と機械化により通年醸造が可能となり常に搾り立ての生酒を出荷できる。これを施設内のレストラン、売店で販売する他,周辺地域に直接販売する。別の場所にある工場で生産する一般酒、味噌なども合わせて販売している。

6工場以外の施設の概要
弘化4年(1847年)善光寺大地震で門前町は壊滅したので、善光寺本堂など一部を除きこの地域に現存するのは明治以降の建物である。施設は明治、大正、昭和初期までの七棟と今回(平成)新築の工場棟と飲食棟と、これらに囲まれたレンガ敷の中庭により構成される。修景保存の基本構想は国士館大学教授小野正弘氏の示唆と、グループ企業役員でもある小布施町修景保存事業推進者の市村次夫氏の指導により成案となり、工場棟基本設計を除いた設計全般を東海大学教授上松祐二氏が、店舗内設計をKSS豊田二郎氏が担当した。小野、上松両教授とも高校まで施設周辺に居住していた人であり、豊田氏はグループ企業の主要取引先であるキリンビール鰍フコンサルタント的立場にあった。飲食棟和食レストランさくらは料理研究家土井善晴先生の指導による家庭料理を出発点とした和食を提供し、日本酒普及のため食前に搾り立て生酒をサービスしている。店舗棟「酒・みその店よしのや」は昭和初期の店舗復元部分と地下展示室、売店部分で構成される、東土蔵は土井先生の選んだ酒器、食器などを販売する「うつわの店よしのや」、工場見学者エントランスホール、北土蔵は貸ギャラリーになっている。その他は未利用。  

 

清酒工場見学コース 酒とみその店よしのや レストランさくら

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